影は光とともに 光は影とともに
序
ヴーン、と素早くモーターの回る音がする。軽やかなようで重々しい音だ。 ヴン、ヴーン……自我を有するかのような不規則な音。やがて止み、濃密な静けさが訪れる。息を吐くことすら億劫になるほどの、それは夜の静けさだった。静謐とはほど遠い、闇冥の音…
第一幕 一
なんで俺が土曜の夜まで残業せなあかんねん。紫紺の制服を来た男たちによって持ち上げられた黄色いテープをくぐりながら、禪院直哉はあくびを噛み殺していた。 現場は東京二十三区、閑静な住宅地に建っている施工管理会社の所有する三階建てのビルである。…
第一幕 二
時期外れの転校生が来ると聞いたのは、月曜の朝のことであった。熱を削いだ風が色づき始めた木々を揺らす。すがすがしい気持ちで一週間のスタートを切る予定が、とんだ誤算が舞い込んできたものだ。普段であれば短くとも一か月前、早ければ数か月前にはその…
第一幕 三
リノリウムの廊下は踏み込むにはやや感触が気持ち悪い。前をゆくジャージ姿の男を睨みながら、直哉は学生鞄を片手にクリーム色に統一された箱庭を歩いていた。 行儀よく鞄を肩にかけて、などとするわけもなく、手にしたそれを肩から背に放り出して舌打ちをす…
第一幕 四
思わぬところで転校生との邂逅は訪れた。大学側のカフェテリアで昼食をとったあと、C校舎から仏語科教科室のあるB校舎へと向かうところだった。 上からおりてきた彼はどうやらだれかと電話をしていたらしい。を見るやおどおどすることもなくさっさと携帯…
第一幕 五
瀬古という男は世間一般には整った部類に属すのだろう。前頭葉のやや発達した額にさらりとかかるセンターパートのシルバーヘア、眉はさがり気味だが眼窩は深く、眉間から鼻先までは見事な傾斜を描いている。彫りの深さでいえば日本人離れした顔つき。一部縫…
第二幕 一
フランス語は好きだ。その低くなめらかな抑揚と韻律はどちらかというと英語のそれよりも体に馴染む。詩をうたうように、あるいは野に出て風に身を預けるように、はたまた空を切る青い鳥のように、フランス語の音色はの心に安寧を齎してくれる。 は詩の一節…
第二幕 二
学校というのは至極退屈だ。直哉が疾うに成人し元来そこは用済みだからというのもあるが、なにより彼が過ごしてきた人生に問題があるだろう。青い春とはかけ離れた、禪院家の男児として生をもうけた彼の宿命。なにもかも馬鹿馬鹿しいと撥ね除け、自己の世界…
第二幕 三
朝一番にイレギュラーな用事が入ると、どうにも人間のリズムというのは積み上げた積み木の足場となる部分を弾かれたように崩れてしまう。それは教師のみならず生徒も同じようで、本来なら、とっくに机に向かって一時限目の授業を受けているところだが、広々…
第二幕 四
これといって進展がないことに直哉は苛立ちを募らせていた。ホテルで目を覚ました瞬間から、「学校がある」事実に舌打ちを拵えそれでもベッドから這い出るのだが、電車に乗って清々しい朝の陽気を全身に浴びることでそれが半減――するわけもなく、しょうも…
第二幕 五
土曜日まで授業のある私立学校では、教員に対し平日に研究日が設けられているところが多い。授業の受け持ちもなく、ホームルームでさえ副担任に任せて研究に勤しむことができる。の所属するS英館大附属高校も、午前授業のある土曜日は全教諭に出勤義務があ…
第二幕 六
「ぜーんいん!」 携帯をいじっていた直哉の頭上に、犬が尾を振って飛びついてくるような溌溂とした声が落ちてくる。直哉が眼だけをジロリと持ち上げると、その声の主は彼の前に立っていた。「なあ、仏語の宿題やってきた?」 許可を出す前に、彼は前の席に…
