思わぬところで転校生との邂逅は訪れた。大学側のカフェテリアで昼食をとったあと、C校舎から仏語科教科室のあるB校舎へと向かうところだった。
上からおりてきた彼はどうやらだれかと電話をしていたらしい。香織を見るやおどおどすることもなくさっさと携帯をしまいこんだ様は、いつも目にしている生徒たちよりかはるかに大人びているように思えた。
その日の放課後、部活動から抜けてきたI組担任の増岡に香織は訊ねた。
「転校生、どうでしたか」
ああ、と増岡はペン立てに立ててあったうちわをあおぎながら答える。
「禪院ね、なんか妙な子でしたね。掴みづらいっていうか、なんというか」
隣から数学科の教員が話に入ってくる。「僕の授業、すっごいツマらなさそうに受けてましたよ」
「本当ですか、すみません。ちょっと禪院に言っときます」
「いや、いや、あの子京都のJ学からでしょ? 今の単元はもしかすると彼には合ってないのかも。あそこはそれなりに進学校だしね」
反応は香織の想像からはおおよそズレてないようにも思えた。写真からも実際の姿からもどこか浮世離れしてみえる印象は、良くも悪くも近寄りがたい。女子生徒たちは早速彼のことをうわさしているようだが、「気だるげだけど、ふとした瞬間に笑ってくれた顔がかっこよかった」とかなんとか、教師の抱くそれとは方向性が異なる。
――おおきに、そう言った彼の声は整った声だと思った。だが、その前、階段の奥から聞こえてきた声は、なんとも低く心臓を紙ヤスリで削られるような心地の声だった。
つい声をかけてしまったけれど、余計だったかもしれない。
「でも、どうかしました? 今川先生?」
はたと顔をあげる。「……いえ、もし彼が仏語をとるのなら関わることになるし、どんな子かなと思っただけです」
ありがとうございます、と告げて、授業日誌に進度を書き込む。三文字書いたところで間違えてしまった。修正ペンを取り出そうと引き出しを引くと、「禪院直哉」と書かれた紙切れが出てきた。香織はそれを指先でつまんで、落とさないよう手帳のポケットに挟んで仕事を再開させた。
翌日は朝からフランス語精読の授業だった。精読という名のとおり、フランス語のテキストを読み込む授業で、今はサン=テグジュペリの「Le Petit Prince」の一節を読んでいる。AコースBコースに分かれるが、香織が教えているのは主にBコースの生徒たち。初級から中級、仏語検定にすると三級から準二級取得を目指すコースだ。一年から学んできたともあり、多少なりとも生徒たちはフランス語に慣れ親しんできている。そのやわらかな響きから憧れて学び始める生徒も多く、とくに女子に人気だった。
たしかに香織にとってもそうだったように、フランスは華やかな夢の都だ。その国で話される言語も夢のような言葉だった。たかが選択授業、されど選択授業。英語ではない他の言語を学ぶというのは、グローバル化の進む現代において、その言語のもつ文化や背景を知るのに最も適していると言っても過言ではない。
砂漠に不時着した小さな王子と「ぼく」が夕日について語る言葉を紡ぎながら、香織は教室を見渡す。一年生の英文法の授業に比べると少ない生徒数。朝の陽光に包まれ微睡んでいる姿もちらほら。申し訳ない、そんな気持ちも抱く。それでも、すこしだけ安堵する。
……ごめんね。なにに謝っているのか。しかし、それすらも心の奥底にしまいこむように香織は目をふせる。ノートをめくり、次の演習へ移る準備をした。
「今川先生」
二コマ続いて選択科目の授業を終えたあと、職員室へ戻るさなか教務主任に呼び止められた。テキストを落とさぬよう抱え向き直った香織に、「これ」と彼は書類を渡してきた。
「例の転校生に渡しておいてほしいんだけど」
「私が、ですか」
