第六幕 五

 ドサリと音を立てて崩れた男の不完全な肢体に、香織は思わず目を逸らした。ろうそくの燈火がかすかな空気の揺らぎに反応する。まだ体は震えたままだった。
「最初から最後まで、ホンマにしょうもない男やな」
 声が落ちて、ゆったりとした足取りで近づいてくる。ローファーが床を蹴る乾いた音が途中、水をはじき鈍い音に変わる。そのたびにお腹からなにかがこみ上げてきそうだった。
「アンタのやろ」
 差し出されたのはエリュアールの詩集だった。かつて大切にしてきたもの。紺色の表紙布には赤褐色のシミが浮かんでいる。そこに、新たに深紅の化粧をまとっていた。ぬらぬらと輝いたそれは、あの男の血であった。震える吐息を吐き出しながら受け取れずに唇を噛み締めていると、「ああそうやったな」と彼はにべもなく言った。言っただけで、拘束を解くそぶりも見せなかった。
「で」おおあくびをかきながら、彼は続ける。「いま、どんな気分なん?」
「……ひどい」
 張られた頬がひりつく。口の中が、まだ苦い気がする。おびただしい量の血と人間の体液のにおいがまじりあい、今にも意識が遠のきそうだった。だというのに、目の前の男といったら……。いっときの甘い蜜を垂らしたような態度が霞の中へ消えていく。妙なハーブティーのせいかうつらうつらとさえしだしているものの、それでも反抗的な言葉を口にする香織に、直哉はふんと鼻を鳴らした。
「とっくに喰われてる、思てたけど、案外しぶといもんやな。どんな泣きヅラ晒すか楽しみにしとったのに」
 彼の減らず口を聞いているうちにいよいよ視界が歪んできた。
「……私が奪ったの」
 赤と黒が入り混じる。光がぼやけ影に呑まれてしまうような気さえする。意識をとどめるために、香織は必死で紡ぐ。
「なにを」
「あの子の未来。あの子たちの人生」
 しかしそれは失敗だった。目の奥がじわじわと熱をおび、堪えていたものが溢れ出す予感がした。この喉を縛ってくれとさえ思った。
 差し出された本の上で銀色の文字が揺らぐ。滔々と凪の訪れた海のように。
「今さらやな」直哉は痺れを切らしたのか腕を引っ込め、詩集を開いた。香織は彼の顔をおずおずと見上げた。
「いくら嘆いたって戻らんモンは戻らん。考えるだけ無駄やろ。残されたモンは残されたモン、アンタが死のうと生きようと、教師やめようと、そらアンタの勝手やからな」
 左から右へ文字を追いかけ、やがてあからさまに顔を歪めた。「ようこんなもん読もうと思うな、ホンマに」悪態をつき直哉は本を閉じた。遠くから足音が迫っていた。直哉は香織を一瞥することもなく詩集を彼女の膝へ落とし、さっさと背を向けた。
「ま、声だけは悪なかったんちゃう」
 ほろり、頬に熱い雫が伝った。たったひとつの赦しが深い痛みをかすかにやわらげる。
「……ありがとう」
 小さく告げると、彼は一切応えずに階段をのぼっていった。
「特別一級、ほんっとうに、貴方って人は!」
「ピーピーギャーギャー、騒がんとってもきこえてるわ。伊地知君がおらんあいだに俺は一仕事終わらしてんねん。もうちょい労わるとか、そういう気持ちはないん」
「しかしですね……!」
「あ、上に連絡しといてな、禪院直哉が手柄を挙げましたて」
「……被疑者は」
「中で死んどる」
「生かしておいてくれって、言われてませんでした!?