第三幕 一
新宿南口にあるニノクニヤ書房は一階から七階までが書店店舗となっており、その品揃えは日本で指折り五本の内に入るという。特に七階部分はフロア全体が洋書コーナーで、ネットでも入手困難な書物を取り扱っていることからも頻繁に利用していた。この日も、…
第三幕 二
「都内■■区の駅前にて人型呪霊を視認。術式を駆使しその場に居合わせた女子学生一人と会社員男性を襲い逃亡を謀る。結界術を操りまた意思疎通がとれる模様、等級およそ準一級から一級」 耳元で聴こえてくる声に、直哉は淡々と言葉を返す。「ソイツの特徴は…
第三幕 三
午前授業の土曜日は、一年生の英文法が二コマあるだけで一週間を締めくくるには最適な一日だ。金曜日は研究日であり、さらには次の日が休みともなると気持ち的にも授業準備的にも余裕がある。 通勤通学ラッシュが始まる前の電車に乗って学校へ向かうと、す…
第三幕 四
金曜から一夜明けて、直哉が訪れていたのは都内のとある河川敷であった。制服に着替えいざ髪染めとスプレー缶に手を伸ばした矢先、瀬古から連絡があったのだ。 またあの死体があがったのだ、と。 彩りも失せ、寒しくなった河川敷には朝から大勢の警官の姿…
第四幕 五
夢を見た。それはおそらくあの頃の夢だ。すぐ横をふたつ結びやポニーテールの髪をした少女たちが駆けていく。屈託なく、なにひとつ恐れることなどなく、颯爽と青い風を巻き起こし、疾風のごとく立ち去っていく。「こら、廊下は走らない」そう告げるが、「は…
第四幕 一
其処は酷く空気が滞留していた。広く、しかし閉ざされた空間で直哉は時を待っていた。連綿と紡がれし呪われた魔窟、此処こそが呪術界の奈落のようなものだろう。やがて風ひとつない其処に一抹の緊張が迸る。それまで解けていた空気が鋭く結びつき、直哉の耳…
第四幕 二
日曜は、朝から埼玉での研修日だった。の所属している研究会は、月に一度、互いの指導力向上のために参加者を募り、言語習得ないし教授法の分野で著名な教授の講演会や自分たちの研究発表会、はたまた希望制で模擬授業を行い討論会を行なっている。教師にな…
第四幕 三
伊地知の運転する車により、S英館大まで送り届けられた直哉は大学側に建つ特別棟へ一目散に向かった。防音室の向こうからピアノや金管楽器の音が響く。それらを背に美術科特別室がある東側へ。「Atelier」と書かれた一室のドアを直哉はノックもなし…
第四幕 四
窓際に花束を抱いたテディベアが座っていた。西陽を浴びてモカ色の毛先が淡く透き通っている。「おーい、来たぞ奈津子ぉ」 肩にかけていた鞄をベッドサイドの簡易椅子に置くや、篠宮翔は窓際に歩み寄った。「これC組の奴らからな」 返事はない。だが、彼…
第五幕 一
ガラステーブルに長い脚をのせ、直哉は腹の前で手を合わせていた。一点を睨み付けながら、とん、とん、と指先で韻律を刻む。その視線の先にあるのは、画鋲で留められたL版写真だった。「四年前――」いくつもの写真と新聞の切り抜きが貼られたコルクボードを…
第五幕 二
休み明けだというのに、全く休んだ心地がしなかった。埼玉まで遠出して受けた研修のせいもあるが、夜中まで悶々と考えごとをしてしまい、うまく寝付けなかったのもあるだろう。研修から帰る道すがら、突然現れた彼。いつものキャメル色の制服ではなく、立派…
第五幕 三
「お薬出しておきますので、なにかありましたらまたすぐいらしてくださいね」 白衣姿の男がわずかなドアの隙間からのぞく。寝癖なのかパーマなのかか判別し難い黒髪に黒縁眼鏡。「ボクも、よくがんばったね」体をかがめ柔和に微笑む姿は、なんとも満点の医者…
