休み明けだというのに、全く休んだ心地がしなかった。埼玉まで遠出して受けた研修のせいもあるが、夜中まで悶々と考えごとをしてしまい、うまく寝付けなかったのもあるだろう。研修から帰る道すがら、突然現れた彼。いつものキャメル色の制服ではなく、立派な和装ははっと息を奪うような立ち姿だった。織りのきめ細やかな着物に艶やかな袴、鋭い瞳が彼女の眼を貫いたのを忘れられない。混じりあった影の中で触れた唇、彼のにおい、手の温もり、全てが鮮明に残っていた。だが、それらを振り切るように香織はブラックコーヒーに口をつけた。
いつもならば紅茶を淹れるが、覚醒の願いを込めてとびきり濃いのを淹れた。苦くて思わず眉根を寄せたものの、そのまま朝のルーティーンに戻った。マグカップを倒さぬようきちんとコースターへのせ、テキストとノートを開く。月曜日は二限から授業だった。自分で何度も試行錯誤を重ねた授業案を睨んでいると、チャイムが鳴った。朝のHR終了の合図だった。教室へ向かった教員たちが戻ってくる。一人、二人、にこやかに迎え入れ、I組担任の増岡が香織の前に立った。否や、彼はため息がちに電話機に手を掛けた。しばらくしても彼は話し出さない。
「どうかしました」浮かない顔の増岡に話しかける。
「禪院ですよ。今日もサボりみたいで」
その名前に皮膚が疼いた。だが、平静を装い、そうですか、と相づちを打った。
「土曜もたしか、四限の終わりに顔を出したんですよね」
「そうです。しかも金髪にピアス! いくらウチが他の私立に比べ校則が緩いとはいえ、あれは許せない」
話が脱線したが、直哉だ。転校してまだ一週間、すでに彼はいわゆる「問題児」であった。増岡は受話器を耳と肩で挟んだ状態で、フックボタンを押す。増岡は酷く気を揉んでいるようだったが、香織はどこかほっとしていた。そんなこと、あってはならないと思いつつ、彼と顔を合わせるのが気まずかった。
「出ないですか」受話器を置いた増岡に隣の数学教師が声をかける。
「出ないですね。最初から、ずっとこうなんですよ。授業を脱け出してふらついてることが多いじゃないですか、だから家庭での様子をうかがおうと思っても、一向に通じなくて」
「ご両親、忙しい人だっけ。彼、良家のお坊ちゃんって聞いたけど」
妙に胸騒ぎがする。それはなぜか、考えると居てもたってもいられなくなり、香織は口の中の渇きが気になって仕方なくなった。苦いコーヒーに口をつけた。一限目の予鈴が鳴る。
「もし見かけたら、休み時間、僕のところに来るよう伝えてください」
矢継ぎ早に伝え、あわただしくジャージを羽織った増岡に、香織ははいと返事をした。ばたばたと去っていく同僚たちの背を見送りながら、香織は目の奥がツンとしてきつく瞑目した。夜更かしがたたっている。
目頭をおさえ、香織は深く息を吐いた。呼吸のたび、心臓がいらぬ動きを付け加えそうになって、両手で顔を覆った。
「だいじょうぶ? 今川先生」
どこかメランコリーな響きのある声に、香織ははっと顔をあげる。
「すみません、大丈夫です」視線の先には、養護教諭である平田が立っていた。職員室のコピー機を利用しに来たのだろう、白衣を着た彼女の手には書類が握られいる。
「このあいだの今日だから、ムリをしちゃだめよ」
香織は眉をさげた。「そうですね、気を付けます」礼を告げるべく頭を下げようとすると、「待って」と平田は白衣のポケットへ手を差し込んだ。
「これ、期間限定だからって大人買いしちゃったのよ」
デスクまで歩み寄り、差し出してきたのは個包装のチョコレートだった。秋冬になると必ず出てくる商品で、香織もよく手に取っていた。
「ありがとうございます、もう出てたんですね」
「そうそう、駅前のコンビニでね」
へえと相づちを打ちながら再度礼を告げ、香織は手のひらでそれを受け取る。