「ホンマにやかましいわ、あっちが勝手に喰われたんやからしゃあなしやろ」
 そんな声を聴きながら香織は今一度涙をこぼし、じっと瞑目した。
「……ありがとう」

 

 かくして、幕は下りた。
 被疑者死亡として不起訴にはなったものの、香織と更家が拉致監禁されていた現場から見つかったMDカセットにより、一連の事件は河西丈による犯行だということが明らかになった。また、それに付随していくつかの余罪が見つかり河西は一躍時の人となった。
 世間を震撼させた連続殺人犯。しかし蓋を開ければ彼も被害者の一人であった。幼いころより歪んだ日常は、確実に少年のこころを蝕んでいた。成長してなおその痕は消えることなく、彼はついぞ殺人鬼として一生を終えた。
 冷えた風が耳の裏を撫でている。香織は束の間の休暇にある場所を訪れていた。数々の御影石が陽射しを浴びて艶めく、都内有数の霊園のひとつ。すっかり冬を感じさせる澄んだ空の下、彼女は献花を手にある名前を探す。
 事件があってからしばらく病院に缶詰めだったため、ややかかとのある靴を履くのは久々でどこか歩き方がぎこちなかった。ひとつ、ふたつ、と墓石をたどり、教えてもらった場所までたどり着くには、十分近くはかかってしまった。体力を戻すのに時間がかかりそうだ。それでも、外の空気は思っていたよりも透明で、すがすがしささえあった。
 表立った怪我はないものの、検査のために指定された病院に入院していた香織にとって、ようやく気持ちを落ち着ける日だった。学校には事件に巻き込まれたことは伏せてある。校長、教頭、養護教諭をのぞき、同僚はおろか実の親族でさえも事件の真相を知る者はおらず、過度な貧血により体調が悪化したため検査入院と治療が長引いたことになっていた。特殊な事件であるとともに、被害者である香織たちの人権が尊重されたといってもいい。世間はいまだ事件のうらに、「呪い」という存在があったことは知らない。香織でさえ、つい先日までは知らなかったのだ。真相を知る者にとって、それは酷く重い。しかし、いつまでも抱えてうずくまっているわけにはいかなかった。
 とにかく、こんなにも、長期休暇以外で授業を留守にするのは初めてだったので、香織はベッドの上にいながら何度もソワソワしたものだった。だが、厚意に甘えて、授業は外注した臨時講師に任せることにしてあった。
 そうして、やっとのこと硬いベッドから脱け出して、今、彼女は瀬古絢音の墓参りにやってきている。「瀬古家の墓」と刻まれたそこは、彼らを殺した河西丈が、瀬古敏明になってから建てたものであった。墓守により綺麗に磨かれた石を目で撫で、香織は大事にかかえた花を花立に立てる。
 事件から四年。あっという間に過ぎてしまった。しかし、あのころで時間が止まったまま香織はうずくまっていたも同然だった。恩師からの紹介があったのをいいことに、非常勤講師をしていた学校を逃げるように辞去し、S英館大附属高校の教師となった。憧れていたフランス語教師になることができたのとはうらはらに、香織はずっと教壇に立つことに対し一種の恐怖をいだいていた。
 瀬古絢音と仲違いをしたまま彼女が亡くなり、香織は自分を責めた。もっと早くに私が向き合っていたら、と何度も悔し涙をのんだ。そして、今でも香織はそう思っている。過日、話したいことがあると言われたその内容が、もし河西に対するものであったとしたら。香織は苦しくなり、瞳を伏せた。私が、教師をしていてもいいのだろうか。あの子を見捨てた私が……。けれど、離れられなかったというのが事実であった。
 香織は浮かんだ涙を手の甲でこすり、持ってきた線香を用意する。ここまで送ってもらう途中のコンビニで買ったライターで火をつけ、軽く円を描くようにしてそれを弱めた。薄く白煙がたなびき、香織は線香皿に横たえる。じっと手を合わせ瞑目した。
 いまだ、悔恨の念は強い。自分のために何人もの人間が犠牲になったのだ。なんら変哲のない、ただの人間ひとりのために。
