土曜日まで授業のある私立学校では、教員に対し平日に研究日が設けられているところが多い。授業の受け持ちもなく、ホームルームでさえ副担任に任せて研究に勤しむことができる。香織の所属するS英館大附属高校も、午前授業のある土曜日は全教諭に出勤義務があり、その多分には洩れずといったところだった。香織の研究日は金曜日。しかし研究日といっても名ばかりで、授業準備に費やすこともあれば一日寝て過ごすこともある。生徒が授業を受けている手前声高には言えないが、要するに休日だ。
香織はいつもより朝寝坊をした後、ラフなタートルネックの白いセーターにネイビーの長いプリーツスカートをはいて家を出た。電車に乗って向かったのは表参道、しばらくぶりに髪を整えようと思いたったのだ。地下鉄の駅をあがってすぐそばにあるカフェでキャラメルラテを一杯、体を温めてから美容院へ。大通りから一本側道に入り、しばらくアトリエやアパレルショップを横目に歩いたところに行きつけの美容院がある。三階建てのビルの一階、美容院らしくガラス張りで黒を基調としたスタイリッシュな外観だった。ちなみに上には香水店やエステサロンなどが入っている。
「予約した今川です」ドアを押し開けると、すぐにアシスタントが飛んできた。「お待ちしておりました」という声は若々しく、香織は淑やかに頭をさげた。
店内には二、三人ほど客が見られたが、平日の昼間ともあり穏やかな空気が流れていた。はやりの洋楽が有線で流れる。その中をアシスタントに案内され奥の席につく。雑誌は今時のファッション誌。ウールのコートを纏った女性が、決まりよくポーズを決めてこちらを向いていた。「少々お待ちください」と言われたあいだ、香織はそれに手を伸ばす。アウターの特集が組まれ、すっかり冬を感じさせた。
「今川さんお久しぶりですね」やってきたのは香織と同じ年嵩の女性スタイリストだった。何度も訪れているため、顔見知りの仲だった。
「今日はどうしましょうか」
「トリートメントをお願いしたくて。あとは全体のバランスを整えていただいてもいいですか」
「もちろんです」
栗色の髪をシニョンにまとめ、耳のフープピアスを揺らしながら彼女はにこやかにうなずく。香織は雑誌を前のテーブルに置いた。ケープをかぶせたあと、スタイリストは香織をシャンプーフロアまで案内した。
「そういえば、サイトウさん、今日はおやすみなんですか?」
いつも指名しているスタイリストだった。せっかくだから彼女に切ってもらいたかったが、一覧に名前がなかったので、今日はお任せにしたのだ。香織の髪を丁寧に扱いながら女性は決まりが悪そうに小さく困り笑いを浮かべて答える。
「彼女、実は辞めちゃったんですよ」
えっと声が出そうになった。前回来たのは夏季休暇が始まってすぐ。夏の語学研修に行く前に、飛び込みで切ってもらったのだ。そのとき話した様子では、退職するなど微塵も感じさせなかった。しかし、人間さまざまな事情があるものだ。人に言えずとも。
「そっか、お世話になってたから、残念です」
せめて、あいさつくらいはしたかった、と思うのは重いのか。身近と言っていいのかはわからないが、それでも名前や顔を知る人が手の届かないところへ行ってしまう、その侘しさとやるせなさを感じて香織はタオルの下で苦く瞳を閉じた。
「急だったんですよね。先々月かな、それこそ今川さんがいらした後なんですけど、突然、自分探しの旅に出たいとか連絡があって、それっきり」
元気にしてるといいんですけどねえ、慣れた手つきで香織の髪を洗っていく。その手はたしかに心地よい。しかし、やはりいつもとちがってどこか違和感を抱かずにはいられなかった。
髪を切ったあとは地下鉄に乗り、向かった先は職場だった。授業がない日ということもあり心は軽かったが、できるだけ目立たぬように遠回りをし、大学側の正門から敷地内へ。たどり着いたのは高校の校舎ではなく、オフィスビルのように連なる建物の一つ。学生時代よく通っていた場所だ。エレベーターを上がり、八階に香織がお世話になった恩師の教授室がある。
「おひさしぶりです、教授」
銀縁眼鏡をかけた初老の男性は孫娘をみるような顔で、「おひさしぶり、今川さん」と彼女を迎え入れた。えんじ色のセーターに、チャコールグレーのスラックス、ケトルからお湯をそそぐのはアンティークのティーポットだ。丸みを帯びたフォルムとアール・ヌーヴォー風の装飾の美しい白磁器、もちろんカップも揃いのピオニーシェイプ。パリはセーヌ川左岸、カルチエ・ラタンのアパルトマンの窓辺に立っていそうな佇まいだった。香織は恩師の姿を見て自然と相好がゆるむのを感じていた。
「ご活躍はかねがね、いつも今川さんには研究のお手伝いをしていただいて大変助かっています」
前に置かれたカップからセイロンのかぐわしい香気が立つ。それに軽く頭をさげ、香織は早速、鞄からホチキス留めされた冊子を取り出して恩師に手渡した。
学生時代、香織が所属していたゼミでは言語習得に関する研究を主に行なっていた。第一外国語である英語習得のみならず、第三言語、第四言語、あるいは第二言語を媒介とした第三、第四言語習得など、今の香織を形作ったといっても過言ではない。そして今こうして働き口の少ない第二外国語教師として、非常勤講師ではなく専任教諭として働けているのは、まさに彼と彼の研究のおかげでもあった。
「しかし、今川さんがここに戻ってきてくれるとは、ほんとうに、三年経った今でもありがたいことです」
