「カニバリズムは人間の歴史の重要な一部です」
男は縁の黒い眼鏡を震える指先で押し上げながら神妙な面持ちで告げた。
「旧石器時代、我々人類の食生活には人肉が含まれていて、必要な栄養の一割を占めるほどの貴重な栄養源だったと言われています。医学や科学が発展した今も、カマキリやネズミがオスや子どもを食すのと同様に、同じ種目もしくはより親しい種目を食べ物とする共食いのほうが栄養価に富み、とても健康的でいられると科学的に考えられています。したがって、たしかに人肉を食べることにメリットはある」
連綿と裏舞台で紡がれた歴史のほうが、思いのほか深いことがあるものだ。目に見えているものは結局それだけで、それでああだこうだと騒ぎ立てるのは馬鹿馬鹿しい。
また、と男は続けた。
「栄養の面だけでなく、感染症のある観点からも人類にとっては利点のあるものだと言われています。通常、多くの細菌は調理の過程や消化液の中では生き延びられません。したがって、カニバリズムは細菌がそれ以上拡散するのを防ぐことができる。より密接した伝統的な文化を持つ民族では、そうしたカニバリズムでコミュニティの他の人々を守る歴史もありました。けれど、それらはあくまで一面であり、現代医学のほうが食人よりもはるかに効果的だということは、忘れてはなりません」
教科書のような言葉を連ね終え、そこで、彼はキャメル色のブレザーを着た患者に向き直る。
「それに、カニバリズムが原因によって、かえって感染症のリスクが高まる。僕はオススメできない、かな。パプアニューギニアのとある種族は食人文化で有名でね、一九五〇年代に禁止されるまで亡くなった人の遺体を敬意と弔いの意を込めて食していた。それによって、治療不能とされる脳症を発症した歴史もある。だから」……
「香織先生、こちらよろしいですか」
トレー片手に前からやってきた男に、香織は眉を下げた。時刻はすでに十四時を回っている。カフェテリアのオーダーが一度ストップするのは十五時、月曜に実家のクリニックで診察のある更家はいつも駆け込みでここへやってくる。トレーにはいつものようにどんぶりが載っていた。
数あるメニューから選ぶとなると、迷ってしまうからうどんにするって決めてるんです――出会ってまもないころ、眼鏡を曇らせながら恥ずかしそうに言っていた言葉である。
「今日はたぬきうどんですね」
研究室に寄る暇もなかったのだろう。黒いタートルネックニットにダークグレーのジャケット姿で更家は相好を崩す。
「きつねはお揚げが品切れって言われてしまって」
音もなく落ち着いた様子で椅子を引く姿は、彼の育ちのよさを表しているようだった。指先で器用に箸を掴み、失敗することなく上手く縦割りにする。今日はたぬきうどんだからか、備え付けの七味を一振りした。その拍子に眼鏡がずり落ちて彼はテンプルを中指で押し上げた。
いただきます、と律儀にも手を合わせ、彼はうどんを食べ始める。時間がないときは、ゼリー飲料やエネルギーバーなどで済ませることも多いし、論文片手におにぎりにかぶりつくこともあると言う。しかし、香織の前で彼はいつも穏やかだった。どこか気弱な雰囲気は感じるものの、いつだって更家は親切で、誠実で、柔らかい人柄の持ち主だった。きっと、傷つけるよりも傷つくほうが多い人間だと香織は知っていた。
それはこの学校へ来てまもないころ、カフェテリアで出会ったときから変わらない印象だった。
「香織先生はめずらしいですね、月曜日にいらっしゃるの」
香織は曖昧に笑った。
「お昼休みに生徒に捕まってしまって。ランチがてらひと休みと、予習を」
そばに置いていた紺色のハードカバーを軽く手であげる。「へえ、相変わらず偉いですね」と更家は感心して、箸でどんぶりの中をかき混ぜた。
どこか落ち着かない気持ちを抱きながら香織はそれを見守っていた。猫舌なのだろう、はふ、はふ、と息を吹きかけうどんをすする。その湯気でレンズは見事に曇ってしまった。いつもの調子で眼鏡を外した更家に香織は近くの紙ナフキンを手渡す。口の中に食べ物が入っているからか、手で口を押さえながら彼はちょこんと頭をさげてそれを受け取った。「すみません」うどんを嚥下し終えて、照れ臭そうにレンズを拭く仕草は小学生の男子のように見えた。
幼少期から野球をやっていたこと、競争がきらいで周りの熱についていけず、中学生まででやめたこと、高校はバレー部に入りずっとセッターをしていたこと。大学に入っても、しばらくはサークルで真面目にバレーをしていたこと。一人でさっさと歩いていく人間の力強さはきっとない。だが、隣合い前を向いてゆっくりと足並みを揃えてくれる人。肩を並べているのに心配になって、ときおり振り向いてくれさえする。更家はそういう人間だ。
――更家は、瀬古絢音の皮膚を切り刻み、はらわたを抉り、その血肉を啜った。直哉の言葉が脳裡に蘇る。
目の前がチカチカするようだった。光と影のコントラストで数多の残像がまぶたにこびりついて、気を抜くと目を閉じさせようとしていた。
――それだけやない、サイトウカナエも、スズキヒサヒトも、ナルミユウヤもみぃんなミキサーにかけられてぐっちゃぐちゃにされとったんやで。
そんなこと、ありえるはずがない。目の前の更家が、彼が「私」のために、瀬古さんを……たくさんの人を殺めるなんて。だって、彼は……。
口の中が渇いて仕方がなかった。喉を掻き切ったほうがマシなのではないかと思った。
――とにかく、直哉は駄目。彼っていうか、彼らって言えばいいかな。
平田の声が耳の裡で響く。あれは、このことだったのだろうか。彼女は、このことを知っていたというのか?
――先生の人生、ぐちゃぐちゃになるわよ。
もう、ぐちゃぐちゃになってしまった。とっくのとうに、取り返しのつかないところまで来てしまっていた。私の手の届かぬところで。
――もうこれ以上、だれかを殺したないやろ?
香織は唾をごくんと飲み下した。そうして、レンズのくもりを拭う更家に気づかれぬよう、テーブルに置いていたエリュアールの詩集を指先でなぞった。
「更家さん」
彼は裸眼のまま、きょとんと目を丸くしてこちらを向いた。
「今夜、一緒にごはんを食べませんか」
カタン――音を立てて転がったのは、彼の眼鏡だった。頬を染めた更家の姿に、香織は目の奥の痛みと闘いながら、笑みをつくった。
