第四幕 一

 其処は酷く空気が滞留していた。広く、しかし閉ざされた空間で直哉は時を待っていた。連綿と紡がれし呪われた魔窟、此処こそが呪術界の奈落のようなものだろう。やがて風ひとつない其処に一抹の緊張が迸る。それまで解けていた空気が鋭く結びつき、直哉の耳の裏をなぞりその首を絞める。彼は眼を開くと、其れをふり払うように首を捻った。
「禪院直哉」
 どこからともなく声が反響する。瞬きのうちに数多扉が現れる。
「まだあの件は解決していないのか」
 直哉は目を回したくなりながら、次の言葉を待った。
「夏油傑の関与の可能性は」
「警察庁からの通達が何本も届いている」
「五条悟はなにを」
 その嗄れた声に鼻笑いを留め、直哉は両手を広げた。
「今ええとこですわ。任せてもろたからには、必ずや……」
 ああ、どいつもこいつも――目を鋭く細めながら、直哉はツンと顎をあげ唇をひしゃげた。

 日曜、上層部への謁見が終わり、停められた黒塗りの高専車に直哉は荒々しく乗り込んだ。斜め前には額の脂汗を拭う伊地知の姿がある。
「お疲れ様でした」その声かけに鼻笑いをひとつ返し、窓に向かって頬杖を突いた。
「ナルミユウヤさんの件は瀬古さんに確認がとれましたか」
 伊地知は続けてすごすごと訊ねてくる。不機嫌なのを気にしているのだろう。直哉はその期待に応えるように、まあなとにべもなく返した。
 ナルミユウヤ、群馬県出身。県立高校卒業後S英館大学へ入学、文学部にて英米文学を専攻していた。実家は農業を営み五つ離れた兄がいる。家からの仕送りがあったものの家賃や食費のほか交際費まではまかなえず、昨年夏より駅前のコンビニにてアルバイトを開始した。大学教授ならびに学科の友人たちに拠れば、授業態度は良好、国際交流サークルに所属し留学生支援プログラムに積極的に参加。金銭トラブルや対人トラブルもなく、明朗快活な今時の大学生だったという。
 サイトウカナエ、スズキヒサヒト、そしてナルミユウヤ、この三人の共通点はただひとつ、《今川香織》。それぞれの顧客であったのが彼女だ。
 常に指名するスタイリスト、洋書担当の書店員、よく行くコンビニのアルバイト店員。勤務地も居住地も生活圏も異なる三人の人間が殺人の標的に選ばれたのは、彼女に関係している。被害者と犯人とを結びつける唯一の糸、極楽から垂らされた細い蜘蛛の糸も同然だ。その上、昨日の新たな遺体。三十代、北区の人材派遣会社に勤めるOLと今川の関係は果たしてなんなのだろう。呪霊に襲われた松崎奈津子との関連は……。
 瀬古はプロファイリングを仕切り直すため、今ごろ捜査一課の連中と頭を突き合わせているにちがいない。身元が判明しているナルミと四人目の被害者の関係性をもとに、瀬古も一人目二人目の被害者の特定を急ぐはずだ。直哉が先に手にしている《今川香織》という手札にいつ気づくか。
 おそらく瀬古の読みどおり事は進んでいる。あの学校に迫る影が今なお闇間で蠢いている。時を待ち侘びているのだ。
「例のものですが、そちらのファイルに挟んであります」
 直哉は前の座席のホルダー部分に収納された黒いファイルを手にとった。「極秘」と赤い判の押されたそれはS英館大附属高校の教職員名簿であった。校務分掌ごとの名簿一覧と、それぞれ就職時に提出された履歴書がまとめられている。無論、まず開いたのは、今川のページだ。――一九八九年生まれ、東京都在住、S英館大学外国語学部フランス語学科卒業後、私立煌心女学院中等部に非常勤講師として一年間勤務。以後、現任校の採用試験を合格、専任教諭として今日まで教鞭をとっている。
