第三幕 一

 新宿南口にあるニノクニヤ書房は一階から七階までが書店店舗となっており、その品揃えは日本で指折り五本の内に入るという。特に七階部分はフロア全体が洋書コーナーで、ネットでも入手困難な書物を取り扱っていることから香織も頻繁に利用していた。この日も、英語圏で使用されているフランス語教本を取り寄せてもらっていたところであり、受け取りの約束をしていた。予約票を手にレジカウンターへ向かった香織は、他の客がいないことを確認し書店員に声をかける。
「すみません、本日スズキさんって」
 女性店員は気まずそうな顔をした。
「申し訳ないのですが、スズキはしばらく休職中でして」
 休職、その言葉に香織は手元の予約票に視線を落とす。受付は先月、海外からの取り寄せになる為もとより時間がかかると言われていた。店舗から入荷連絡が入ったのは昨日。留守電に入っていた音声はおそらく今目の前にいる女性のものだ。先月受付をしてもらったのはスズキという男性店員で、洋書のみならず語学・教育関連の専門書にも詳しいことからたびたび世話になっていた。
「休職、ですか」
 先週も、先々週も、彼が出勤していたらと思い書店に訪れたが、会えなくとも仕方がないと思っていた。金曜日はいることが多かったが、それでもシフト制だからそれが崩れることもある。だから、また来たときに見かけたら話しかけようと考えていた。しかし、休職ともなると、なにか事情があるのはたしかだ。
 わかりました、と告げて香織は微笑み、予約票を差し出す。女性店員はほっとして背後の棚から見覚えのある本を手に取り、確認を求めてきた。相違なかったため大丈夫だとうなずくと淡々と会計に進んでいった。
 クレジットカードを機械へ差し込み、暗証番号を入力する。そのあいだ、香織はふと浦島太郎の玉手箱でも開けてしまった心地だと思った。
 自分の手の届かないところで物事が移り変わっていく。あるものがなくなり、なかったものが増える。たとえば知らぬ間に駅前の和菓子屋がタピオカ店になっていたり、好きだったチョコレートがコンビニから消えていたり、人もそうだ、いたはずの人が自分の前から忽然と姿を消す。それぞれの人生を生きているからこそ相互作用の及ばないことがままある。そう、だからこそ気ままで、人生においての「軽さ」を維持できるが、その軽さは心許なさを助長する。
香織はセーターの胸もとを無意識につまんでいた。店員は流れるような動作でレシートを切り取り、捺印をしてから香織に差し出してきた。
「あの」
 思い切って、香織はレシートを受けとった後、鞄の中からスケジュール帳を取り出した。その拍子にはらりと紙片が一枚床に落ちて、彼女は慌てて腰を折った。そこには《禪院直哉》と書かれていた。どうしてこんなときに。目の奥にこびりつくようなその字面に、瞬きを繰り返し急いで紙片を拾う。なぜだかわからないが、その四文字を見た途端、胸の奥でざわつきが止まらなくなった。しかしなにごともなかったように手帳のサイドポケットへ挟むと、それから後方のメモページを開き、一枚ページを切り取った。
「実は、洋書の取り寄せをお願いしたくて……」
 自分の手に負えないことがこの世には山ほどある。手を伸ばすべきではないことも。前に進むしかないことも、学んできたはずだった。
 どこか重たい気持ちを抱えながらエレベーターを降りていくと、四階で見知った顔のキャメル色のブレザー姿の少年と鉢合わせた。
「あ、香織センセーだ」
 前髪をアメピンでポンパドールにしたその子は、仏語選択の二年生だった。ブレザーの前を開け放ち、ネクタイはかろうじて結んでいるもののシャツの第一ボタンはだらしなく開襟、その上ショルダータイプの指定鞄を、紐を長めにして後ろに提げている。なんとも今どきの学生だった。手にはニノクニヤのビニール。流れで彼とエレベーターの上下に乗り合わせることになった。
「センセーも買い物?」
「うん、予約していた本を受け取りに。篠宮くんは?」
「オレは検定のテキストを買いに来たんだ」
 エッヘンと笑いながら彼は袋の中を見せてくれる。
「準二級、チャレンジするんだ」香織もつられて頬を緩めた。
「そ、ちゃんともう申し込みもしたから、あとは受かるだけっしょ!」
「面接試験もあるから、対策しっかりね」
「ジョアンナか香織センセにやってもらおっと」
 香織は眉をさげる。ちょうど次の階に着いて、エレベーターを乗り換えた。篠宮は二段下から香織の顔を覗き込むように見上げていた。
「どうか、した?」
 その視線に戸惑いながら香織は訊ねる。
「香織センセーは、遠慮しいだよな」
 篠宮という男子生徒は唇をちょん、と尖らせた。大きな黒目が犬みたいな印象を抱かせた。「遠慮しいって」答えた香織に彼は続けた。
「だって、オレらもっと香織センセーと絡みたいのにさ、鉄壁! みたいな?」
 その言葉にどきりとした。そしてその眼にも。香織は彼の視線から逃れようとして、目を逸らした。しかし完全に逃れることはできなかった。ついに居た堪らなくなり、肩をすくめて誤魔化した。
「生徒の記憶に、先生なんて残らないくらいのほうがいいのよ、学生生活の主体はあなたたちなんだから」
 決して、口から出まかせではなかった。教師がアレコレと先陣切って行事や学校生活を取り仕切るのではなく、あくまで縁の下の力持ちとして、彼らの力で突き進む手助けをする。決して、教師が主役であってはならない。この舞台の主役は決まっている。
 手すりに添えた自分の手をそっと眺める。しかし、それを逃がすまいと彼は下から覗き込んでくる。
「センセーにとって、オレは、オレらはその他大勢のひとり?」
 香織は言葉を失くした。口の中が急に渇いて、なんと声を出したらいいのかわからなくなった。
「まさか」ただ、辛うじて弱々しい吐息だけをこぼした。