第五幕 七

 向かったのは、港区にある《瀬古メンタルクリニック》であった。
「ちょっと、お待ちください!」
 受付の女性が制止する声を振り払い、直哉はウォールナットのシングルドアを力尽くに押し開ける。縦型のブラインドカーテンの前に男の姿があった。色素の抜けた銀髪、体にフィットした紺色のジャケット。背を向けていた男はおもむろにふり返った。
「どういうことや」
 不躾な言葉にも動じず、スラックスのポケットへ差し込んでいた手を抜くと、瀬古は微笑を浮かべて直哉を迎え入れた。
「ちょうど、お話ししようと思っていたところでした」
 どうぞ、と、デスクの前のソファを手のひらで示す。診察室ではなく、こちらは瀬古の執務室。デスクの上にはおそらく新型のノートパソコン。傍には、革張りのケースに入ったティッシュペーパーと、いくつかのファイルやぶ厚い専門書が置かれていた。直哉はその手に応えることなく、すぐに瀬古を睨み付けた。それにも笑みを崩さず、瀬古はただ受付の女性スタッフへ頷いて退室させると、鷹揚な足取りで自分のデスクへ回り込んだ。
「本日、クリニック宛にこのような手紙が届きました」
 鍵のかかった引き出しから取り出したのは、白藍に近いだろうか、淡く色づいたA4サイズの封筒であった。表には「S英館大学」の印字。差し出されたそれに、思わず怪訝な顔つきになった。だが、受け取らなかった。
 あくまで頑なな姿勢を崩さぬ直哉に瀬古は苛立つ様子もなく、封筒から中身を抜き取って丁寧にも来客用のテーブルへ広げる。写真が五枚、そして、インク溜まりのある筆致の手紙が一枚。直哉は目を見開いた。
「これを送ってこられたのは、S英館大学外国語学部のとある教授です」
 《――すべて私がやりました》
「これが、俺を外した理由か」
 瀬古は静かにうなずく。
「四年前の瀬古絢音とその母親、斎藤香苗、鈴木悠仁、成海裕也、吉岡真奈美、すべての事件の自供をここに記しています。また、警視庁にも同様のものが届いたと先ほど連絡がありました」
 A4用紙一枚に滔々と書き連ねられた文字。そして、おそらく死の直後に撮られたであろう死体写真たち。直哉はあからさまに舌打ちをした。
「町田の件はどうなっとんねん」
「遺体発見現場でもある世田谷区の容疑者宅から被害者の書店員女性の所持品が見つかっています。それだけではなく、これまで殺された被害者のものと思われる臓器の一部がワインセラーの中から発見されました」
 ――任務は打ち切りとなりました。車内で伊地知にかかってきた電話は、総監部の通達を報せる高専からの電話だった。新たに見つかった二つの遺体、そのうち世田谷区のマンションで見つかった遺体からは夥しい残穢が残されていた。死因は呪霊による呪殺。否、呪霊の力を借り、自ら首を括ったというべきか。現場からは同様に二級程度の呪霊が複数視認され、容疑者が普段から手懐けていたと見られる。
 手紙には、ほかに十年前研究先で出会った外国人に誘われとある秘密結社に入ったことが書かれていた。そうして付き合いを続けていくうちに、彼はとんだ儀式にのめり込んでしまった。それが件の事件に繋がったわけだった。
 一度病みつきになってしまえば、止められない悪魔の食べ物のように、食人を繰り返しては悔やみ、しかしまた喰らう日々。だが、それでも普段は堪えていたという。動物の生き血や死体を啜ることで心身は満たされていた。しかしながら仕事における重圧に耐えきれず、ここにきて連続殺人を行なった。
 まずは呪霊をけしかけ意識を奪い、それからその秘密結社で学んだ手法で肉を刻む。そうして祈りを捧げ、高次的存在になることを願いその血肉を食す。先述した被害者以外にも、多数言及があった。今ごろ警察は余罪の追及に東奔西走していることだろう。
「容疑者の自宅からは、十五年前に解体されたカルト宗教団体に関する資料、ならびに、その団体の被害者であり四年前に焼死した青年、カサイジョウの遺留品も見つかっています」
 瀬古はジャケットの内側に手を差し込んだ。取り出したのは写真だ。だが、床になにかが落ちた。――血?
 赤く染まったハンカチだ。それも、女性ものの。ペールブルーのおそらく素材はガーゼ。縁と角を彩るように白糸で花の刺繍がされているが、そのほとんどが血に染まっていた。
「失礼」瀬古はすぐさまそれを拾い上げる。「今朝、鼻血が止まらなくなり、スタッフから借りたんです」
 胸のポケットへ再びしまい込む。取りつく島も与えないような一連の動作に直哉は目を細めたが、瀬古は顔色ひとつ変えずに進めた。
 例のカルト団体に関する記事が多数集められたスクラップブック、それとは別に「時の器の会」と記された古びた藁半紙、「河西丈」と記された水道局からの請求書、これらは瀬古の示した写真にうつっていたものだ。
「非常に無念です」
 瀬古は笑みを落とし、頬を引き攣らせながら目を伏せている。写真を握る手が震えていた。直哉はそれを眺めていた。大きく天井をあおぎ目頭を押さえると、瀬古は背を向け窓際へ歩み寄る。おぼつかない足取りであった。そのままブラインドの羽を回転させ、隙間から外を眺めた。
「娘と妻を殺した男を、この手で捕まえることができなかった。こんな形で、事件に幕が下りるとは」
 細長く、強い光が射し込む。デスクやテーブルを、長方形に切り取られた光が皓々と照らす。斜陽を浴びた瀬古の髪は透きとおり、その輪郭はひどく曖昧になっていた。泣いているのか、それとも悔恨か、はたまた怒りか、丸まった背は小刻みに震えていた。
 太陽が鮮烈に辺りを照らす。光が世界を呑み込む。カーペットへ落ちた影は、いっそう濃く深く浮かび上がる。