第二幕 二

 学校というのは至極退屈だ。直哉が疾うに成人し元来そこは用済みだからというのもあるが、なにより彼が過ごしてきた人生に問題があるだろう。青い春とはかけ離れた、禪院家の男児として生をもうけた彼の宿命。なにもかも馬鹿馬鹿しいと撥ね除け、自己の世界を築いてきた直哉にとって、ありふれた、平和で、平穏な空間というのは、至極味気のないものでもあった。
 学校から一駅離れたホテルに寝起きし、気乗りしない制服をまとってこれまたサイアクな電車に乗って登校する。できる限り相手を刺激せず潜り込むためには、高校生になりすまさねばならなかった。何度舌打ちをしたことだろう。染めなおすのだけはなんだか癪だと髪の毛もスプレーで黒くし、ピアスも外す。そのほうがよほど面倒なのに、直哉は自分なりのスタンスを崩さない。たとえば今風にだらしなく着るのも、ダサいやろ、と自分の肉体に合う形でシャツやスラックスを身につけるが、スクールカバンはリュックがわりにして背負う。これで肩から行儀よく抱えでもしたら伊地知あたりがギョッとするところだが、彼らしさは決して失われない。そうして、学校へついたら教室へ向かう。
 鞄を置いた後は、話しかけられると面倒だからと仏頂面で携帯をいじっているか、教室から出て行くか。朝のHRは担任教諭のおもんない話、一時限目も二時限目もしょうもない授業。三、四もたいてい変わらない。
「――Elle est retrouvée!」
 なんとも眠気を誘う声だと直哉は思った。必修選択の第二外国語、さして興味もないフランス語を選択してしまった。そこに理由があったわけではない。ただ、言うならばあの気弱そうな女性教諭は楽そうだと思った。そして実際、楽だった。
「嫌いじゃないんだけどなぁ」
 今川香織の授業を受け終えた直哉は、スラックスのポケットに手を突っ込みリノリウムの廊下を進んでいた。前には数人の女子生徒、つい今さっき同じ空間で授業を受けていた生徒たちだ。なんとも歩くのが遅く、その牛歩のようなペースに背を蹴飛ばしたくなる。
 彼女たちが話しているのは、「今川香織」のことらしい。ひとりの少女が、「チョー眠い」とだらしのない声で続けた。
「すっごくいい先生って、奈津子から聞いてたからわざわざスペ語から変えたんだけどォ」
 それよりその馬鹿そうなしゃべり方やめたほうがええで。そんなことを思いながらしらじらとした面持ちで直哉はあくびを噛み殺す。
「ま、ジッサイいい先生じゃん?」
「たしかに、だるくなくて、〝いいセンセイ〟には変わりないわ」
 やいのやいのとかまびすしい女どもや。鳥でもあるましいし。とはいえ、実際、眠くなる声だった。子守唄と言えばいいか、こめかみを貫く担任の増岡の声とはちがい、吐息を洩らすような淡々とした声。鼻に抜けるややハスキーな声帯をしていると思ったが、授業中のそれはもっと顕著だった。
 ピアノの鍵盤の限られた音階のみを、ポーン、ポーンと至極ゆったりとした韻律で叩くのに似ている。ポーン、ポーン、その音は、吐息は、あっけなく午前のまどろみにほどけていく。言っていることなど、そのほとんどが入ってこない。彼女とて、それを受け容れているのだろう。滔々と、ただ透明でしかしとろりと溶けては熱をかすかに残す、そんな声で詩を紡ぐ。どうでもよかった。ただ、キーキーと喚く猿よりかは何倍もマシだった。
 その後の授業は体育だった。こんなことまでせんといかんのかい、などと直哉は思いながら伊地知潔高から受け取った指定ジャージに着替えグラウンドへ出た。
 季節は冬に近づいている。寒い寒いと体を縮こめる女子生徒や群れをなす男ども。その中で直哉はグラウンドに引かれた白線の向こうに立ち、眼だけで辺りを窺っていた。
 陸上用のトラックと中央には人工芝が敷かれ、ラグビーのゴールポストが立っている。さすがは私大附属といったところか。グラウンドを越えた先には部室棟やテニスコートが見える。そこからさらに視線を動かし反対にあるA校舎へ。その面持ちは次に待ち構える季節を感じさせるほど冷え切っていた。凍てついた湖面のような眼でさえあった。まともにコミュニケーションをとらないこともあり、彼に話かけようとする人間も初日以降は波のようにスッと引いていった。今も勇気ある人間は名乗り出てこないらしい。直哉はスニーカーでトラックを踏みしめ、白亜の校舎に目を細める。
 川の字状に建ち並ぶ高等部の校舎のうち、ホームルームのあるA校舎がこのグラウンドに面していた。その四階部分、壁伝いに一匹の異形の姿を視認する。学校は呪いの坩堝だ。想い出が集積する場所は自ずと受け皿になりやすい。羞恥、辛酸、後悔、侮蔑、あらゆる負の感情が集まってくるとされる。
