第二幕 三

 朝一番にイレギュラーな用事が入ると、どうにも人間のリズムというのは積み上げた積み木の足場となる部分を弾かれたように崩れてしまう。それは教師のみならず生徒も同じようで、本来なら、とっくに机に向かって一時限目の授業を受けているところだが、広々とした講堂でぼうと立ち尽くしながら校長の言葉を右から左へと流していた。
 香織の隣では同じく外国語教諭のジョアンナが、今まさに眠気を覚まそうと自分の手のひらに爪を突き立てている。彼女はアルジェリア系フランス人でウェーブしたブルネットの髪にエキゾチックな見た目をしていた。大学生のとき短期留学で日本にやってきたのがきっかけで、独学で日本語を学び卒業後は単身渡日。溌溂としたまっすぐな瞳には威厳があり、目鼻立ちのハッキリとした高貴そうな顔のつくりをしているが、人懐こく和菓子の大好きなところなどとても魅力的な人間だった。
 香織はそんな彼女の姿を目の端に留めて苦笑したのち、後方から生徒たちを眺めた。
 もう十分は続いているだろうか、校長の話はいつも長い。悪い人ではないのだが、熱が入りすぎるとすぐにこうだった。だらけた姿勢の生徒たちを、I組の担任であり生活指導係でもある増岡が折々指導する。しかし、なおったところでさらに話が続けばそれも無駄になる。すっかり萎びた姿はあまりに不憫だった。だが、その中に大木を見つけた。
 凛と伸びた背すじ。決して、態度がいい立ち姿とは言えないだろう。それでも堂々としていて目を瞠るものがある。ストレートに近い黒い短髪、頭が小さいわりに首が太くそれらを支える肩や背も高校生にしてはひどくたくましい。スポーツでもやっているのだろうか、香織は彼の背を見て、うつくしい、と思った。確固たる自我を持った一本の大木。天に向かうさまは葦にも思えたが、風に吹かれ、しなるようなやわさではない。
「カオリ」とジョアンナが耳打ちをしてきた。「今度のコンベルサシオンだけど……」
 そこで、空気がどよめいた。はたと視線を向けると、ひとりの女子生徒が友人に支えられて歩いてくるところだった。
 弛緩していた空気が一点に集中しさらに雑然とほどけていく。校長の話し声も止み、一番近くにいた香織とジョアンナが駆け寄ると、女子生徒は青白い顔をしていた。月に一度必ず起こることだった。増岡と学年主任に目配せをしたのち、香織はその子の肩を支えて講堂をあとにした。
「ジョアンナが今、車椅子を持ってきてくれるから」
 講堂のロビーでベンチに座らせる。女子生徒は二学年の所属だった。その上、自分の受け持つフランス語選択。長時間の直立状態により脳貧血を起こしやすい生徒だった。
 こっくり、彼女はたどたどしくうなずく。目を開けていることも辛いのか今は長いまつ毛を伏せていた。高等部の保健室まで向かうには遠いから、大学側の救護室にジョアンナはかけあってくれているはず。往復時間も考えて五分くらいで戻ってくることだろう。
 ちらと腕時計を確認すると、「先生」女子生徒が香織を呼んだ。
「松崎さん、どうかした?」
「今日のフランス語の授業、ウチ、当たるかな?」
 香織は目を回した。
「それを訊く余裕があるなら、もう大丈夫ね」
 彼女は蒼白した面持ちで薄く笑う。
「コーチョー、いつも話長いんだモン」
 ぶらん、と紺色のハイソックスの脚が揺れる。なんとも言えず、香織は肩をすくめるだけにとどめた。ポケットから洗い立てのハンカチを取り出し、松崎奈津子という少女に差し出す。C組の生徒だった。彼女は白い刺繍の入ったペールブルーのそれで額を拭った。
「最近、体調はよさそうだったけど」
 もともと、彼女は幼少期の病気が原因で体調を崩しやすい生徒だった。その上思春期というのもあり非常に不安定だった。「そうなんだけどね」彼女はハンカチを握りしめたまま、グレーチェックのプリーツスカートを伸ばす。
「夏に、変な事件あったでしょ?」
「変な事件?」
 うん、と、今度は裾を指先で摘んでそこを見つめた。
「学校でも、しばらく話題になってたやつ。頭とか、体とか、めちゃくちゃになった死体が見つかったって」
 香織はいくつかのニュースを思い出した。都内二十三区内で起きた殺人事件だ。廃工場や雑居ビルの空きテナントなどで惨殺された遺体が見つかり、犯人は巧妙な手口で犯行に至りそして証拠を消した。香織は一番最初の事件当時は夏の語学研修の引率でカナダに滞在していたのだが、リオオリンピックが開催されている裏で起きたその事件に、「切り裂きジャックが現れた」のではないかと日本じゅうが震撼した。しかも、連続猟奇殺人として、依然捜査は続いている。
「それが、どうかしたの」
 驚いたことに、すっかりその事件のことを忘れていた。たしかに、たった数十日前までは夜道を歩くことすら背すじを冷やしたというのに、まるきり別の世界、それも海を越えた先の諸外国で起きた出来事のように思考の外へ追いやっていた。
 松崎奈津子は俯いたままなにかを答えあぐねている様子だった。香織はどう声をかけようか迷った。小さく丸まったその背に手を伸ばそうとして、指先を握りしめた。
「松崎さん?」再び声をかける。
「やっぱ、なんでもない」彼女は顔をあげた。無理やり笑っているのは明らかだった。「それより、今日の精読、なんの詩おしえてくれるの?」
 香織は手のひらをほどき、そして指を擦り合わせる。
「そっちがメインじゃないんだけどね」
「えー、でもウチ教科書の話より先生のおしえてくれる詩のほうが好き。わけわかんないけど、ときどき、あっこのブンポー知ってるってなるから」
 思わず頬がゆるむ。「それならよかった」
「で、次はなに? このあいだはランボーでしょ?」
「今にわかるわよ」
「教えてよ!」
 香織は笑っていた。いつもそうしているよりも、数倍、自然と微笑んでいることに気がついてはっとした。しかし、気取られないようすぐに口もとに力を入れて、詩の一節を誦じた。

