すっかり葉を落として寒しげになった木が鮮やかな青空に揺れている。
「ったく、あのクソだっるい仕事終わせたっちゅうのに、なんで俺がまた東京におらなあかんねん」
そんなほがらかな風景とはうらはらに、禪院直哉は伊地知潔高の運転する車の後部座席で散々な悪態をついていた。
「こっちの術師にロクなのはいぃひんのかい、ほんっまに腹立つわ」とかなんとか、隣には同い年の七海建人が、およそ同年とは思えぬ落ち着いた態度で、我関せずといった頑なな姿勢を見せながら長い脚を組み外の景色を眺めている。
先述したとおり、ナルミユウヤの一件から始まったS英館大附属高校への潜入任務はとうに終了していた。被疑者死亡という苦い結末にはなったが、それでも幕引きは幕引きであった。直哉としてはどんな終わりであれ、早々に撤収しキャメル色のブレザーをゴミ箱にぶち込む予定だったので、今川香織や更家真守がどうなろうが知ったことではなく、諸々の報告と処理とを本郷と伊地知に任せて、彼は次の日の新幹線で京都に帰った。もはや、東京に未練などなかった。そうして、普段どおりのとりとめもない日常にまた戻ったわけであるが、ひと息ついたと思えばこれである。
ただでさえ、御三家の人間には普段抱える仕事が山ほどあるというのに――とはいえ、おそらくこれは高専に所属する術師に比べると少ないだろうが、直哉はそんなことどうでもいい――こうも京都から東京まで軽々と呼び出されては堪ったものではない。
盛大に舌打ちを拵えたのち頬杖をつき、七海とは反対方向に外を眺めると直哉はあることに気がついた。
「ちょぉ待ち、こっちやないやろ」
目ェ腐っとんのか、散々吐き捨てる。
「仕方ないじゃないですか、現場がこっちなんですから……」
胃痛を抱えた顔でハンドルをにぎる伊地知が向かおうとしているのは、あの忌々しい青き学び舎だ。ブレザーもシャツもネクタイも脱ぎ去り、髪のゴワつくスプレーもさっさと落としたというのに、真の目的地など知らないが、とにかくあの通学路すら直哉は目にしたくなかった。
都内のとある食品加工会社にて呪霊を視認。等級およそ二級から準一級、直哉が手伝いを頼まれたのはこの現場だ。もともと事故物件であることから、おそらく仮想怨霊が顕現したと考えられる。
前回同様、今回も別件で東京へやってきていたところ、迎えにやってきた伊地知によって、次の現場まで有無を言わさず送り届けられることになったわけだ。隣に居合わせた七海は仕事のパートナー、なんてことはなく、ただ方向が同じなので乗り合いとなっただけである。
淡々と日常が過ぎていく。おそらく十年前から変わらない。もしかするとずっと前からそうだった。人間がこの世界に生きている限り呪いは産まれ続ける。それを祓い、屍を足下に積み重ねる人生だ。ほんまにしょうもない、直哉は指先で忙しなく韻律を刻み、映し出される世界に目を眇める。
なんやかんやと騒ぎながら、S英館大を越えた先、祓除依頼の現場につくと、すでに別の補助監督が帳を下ろした状態で直哉を待ち受けていた。公園に隣接し、それなりに敷地も有していたことから、公園と現場を囲う近隣五十メートル圏内はガス漏出による爆発のため立ち入り禁止となっている。ああ、さっさと終わらそ、と思い扉を蹴り開けて外へ出ると、新人らしい男の補助監督が焦った様子で近寄ってきた。
「どうやら報告のあった一体のみならず、多数呪霊が顕現しているようです」
こめかみにピリッと稲妻が走った。ハ? と不機嫌に顔を歪めれば、補助監督はハムスターのように震え上がった。
「落ち着いてください。中に人はいますか」
伊地知が車を降り、助け船を出す。七海はこの状況さえも手を出すつもりはないのか、後部座席で携帯を取り出していた。いえ、と男は震えるように勢いよくかぶりを振ると、「従業員は報告のあった時点で避難を開始し、すでに中は空です」と報告を連ねる。
「それならひとまずは問題ありませんね。怪我人は」