 だるい授業、だるい校則、だるい教師にだるい人間関係。たしかに、こんなしょうもない毎日やったらだれかを呪いたくもなるわ。直哉は心中吐き捨てる。しかし、その間にものんきに弾んだ声が背後から飛んでくる。
「お気楽でええな」
 やれテレビがどうだ、音楽がどうだ、男と女がどうだ――……。馬鹿馬鹿しい。そんなことを思いながら、直哉は外壁にへばりついている呪霊を鼻で笑うと、ジャージのポケットに手を突っ込んで背を向けた。
 その姿をひとりの男子生徒が遠巻きに眺めていたとは、知らずに。

 来月に控えたマラソン大会の予行と称し、トラックを何周も走らされたあとは、無論授業を受ける気にはならず、直哉は適当に捕まえた女子生徒に保健室に行くと言って校内を徘徊していた。
 すでに高校の隅々に渡るまでを探ってはみたものの、手がかりになるものはひとつもなく、呪霊が狙うものがなんなのかは、いまだ闇に包まれたままであった。職員の出入りがあるB校舎は避け、外を回る形でC校舎へ。特別教室が多い棟ともあり、ちらほらと教師の張り上げる声は聞こえるものの、どちらかというとひっそりしている。
 階段をあがり四階へ、さらにその先屋上への扉は南京錠がついている。力で壊すのは造作もないことだが、「あまり波風は立てないようにしてください」と胃痛持ちの顔をした男の姿を思い起こして舌打ちを拵えた。与えられたはずの自由だが、体に纏わりつくジャケットやスラックスがまるで鎖のようだった。半ばちぎるようにボタンを外し、直哉はだらしなくネクタイまで緩めると、ふとある姿が飛び込んできた。
 空を隔てた先、あの女教師が佇んでいる。
 ――どこに? 陽だまりの中に。
 目映いクリーム色のしかしやわらかな光の中に。
 うつむいた彼女の頬に髪がかかる。淡くほのかに瞬いている。桃色の唇が、なにかをかたどる。指先が追いかける。光がさんざめく。目の裏まで金色に染まりそうないろだった。彼女がみじろぐ。その動きから、眼が離せない。

 堅苦しいブレザージャケットを脱ぎ、ネクタイを抜き去ったところでジーッという耳障りな音が響いた。おもむろに立ち上がり、歩きながらカッターシャツまでもをダブルサイズのベッドへ放ると直哉は勢いよくノブを引いた。
「なんやねん、もう業務終了なんやけど」
 向こうに立っていたのは、黒いスーツに眼鏡――高専補助監督の伊地知であった。
「おやすみのところ申し訳ないです。ただ、ようやく件の事件現場への立ち入り許可が出たものですから」
 直哉はなんとも重々しく骨を鳴らして首を捻った。
「へえ、工場と、なんやっけ」
「ビルの二階、空きテナントです。以前は通信販売の事務所やネイルサロン等が入っておりましたが、二年前に一度不審死があり、以降貸し出しはされておりません」
「いかにもな場所やな」
 現在もその二箇所は立ち入り禁止となっており関係者以外は中を見ることができなかったのだという。すでに跡を消し整えられてはいるだろうが、とにかく行ってみる価値はあるだろう。
「五分したら下行くわ、車回しとき」
 返事を聞く前に扉を閉めると、クローゼットにかけてあった着物と袴を取り出した。
 ホテルから三十分ほど車を走らせところに一つ目の現場はあった。千葉の県境にほど近い工場地帯、昔は自動車の部品を作っていたが、不況のあおりを受け会社が倒産、現在は廃工場となっている。解体の予定も立っていたがその矢先に件の事件で計画が頓挫した。
 涅色に昏れた辺りに灰褐色のコンクリートの塊がぬっと現れる。まさしく、といった様子であった。
「で、そっちの調べはどうなん」
 警備にあたっている警官の視線は、闇に紛れた虫螻を見つけようとする眼だった。だがそんなものはどうでもいい。直哉は、彼が不承不承にも持ち上げた立ち入り禁止線を堂々とくぐりながら伊地知に訊ねた。
「それが、なかなか警察も口が固く」
「なんやねん、そら。向こうから渡してきたんやろ」
「ええ、ですが、残念ながら捜査上の情報は不自然な形で規制されているようで」
 雑草が生い茂っていた。長らく手入れがされていないのだろう。袴の裾から入り込むそれを疎ましく思いながら、直哉はさっさと突き進んでいた。明かりは背後の男が持つ懐中電灯と、警官のいた場所に立つ街灯のみ。薄明かりの中、足元で黒い影が横切る。大方ネズミだろう。それを蹴飛ばすように踏み込み、直哉は主工場の敷居をまたぐ。
「しっかし、なんや、俺らに見られたないもんでもあるみたいやな」