 第一種・第二種英語科ならびにフランス語科教員免許、普通免許、その他語学検定多数所持。趣味は読書と映画鑑賞。大学時代の研究は第三言語習得。特異な点はなにもない。写真館で撮ったであろう証明写真は、髪を几帳面にも斜めに流しひとつにまとめている。今よりも初々しさがあるだろうか、その今川を注視しながら、直哉は屋上での出来事を思い返していた。
 静けさに宿る甘やかなささやき。風にほどける吐息。薄紅色のくちびるが音をかたどる。光が張り裂け、辺りを皓々と照らしていた。彼女は光の中に佇んでいた。目映く、しかし、儚く。風そよぎ彼女の髪が舞い、白い指がそれを掻き集める。桜色の指先が黒い文字をなぞる。彼女の目が直哉を貫く。その瞬間、流れた刻は静謐で優雅な韻律のようだった。美しく、ゆったりと奏でられるピアノの音色。光の中に空白があり昏さがあり、それでいてやわらかく深い充実した響きがある――……。
「この中にこれまで呪霊被害に遭った人間は」
 記憶の糸を自ら断ち切り、直哉は訊ねる。
「一学年教諭に一名、数年前呪霊事故に巻き込まれ日下部一級により保護。高専の記録に残っていました」
 交差点に顕現した呪霊事故だ。おそらく関連性は薄い。それから、窓が二名。校長と平田という養護教諭だ。
「ピンとこやんな」
 なぜ。なぜ今川香織が彼らのあいだにいるのだ。なにが彼女を探っている? あるいはだれが?
「松崎奈津子の件はどうなっとる」
「現在、都内の病院にて入院中です。本日家入さんが治療に向かうとのことですが、命に別状はないようです」
「ほな、目ェが覚めたら教えるよう言うといて」
 伊地知の返事を待たず直哉は今一度、今川香織の写真を睨みつけた。

 直哉たちが向かったのは、第二被害者であるスズキヒサヒトが発見された新宿区の雑居ビルであった。敷地およそ二十五坪、大通りから一本側道に入った箇所に位置し、飲食店や輸入雑貨店が入るそのビルの三階がそうだ。以前は通販会社の事務所やネイルサロンが店舗として利用していたが、数年前に起きた呪霊事故以降、空きテナントになっている。いわゆる事故物件ではあるがすでに呪いは祓除されていた。
 階段を上がり、厳重に警備の敷かれた小ホールの右手側が件のテナントだ。道路に面した南側には窓があり、陽光がよく射し込む。四角く切り取られた光がほどけ、ヴィンテージグレイのフローリングを明るく照らす。工場同様、どす黒い影がかすかに残っていた。窓側に頭部、脚を北側である玄関口へ放り出して大の字になっている。直哉は袴を翻しその目の前へ歩み寄った。
 映画じゃあるまいし、と思ったのが第一印象だった。アメリカの推理小説作家によって書かれた本を原作にハリウッドで映画化されたその作品は、ハーバード大学の宗教象徴学教授が難事件に巻き込まれていく話だ。特にシリーズ二作目――映画としては一作目だが――は、何者かにルーヴル美術館の館長が惨殺されることから物語が始まる。彼が死の間際に残したのが、ダイイングメッセージと自身の不可解な姿であった。ダイイングメッセージにはナントカ数列――直哉は憶えていないが、フィボナッチ数列というものだ。イタリアの数学者レオナルド・フィボナッチに因んで名付けられた――やアナグラムが使用され、事件解決へ迫る暗号が隠されていた。
 今回、ダイイングメッセージこそ残されていないものの、ルーヴル美術館館長が示した「ウィトルウィウス的人体図」はまさに四つの遺体に類似する。最も有名なレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチだ。臓ではなく胃を撃たれていたために、死に至るまで、十数分も胃液が体腔内に漏れ出す激痛に耐えながらそれらを遺した。なんとも腹が疼く話だ。