「それで、浮かない顔をしていたけど、それって例の転校生のこと?」
思わずチョコレートを落としそうになって、香織はあっと声をあげた。彼女は形好い唇を愉しげに薄くした。
「そっかそっか。そういうこともあるわよね、彼、格好いいし」
「そんなんじゃ、ありませんから。第一、生徒と教師ですし」
ふうんとしたり顔を向けてくる。香織は唇をすぼめて、「これ、いただきます」とチョコレートの封を切った。
「今川先生、言っておくけど彼だけはやめたほうがいいわ」
彼女は書類を香織の隣のデスクに置いて、たおやかな所作でチェアに座った。それはどういう……訊ねそうになり、彼女が机に広げられたノートの「Zen’in Naoya」という走り書きを指さすと、香織はそれを慌てて隠してぎゅっと口許を引き締めた。
「わかってますよ、彼とはなにもありませんし。これからもそんなこと」
香織の肩を平田はやさしくつかむ。
「そういうことじゃないの、生徒とか教師とか、そういう肩書きはどうでもいいの。どうせ、そんなの彼には通用しないんだから」
香織は彼女のその冷静な声色の奥に隠れた、硬質な音色に戸惑った。
「とにかく、彼は駄目。彼、というか、彼らって言えばいいかな」平田はじっと香織の目を見つめてくる。
「先生の人生、ぐちゃぐちゃになるわよ」
手の中で、チョコレートが溶け始めていた。
英文法とフランス語Ⅰの授業が終わり、香織はA校舎からB校舎への渡り廊下を歩いていた。前方から歩いてきたのは教務主任で、彼は香織を認めるや否や声をかけてきた。
「今川先生、ちょうどよかった。これ、検定の申込書」
渡されたのはホチキス止めの書類だった。左上に「I組禪院くん」と記されている。それにどきりと胸を軋ませながら香織は書類を受け取った。
「例の転校生くんに、今週までだって伝えといて」
書類はフランス語検定に関するもの。年二回実施されるうち、秋季試験が迫っていた。そうか、今週までだ。香織は直哉の顔を思い浮かべて、唇をむっと引き結ぶ。おそらく彼はフランス語初習者のため、今回の検定には間に合わない。そもそも、検定を目指す姿が思い浮かばなかった。だが、平等に与えられる権利なのだから、そんなことを言うのは間違っている。香織はいくらか苦言を呑み込んで、「講習の書類も渡しておいて」という教務主任にただうなずいた。担任の増岡に渡せばいいものを、今回も、通りすがりに任されたことは重々承知だった。
どこか心臓が落ち着かない。だが、行かなくては。「フランス語検定申し込み」の文言を睨み付け香織はA校舎へと戻った。
「あれ、先生?」
窓際の篠宮が、I組の前にやってきた香織を見て声をかけてきた。今まで話していた友人たちに断りを入れて、わざわざ廊下へ出てきてくれた。
「どうかしたの」
「篠宮くん」
彼の名を口にするか迷い、彼女は思い切って口にした。
「……禪院くん、来てるかな」
廊下から覗き込んだ限りでは、最奥の席に彼の姿はない。窓際の、滔々とした陽射しに身を沈めるようにたたずむ彼。リネンのカーテンが彼にかかるヴェールのように変化を遂げる。そこにいるのにはるか遠く、手を伸ばしても届かない。あの屋上で、昨日路上で、たしかに触れたはずなのに、彼がどこにいるのかは判らない。
「禪院、まだ来てないっすよ」篠宮は一度クラスを振り返り、そう答える。
「そっか、まだ来てないか」
香織は、彼の席を見つめた。光が注いでいる。しかし、窓枠やカーテンの影が彼の机やいすにかかっている。目映い光、そこに彼の残像がかすかに現れる。香織は、無意識に唇をさすっていた。
「先生?」篠宮が顔をのぞきこんでくる。香織ははっとした。
「ううん」やわく笑みを浮かべる。「登校したら私のところにくるように伝えて。検定の書類をあずかったから、って」
彼は、だれなのだろう。