  Adieu tristesse
  Bonjour tristesse
  Tu es inscrite dans les lignes du plafond
  Tu es inscrite dans les yeux que j’aime
  Tu n’es pas tout à fait la misère,
  Car les lèvres les plus pauvres te dénoncent
  Par un sourire…

 茶色い無垢な瞳の中で恍惚のいろが生まれる。そして、やがてそれに塗れ、香織は逃げるように目を伏せた。
「先生の好きな詩人のひとり。その中でも刺激的な詩を紹介するつもり」
 エー! と非難の声があがる。「そこまで言うなら名前教えてよ!」
「このあとのお楽しみ。ここまで元気になればもう平気ね」
「香織、松崎サン!」
 そこにジョアンナが戻ってくる。カタン、カタン、車輪が回転するのに合わせ、スチール製のハンドリムが鈍く瞬いていた。

 ポール・エリュアールに出会ったのは、サガンの小説だった。あれはたしか高校生のとき、友人との待ち合わせに入った本屋で、「悲しみよこんにちは」を手にとった。
 思えば、それがまともに、自覚的にフランス文学に触れた最初の機会だった。十八歳の少女と言ってもいい初々しいサガンに、五億フランという大金を抱かせたそのデビュー作のエピグラフにポール・エリュアールの詩が載っていたのだ。
 初めはただ読み流していた。しかし読み終わり今一度そのページに戻ったとき、背すじが震えるほどの衝撃を味わった。香織は、その詩が実際どんな言葉で書かれているのかが気になったのだ。
「さようなら、悲しみよ。こんにちは、悲しみよ。おまえは天井の線に刻み込まれている。おまえは愛するあの眼に刻み込まれている……」
 鏡の中を覗き込みながら香織はつぶやく。そこに存在するのは香織ただひとりだけ。しかし、彼女はなにかに怯えるように唇を噛み締め、それから息を吸い込み、止め、長く吐き出して冷水を顔に浴びせた。滴るそれを拭おうとしてハンカチがないのに気がついた。
 松崎奈津子に、貸したままだった。