 直哉は残された影を見下ろす。陽光に浮かび上がる人体図。頭は南向きに、両腕を広げ両足を投げ出している。黄金比だ聖杯だ、ナントカ騎士団だなんだというのは御免だった。だが、じいと凝視した挙句、「そこ、隣、寝転んでくれへん」と伊地知に言い放った。
「え……私が?」
「なんや嫌なん」
「滅相もありません」
 肩をすっかり落とした様子で彼は影のすぐ横に体を横たえる。「こうですか」両手を壁と平行になるように広げ、足は六〇度に。直哉は顎に手を当てた。
 鑑識によれば、遺体は死後肉体を裂かれその体腔を荒らされたのではないか、という見解だ。生きているうちに皮膚を裂けば、それを塞ごうとして皮膚が縮み傷口が広がる。あるいは、白血球のはたらきによって、膿が生じたりする。それら生活反応がないことからみて、被害者を殺したあとにあらゆる残忍な行為が行なわれている。現場に残る血痕量から見ても、遺体が抵抗した痕跡は少ない。殺害方法は至ってシンプルに、かつ効率的に確実性を伴う。殺すことに慣れている人間のやり口だ。あるいは、呪霊に襲わせているかもしれない。
 その他ロケーションの設定や遺留品の残し方、証拠の消し方、そして遺体の体勢をわざわざ整えるという律儀さを鑑みるに、計画的な犯行にも思える。しかし、遺体の状態はすこぶる酷い。まるで人を喰らうその瞬間、箍が外れたように非人道的な手法でその身を荒らすのだ。人を喰らうならどんなふうに喰ってもいいだろうに、ディナーをセッティングするようにして現場を作り上げる。そうして無我夢中で食し、はたと我に返ったのち、後片付けは意外にも冷静にかつ周到に行われる。
 形式や美意識にこだわる部分と、自我を失い錯乱する獣、ジキルとハイドじゃあるまいし。しかし、うまく自分を抑圧できる人間はいるものだ。むしろ、ほとんどの人間は常に自らを縛り、押さえつけ、理性的な生き物としての面をかぶって生きている。狂気と正気は紙一重だ。再三言うが、これがもし呪霊の犯行ならば、特級レベルだ。
 ともかく、遺体の不可解な姿はなにかの暗示なのだろう。「ウィトルウィウス的人体図」から見出されるのは黄金比、つまりは……。
「なるほどな」直哉は鼻を鳴らした。そうして伊地知の周りをゆっくりと歩いた。
「一人目のとき、北はどっちやった」
 伊地知は不思議そうに直哉を見上げた。
「ええと、たしか私たちが入った扉です」
「ナルミユウヤは」
「……も、玄関側がそうだったかと」
 日照による受熱量により、日本では南側に窓を設けることが多い。夏に涼しく、冬は暖かくするためだ。それはいい。だが、遺体はすべて南側に頭部を据えていた。
 最初にナルミユウヤの部屋を見たとき、違和感を抱かなかったのは、彼が普段眠るようにして布団の上に横たわっていたからだ。実際には、状態としてすこぶる最悪だったわけだが、それでも忌避される北枕ではなく南側に頭を向けて寝ているのは、自然なことだった。したがってその他の遺体に関しても、方角など目もくれなかった。しかし、考えてみれば、すべて南枕に設定しているのはいささか不自然だ。
 人間の頭部を南側に置く。つまり平面で見ると、それは下側になる。
「さっさとS英館大向かうで」
 自分の頭のすぐそばに立つ直哉を見あおぎながら、伊地知は「エッ」と焦り声を上げた。「今からですか」
「そうに決まっとるやろ」
「ちょっ……本当に人遣いが荒い人ばかり!」
 三時には五条さんの送迎があるのに、そんなぼやきを背に直哉はさっさと現場をあとにした。