第四幕 二

 日曜は、朝から埼玉での研修日だった。香織の所属している研究会は、月に一度、互いの指導力向上のために参加者を募り、言語習得ないし教授法の分野で著名な教授の講演会や自分たちの研究発表会、はたまた希望制で模擬授業を行い討論会を行なっている。教師になったら、必ずどこかの研究会に所属しなければならないという決まりはないが、学校という箱庭に閉じこもりやすい教師の性質柄、最新の情報を得るにはもってこいの場であった。なにより、香織にとっては学部生時代から勉強のため世話になっている戦友たちの集いのようなものだった。
 勉強することは嫌いではない。なにかを学ぶことは好きだ。だから、研究会に参加して面白い講演会や研究発表に当たるととてもワクワクする。だが、その反面、地面に引き摺り込まれるような気だるさも襲いかかってくる。
 午前中の研修を終え、香織は会場である公立中学校を出て、近くの公園に訪れていた。日曜ともあり、家族連れの姿が散見される。秋も深まっていた。ふと気を抜くと次の季節の兆しが肌を包むが、公園内には活気ある声が響いていた。
 香織は遊具から離れた場所にある木陰のベンチに腰を据えると、朝駅前で購入したクロワッサンにかじりついた。飲み物は冴えないが、ペットボトルのカフェ・オ・レ。研修がある日は頭を使うから糖分が必要だった。
 フランス産バターをふんだんに使用したクロワッサンは、冷めても食感を損なわない。パリッとも、サクッとも言いがたい音を奏でながら香織はそれを食べ進める。BGMは子どもたちの声だ。風がそよいで心地がいい。しかし、どこか体が重たい気がした。それもそうだ、この一週間、ほぼ休みなしに働いてきたのだから。
 一昨日は研究日だったが、結局学校まで足を伸ばしてしまったし、次の休みは一日家で過ごそうかしら、そんなことを思いながら肩をもみほぐす。
 考えごとをやめて、今すぐクロワッサンを楽しむべきだった。休憩くらい肩肘張らずに気楽に過ごさないと。だが、香織には気がかりがあった。それは、現在都内の病院に入院している松崎奈津子のことであった。
 彼女の受け持つフランス語選択の生徒であり、その付き合いは一年次からだ。髪を巻いたり流行のメイクをしたり見た目や素行は今時の高校生といったところだが、根は純朴で熱心に授業に参加してくれる。彼女が授業前に教卓へやってくると、気持ちがいつも和らぐ気がした。授業中に目が合うと、どこかむずがゆくなった。職員室へ戻る香織を追い、隣に並ぶ彼女の笑顔は、人を幸せにする力があると思った。成績は良好とは言えなくとも、だからこそ気にかけたくなる。松崎奈津子は香織の中で歴とした生徒の一人だった。きっと、いつまでも心の中で生き続ける……。
 そういうの、やめるって決めたのに。何度も言い聞かせてきたじゃない。けれど、気がついたときには、もう遅い。
 ――オレは、オレらはその他大勢のひとり?
 篠宮翔の声が脳裡に響く。彼もフランス語選択の生徒だった。松崎と幼なじみで、美術部に所属していた。人懐こい笑みはどこか重なる。それは、かつてのあの笑顔にも。
 期待を裏切り、突き放してしまうかもしれない。また、そうしてしまうのが、辛い。深く関わりを持って、彼らを傷つけてしまったとしたら。でも、疾うに彼女は、彼女たちは香織にとって大事な生徒であった。それを自覚して、香織は息が苦しくなった。
 私は、どうしたいのだろう。私は、どうして教師になりたかったのだろう。……フランス語を、英語を、心から好きになってもらいたい? たしかに、それもある。でも、なにより、生徒たちの未来を守りたかったからだ。彼らが進む道を照らし、歩み出すその背に寄り添い支え、いつまでも見守っていたかったからだ。
 通り魔に襲われ、松崎は今なお目を覚まさない。このまま目が覚めなかったらどうしよう、そればかりを考えていた。香織にはどうしようもないことなのに、回復を祈って待つしかないというのに……。
「これはまた厄介なのが憑いているね」
 突如頭上から落ちてきた声に香織は肩を揺らした。実体のない羽衣のような声だった。
「失礼、驚かせたかな」
 顔を上げると袈裟姿の男が香織の前に立っていた。真昼の公園、しかも日曜。こんな住宅街の公園に、なんとも仰々しい格好だ。濡羽色の長髪をハーフアップに纏めた男は、端正な顔に柔和な笑みを載せる。
「あの」香織がようやく言葉を発すると、彼は手をかざしてきた。大きな手だった。
「心配しないで。すぐに終わる」
 視界を遮られ、なにかを考える前に耳の横でバチバチバチィッと細かな破裂音が響いた。驚き肩を揺らすと、「さあ、これで大丈夫」声が再び落ちてきた。
 ゆっくりと視界が広がる。涼しげな顔で彼は微笑む。肩を回してごらん、と、茫然とした香織に彼は言ってのけた。クロワッサンを手にしたまま、香織は左肩を回した。
「……軽い?」
 男は笑みを深めた。袈裟姿にその顔はとてもよく似合っている気がした。
「では失礼。いつか、またどこかで」
 待って、と言う間に歩いて行ってしまう。遊具で遊んでいた子どもたちは遊びに夢中で気がついていないみたいだった。何人かの大人たちが袈裟姿の彼を見て囁きあっていた。
 香織は首に手を添えながらそれをいつまでも眺めていた。