琥珀色が揺れている。
「今川先生。……今川先生!」
香織は大きく肩をふるわせ、「ハイッ」とふり返った。
「すみません、お仕事中」声をかけてきたのは、増岡だった。額には汗をかいており、髪も乱れていることからグラウンドから走ってここに戻ってきたのだろう。まばたきをくり返す香織に、「ちょっと、いいですか」と増岡は神妙な顔つきで切り出す。
「一月の修学旅行のことなんですけど」思わず、香織は止めていた呼吸を取り戻した。「大丈夫ですか」増岡の問いかけに、香織はぎこちなくわらす。
「すみません、ちょっと、考えごとをしていたので。……ええと、なんでしょうか」
増岡は釈然としない顔つきだったが、よほど急いでいるのだろう、そのまま本題を切り出した。
「今、学年で修学旅行のしおりを作っているところなんですけど、今川先生に見てほしい箇所があって」
香織は指先を手のひらの中に隠し、いいですよ、と快諾した。引き出しからファイルを取り出した増岡は、それを開きながら、「ここなんですけど」と香織の席の横まで数歩で歩み寄ってきた。
「……ああ、英語の確認ですか」心臓が早鐘を打っていた。気を抜くと自分の体を抱きしめてしまいたくてたまらなかった。どうにかそれを堪え、香織は増岡に渡されたしおりの原稿に目を落とした。
「ちょうど見学予定の施設から案内が届いて、いくつか注意事項があるみたいなのでのせたんですけど、この文章って難しいですかね。僕、英語はにがてで」
「ちょっと見てみますね」
あとは、直哉のことを訊かれると思って、どこか落ち着かなかった。彼と別れたあと、香織はひとり職員室に戻ってきたが、増岡はまだ彼を諦めていなかった。自分の授業が始まるギリギリの時間まで彼を追いかけようとしていたのを生徒のうわさで耳にしていた。手を焼く生徒ほどかわいい、ではないが、素行のあまりよろしくない直哉のことを増岡なりに案じているのだろう。転校してきたばかりのうえ、家族とも連絡がとれないとあっては、未成年の彼がよからぬことに巻き込まれているのではないかと心配なのだ。
ほんとうは、たぶん彼は高校生なんかではない。あのたたずまい、平気で人を貶めることのできる眼、決して自分の領域には踏み込ませない頑強さ。だが、香織は唇を隠して、手元の原稿に集中した。
「そういえば、先生、土曜日に倒れられたって聞きましたけど」英字を追いかけていた指が止まった。
「どこで、それを?」
「陸上部の二年です。ちょうど練習中にけがをして保健室に向かったら、禪院が先生を抱えて入ってくるのを見かけたそうで」
そこで、増岡ははっとして頭を下げる。
「すみません、あまり気持ちいいものではないですよね」
香織はどう答えたらよいかわからず、視線を泳がせる。
「いえ、こちらこそ、心配をおかけしました」
伏せた視線の先に、自らの指先が映った。小刻みに、ふるえている。香織はたちまち指先を握る。
「でも、禪院もそういうところあったんですね。掴みどころがないというか、必要以上に人を寄せつけようとしないから、だれかを助けようなんて思う人間じゃない、そんなイメージでした。だめですね、よく知らないで彼を決めつけるなんて」
そうだ、ぜんぜんしらないのだ。香織は唇を噛み締める。一度目をつむり深呼吸をすると残りの英文を確認し終えた。
「少し難しい単語も入っていますが、問題ないと思います」
香織が言うと、増岡はよかったとはにかみ、「すみません、お忙しいところ」と彼自身も慌ただしく職員室から出ていった。
しばらくして、ただ呼吸だけをくり返していた香織は、携帯にメッセージが届いていることに気がついた。
《例の件、部屋は八〇八号室で》
息苦しくなって紅茶に手を伸ばすと、やはりカップを持つ手はしきりにふるえていて、たまらず香織はそれを元の場所に戻した。
《わかりました》彼女はメッセージを返した。