 幼いころ、「あなたの血は珍しいから、怪我しないように気をつけなさい」と祖母に言われたことがあった。なぜ? 幼心に訊ねたとき、祖母は、そういう血筋なのよ、と言っていた。それは祖母と香織との二人だけの秘密であったが、彼女は祖母の言葉を守ってきた。そのおかげで、病院にかかることなどほとんどといってなかった。だから、更家に出会うまで自分がどんな血を持っているのかなど、詳しいことはなにも知らなかった。まさか、そのために何人もの人間を巻き込むなんて……。
 暗闇に彼らの顔が蘇り、胸が軋む。気を抜くと立っていられなくなる。だって、こんなの、あんまりだ。
 ごめんなさい、心の中で何度も繰り返す。ほんとうにごめんなさい。もしも自分のことをもっと理解していたら、もっと用心深く過ごしていたら――たらればは尽きない。しかし、結局は、立ち止まっていられないのだ。
 どんよりと下へ引きずられるような空気を断ち切り、香織は目を開ける。
「ありがとう」
 告げるべき言葉がそれで正しかったのかはわからない。
「私を先生って呼んでくれて、ありがとう」
 いくつもの涙を落としながら、天をあおぐ。

 霊園をでると、カチッ、カチッ、という乾いた音が響いていた。
「……使いますか」
 ここまで送ってくれた本郷だった。直哉が出ていったあと彼女を拘束からといてくれた人物であり、病院でも長らく世話になった刑事だった。彼はグレーのセダンの横に立ち、使えないライターをひたすら擦っていたが、香織の申し出にすぐさまそれをスーツのポケットへ突っ込んだ。「恩に着る」と言って受け取り、彼はタバコに火をつける。
「皮肉なもんだよな、殺した男が建てた墓に入るなんて」
 すでに骨は残っていないので入れるものもなにもないが、四年もの空白を経て母子の隣に瀬古敏明の戒名が新たに加わった。これで離ればなれだった一家はまたひとつになった。
 独り言だったのだろう、彼は香織の返事も待たずに続ける。
「仕事には復帰できそうか」
 香織は弱々しくわらった。
「なんとか。これだけ授業をしていないと、調子を取り戻すのに苦労しそうですけど」
 調子など、あってないようなものだが。本郷は香織に煙がかからないようタバコをできるだけよけると、「無理することはないさ、また地道にやっていけばいい」と落ち着き払った声で言った。
 たしかにそうかもしれない。だが、教師というのは、難しい職業だ。人の命を預かり、その命の時間を使って授業をしている。それを忘れてはならない、というのが、恩師であるS英館大の教授の言葉だった。教科という枠を超えて、教員は生徒と接しなければならない。そして時には、「教師と生徒」という肩書きでの関わりではなく、「人と人」としての関わりがどうしても必要不可欠となる。しかし、根底にあるのは教科だと彼は教えてくれた。どんなに魅力的な人間でも、授業が下手ではいけない。若いうちは下手でも生徒たちはついてくるが、若さがなくなったとき必ず壁に突き当たる。たしかに行事や部活も大切だ。それでも、授業を疎かにしてはならない、と。
 いまはもう、数々の言葉をくれた恩師でさえ、この世にはいない。香織は苦々しい思いを抱いて、指先を握った。
「私は、おそらくなにもできていなかったんです、もう何年も教師をしてるのに」
 本郷はなにも言わなかった。
「授業も下手、生徒と関わるのも下手、ただ淡々と毎日が過ぎていくのを待つだけだった。問題がないように、深く関わらないように、そればっかり考えていました。よくそれで教師が務まったなって思います。それほど、この四年間は無味無臭だった」
 深く息を吸い込んでみる。かすかに苦く香ばしいにおいがする。
「やり直します」香織は困ったように眉をさげて、それから大胆に顔をしわくちゃにして笑ってみせた。
「自分のために。瀬古さんが好きと言ってくれた、私のために」
 おはようって言葉を交わす、それだけでそこに自分がいていいと、そこに生きているのだと実感できる、学校はそんな場所であってほしい。辛いことがあったとき、悲しいことがあったとき、逃げ込むことのできる拠り所のひとつであり、楽しいとき、嬉しいとき、手を取り合い喜びあえる仲間がいる、そういう学校生活であってほしい。さまざまなことを学び、未来へ羽ばたく一歩であってほしい。そのために、力を尽くそう。
「応援してる」
 ややすっきりとした顔で、しかし目もとにはくたびれた色を載せながら頬を緩めた本郷に、香織は今度こそ微笑んだ。

