金曜から一夜明けて、直哉が訪れていたのは都内のとある河川敷であった。制服に着替えいざ髪染めとスプレー缶に手を伸ばした矢先、瀬古から連絡があったのだ。
またあの死体があがったのだ、と。
彩りも失せ、寒しくなった河川敷には朝から大勢の警官の姿があった。警察犬が草むらを嗅ぎ回るのを横目に直哉は堂々とブルーシートをくぐり鑑識と思しき男と話している本郷のもとへ歩み寄った。
「あの男、いつもあんなカンジなん?」
挨拶もなしに直哉があごでしゃくり示したのは、高架下で立ち尽くす瀬古であった。足もとには両手両脚を広げた人間が横たわっている。しかし頭部はもちろん胸や腹に至るまで夥しい量の血液をその身にまとっていた。着ていた衣服は剥ぎ取られ、裂けた腹から拳ほどの肉片がはみ出ている。ダークブラウンの革靴が汚れるのも厭わず、瀬古は濃く闇を纏った地面のギリギリのところまで踏み込んでそこに立ち尽くしていた。顎に手を当て、ただ瞑目をしている。
本郷は鑑識を追い払いそれを一瞥すると、ああ、と向き直った。
「瀬古さんは事件の後遺症でほとんど目が見えないんだ」
「……見えない?」
ジャケットの胸もとに手を差し込もうとして、本郷は諦める。おそらく無意識にタバコでも探ろうとしたのだろう。「そうだ」と答え、今度はやってきたグレースーツの若者に指示を出した。どこかで見た顔だった。そいつは直哉を睨むとすぐに立ち去った。
「けど、あのオッサン、視えてたやろ」
残穢を見つけたのは瀬古であったはずだ。そのほかにも、彼はなにもかも見えている、という雰囲気で事を進めていたじゃないか。
「たしか、光と影は識別できるんだよ」
「光と影っつったって、どうこうできるモンとできないモンがあるやろ」
「そうだな。でも、人間の体っていうのは不思議なもので、一つ感覚器官が奪われると、その分を補完しようと他の感覚器官が驚異的な発達を遂げる」
瀬古は目を閉じたまま、なにかを感じているようだった。――風?
「まさかニオイとか言わへんよな」
「そのまさかだ。ニオイで残穢を嗅ぎ当てる。よくアンタらも言うだろ、呪力の残り香がどうたらって」
それは喩えの話だ。呪力自体を匂いで判別したことがないため実際にはわからないが、残穢は《残されし穢れ》であり、わずかな呪力がこぼれ落ちた残滓。それらは呪いと同じく視認するものである。
瀬古を見遣ると、その姿は精神統一のそれによく似ていた。初めて会った日、直哉を認識したのも、残穢を探り当てたのも、はたまたこのラクダ色のしょうもないブレザーを似合っていると言ったのも、すべて視覚以外の要素だったのか。
「つか、そんな人間がプロファイリングて」
大丈夫なん、そう言おうとして本郷は肩をすくめた。
「てっきり知ってると思ってたよ」
「興味ないねん、あのオッサンに」
「あ、そ。けど、瀬古さんの嗅覚は舐めると痛い目見るぞ」
肩に手を置いて本郷は耳打ちをする。
「あの件は内密で頼む」
――なるほど。
「アンタも食えない男やな」
「慎重って言ってくれ」
本郷はポケットから捜査用のグローブを身につけると遺体のもとへ歩み寄っていく。その後は追わず、直哉は辺りを見渡した。葦が生い茂る水際で、草をかき分け、一匹の警察犬が大きく吠えた。
「すみません、これから学校だというのに」
鑑識が河川敷一帯をくまなく捜査している。それを横目に瀬古は手を差し出し直哉に握手を求めた。土臭さと河原独特の青臭さの中にかすかな血液のにおいが混じっている。ナルミユウヤのものに比べると死亡からさほど時間が経っていないこと、また現場が屋外であることも相まってその臭気はマトモだった。
直哉は瀬古の握手を無論、ポケットに手を突っ込んだまま躱したあと、「そんで、どういうことなん」と不躾に切り出した。