「そう。増岡先生より、先生のほうが外国語の必修選択は詳しいでしょ? 明日I組は第二外国語の授業があるから、それまでには決められなくても説明だけはしておいて」
明らかに通りかかったから、という裏が透けて見えなくもなかったが、香織は大人しくうなずいた。四月に配布されたものと同じ、第二外国語の選択希望用紙と教材にかかる費用一覧。転校前に決める時間もなかったからギリギリになってしまったのだろう。「明日は希望科目をそれぞれ見学するのでもいいから、よろしくね」とひと言残して、彼はさっさとその場から立ち去る。待ってと告げる暇もなかった。
「私が、いくんだ……」
構わない、構わないのだけれど、すこし緊張する。初対面が特別だっただけで、あの独特な雰囲気を前にすると、ふつうに振る舞うことが難しい気がした。生徒相手に情けないと思うも、これは香織の性分でもあり、特に彼に対してはもっともなことのようにも思えた。だが、よしと心を決めると二年生の教室があるA校舎へと急いだ。
二年生のエリアは三階にある。一階には授業に使用する特別教室、二階が三年、四階が一年という並びだ。階段をあがっていくうちに賑やかさが増し、そっと視線を外側へ向けながら廊下を進む。こんにちは、と声をかけてくる声もあれば、視線すら向けない生徒もいる。香織は丁寧に挨拶をかえし、最奥の教室へ。
中休みともあり、教室内は緩んだ空気だった。コン、とノックをひとつ中をのぞくと、窓際の後列に彼が座っていた。頬杖をついて窓の向こうを眺めている。透明な壁を隔てたようにそこだけが別世界に見える。
「どうしたの、先生」
手前の生徒が気を遣って声をかけてくれる。「篠宮くん、禪院くんに用があって」と言うと、彼はおもむろに立ち上がりうしろを向いて、「禪院、先生が呼んでる!」と大きな声で言った。騒がしかった教室が一瞬静まりかえる。香織は思わず息を止める。
転校生は気だるげに陽光をまとってふり向いた。たった一瞬だったが、それは何十秒もかけて行われた動作のように思えた。胡乱な顔をしたものの、彼は従順にも立ち上がりこちらへ向かってきた。
「休んでいるところ、ごめんなさい。第二外国語の選択授業について渡したいものがあってきたの」
教室からすぐ隣の多目的スペースに移動し、彼が口を開く前に香織は矢継ぎ早に切り出した。
「明日の時間割に選択科目って記載があるでしょう。そこで第二外国語の授業を行うの。前の学校はもしかするとなかったかもしれないけど、二年生は必修で一つ選ばないといけなくて」
彼はうんともすんとも言わず、手渡した紙を睨んでいた。――いや、それがふつうの彼の視線だったのかもしれない。
「選択肢は全部で五つ、中国語、韓国語、スペイン語……」
「選ばなあかん?」
低い声だった。まるで心臓を揺るがすような、深い胡弓の音色だった。えっと、と言葉を詰まらせた香織に、彼はおもむろに視線をあげた。薄い黄褐色の瞳が、まるで見たこともないような宝石のいろが、彼女をまっすぐ射貫いた。
「……そうね。もし選べないなら、明日実際に見学してみてもいいって教務の先生がおっしゃってた。ええと、フランス語なら今こんなことをしているの」
慌ててテキストを取りだす。しかし、指先が震えて腕の間から取りこぼしてしまった。ああなんてことを、思いながら拾い上げる。
「先生ェのクラスでええわ」声が落ちてきた。え? と慌てて上体を起こし瞠目すると、彼は感情を削いだ顔のまま、「フランス語」と続けた。
「アンタなんやろ、担当」
「ええ。でも、その、もう少し考えてもいいのよ。私はうれしいけど」
そこでチャイムが鳴ってしまった。生徒たちが教室へ蜘蛛の巣を散らしたように戻っていく。「ほなそういうことで」と彼は言うと、軽く眉を上げて教室へ背を向け階段へ歩き出した。
「禪院くん、次、授業!」
はっと我にかえった時には、彼はすでに階段から消えたあとだった。