「では、出張の増岡先生に代わり今日は私がホームルームを担当します。一月に迫ったオーストラリア研修の日程表が出来上がったので、これからグループごとに分かれて自由行動の計画を決めてください」
 日常が戻ってきた。キャメル色のブレザーが並び、きらきらとした目がそこかしこで動きまわり、こそこそとささやき声が飛び交う。ぐるりと八の字にそれを見渡し香織も口もとをほころばせた。
「自由行動は全体で二回。ケアンズに着きマオリ族の文化を学んだあと、夕方までの約四時間。それから四日目、シドニーに着いて一泊したあとね」
 増岡から預かっていたプリントを配り、軽く説明を加えてから早速グループごとに集まって話し合いとなった。
 ガタガタと教室じゅうが騒がしくなった中、余ったプリントを丁寧に折りたたみ香織は再び教室を見渡す。そこかしこで島ができ、すでに和気あいあいと計画を練り始めているようだ。手を叩いてはしゃぐグループもあれば、真剣に顔を突き合わせているグループもある。反応はさまざまだ。それぞれ楽しめように試行錯誤をしながら決めていけばいい。あまりに騒がしくなる場合は声をかけにいこう。ゆっくりと視線を動かしていくと、その中で、ひとつだけぽつんと空いた席が目に入り香織は目を細めた。
 リネンのカーテン越しに光が入る。この教室でいっとう明るく光が照りつける。彼は、あの席に座っていたのだ。
 陽だまりの中で、影を抱きながら。淡く瞬く輪郭と、彼の黒い髪。愁いを帯びた横顔は、まるでひとつの絵画でも見ているようだった。彼が学生だったころも、そうだったのだろうか。そう思うが、あまりにも彼のことを知らなかった。けれど、今でも彼が頬杖を突いて外を眺める姿が鮮明に残っている。ツンと上を向いたまなじり、かたくむすばれた唇となだらかな頬。――近づけない。近寄りがたい。むこうの世界にいたはずの彼。振り返り、目が合う。彼は、ここに存在している。
 その席を動かすのは篠宮だ。取り残されていた空席を自分のグループに寄せて、なにごともなく会話に戻った。香織は顔をくしゃくしゃにしたくなりながら、プリントを衝立にこれでもかと頬をゆるめた。
 そうして時が過ぎ、休み時間になると、教壇で各グループの予定表を集めていた香織の横に篠宮と松崎が飛んできた。C組からI組まではかなり離れているというのに、松崎はチャイムが鳴るや脱兎のごとくとんできたらしい。
「先生、放課後時間ある? ウチに勉強おしえて!」
「あ、オレもオレも」
 幼なじみの彼らのことだ。香織が返事するあいだにも、「ウチが先!」「なんだよ、一緒にやりゃいーじゃん」「それはイヤ! アンタのファンがうるさいんだもん!」などと応酬が繰り広げられる。その二人に挟まれながら回収したプリントをトンと揃えると、「先に講習があるでしょ、アナタたち」と香織はやれやれと肩をすくめた。
「そーだけどォ! ジョアンナのあとで香織先生と勉強したい! 香織先生の声好きだから!」
「オレもオレもー」
「アンタが言うとアウト!」
「エー、いいだろべつに、セクハラじゃないよね、香織センセ」
 このままではらちがあかないと思い、二人を引き連れて廊下に向かう。
「まず二人はジョアンナの講習をしっかり受けること。アナタたちのクラスのほうが上級者クラスでしょう? 今日もみっちり対策を練ってくれているとおもうな」
 はあい、と不満げな声がつづく。
「それで、もしまだ勉強したりない場合は、多目的スペースで少し付き合うから」
「ホントッ?」
 今度は犬のようにピンッと背すじの伸びた返事がかえってきた。松崎奈津子はどちらかというとうさぎに似ているが、ほんとう、と答えて香織は苦笑する。
 彼らにとっては修学旅行の前にフランス語検定。必死なことはなによりだった。これほどまでフランス語に興味を抱いてくれていると思うと、自然と胸が膨らんだ。
「勉強は、やりたいと思ったときがチャンスだから。きっと二人は伸びるよ」
 うれしそうに松崎は頬をもぞつかせ、髪の毛を指に巻きつける。篠宮は、「だよな」とばかりに腕組みをしてうんうんうなずいていた。
「じゃあふたりに質問」
「バッチこい!」声が重なる。
 香織はそっと口もとをゆるめた。
「ふたりは、フランス語でどんなことをしたい?」
