夢を見た。それはおそらくあの頃の夢だ。すぐ横をふたつ結びやポニーテールの髪をした少女たちが駆けていく。屈託なく、なにひとつ恐れることなどなく、颯爽と青い風を巻き起こし、疾風のごとく立ち去っていく。「こら、廊下は走らない」そう告げるが、「はぁい」などというほがらかな返事を残し、あっという間に華奢な背が遠ざかっていく。
夏が密やかに過ぎ去った日、コンポート色に染まった廊下を香織は歩いていた。行く先は決まっている。職員室にまだ居場所はないから、校舎の辺境にある講師室へ戻るさなかだった。一階を昇降口へ飛んでいく生徒たちと何度もすれ違いながら、香織は「保健室」と書かれた教室の前に着くと、コン、コン、と丁寧に二度ノックをして中を覗いた。
開かれた扉の先には、たっぷりとしたシルバーヘアをシニョンに結った養護教諭の女性が机でなにやら作業をしている。細いフレームの眼鏡を掛け、白衣をまとった姿はなんとも白亜の城主らしいが、香織を認めるとまるで少女のように顔を弛めた。
「絢音さん、先生きたわよ」
こそこそ、秘密のやりとりのようにカーテンの下りた一画に向けて囁き、香織にはウインクをひとつ。失礼します、と明るい声で告げると、クリーム色のカーテンが途端シャーッと勢いよく開いた。
「先生!」
掛け布団がベッドから落ちるのも厭わず、むしろ当の本人さえ落ちそうになりながら足もとの柵に乗り出して香織を迎え入れた。亜麻色の柔らかなセミロングの髪と、透きとおる白磁の肌。横になっていたために髪はところどころほつれていたが、まあるい小鹿のような瞳が希望の光を載せて輝いていた。
「すっかり元気ね」
少女はへへっと恥ずかしそうに肩をすくめた。
「それより、今日ね、先生と勉強したところ小テストで満点だったの」
「絢音さん、ちょっと落ち着いたら?」
そんなふうに養護教諭に諭されるが、少女は慌ててベッドの上に舞い戻り、わきに置いていた椅子から鞄をとった。
「これ! ずっとずっと間違えてたところ、やっとひとりでできたんだよ」
少女は赤丸がいくつもついた用紙を香織に差し出してくる。
「あ、ほんとうだ。すごい、しかもほかの所もほとんどできてる!」
「でしょ、でしょ! わたし頑張ったんだよう」
満更でもなさそうに亜麻色の髪を振り乱し、ひとりでにウンウンとうなずく。
「あとは単語のスペルミスだね」
「ウッ……」
ぴたりと固まってしまった少女に香織は笑って小テストの用紙を返した。
「でも、終わったことは気にしないもん!」
「もうちょっと、シーツのシワくらいは気にしてほしいんだけどねえ」
横から飛んできた声にまたもや少女は小さく肩を縮める。唇を尖らせたあと、ぐしゃぐしゃになった純白のシーツを手で伸ばした。
「ねえ先生」彼女は一仕事を終えてベッドサイドに座り脚をぶらんとさせて言う。
「このあいだ教えてくれた詩、またききたい」
「またぁ?」
「そう、またぁ。だって先生の声、とってもきれいなんだもの!」
ぴょん、とうさぎのように跳ねて床へ着地。それから香織の目の前にやってきた。
「ね、お願い、お願い、おねがぁい!」
後ろ手に手を組んで、ぴょんぴょん跳ねながら下から上目遣いをする。「仕方ないなあ」と香織は息をついた。やったあ! 少女はまたもや跳び上がった。
「でも、ここは保健室だから、どこか多目的スペースにいこうか」
「あら、ここでもいいわよぉ。今日は怪我人も病人も、絢音さん以外いないしね。先生も今川先生の美声に酔いしれたいわあ」
「あ、先生も聴く? すっごい、すてきなんだから!」
「先生まで!」
香織は動揺しながら、はしゃぐ少女を見守るもうひとつの瞳にまなじりを弛めた。そうして観念したように、わきに抱えていた一冊の本を取り出した。紺色の、やや古びたハードカバーの本だった。銀色の線が、その中で控えめにきらめいていた。……
目が覚めたとき、香織の目に飛び込んできたのは白い天井であった。教科室の埃かぶったトラバーチン柄ではなく、どこかあたたかみのあるオフホワイト。しかし目映さに目を細めると、「あら起きたの」と女性の声がした。
「……わたし、いったい」
まだ頭がぼやけている。揺らぐ視界の中で、女性はゆっくりとカーテンを開き陽光を取り入れる。