「近くに落ちていた衣服やバッグなどの遺留品により、被害者は三十代、人材派遣会社勤務の女性と見られます」
答えたのは瀬古の隣にいる若い刑事、五十嵐だった。グレースーツに横を刈り上げた短髪。ナルミユウヤの現場で顔を合わせたあの新人風情の刑事だ。ふうんと直哉は興味なさげに相づちを打ち、赤い塊をカメラに収める鑑識の姿を眺めた。
「死亡推定時刻はおよそ数時間以内、まだ断定的ではないですが遺体の状態と遺留物から連続殺人犯の犯行とみて間違いないでしょう」
激しい頭部の損傷、腹部の裂傷、体腔から取り出された臓器や手足を大の字に広げた姿、それらは夏から続く三度の惨死体と同様だった。加えて、近くの草むらから見つかった血塗れのステンレスボトル。以前と違うのは、衣服は剥ぎ取られ、胸や腹のみならず全身に何百にも及ぶ切創痕や刺創痕がみられた。
「どういうことや、瀬古」
直哉はポケットから手を出し、おもむろに耳を掻いた。瀬古の隣にいた五十嵐が眉根を寄せる。それを瀬古が手で制した。
「私の負けです。これは、まったく新しい展開でした」
その手は小刻みに震えていた。瀬古はシルバーヘアを揺らし顎に手を当てる。
「直哉さん、すでに昨日の呪霊は祓除済みのはずですよね」
直哉はあくびを噛み殺し大義そうに答える。
「等級およそ準一級、人語を理解し結界術を操る。建設現場に立て込もって、男一人喰っとったわ」
窓から高専へ連絡があったのは、十八時。十九時十分、術師現着。二十時、祓除完了。――これは高専術師である七海建人の報告だ。皮膚を剥いだような体色に粘着質の肌、後頭部が異様に発達しそれは、たしかに篠宮翔が視認した呪霊の特徴と合致していた。
「今回の現場には残穢が残されていません。被害者も三十代、所持品より喫煙歴有りとわかっています」
珍しく瀬古は笑みを欠いていた。神妙な面持ちで、苦渋すら感じさせるような顔つきで、思考を巡らせているようだった。
「その上、呪霊の祓除後に殺された可能性が高いんやろ」
瀬古は静かにうなずく。
「呪霊が祓われたことにより我々が核心に迫るのを警戒し、捜査を攪乱するために犯行に及んだのか、それとも、もとよりこの計画であったのか」
「いずれにせよ被害者の周辺を探るのが先決だろうな」静観していた本郷が口にした。
「手ェ引くんじゃなかったん」直哉が意地悪く唇を捲り上げる。
「どっかの誰かさんがちんたらしてるんでね」本郷はふっと鼻で笑った。
ブツブツとなにかをつぶやく瀬古の背を眺めながら直哉は歩き出す。「あ、ちょっと勝手に……」五十嵐が反撥するように声を上げたが、無視をして遺体のすぐそばまで近寄った。ツンと血液と体液の混じりあった、なんとも言えないにおいがする。見れば見るほど非道い有様で、直視しているのも憚られるほどだった。
「こんなん見てたほうが呪われそうやわ」
手を合わせることもなく、ただ鑑識が連続してシャッターを切る姿を見下ろす。死体には慣れていた。彼にとっては道端の小石を見るのと同じようなことだった。だが、これはさすがに心地のいいものではない。何重にも切り刻まれた肉体、取り出された臓器、そしてそれすらも幾度となく切り裂かれている。体の中心に入った裂傷痕は鋭利な刃物で切ったというより、一度肉を貫きそこから手を突っ込んで引き裂いたそれだろう。これまでも傷口の形状はそうだったが、一段と皮膚組織の破壊が大きく、一連の犯行を遥かに凌駕する猟奇さと衝動性を感じさせる。
「禪院」呼んだのは本郷だった。「これから瀬古さんと捜査本部へ向かう。アンタは」
直哉は手を上げひらりと振った。
「エエわ。俺、学校あるし」
そうしてさっさと踵を返し、しれっとした顔で忙しなく動き回る現場を後にした。
それから直哉はタクシーを捕まえ都内のとあるカフェを訪れていた。
「ごめんなあ、七海君。昨日は大変やったやろ」
