時期外れの転校生が来ると聞いたのは、月曜の朝のことであった。熱を削いだ風が色づき始めた木々を揺らす。すがすがしい気持ちで一週間のスタートを切る予定が、とんだ誤算が舞い込んできたものだ。普段であれば短くとも一か月前、早ければ数か月前にはその報せを受け、前校からの書類一覧が届くはずなのだが、今回それはおろか氏名すら知らされず、教頭ですら困惑する中、「二学年に所属しますのでよろしくお願いします」と校長は淡々と言い切り朝の職員会議を終えた。
「困るよなあ、いきなり」はす向かいの男性教諭が出席簿片手にぼやく。
「増岡先生のクラスなんですか?」
「ええ、朝来ていきなり呼び出されたんですよ。なにかと思ったらこれです」
はあとため息をついて立ち上がる。クラス担任を受け持つ教員は休む間もなく朝のHRに向かわなければならない。大変だな、と思いながらジャージ姿の背中を見送り、香織は手元の白黒写真を眺めた。
「……禪院直哉」
コピーされたその写真はうわさの転校生のもの。《取扱注意》の赤い判が押され、その生徒の来歴が簡単に記してある。
「私立京都J学園高等学校……京都からなんだ」
高校生にしては大人びている顔立ち。涼やかな目もとは、きりりというかは鋭すぎる。二年I組の増岡級に転入となれば、授業を受け持つ可能性もある。どうにか、問題がなければいい、そう願いながら香織は小さく息をつく。
今川香織はこのS英館大附属高校の外国語教諭だ。同大学の外国語学部を卒業後、都内の私立女子中学で一年間英語科の非常勤講師を勤めたのち、採用試験を受け現任校の専任教諭となった。教師になって数年、現在は自身の専攻であるフランス語を中心に高校生たちに教えている。ここを第二の就職先に選んだのもそれが所以だった。
英語に特化した私学であればこのご時世山ほどあるが、ミッション系をのぞき第二外国語を扱っている中高は指折り数えられる程度に少ない。便宜上、大学では英語の教員免許も取得したが、第一志望はフランス語教諭だった。だから、いまだに慣れないことも多いが、それでも念願たって希望教科の教鞭をとれる日々はおよそ充実していると言えた。
ここS英館大附属高校では、スイス・ジュネーヴでの実例をもとに多言語教育に力を入れている。英語、フランス語のみならず、中国語、スペイン語、ドイツ語、韓国語が選択科目で選べ、且つ、二年生まで必修だ。三年次も希望者は特別クラスを受講できる。
昨今、英語教育が多く取り沙汰されるが、日本を出た先ではさらに世界は進んでおり、多言語教育による多角的思考や多角的言語力の涵養、多文化共生を目指す国際理解の促進が注目されている。あるいは、英語画一社会への異論か。とにかく、それらを目指し日本の先進的多言語教育推進校として、このS英館大附属高校は豊富な第二外国語選択を売りにしていた。
各教科その言語の母語話者が所属しており、さらには外国人教師ないし講師たちは総じてネイティブ並みの英語話者かつ正式なTEASOL――英語を母国語としない人々に英語授業を行うための資格保有者でもあるため、英語講師も兼任しているのがこの学校での複雑なカリキュラムを現実にしている秘訣である。
そんなハイスペックな人間たちが勢ぞろいする中、なぜ平凡な自分がこの学校の教職につけたかというのは、いまだに香織が不思議に思っていることのひとつだ。ただ、彼女にとってここが出身大学の附属高であり、所属していたゼミの担当教授が多言語教育推進に関わっている主要人物であったことも理由の根底にはあるのだろう。
月曜の一時限目は空きコマとあってか比較的ゆっくり朝を過ごせる。慌ただしく出入りする同僚たちを横目にダージリンを淹れ、香織は教務便覧を開く。
香織が受けもっているのは、一年生の「英文法」という全体必修科目と必修選択の「フランス語Ⅰ」、二年生の「フランス語精読」だ。文法や演習を主とするのが「フランス語Ⅰ・Ⅱ」、文章をもとにフランス語の解釈や多角的思考の素地を養うのが「フランス語精読」。それぞれ外国人教諭と手分けして担当していた。
そのうち、月曜は一年生の「英文法」の授業からだ。一日に担当するクラスは平均して三つから四つ。教務主任が頭を必死に捻って考え出した時間割は、できるだけ偏りのないようにと組まれているが、香織にとっては月曜が「緩い」皺寄せか、週半ばの水曜日が魔の一日だった。朝から四限目まで休むまもなく授業、それから昼休みを終えてまたひとつ。その後、七限までは空きだが仏語科の教科会議がある。
まだ月曜日ではあるものの、二日後を思うと気が遠くなる。ダージリンを淹れたこの瞬間から、水曜日を乗り越えるためには勝負が始まっているのだ。目の前に生徒がいる。生徒たちの「いのちの時間」をもらって授業をしている。これは香織の恩師の言葉だが、そう思うとたかが四十五分、されど四十五分、ひとつの授業も気を抜けない。香織にとって毎日が闘いだった。
教務便覧にて授業予定を確認したあとは授業準備だ。これから三十分後には一年生の授業がある。一学期は主に中学の復習だったのが、今学期からは動名詞や不定詞の応用、さらには関係副詞といった生徒にとってはある種難関分野に突入するため工夫を凝らさねばならない。マグカップを端へよけて、テキストとノートを開き、香織は脳内で授業を組み立ていく。だが、脳裡にちらついたのはあの転校生のことだった。
禪院直哉――禪院、めずらしい名字。直哉という名前は、彼にとても似合っている気がする。……まだ一度も顔を合わせたことがないのに。
もしかすると、この先も関わることはないかもしれない。香織も学年としては二学年に所属しているが、担任はもっていない。もし彼がフランス語を選択しなければ、ほぼ関わりがなくなるだろう。だというのに、ボールペンを持つ手を止めて香織は彼のことを考えていた。それから、気がつけばノートの端に「禪院直哉」とペンを走らせていた。
禪院直哉……禪の字がむずかしい。ローマ字にすると、途中にアポストロフが必要ね。でも、なんだか日本らしくて格好いい名前。直哉、なおや、なおや……。
しかし、はたと我にかえると、香織は慌ててそこを手で切り取り、デスクの引き出しにしまいこんだ。
