午前授業の土曜日は、一年生の英文法が二コマあるだけで一週間を締めくくるには最適な一日だ。金曜日は研究日であり、さらには次の日が休みともなると気持ち的にも授業準備的にも余裕がある。
通勤通学ラッシュが始まる前の電車に乗って学校へ向かうと、すでに野球部や陸上部などの運動部が朝練をしている声が響いていた。すっかり乾いた木枯らしを頬に受けながら、それでも気持ち朗らかに職員玄関へ向かう。そうしてすれ違う生徒や同僚と挨拶をかわし、優雅に一日のルーティーンを始めるはずであった。
香織は電気ポットに水を汲み、プラグを挿したところで茫然と自分の指先を眺めていた。トップコートの剥がれかかった爪は、形だけは整えているもののなんとも飾り気もなく安い印象だった。これが真っ赤なネイルを塗っていたら、少しでも強気でいられたのか。
――好きやで。脳裡に反芻するのは低くゆったりとした韻律。普段耳にしているような男子高校生のそれよりも粒が揃っていて、メロウで、それでいて心臓の裏をそっと逆撫でするような不思議な音色。ジョルジュ・サンドに愛を紡ぐミュッセのようなやさしさがあった。しかし、それとはうらはらに、無骨さと、厭世的な音と、ミュッセとは対比的な冷たさがそこには隠されていた。
ある種、詩を朗読するにはうってつけだろう。たとえばそれは、ボードレールとか、ランボーとか。淡々とした硬質な冷たさの奥底に、烈しい激情が睡る。あんな場面でなければ聴いてみたいと思ったかもしれない。ただ、そんな余裕はなかった。揶揄われている、と思った。とんでもない子だ、悪魔だ、それを耳にしてしまえば最後、心臓をとられてしまう。戸惑いと動揺が優っていた。だが、どこまでも脳髄を侵すような声だった。精悍に細められた眼は鋭く、鋭いほどに私を射貫き……「――先生!」
はっとして香織は手にしていたマグカップを落としてしまった。重々しい音がして床に転がったそれを、横から手が伸びてきて拾い上げた。
「大丈夫ですか?」
増岡だった。朝練から戻ってきたのだろう、陸上部のジャージ姿で、立ち尽くす香織を上体を丸めて覗き込んでいた。
「……すみません、ちょっと考えごとをしていて」
「お湯入れる前でよかったですね、危うく大火傷するところでしたよ」
マグカップを差し出し無惨にも床に放り出されてしまった紅茶のティーバッグを拾いすぐ横のゴミ箱に捨てる。香織はカップを受け取りもう一度頭をさげた。
「そういえば、昨日の■■区の事件ニュース見ました?」
インスタントコーヒーの封を切りながら増岡は言う。香織も新たにティーバッグを取り出して今度こそ紅茶を淹れようとポットの湯が沸くのを待った。
「ええ、学生とサラリーマンが通り魔に遭ったっていう」
「そうそう、それ。実はね……」
コオオ――やけに煮沸音が響き渡っていた。
「では、今から五分後にAの答え合わせをします。それまで各自進めてください。わからないことがあれば質問してください」
紙を擦る音がする。シャープペンシルをノックする音が響き、やがて紙面を滑り出す音がする。香織は静けさに身を投じ、震える指先を握りしめていた。現在は一年生の英文法の授業。今日の総まとめとして演習問題を行なう時間であった。タイマーはすでに一秒、二秒と時を刻む。生徒たちは一心不乱に机に向かい、並んだいくつもの問題を解き明かしていく。ありふれた風声。いつもの景色。しかし耳鳴りが酷かった。目の奥がぐらぐらと不安定で教卓に視線を落とすのがやっとだった。
こんなことではいけない。こんなことはあってはならない。私は教師だ。今は、授業中だ。心の中で繰り返すも、プリントの文字がかすむ。世界がゆっくりと回転する。深呼吸をひとつ、瞑目して十、ゆっくりと数える。そうして、教室を見渡した。まろやかな秋の陽射しに生徒たちの髪が瞬く。アイボリーの机に、プリントに、ペンを持つ手に、小さく陽だまりができる。影がかすかに身じろいでいる。顔をあげたその子の頬が、薄く桃色に染まり、まあるい瞳がやわく弛む。
――せんせい。
血潮が駆け巡るようだった。あの子が生きていたころ、あの日のあのままの風景がそこにあるかのようだった。風そよぎ、亜麻色の髪が揺れる。瞳に光が散り、きらきらと輝く。薄紅色の唇が、わたしをかたどる。
「先生」
呼び声に現実に戻る。朝練で声を張りすぎたのだろう、しわがれた声の野球部の少年が腕を天に伸ばしていた。香織は笑みをつくり、「今、行きます」と教卓を離れた。
授業を終えたあとは職員室へ戻らずB校舎四階の仏語科教科室へ向かった。この時間、ジョアンナや他の教員は授業がありここを訪れることはない。職員室よりも、学食よりも、どこよりも一人になれる場所であった。香織はあの日を思い出すと必ず一人になりたがった。あの日、というより、あの日々といったほうがいいかもしれない。香織に教師としての鮮烈なまでの光を抱かせたあの日々。甘く輝かしく、弾ける炭酸水のような爽快な気持ちを抱かせたあの日々。またひとつまたひとつと英語が、フランス語が、だれかの未来を守り、そしてそこへ歩むその背を押し、支え、見守る。それが、好きでたまらなくなっていったあの日々。香織の未来もまた、きらびやかであったはずだった。
――先生。
――せんせい。
――かおりせんせい、あのね。
香織は教科室に入り、会議などで使用する窓際の長机に着くと、茫然と四角く切り取られた陽だまりを目でなぞった。午前中の光は透きとおったシロップのような光だった。うつくして、とろりとしていて、はかなく、あまやかだ。それをすくうように、指先で光の輪郭をたどった。
Elle est debout sur mes paupières
Et ses cheveux sont dans les miens,
Elle a la forme de mes mains,
Elle a la couleur de mes yeux,
Elle s’engloutit dans mon ombre
Comme une pierre sur le ciel.
影が落ちる。光の中で、影が溶け合う。
――わたし、今は生きてることが、たのしい。
「Elle est debout sur mes paupières…」
――せんせい、ありがとう。
あの子の目が、私の目に突き刺さる……。