「先生、教科室で倒れたのよ。それを男子生徒が見つけて運んできてくれたの」
「生徒が?」
ええ、と白衣姿の女性が光の中にはっきりと現れる。ミディアムヘアの垂れ目が特徴的なひとだった。よく見覚えがあった。にっこりと笑みを浮かべた彼女は、養護教諭の平田だ。香織とも仲の良い教員の一人だった。彼女は、おもむろに白衣のポケットから一枚の紙を差し出してくる。
「名前は、なんだったかな。お寺みたいな名前、ゼン……ナントカくん」
「禪院くん、ですか」慌てて起き上がり、それを受け取った。
「そうそう」彼女は指を鳴らした。「うわさの転校生くん。高校生には見えないくらい大人っぽいわよねえ。先生のこと軽々抱っこして連れてきてくれたの」
紙は二つ折りになっていた。おそるおそるそれを開くと、走り書きのようなしかし達筆な字で、電話番号が記されていた。なんということだろう。声すら発することのできない香織に、平田はふふっとたおやかに微笑した。
「先生が、起きたら渡してって。すっごい素っ気なく見えるのに、意外と情熱的なのね。わたし、感心しちゃった」
「……そんなんじゃ、ないですから」
少しばかり語気が強まり、かえって羞恥心をあおった。でも、ほんとうに、ともごもごとつぶやいた香織に、平田は小さく肩をすくめた。
「最近、睡眠は? よく眠れてる?」
香織はうなずいた。
「貧血はないようだけど、心配なら病院で検査を受けたほうがいいかもね」
さりげなく手を取って、指先を確認される。紙を握りしめ、香織は俯いた。
「大丈夫です」
そうだ、体には異常はない。
「……これは、きっと気持ちの問題ですから」
平田はなにか言いたげだったが、そう、とだけ口にすると、カーテンを括りデスクへ戻っていった。
本当は、迷ったのだ。携帯を耳に当てる、ほんの数秒前まで香織はためらっていた。そしてそれは、コール音が途切れ、低音が鼓膜に響いた瞬間まで続いていた。
「――もしもし」香織がゆっくりと息を吐きだすと、「ホン」と彼は言った。たったひと言だった。しかしその声の持ち主がだれだったか、香織にはすぐわかった。
「……ほん?」
「俺が持っとんねん、返してほしいんやったら、C校舎の四階」
すぐに、ツー、ツーという電子音が響いた。しばらく放心していたが、香織は我にかえると戸惑いのさなか渡り廊下を急いだ。
授業で使用される特別教室や選択教室があることからC校舎は人影が少ない。大学側のテニスコートから聞こえる声を耳に流しながら香織は階段をあがっていく。駆け足で行くべきかとも思ったが、どこか気後れがして思うように足は進まなかった。めまいや耳鳴はなくなっていたが、手すりなしには立っているのがやっとだった。
ゆっくりとそして静かに階段をのぼりきると、屋上へ繋がる多目的スペースにキャメル色のブレザー姿の男子生徒が見えた。C校舎の中央に位置し、数段ほどある段差に腰を据えている。膝に肘突き、手持ち無沙汰に一冊の本を手からぶら下げていた。紺色の上製本の洋書だ。アール・デコ調の飾り枠に、《Paul Eluard》の印字。銀の箔押しはやや霞んでいた。あ、と声を洩らすと、彼は金色の髪をかすかに揺らし、小首をかしげるようにして香織を見あおいだ。
「これ、アンタのやろ」
すっと鼓膜に溶け込んでいく。その声に香織は身じろいだ。
「どうしてそれを」
「どうして、て、大事に抱えとったで」
彼は大儀そうな仕草でそれを差し出してくる。金色の髪、鋭い目もと、耳にはいくつものピアスが並び、きっちりとネクタイを締め整った制服姿とはうらはらに、触れてはならないような色香が滲んでいた。カナリアイエローのアパタイトのような瞳が私を射貫いている。香織は手を伸ばしながら、浅く呼吸を繰り返した。
「……ごめんなさい、私、倒れたときのこと、おぼえていないの」
教科室で倒れた、と養護教諭の平田は教えてくれた。たしかに、授業が終わってすぐB校舎に逃げるようにして向かったのはおぼえている。階段をあがり、廊下を渡って軋む扉を開いた。だが、そこからの記憶はなかった。彼がなぜ自分を見つけたのかは知らないが、それでも、きっと驚いたことだろう。「ありがとう」香織が言うと、彼は表情を欠いたまま目だけを器用に細めた。香織はその視線から逃れながら、深呼吸をして続けた。