すでに高校へは遅刻が確定している。しかしそれに狼狽える男でもない。ライトグレーのスーツを纏い、文庫本を開いていたサラリーマン風情の男の前に直哉は断りを入れることなく腰を据えた。
通勤通学ラッシュを過ぎ、店内は穏やかな空気が流れている。ここからおそらく昼までの間、限られた人間たちの優雅なひとときでも始まるのだろう。大きく背もたれに体を預け、顎を突き出しなんとも尊大な態度で直哉は男を見遣る。
七海と呼ばれた彼は本を閉じることもなく、ただブリッジを中指で押し上げた。
「それほどでも。特別一級こそお忙しいのでは」
「特別一級やなんて、えらい他人行儀やなあ」
店員がやってきてメニューを差し出してくるが、直哉はそれを制して本論に切り込む。
「で、昨日はどうやった」
「どうもなにも報告のままですよ」
七海はページをめくる。やけにゆったりとした仕草であった。目の前にいる男など微塵も気にしていないというものであった。かすかに目を細め鼻で笑い、直哉は丸テーブルを指でトンと打つ。
「食えない奴やなあ、君も。ソイツ、人間食うヤツって聞いとったから、どんな様子で人間を食っとったか知りたい思たんやけど」
サングラス越しに、ようやく視線が上がった。切れ長の瞳が直哉を一瞥する。しかし、何事もなかったようにすぐにブリッジを押し上げた。
「ツマらない呪霊でしたよ。妙に口の達者なね」
「へえ、なにか言うてた?」
またひとつ、七海はページを捲る。
「邪魔をするな」
「いけずやなあ」
すかさず、直哉はしなを作るように言った。
「呪霊の残した言葉ですよ」
「ああそう」
七海は文庫本に視線を落としたまま、淡々と告げる。
「邪魔をするな、あと少しなんだ、そうしきりに口にしていました」
まるで、親の言葉を無意識のうちに覚えた子どものようじゃないか。
「……あと少し、ねえ」
トン、トン、韻律を刻む。七海はページを捲る。
「それと、昨日被害に遭った学生ですが、あなたの同級生のようですよ」
直哉は眉を上げた。「同級生、言うんは語弊があるな」
どうでもいいとばかりに七海はそれにとりあわず、スーツの胸元から一枚の写真を取り出した。
――S英館大学附属高等学校 二年C組 松崎奈津子
血濡れた学生証がそこには映っていた。
午前授業も終わり間際であった。今さら登校するのも無駄に思われたが、直哉はS英館大附属高校の正門をくぐった。駅へ向かう生徒がちらほらと視線を送ってくる。それもそうだろう、こんな時間に重役出勤もいいところだ。だが、注目を浴びているのはそれだけではなかった。
「おい、禪院その髪」
職員室に着くや増岡が眉を吊り上げる。ああ、と直哉は思ったが、ぐるりと見渡して今川香織がいないのを確認するとさっさと踵を返し階段をあがっていった。ちんたらと時間をかけていくのも面倒だと思い、術式を使用して四階へ。なぜだかわからないが、彼女がそこにいるのではないかと思ったのだ。
案の定、階段をのぼりきり奥の教室の前まで向かうと背を向けて彼女が座っているのが見えた。陽だまりの中にいた。正確には、陽だまりと影のあいだに佇んでいた。静けさに光が瞬く。そのすぐ隣で濃い影が華奢な肩を呑み込んでいく。かすかに、声がする。
それはたしか、一枚の壁越しに彼女の声を聞いたときのそれと似た韻律だった。時の流れが滞留する。世界から断絶される。扉にかかる影が揺らぐ。彼女の髪はほのかに金色に染まり、光にふれた先からほどけてしまいそうだった。声はつづく、上顎にかかるおだやかな音色……。やがて彼女は立ち上がる。窓辺に歩み寄り、光を遮るようにリネンのカーテンに手を伸ばす。
しかし、光が完全に遮られることはなく、彼女は光と闇のあわいを彷徨うように崩れていった。一瞬の出来事だった。
直哉は舌を打ち、勢いよく教科室のドアを開いた。