第五幕 四
「カニバリズムは人間の歴史の重要な一部です」 男は縁の黒い眼鏡を震える指先で押し上げながら神妙な面持ちで告げた。「旧石器時代、我々人類の食生活には人肉が含まれていて、必要な栄養の一割を占めるほどの貴重な栄養源だったと言われています。医学や科…
第五幕 五
更家真守がアンタを狙っている――その直哉の言葉を聞いて、今川香織は、動揺を隠せないようだった。「うそ、だって更家さんは……」 そう口にする今川に直哉は砂糖をまぶしたような声で、「正直者が馬鹿を見る、いやや世の中やなあ、ホンマに」と言った。…
第五幕 六
琥珀色が揺れている。「今川先生。……今川先生!」 香織は大きく肩をふるわせ、「ハイッ」とふり返った。「すみません、お仕事中」声をかけてきたのは、増岡だった。額には汗をかいており、髪も乱れていることからグラウンドから走ってここに戻ってきたの…
第五幕 七
向かったのは、港区にある《瀬古メンタルクリニック》であった。「ちょっと、お待ちください!」 受付の女性が制止する声を振り払い、直哉はウォールナットのシングルドアを力尽くに押し開ける。縦型のブラインドカーテンの前に男の姿があった。色素の抜け…
第五幕 八
すっかり辺りは薄暮に染まっていた。いつもより仕事を早く終えた香織は、足早に校舎をあとにした。「香織センセ?」 待ち合わせである大学側の裏門へ向かうため、芸術科目の特別棟を通りすぎようとしたとき、I組の篠宮に声をかけられた。「篠宮くん」「ど…
第五幕 九
「今にも数人、殺しそうな顔だな」 そう言って現れたのはスーツ姿の本郷だ。今日とて黒いスーツを着込み、冴えない柄のネクタイを締めている。連日顔を合わせているからかすっかり見慣れた風貌だが、相変わらず人相のあまりよくない男であった。「そのまま職…
第六幕 一
「レストランへ入ったのを確認したんです。指示のあったとおり、予約していた窓際の席に二人は座りました」 額をタオルで押さえながら本郷の部下である五十嵐が言う。直哉がS英館大を離れて以降、今川香織と更家真守の監視を任せていた。だが、呪霊の顕現に…
第六幕 二
父親の顔は知らない。だが、とんでもないロクデナシだということだけは知っていた。白金色の髪と碧い眼を持つ外国の男だった。語学留学中にそいつと出会った母は持ち前の情の深さで男を愛した。やがて、〝私〟を妊娠し、永遠の愛を誓うだろうに思えた。だが…
第六幕 三
二〇〇六年、ある少女が術師殺しに殺された一件からしばらくして、ひとつの宗教団体が終局を迎えた。■■市にある本部では、その日集まっていた幹部の男たちと関係する信者数名が何者かにより惨殺、現場から被害者の遺体が回収されたが、いずれも半身を失うか…
第六幕 四
いつからおかしくなってしまったのかと、訊ねたことは何度もあった。そのたび、自らの人生を否定したが、おもえば最初から狂っていたのだろう。「丈くん、こちら瀬古さん。今日からあなたの先生になる人よ」 おどろくほどに似ているのだとだれかが言った。…
第六幕 五
ドサリと音を立てて崩れた男の不完全な肢体に、香織は思わず目を逸らした。ろうそくの燈火がかすかな空気の揺らぎに反応する。まだ体は震えたままだった。「最初から最後まで、ホンマにしょうもない男やな」 声が落ちて、ゆったりとした足取りで近づいてく…
エピローグ
すっかり葉を落として寒しげになった木が鮮やかな青空に揺れている。「ったく、あのクソだっるい仕事終わせたっちゅうのに、なんで俺がまた東京におらなあかんねん」 そんなほがらかな風景とはうらはらに、禪院直哉は伊地知潔高の運転する車の後部座席で散…