「本も。これ、学校の備品なの、しかも、今は絶版になっているものだから」
受け取ろうとして、ぴたりと手を止める。彼がその手を放さず、本を掴んだままだったのだ。指先だけなのにびくともしない。ブレザーの上からでもわかるたくましい肩、太い首、袖口からのぞく手首や手の甲には筋がきつく浮かび上がっている。
「禪院くん」かろうじて声を絞り出すと、彼は唇を薄く横へ引いた。
「返してやってもええけど、ひとつ、おねがいがあんねん」
なに、香織が訝ると、彼はサッと手を引き音もなく立ち上がった。まるで古典芸能かなにかを見ているような見事な所作であった。彼はそのまま言葉を発することなく、訳知り顔で背後の扉を顎でしゃくった。
屋上へは普段生徒の行き来は禁止されていた。柵はついているものの、安全対策として数年前に封鎖され、一般生徒は立ち入りできないことになっていた。
「ああ、京都に比べるとアレやけど、まあまあええ空気やな」
できる限り柵には寄らないでほしい、と告げる前にスラックスのポケットに手を突っ込み、彼はふらりと下をのぞきこんでいた。あくまでB校舎側からは見えない位置ではあるものの、胃がひゅっと持ち上がるような心地だった。
彼が校内で浮いているのは知っている。どうやら増岡と反りが合わないことも、周囲に壁を隔てていることも、香織の目にははっきりと映っていた。浮世離れした印象と隙のないどこか尖った空気。決して怒りを前面に押し出しているわけではないが、気圧されるような雰囲気がある。ちりちりと肌がひりつくような緊張感に似ていただろうか、彼はそんな空気をいつも纏っていた。遠い世界にいるような人間だった。
それが、目の前で色や温度をもち動き回るのが、香織にはふしぎでたまらなくなった。
「ほかの先生方にバレると厄介だから。見つからないようにね」
彼の背を見守りながら、そっと告げる。風が吹き香織は本を落とさぬよう胸に抱えながら舞い上がった髪をかき集めた。くるりと彼がふりかえり、柵に腰を預けて香織を見据えた。どうしても、言うことを聞く気にはならないらしい。
「ねえ、昨日、聞きたかったことって」
そこまで口にして香織は唾を飲み込んだ。光を浴びた彼が、直哉が、その中で顔に影を纏い、なんとも神秘的な姿で佇んでいたからだ。彼は不自然に言葉を切った香織を訝ることもなく、ただ見つめている。その顔に、瞳に、どのような熱があるのか、はたまた色があるのか、その瞬間ふたたびわからなくなった。
やがて呼吸を取り戻し、香織が唇を舐めると、「なあ」と彼は静かに言った。
「ひとつ、読んでくれへん」
「……ひとつ?」目を瞬いた彼女に彼は腕の中の本をしゃくり示す。「詩を?」
彼は返事の代わりに眉を跳ねた。まさか、彼からそんなリクエストがあるとは思わず、香織はどうしたらいいかひたすら彼を見つめ返していた。
「はよしてくれ」なんとも不躾な言葉だった。それにはそれで閉口したが、香織はまたひとつ唇を舐めると直哉に向けて手を伸ばした。
「じゃあ、こっちきて。そこ、あぶないから」
彼は淡々と香織を見つめていた。太陽の光に彼の金糸が瞬いてとても眩しい。目を細めながらも決して閉じぬように香織もまた彼を見つめていた。
頬に、目もとに、かすかに影が落ちる。ぬうっと鋭い瞳が香織を射止めている。やがて彼はひとつ息をつき、その手をとった。
Elle est debout sur mes paupières
Et ses cheveux sont dans les miens,
Elle a la forme de mes mains,
Elle a la couleur de mes yeux,
Elle s’engloutit dans mon ombre
Comme une pierre sur le ciel. …
校舎から繋がる扉の前で腰を下ろし、香織はエリュアールの詩集を開いていた。奇妙な時間であった。淡々と流れる雲のように、フランス語の韻律にささやきを載せた。
Elle a toujours les yeux ouverts
Et ne me laisse pas dormir.