一年目、採用試験に失敗し非常勤講師として私立の女子中高一貫校で教鞭をとった。一年目で正採用になるほうが難しいと思っていたから、それは覚悟をしていた。むしろ自信がなかったから、修行期間だと思うと気が楽だった。
「自分でも、まさかフランス語教師になれると思っていなかったので、まだ夢を見ているみたいです」
日本でのフランス語教師の枠は頗る少ない。民間が運営している会話学校ではなく、公教育や学校法人となるとほとんど働き口がないといったほうがいい。学部生時代からずっと、「まず仏語教師になれるとは思わないほうがいい」とさまざまな教員に言われてきたものだ。院に進み教授法や言語習得を、あるいは文学や言語そのものを研究し続けるか、渡仏し確たる言語能力と学位を手にしてくるか、とにかく狭き道であった。だから、香織自身もこうして多言語教育に特化した学校で、さらには第一志望だったフランス語教師をしているというのは、いまだに信じられないことのようでもあった。
「てっきり、以前の女子校で専任教諭になられると思っていましたから」
資料に目を通しながら教授は目配せをしてくる。香織は、そうですね、と琥珀色の水面を眺めた。
「そちらの先生からも、今川さんは熱心でとても頑張っていらっしゃると聞いていたので、迷ったんです。でも、ここの空きが出たとき今川さんしかいないと思って、今となっては勇気を出して声をかけてよかった」
透きとおる、うつくしい色。香ばしい香気。しかし口内に宿るのは、果てなき苦渋、そして悔恨の味だった。興味深いデータをありがとう、教授は大事そうに資料をファイリングした。香織は身に余る言葉を受け止めながら、手にした先からそれがこぼれ落ちていくのを感じていた。
教授室をあとにし、香織は帰路に着くことなく別の学部棟へと向かっていた。外国語学部からは離れた高校側の学部棟。一面ガラス張りとなっており、どの校舎よりも現代的な印象がある。エントランスに建つ石碑には、「理学部」という文字。ロビーに入るといくつかテーブルが置かれ、大学生たちが自習や休憩をしていた。それを横目にエレベーターをあがろうとして、「香織先生!」と後方から声がかかった。
「すみません、お休みの日に!」
香織はふり返り、白衣を翻しながら駆け寄ってきた更家に頬を弛める。
「いえ、お願いしているのはこちらなので」
ふと更家の視線を感じて香織は首を傾げた。「どうかしましたか?」
更家ははっと焦り顔を見せたが、すぐにセットしてあるだろう頭を掻き乱した。
「すみません、髪、すごくツヤツヤだなとおもって」
それから眼鏡のブリッジを押し上げ、いきましょうかとエレベーターのボタンを押す。香織は何度か目を瞬いたがトリートメントしたての髪をひとふさ指に巻きつけ、更家の後ろでふと笑みをこぼした。
「近ごろ、体調はいかがですか」
《M.SARAIE》とネームプレートのついた一室で、香織は更家と向き合っていた。タブレット端末を手に彼は香織の瞳をのぞきこむ。クローゼットの中を無遠慮に探るような心地の悪い視線ではない。瞳の底を、その向こうにある柔で繊細な箇所をそっと包み込むような慈しみがそこには込められている。香織は指先を合わせ、人差し指にできたかさぶたをなぞりながら答えた。
「変わりはありませんよ。更家さんの教えてくださったとおり、食生活になるべく気をつけるようにして、日光浴、それから……夜更かしは改善の余地がありますけど」
更家は薄く微笑み、眼鏡のテンプルを押し上げたあと、タブレットになにかを書き記していく。
「以前、よく起きていた回転性のめまいなどは、今も続いていますか」
「いえ、このごろはめっきり。そう思うと、かえって調子がいいくらいかもしれません」
またもやタブレットに電子ペンを走らせる。癖なのか、ノックしようとして親指をペンの柄にかけた。その必要がないことに気がつくと彼は前髪をふるい落とし、すみません、と小さく謝り作業を再開した。
「次は血圧と血中酸素濃度を測ります。その後は……お時間は、大丈夫ですか?」
はい、と香織は答えた。上腕式の血圧計に腕を通し計測を済ませたあと、今度は指先にパルスオキシメーターをつける。いつもの流れだった。すでに慣れた手つきで香織が指先から機器をはずすと、更家が画面をのぞきこみ、タブレットへ記入した。
研究室は十階にあるため、外からの声も届かない。更家の指導教授も今日は他の大学に講義に出ているらしい。六畳ほどのお世辞にも広いとは言えない、静かな部屋で更家の白衣が翻る音が小さく響く。
「本当に、いつもありがとうございます」
香織は、近くにあったスチールラックを引き寄せた更家に告げる。
「いえ、僕のほうこそ。こんなことにいつも付き合っていただいて」
かぶりを振って香織はセーターの袖をまくった。
「更家さんには助けてもらってばかりですから」
トレーの上を整頓し、肘枕を用意していた更家が香織の顔を見た。レンズ越しに、更家の丸いアーモンドのような瞳が香織を射貫いた。先ほどの慈しみを載せたそれよりも、あどけなさが優っていた。彼は困ったようにまなじりを崩すと、ニトリルグローブを身につけ香織の腕を肘枕に載せた。
「僕にできることなら、なんでもしたいんです。革新的ななにかをするとか、お恥ずかしながらそうした確約はできませんが、それでも、貴女のために全力を尽くしたい」
いつもより芯の通った声だった。やや熱を帯びて大きくなった音量に、香織はまつ毛を揺らす。更家はまたしてもすみませんと前髪をふるった。
それきり視線が交じり合うことはなかった。しかし、彼女の腕を縛る彼の手がかすかに震えている気がした。香織は唇を舐めた。
