第四幕 四

 窓際に花束を抱いたテディベアが座っていた。西陽を浴びてモカ色の毛先が淡く透き通っている。
「おーい、来たぞ奈津子ぉ」
 肩にかけていた鞄をベッドサイドの簡易椅子に置くや、篠宮翔は窓際に歩み寄った。
「これC組の奴らからな」
 返事はない。だが、彼は陽気な語り口で続け、テディベアの横にプリザーブドフラワーを置く。黄色や白を基調としたパステルカラーのかわいらしいアレンジメントだ。ガラスドームの中に入っていた。たしかに、奈津子はこういう色だよな、と思いながら翔は几帳面にも向きを整える。ドーム越しに、丸い光がアイボリーの窓台に瞬く。なかなかいい塩梅だ、彼はひとりでにうなずき振り返った。
 白いベッドの上には、幼なじみの姿があった。顔の半分を包帯で覆い、シーツから飛び出た右腕にも痛々しくもガーゼや包帯が巻かれている。左腕からはいくつもの管が伸びていた。いつもはうるさいほどに回る口も力なく閉じられ、マツエクしたいだなんだと言っていたまつ毛すら、今はただ時を待っている。ピ、ピ、と繰り返される電子音が、安寧の音色であった。
「奈津子、禪院ってやつ知ってるか?」
 翔はもう一つ簡易椅子を取り出してベッドのすぐそばに座った。背もたれを前に跨りブレザーに皺が寄るのもいとわず、胸を預けて、だらんと垂らした手で指先を擦り合わせた。
「たぶん、知ってるよな、おまえも」
 応えるのは、モニターの音だ。ピ、ピ、ピ、ピ、無機質に延々と繰り返される。
「めちゃくちゃ切れ味のいいナイフみたいな奴でさ、いつもツマんなそうにしてて、いかにもこの世のすべてを疎んでますってカンジの眼をしてんだよ。でも、時々すげー淋しそうな眼をするんだ」
 翔はそこまで言ってふっと吹き出した。
「こんなこと言ったら殺されそ。今日もオレのこと今にも蹴飛ばしてーって顔で見ててさ。けどその顔すら絵になんだよなあ、ホント、ズルい奴」
 そうして横たわる幼なじみを見やり、背もたれに両腕を載せ顎を置く。
「そいつが、多分見つけてくれるよ。きっと禪院なら――……」

      5

 研修会が終わったのは午後四時過ぎであった。日が傾き始め、いっそう強くなった陽射しが辺りを包み込んでいた。ひそやかに夏が過ぎ去り、すっかり風は香ばしさに満ち、頬を撫でた先から少しの寂しさを残していく。一日の終わりへ向け、静けさに染まる時間。まだ明るいのに、ほがらかな子どもたちの声が遠くなり、時の風が凪ぐ。刻一刻と夜は迫るのに、そこにはまるで永遠が横たわっているかのよう。香織はこの時間が好きだった。きっと夕陽はだれもを感傷的にさせる。自然とはそういうものだ。それでも香織にとっては特別なものの一つだった。
 ――せんせい、あのね。
 目映い陽射しの中であの子が笑う。つま先が少しだけ擦れたローファーで地面を蹴って、私の少し先で振り返りながら。
 ――わたし、今は生きてることが、たのしい。
 香織は大きく息を吸い込んだ。そうしてたまらず熱くなった目の奥を隠すように、両手で覆った。背後から車がやってきて、すぐそばを通りすぎる。風に、髪が攫われる。もう一度深呼吸をして、目を開く。
 グレーのセダンが前方を走っていた。西陽を浴びてそれは照り輝いていた。ぼう、と眺めていると、香織の手をだれかがうしろから引き寄せた。
「轢かれるで」
 その声に息が止まりそうになった。心臓の裏をふっと撫でるような低音。ザラつきもなく、丁寧に濾された糖蜜をゆっくりと垂らす。
 はっと振り返ると、キャメル色のブレザーではなく、和装姿の直哉が立っていた。いつもの不機嫌そうな顔つきはしまいこみ、その頬や口もとにはかすかに笑みを浮かべている。それはたぶん、綺麗すぎるほどの。香織は彼の手のひらの熱を感じながら、喘ぐように息を洩らした。
「ぜんいん、くん」
 彼の金烏色の瞳が香織を貫く。その一瞬、彼は笑みを落とした。まるで、知らない彼がいるようだった。光を浴びて金糸が輝く。なめらかな肌が陶器の艶を放つ。しかし、その眼の奥に、その目もとに、彼の足もとに濃い影が宿る。
「あなたは、だれ?」
 かろうじて唇が告げたのは、そんな言葉だった。直哉はなにも言わず、ただ香織を見つめそこに佇んでいた。
 車が駆け抜ける。髪が舞いあがる。彼の金色の髪に彼女の髪がかかる。影が、彼女を呑み込む。……
「さア、だれやろな」
 くちびるに触れたのは、いったいなんだったか。

 

 

――

――――

 

 闇冥に五つの燈火が宿っている。赤々と燃え、無機質なコンクリートの壁や床に濃密な影を映し出す。それは人の形をしていた。細い枝のような影だった。燈火が揺れる。小さく、だが、たしかに。やがて、影が大きくなる。
 聴こえてくるのは、猛獣のような息遣いだ。フーッ、フーッ、と荒く呼吸を繰り返している。剥き出しのコンクリートに浮かぶ、長い影。それは仰向けに横たわる女性をいまにも呑み込もうとしていた。
 白いシャツが染まっている。――なにに? 真っ赤な血に。影は落ちていた塊を拾い上げた。それは、緑色のエプロンであった。《ニノクニヤ書房》――金糸で刺繍されたその印字を指先でなぞる。人差し指、中指、薬指、小指、小刻みに顫動し、まるで其れらが意思を持っているかのように、やがてゆっくりと下へおりていく。縫い合わされた衣嚢にもぐり込み、其れはあるものを探り出す。
「ああ……」
 堪らず洩れたのは恍惚の吐息であった。其れを捕らえた指は、大きく震えていた。
「すばらしい、実にすばらしいにおいだ」
 一枚の紙片を口許に寄せ、影は息を吸い込む。陶酔に頬を弛め、瞑目し、天をあおぐ。そうして熱い吐息をこぼした。
「あぁ……愛し君よ……」
 掠れ声が喘ぎに変わる。獰猛な野獣の吐息が、今にも息絶えそうなイカロスの強い恍惚に。
「これで私たちはひとつになれる……ああそうだ……まちがいなく……」
 しかしやがて闇間に眼が開いた。白く濁った奇妙な眼であった。ギョロ、とその眼が動き、影は闇に溶ける。次に聴こえてきたのは、およそ自然界では起こらないようなおぞましい音だった。