Ses rêves en pleine lumière
Font s’évaporer les soleils,
Me font rire, pleurer et rire,
Parler sans avoir rien a dire.
エリュアールが一九二四年に刊行した「Mourir de ne pas mourir」に掲載された詩であった。何年も、何度も唇に載せてきた詩。この詩を詠うとき、いつも胸の裡に苦渋や寂寞が募ったが、もはや手放せないもののひとつであった。
震えそうになるのをこらえ、香織は最後の一音まで丁寧に息を繋ぐ。黄ばんだページは年月の経過を感じさせフィナーレを迎えるに相応しい愁いを感じさせた。静かに本を閉じる。そうしたところで、なにか反応があるわけでもない。
隣で大きくあくびを拵えた彼に、香織は小さく息をつく。
「これで、満足した?」
彼がなにを求めていたのかはわからない。だが、香織が言うと、直哉は、そうやなあ、とはんなりとした京都弁で答えた。
「あいかわらず、眠たなる声や」
「それは、ごめんなさい」
「べつに、悪い、言うたわけやないやろ」
またひとつあくびをして、彼は座ったまま左手を放り出すように目の前に差し出した。
「これ、なんて意味なん?」
流されるがまま、その手に本を渡した。
「今の詩は、恋人を詠った詩」
へえともふうんとも言わず、ペラペラと捲る。香織はそっと隣をのぞきこみ、いつも開くそのページを出してあげた。
「彼女が僕のまぶたの上に立っている、髪の毛が僕のそれともつれ合い、その手は僕のそれと同じ形をしている……」訳に合わせ、原文を指でなぞる。
「なんや、わけわからん詩やな」眉根を寄せいかにもつまらなそうな顔をした彼に、「そうね、そうかも」香織は小さく笑う。普段、あんなにも人を寄せつけない彼が、まさかフランス語を目にしているというのがなんとも不思議な心地であった。だが、いつのまにか全身の怠さや、めまい、耳鳴、あるいは体のふるえなどは忘れ、香織は純粋に心を弾ませ続けていた。
「でも、こう考えるとわかりやすいの。目を閉じて、彼女がまぶたの裏に映っている。その目が僕のそれに突き刺さり、髪がもつれあい、互いの存在がひとつになっていくのを感じる。手の形も、瞳の色も、すべてが重なり、やがて影さえも呑まれ、とけあう……」
香織は指先で文字をなぞりながら、無意識のうちに直哉の顔を見上げていた。
「愛するたびにひとつになっていく。想うたびに自分を相手に投影する。あるいは、自分に、投影する。不思議な詩よね。でも、とっても情熱的で神秘的」
今だけは、その瞳を覗き込むのは怖くなかった。うつくしいとさえ、思っていた。
「あなたの手の形になりたい、髪の色、肌の色、眼の色になりたい、ひとつになってしまいたい……。そんな願望が、エリュアールや恋人にもあったのかもね」
――
――――
彼女がわたしの瞼の上に立っている
彼女の髪がわたしの髪と縺れ合う
彼女の手はわたしの手と同じ形
彼女の瞳はわたしの瞳と同じ色
彼女の影がわたしの影に飲み込まれる
石が空に飲み込まれるように
彼女は常に目を開いていて
わたしを眠らせてはくれない
光に満ちた彼女の夢が
太陽から光をうばう
わたしは笑ったり泣いたり笑ったりする
言うこともないのにしゃべったりする
黄金色の光の中に影が佇んでいた。細く長く、しかし果てしない濃密な影だ。滔々と揺らぐ燈火の中で、影は詩を朗読していた。低く掠れた声で。静けさにほどけ、瞬く間に消えていく。暗闇の中、ただひとつ宿るランプの光。やがて影が実像を結ぶ。
骨張った手であった。枝のように伸び、小刻みに震えていた。その手には紺色の布地に銀箔をあしらった本が握られていた。
角は擦れ、箔はとれかかっている。なにより、節くれた手の下に丸いシミが見え隠れしていた。赤く、黒い、影のようないろ……。影は陶酔のため息を洩らすと、ゆっくりとその表紙を撫でた。ランプの燈火がゆっくり波を打つように左右に揺れる。本を閉じ、影はそのあえかに瞬きの残る表紙や背表紙の印字に唇を寄せた。
カサついた唇を……。
「ああ、もう少しだ。もう少しで会える」
熱い吐息を洩らすその唇や頬は、恍惚の色に強く染まっていた。