 想像よりも現場は雑然としていた。遺体はすでに除去されているものの、地面にはみごとな黒い痕が遺っている。かすかに腐ったにおいがするのは気のせいか。
「どんだけ嫌われてんねん、おたくら」
 たしかに、一般的に言えば機密事項があるのは普通だ。だが、捜査の権限が高専側に移る以上、仔細に至るまで情報を回すのが筋でもある。あくまで、事件を解決したい場合の話だが。直哉は背を向けたまま伊地知の前に手を差し出す。
「あまり我々にいい顔をしない人間も多いことはたしかです」彼はその手に懐中電灯を渡した。そうやろうな、直哉はそう口にしながら遺体発見現場となった工場内を八の字にゆっくりと照らした。
「数年前から手厳しくなったみたいやし、キミの先輩のせいで」
「…………」
 伊地知はなにも言わなかった。言えなかったのかはわからない。直哉はそれすらも興味なさげに天井、壁、地面をそれぞれ暗闇に浮かびあがらせる。
「なんの変哲もない廃屋やな」
 置かれていた機械なども撤去され中はがらんどうだった。トタンの壁やアルミサッシの窓が剥がれかけ棄て去られた遺構としての役割を果たしている。今どき、サスペンスドラマでも、これほどまでにそれらしい場所で犯行に及ばないだろう。
「事件発覚当時、御遺体は工場中央に横たえられていました。四肢を広げ、まるでそれはなにかを請い、待ち侘びるような光景だったと言います」
 地面には確かにその痕跡があった。腕や足を放り出した人間の影、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵にそんなのがあっただろう。
「ですが、頭部は割られ、複数回に及び切り刻まれ、抉られ、内臓の一部は工場を出て隣の旧事務所の流し台やトイレ、それから数百メートル離れた林の中などに遺棄されました」
 ライトに照らされ、影の上に小さな蛆虫がたかっているのが見えた。直哉は口の中にあの悪臭が蘇るのを感じ、たちまち目を眇めた。
「見つけた人間は」
「解体業者です。現場視察のため朝十時ごろここへやってきた際、異臭がすることに気づき、工場内をのぞいたところ御遺体を発見、通報までには、五分とかかっておりません」
 なんて災難な人間だろう。トラックに轢かれるほうがまだ確率は高いにちがいない。ご愁傷様やな、と吐き捨て袴を翻す。
「死因は」
「頭部を著しく損傷したことによるとの見解です」
「頭から喰われたんか」
 直哉は鼻で笑う。
「おそらく。ただ、夏場であったこと、御遺体の損傷が激しかったこと、また死後数日を経過していたことから、ずいぶんと芳しい状態だったそうで、もしかすると真実は異なるかもしれません」
 最悪やな、と直哉は吐き捨てた。
「で、容疑者は上がってこやんかったんか」
 気乗りはしなかったが、死体が横たわっていたであろう箇所まで歩み寄った。気配と光に逃げ惑う虫螻たちを一瞥し、それから再度工場内を見渡す。
「ええ」と伊地知は答えた。「元工場所有会社、また解体業者の社員、繋がる場所は手当たり次第当たったようですが結局、捜査線上にはあがらず。目撃者もなく、指紋、髪の毛、足跡、容疑者をかたどる一切の手がかりすら見つからず、鑑識もお手上げ状態。姿のまったく見えないことから、《影に溶けた殺人鬼》と呼ばれていたそうです」
 こんな、それらしい場所で人を殺すのだ、しかも、人の出入りが予測されるような場所。死亡から発見まではおよそ二日。解体業者と土地所有者の打ち合わせと視察のあいだを見計らうようにして事件は起きた。犯行に及んだのが人間ならば、よほど周到に計画を練っていたと言える。見つかることを畏れず、むしろ殺人を見せつけることを意識した舞台設定。しかし、なにひとつ残らぬ証拠。完全犯罪に自信があったにちがいない。
「影に溶けた殺人鬼ねえ」手首を捻る。「ま、呪霊のしわざってことなら言い得て妙やな」
 直哉は天井を照らした。その瞬間、異形の影が眼を光らせ残像を遺しながら飛び込んできた。
「それで、向こうが警戒しとんのは、俺らみたいな人間が裏で手を引いてると思っとるからやろ」
 しかし一瞬で其れは弾けた。影から出づる影がまたしても其処に還っていく。伊地知がうしろで、ええ、とうなずいた。
「視えない人間にとっては、視える人間こそが脅威ですから」
「皮肉やなあ、結局、俺らに頼らなあかんなんて」
 直哉は白懐中電灯を後方へ放り投げた。放物線を描いた光がやがて一点に収まった。
「次の場所も似たようなモンやろ? 時間の無駄やし、ホテル戻るわ」
 帰りもあの警官から同じ視線を浴びせられたが、せせら笑うように一蹴し、直哉はさっさと禁止線をくぐって闇に消えていった。