「二名、いずれも腕を折るなどの軽症です」
呪霊に遭遇して五体満足とは、なんとも運がいい。直哉はしらじらと小指で耳をいじりながら、「で?」と先を促す。
「向こうの数はどうなってん」
「従業員の証言によりますと、工場内部に三体は」
「思てたより少ないな」
そのまま首すじを撫で軽く捻る。それから息をついて、「ほな、三十分後に」直哉は動き出した。
「ちょっ、一人では危険です!」うしろでそんな声が聞こえたが、さっさと帳の中へ踏み込んでいく。
「彼なら、問題ありません。必要であれば私たちもすぐ駆けつけますので、あとはよろしくお願いします」
不安顔で残された補助監督に、伊地知もそう告げて七海とともに去っていった。
さて、なんてことのない呪霊祓除だ。宣言どおり三十分ほどで戻ると、新人補助監督は消え、直哉を迎え入れたのは携帯片手に佇む七海だった。
なんや、現場向かったんとちゃうんかい。そう思いながら近寄ると、電話でもかけていたのだろう、彼は手を下ろした。
「追い返されたん? 言っとくけど仕事ないで」
ご愁傷様と両手を拡げる直哉に顔色ひとつ変えず、七海は携帯をスーツの胸ポケットへしまう。
「五条さんがちょうど近くを通りかかりまして。手間が省けたぶん、伊地知くんを借りたいからとここに置き去りにされました」
「ふうん、ホンマにご愁傷さまやな。で、アイツは」
補助監督のことだ。
「伊地知くんの行なう予定だった事務処理のために、区役所まで飛んでいきましたよ」
「で、俺と君だけなんか。扱い雑すぎひん? 仮にも一級やろ俺ら」
人手不足がなんだと言っておきながらこれだ。否、人手不足だからこそ起こるイレギュラーかもしれないが、とにかく男二人、住宅地の真ん中に残されてもといったところだ。
早よだれか迎えに来んかなと辺りを見渡したところで、「別の方が送迎を終え次第向かってくれるとのことでしたが、断りました」と淡々と継げた七海に、直哉は、「は?」と眉をしかめる。
「ちょうど高専まで戻ったところだとおっしゃっていたので。幸い少し行けばバス停もありますし、一時間手持ち無沙汰で過ごすのも馬鹿げていますから」
……この男と二人で並んで歩くのも相当馬鹿馬鹿しいやろ、と思ったが、タクシーすら配車の予定がつかず、簡単な報告を高専に済ませたあと不承不承閑静な住宅地を進むことになった。
そも有事の際すぐに対応するため補助監督は極力現場を離れないというのが定説だっただろうに、どいつもこいつもと悪態をつきながら、すっかり行楽日和にふさわしい陽射しの中を書生服の男とスーツの男が歩いていく。夜であれば術式でもなんでも駆使してさっさとこの場をあとにできるが、住宅がこうも多いと厄介である。心底釈然としないまま歩き続け、念のため配置していたという警備員に挨拶をし――これはもちろん七海だけだが――まもなくバス停についた。
「S英館大学まで向かうようですね」
思わず、なんやねんそら、と言葉を投げつけたくなった。たしかにそこまで行けば駅まで歩いてそうかからないが、まったく何度も同じ場所に戻るのはいささか柄ではない。
「普通の高校生活もそう悪くなかったんじゃないですか」
なにを言い出すかと思えば。バスを待つあいだ七海が珍しく切り出した話題に、互いに前を見据えながら、直哉はそんなわけあるかいと鼻で笑った。
「七海君は、そっちやったもんなあ」
「ええ、中学までは。良いか悪いかでいうとどちらともありませんが。……しかし、どんな環境であれ、なにも特別なことなどなく思い出せる場所があるというのは、なかなか悪くない」
なんやねん、そう思っているうちに、「キャメルのブレザーもよくお似合いでしたよ」と滔々とよどみなく流れる水流のように感情なく告げられ、直哉は、アホか、とにべもなく返した。まもなく、バスが来た。
ちらほらと一般客の姿があったが、昼下がりの車内はとても静かだった。和装とスーツという組み合わせの二人が乗り込むと運転手や子連れの主婦がやや驚いた顔をしたが、それでも人の興味など長くは続かないものだ。淡々と男二人奥の座席にそれぞれ左右に分かれて座ると、バスはゆっくりと走り出す。