 一瞬拍子抜けしたような顔をしたが、二人はすぐにおのおの表情を変えた。
「ウチは仏文科に入って、いつか留学したい。パリのアパルトマンで暮らしながら、いろんなものをみて、感じて、学校終わりは友達とカフェに行ったり、公園でピクニックしたり」こちらはうっとりだった。
「オレはとりあえず旅行してーな。シャンゼリゼ通りで歌うたいながらスキップしたり、バゲット持ってかっこよく歩いたり、モンサンミッシェルも見たいし、なにより美術館巡り! モナリザってめちゃくちゃ小さいんだろ? あとはサモトラケのニケ像をこの目で見て……」こちらは、目を爛々と輝かせ何度も指を折りながら。
「夢いっぱい、面舵いっぱいって感じね」
 香織は笑い、二人の背を押す気持ちで、「じゃあ放課後」としばしの別れを告げた。

 職員室に戻ると、トントンと養護教諭の平田が肩を叩いてきた。
「先生、ちょっといい?」
 どうしたものかと思いつつ、快諾して香織は席を立つ。
「これ、高専から送られてきた書類。家入さんから直接渡すようにって」
 保健室までやってきて、手渡されたのは茶封筒であった。普段あまりに見慣れない名前の私学校の印が入ったそれは、香織が入院中、何度も世話になった家入の所属している学校だった。正式名称は、東京都立呪術高等専門学校。世に蔓延る呪いと戦うための術を学ぶことのできる唯一の機関であり、今回、更家と共同で香織の血液を研究してくれることになった救世主でもある。平田は謂わばその橋渡しであり、協力者だ。
 封筒を受け取り中を確認すると、難しい言葉と化学式がずらっと並んでいた。これは専門外だと難しい顔をすると、「少しずつわかってきてるみたいよ」と平田が説明を加えてくれた。
「自分では、ふつうの人とどうちがうかもわかっていないんですけどね」
「それで、ここまで健康体で生きてこれたんだから、すごいわ」
 香織は肩をすくめる。本当に、運がよかったのだ。
「とにかく、今のところわかっているのは、更家研究員の研究どおり、先生の血はこれまで発見された血液型のどの分類にも当てはまらないこと。それから、もしかすると、ある人種や動植物、あるいは呪いにとって、それらは強壮剤の役割を担うかもしれないこと」
「強壮剤?」
 思わず瞠目した。
「たとえば、あなたの血を飲んで細胞が活性化されたり、アドレナリンが多量に分泌されたり。だから、あの男はそうした稀な人種で、あなたのそうした血のにおいを独自に嗅ぎ分けていたのかもしれない」
 なるほど、じっと紙面を眺めると、あまりに気難しい顔をしていたのか、彼女は、ともかく、と手を叩いた。
「今後も経過観察が必要ってコト。それじゃ、先生お茶にしましょ」
「えっ、私このあと会議が」
「二十分後でしょ? 一杯ぐらい飲めるわよ、積もる話もあるじゃない。……で、例の転校生くんとはその後どうなったの」
 いそいそとティーカップを用意し始めた平田に、香織は書類をしまいながら諦観の息をつく。
「そんなんじゃないですから」
「そうなの?」
「そうです」と香織はムッと唇を尖らせる。
「なんだ、ロマンスあったかと思ったのに。ちょっと期待して損したな」
 残念そうな口ぶりだが、紅茶を淹れる手は軽やかだった。
「そもそも、それどころじゃなかったんです」
 拗ねた口ぶりの香織に、「知ってる」と平田はあっけらかんとカップを差し出してきた。悔しいがなんともいいにおいだった。それに気をほぐして息をつくと、香織はいただきますと告げて唇を濡らす。
「ただ、きっと彼のことは忘れないんだろうなと思います」
 ふわりと豊かな香気が鼻に抜け、次第にともしびが宿ったように胸があたたかくなる。あら、と、平田が待ってましたとばかりに、とろんとした目を輝かせる。どうやら先を期待したようだったが、香織はふっと微笑んだ。
「この紅茶、すごくおいしいですね、平田先生」
「でしょう? ……じゃなくて、んもう! あっちの大型犬くんはどうなの、大型犬くんは。ゴールデンレトリーバーみたいな子」
「ゴールデンレトリーバー……更家さん?」
「そう。更家くん、まさか、なにもないなんて言わないわよね?」
 いよいよ痺れを切らした平田を横目に、「さあ?」としらばっくれながら香織は楽しそうにカップに口をつけた。