第五幕 五

 更家真守がアンタを狙っている――その直哉の言葉を聞いて、今川香織は、動揺を隠せないようだった。
「うそ、だって更家さんは……」
 そう口にする今川に直哉は砂糖をまぶしたような声で、「正直者が馬鹿を見る、いやや世の中やなあ、ホンマに」と言った。
 それまで親切にしてもらっていたのだろう。否定したい気持ちはわからなくもない。だが、人間というのは仮面を被る生き物だ。手に入れたいもののためならどんな代償でも払う人間は殊多い。直哉がゆったりとした仕草で見せびらかすように首を傾げると、今川は唇をぐっと噛み締めた。
「とにかく、なぜ、こんなことを」
 直哉は唇を引いた。
「それを先生ェに確かめてもらお、思て」
「ぜんぶ、そのために?」
 そうだ、言葉の代わりに笑みを向ける。綺麗すぎるほどの笑みだった。
「察しのええ女は嫌いやないで。アンタに近づいたのも、ここにキスしたのも」
 彼女の唇を指先でなぞる。睨みつけられ、サッと降参の構えを示した。
「思てたより時間がかかってもうたけど、ま、知らんうちにエサにされるよりマシやろ」
 じゃなきゃこんなモン、好き好んで着続けるわけがない。潜入を決めた当初から考えていたことだ。呪いでも人間でも、なんでもいいからそいつらに突き出してさっさとこんな面倒事からおさらばしようと。そうだったはずだ。そうだ、彼女を見ていたのは、彼女に手を伸ばしたのは……。直哉はひとりでに舌を打った。
 とにかく、彼女にすべての謎が集結していたとは思いもよらなかったが、かえって運がよかった。エサが近場で見つかったのだから。あとは向こうがそれに食らいつくよう、うまく糸を垂らすのみだ。
「アンタの信用しとるその男は、瀬古絢音の皮膚を切り刻み、腑を抉りその血肉を啜ったんや」
 直哉は膝を開いてかがみ込んだまま瞳をのぞき、そしてふたたび女の頬にふれる。
「それだけやない、サイトウカナエもスズキヒサヒトも、ナルミユウヤも、みぃんなミキサーにかけられてぐっちゃぐちゃにされとったんやで」
 瞳が揺れる。それを逃さぬように直哉は捕らえる。
「でも、安心しい。アンタのことは俺が守ったる」
 愉悦を滲ませていた彼の眼が今度は甘い蜜でも垂らすようなそれに変わった。輪郭だけを器用にゆるめる。しかしその奥にある侮蔑や嫌悪、嘲笑の色、そして捕食者の烈しい熱が消えるはずもない。いまだ彼女の強張った目もとや頬、それから唇を指先で愛撫し笑みを深める。
「もうこれ以上、だれかを殺したないやろ?」
 可哀想に、ほんまに。唇を噛み締めたまま赤い瞳で睨みつけてくる彼女に直哉はくっと喉を鳴らした。

 首尾は上々といったところか。直哉は追いかけてくる増岡を涼しい顔で振り切り、裏門に停められた車に乗り込んだ。
「隣駅のシティホテル、部屋はとっといてくれたん?」
 否や助手席のシートへ足を上げ、ネクタイを緩めた彼を伊地知がちらと一瞥する。
「はい、八〇八号室でお取りしてあります」
「ええやん。ちゃんと北向きの部屋で取った?」
「はい、おっしゃるとおりに」
「ほな、東京タワー見えて、うってつけやろなあ」
 やけに機嫌のいい直哉を訝っているようだった。あからさまに動向をうかがう男の様子をフロントミラー越しに認め、直哉は堪えきれない笑みを浮かべながらショートメールを打った。
「……あの」
 しばらく車を走らせたところで伊地知が気遣わしげに声をかけてきた。
「なに」
「今夜の動向をお伺いしたいのですが」
 ああ、と直哉は画面から顔も上げずに答えた。
 被害者と連続殺人犯を結ぶ唯一の存在である今川香織のことを、現状、この男は知らない。本郷に内密にしてくれと言われたからではなく、教える義理がないと見越したためだった。ようやく手に入れたエサをみすみす他のだれかに渡すほど腑抜けではない。利用できるものは利用するが、利用するだけ利用して、擦り切れたら棄てる。男だって女だってそうだ。
 潜入などという対価を大いに払ったぶん、気持ちのいい思いをしても構わないだろう。直哉はふと伊地知に向けるには大仰なほどの柔和な笑みを浮かべて、「それは秘密や」となめらかな声色で告げた。
 車は西陽の烈しい光の海を切り裂く。スモークの貼られた車内は薄暗い。胡乱な顔つきのまま、伊地知はハンドルを握りしめたようだった。ちら、とフロントミラー越しに直哉を盗み見ながら彼は丁寧にアクセルを踏み込んだ。
 ようやくこのしょうもないラクダ色の服から解放される――と、直哉の滞在するホテルが見えてきたところで、ダッシュボードのホルダーに置かれていた伊地知のスマートフォンが鳴りだした。
「すみません」と断りを入れて伊地知はハンズフリー通話を始める。直哉は見向きもしなかった。手持ち無沙汰の手でもって携帯を弄びながら、車窓から流れゆく東京の街並みを眺めていた。「エッ……」という声とともになにやら気配を察知して、視線を前へ投げかけると、伊地知は神妙な顔をして直哉を見つめてきた。
「なんや、胃に穴でも開きそうな顔やな」
「それは珍しいことでもないのですが……。いえ、それより、お伝えしなければならないことが」
 歯切れの悪い男に直哉は片眉をあげる。
「なんやねん、ハキハキしゃべれや」
「そうしたらそうしたで嫌な顔をするくせに……」口には出さないがそういった表情で息をつく伊地知を、直哉は冷めた目で見ていた。だが、ちょうど手の中で携帯が震え、高専きっての敏腕補助監督を放って画面に再び視線を落とした。電話は本郷からだった。
「電話するわ」返答を待たず、携帯を耳に当てる。
「どうかしたん」――そう言おうとして、本郷の唸るような声が耳朶を打った。
「例のホトケが出た」
 直哉は助手席のシートへ足を載せたまま目を細め、「で?」と先を促した。
「ニノクニヤ書房七階、洋書担当の四十代女性、ならびに六十代、S英館大学外国語学部教授、いずれも今川香織との接触有り」
 たちまち唇が捲れ上がった。「場所は」
「二か所、東京都町田市のアパートと世田谷区のマンションだ」
「世田谷のが近いか」直哉は足をおろし、「伊地知君、そこ曲がってくれる?」通話を続けたまま前に乗り出した。
「できません」
「は?」
 伊地知の顔は苦渋に満ちていた。睨みつけてくる直哉の視線を受けてなお、彼は頑なに態度を崩さなかった。
「たった今、特別一級はこの任務の担当から外れました」