直哉は携帯を七海は文庫本を取り出して各々の時を過ごした。彼らが選んだ座席のように、着ている服から習性、生まれ育った環境まで、とことん正反対にいるような存在同士だ。一般家庭出身の七海と古く続く御三家出身の直哉、術師という生き方を通してのみ繋がるはずだが、それでもお互いに違う世界を生きている。人間だれしもそうだ。結局自分の世界でしか生きられない。直哉は気だるく座りながら携帯をいじる。特にこれといってやることがあるわけでもなく、ただ散漫とそれを手で扱うだけ。
まったくとんだ誤算だと直哉は思い、やがて窓の向こうをちらと眺めた。連なる平穏な風景、しょうもない日常、これからもきっとそうだ。夜が来て、朝が来る。太陽が昇り、また沈む、その繰り返し。ああ、こちらになど未練はない。しかし、光のしじまにふと蘇るのはひとつの声だった。
しばらくしてバス停である附属高校前につくと、下校時間になったのか大学生に混じりラクダ色のブレザーの姿がいくつかみられた。やれテストがどうだ部活がどうだ、飛び交う話題はどれもとりとめもないもの。お気楽な奴らはええなと直哉は冷めた眼でそれを流す。グラウンドからは陸上部やラグビー部のホイッスル音が響き、鼓膜に直接届くそれがなんとも煩わしかった。さっさと帰るかと思い、背を向けようとした。
「禪院!」空を裂く声がした。
それは上から落ちてきた。高校側の正門から校舎まではさほど遠くはない。ふり返ると、光がちょうど目を灼いて直哉は思わず手でそれを遮った。影の中から目を凝らす。やがて射しこんだ光の中に、窓から身を乗り出して手を振る篠宮が見える。
「おまえ、オレに内緒で消えるとか、マジねーから!」
約束をした憶えもない、そうする義務も義理もない。今だってそうだ。そのまま無視をして帰ろうとした。だが、目が合った気がした。幼なじみを止めようとその背を叩く松崎の横で、はにかみを載せた今川香織と。
電話に出ろ、だとか、メールを返せだとか、いろいろと並べた挙句、罰としてデッサンモデルになってもらうからな、などと声を張る少年に、直哉は、ああうるさ、と着物の袂をつまんで腕組みをする。
「だれがやるか」
唸るように小さくこぼす横で、「いい御友人ですね」七海が言う。
「ダチやない、舎弟や」直哉は返す。
「聞いてんのかよ、禪院!」
いよいよ舌打ちを拵えた。だが、その後に続いた、「禪院くん!」という呼び声に、彼らのいる校舎の三階を見上げた。
彼女がこちらを見ている。なにかを口にするわけでもなく、ただ微笑み、まぶたの上をやわく貫き、やがて手を振る。「また、あした」――そんなふうに。
直哉はハアとあからさまにため息をついて背を向けた。どいつもこいつも、出てくるのはそればかりだった。なにもかもがくだらない、取るに足らないそんな世界。ふり返るものなどないほうがいい、寄りかかる場所などあっても邪魔になるだけ。そうだというのに、それでいて、彼は諦めたようにひらりと後ろ手に手をあげて彼女に応えると、おもむろに歩き出した。
「禪院、今度はクレープ食いに行こうぜ!」
さようならの挨拶にはなんともおざなりな振り方だ。もはやそれは、追い払うようにも見えただろう。それでも続いた声に、ふっと息をもらす音がした。
「なんやねん」
七海はサングラスのブリッジを押さえながら、「いえ」と静かに答えた。
「……太陽が眩しいと思いましてね」
ハッとせせら笑い、直哉は歩き続ける。
照りつける陽射しの中を、目映い光の中を。その巨きな背やその宵を孕んだ金糸、あるいは、苦渋を何度となく噛み砕き飲み干した孤高な頬や喉を、今ここで、たしかに輝かせながら。
青い風が吹く。影が滔々と地面に伸びる。
深き夜に向けて、彼らは突き進む。……
「やあ、また会ったね」
――またひとつ、影が蠢く。
