二〇〇六年、ある少女が術師殺しに殺された一件からしばらくして、ひとつの宗教団体が終局を迎えた。■■市にある本部では、その日集まっていた幹部の男たちと関係する信者数名が何者かにより惨殺、現場から被害者の遺体が回収されたが、いずれも半身を失うかあるいは形を残さないほどの損壊であった。
都立呪術高専は、呪霊を視認したという窓の報告を受け、術師一名を派遣。現着より三十分後、祓除完了。現場から一人の少年が救出された。
その少年の名が、河西丈だ。
直哉、そして七海を乗せたグレーのセダンはサイレンを響かせ首都高速を駆け抜けていた。すでに辺りには夜の帳が下り、空はとっぷりと濃紺に染まっている。
港区の瀬古クリニックから西へ、彼らはその二〇〇六年に事件のあった旧教団跡地へ向かっていた。
「どいつもこいつもキナ臭くてたまらんわ」
直哉は苛立たしく制服のネクタイを緩めながら携帯を放り出した。伊地知から至急送られてきた写真によると、十年前の惨殺事件に派遣された術師は「夏油傑」。現在、特級呪詛師として全国で粛清対象となっている。
「瀬古さんとカサイの関係は、二〇〇七年からだ。事件後、彼が養護施設で暮らすことになり、行政の勧めで犯罪被害者支援プログラムを受けることになったのが、きっかけだった。そのころ瀬古さんはすでにクリニックを開業していて、数多くそうした被害者支援を行なっていた。とくに、高専から回ってくる呪霊被害の被害者支援は彼が率先して請け負っていたはずだ」
そもそも、瀬古敏明と高専の関係ができたのは、彼が学生時代より窓として高専に寄与してきたからだ。幼少期から呪いが視認でき、彼自身も苦労したのだろう。一般人にとって視えることは、ふつうではなく、忌避の対象である。そういった経験から、呪霊被害に遭いPTSDを負った人々や、後遺症により視えるようになってしまった人々のサポートを行なってきた。河西の件も、養護施設で重く口を閉ざした彼の心に寄り添いたいという瀬古きっての願いでもあった。
「しっかし、四年やで、四年。そのあいだ、アンタらはなにしとったん。恩人の瀬古敏明のニセモノ相手に手の内晒すような真似して、ホンマに愚図やな」
とどまることを知らない直哉の悪態に、本郷は返す言葉もないと息をつく。
「四年前、事故に瀬古家の惨殺事件が起こる一か月前に、河西は自宅アパートの火災によって亡くなっていた。それで、捜査線上にはあがってこなかったんだ」
なるほど、と助手席で七海が繋ぐ。
「御遺体の身元判定は」
「河西の部屋から遺体が発見されたこともあって、身元確認には大家と養護施設の関係者が立ち会ったのみ。間違いなかったそうだ」
「では、DNA鑑定まではしてないわけですね」
「ああ、火災の原因に関しても、料理中の火の不始末によるものだとして、事件性はないと見られた」
直哉は後部座席で長い脚を組みながら盛大に舌を打つ。
四年前の瀬古家母子殺害事件から、すでに狂っていたのだ。当時現場に残された遺体は二つ。瀬古敏明のものはどこにもなかった。呪霊による惨殺事件ともあり、室内に残された多量の血痕に関する詳しい調査は行われず、新たな瀬古敏明の誕生に、だれも気づくことはなかった。そうして瀬古敏明――否、河西丈は今川香織を探し、四年間もこちら側で甘い汁を吸いながらのうのうと過ごしてきたわけだ。
だが、真犯人がわかったとて、その動機は不明瞭なままだ。なぜ、凡人極まりないあの今川を狙うのか。なにが彼らのあいだにあるのか。苛立たしさに指先をゆっくりと擦り合わせる直哉の脳裡に、ある声がよぎる。
――おねがい、香織先生をたすけて。
瀬古メンタルクリニックを出る前、松崎に告げられた言葉だ。四年前から、彼女と篠宮は今川の存在を知っていた。幼なじみの瀬古絢音の目を通して。しかし、事件から数年、S英館大附属高校へ入学した彼らは出会ってしまった。
幼なじみが心から慕い、そして「呪い」をかけてしまった彼女を。
「さっさと教師なんざ、辞めときゃよかったんや」
またひとつ舌打ちをする。
教師など辞めていれば、こんな事件に巻き込まれることもなかったかもしれないし、もっと早くに死んでいたかもしれない。そんなことこっちが知ったこっちゃない。散々振り回された挙句、河西に一泡食わせられたことが心底気に食わなかった。
そも、はじまりから終わりまで河西と今川のための舞台のようなものだ、まったく時間の無駄だった。
「授業も下手、人望もそれなり、いつも辛気臭い顔しおって」直哉は唸る。
「それこそ、呪いだろうな」
本郷は言った。
――香織先生みたいな先生になるんだ。わたしが大人になるまで、待っててねって約束したの。いつか一緒に働くのが夢なんだから!
少女がいつか残した言葉が、今川の胸に今も深くこびりついているとしたら、とんだ悲劇だ。どんな愛のささやきさえ、あるいは福音でさえ、言葉は呪いとなる。
――頼んだぞ、禪院。
「アホくさ」
直哉は吐き捨てる。まもなく車は首都高を降りる。
「ずいぶん良き御友人に恵まれたようで」車に乗り込んだ途端、そっと告げてきた七海を思い出し、直哉は闇に染まった外を睨み付けた。
これだから一人のほうがよっぽどマシや、そう思いながら。
高速を降りた一行は国道を走り、しばらく山道を進み目的地へたどり着いた。人家がないこともあり、辺りは鬱蒼としている。門扉を照らす街灯には、蛾が一匹、目映い光に吸い寄せられていた。
「闇より出でて闇より黒く」車から降りるや直哉は唱える。「――その穢れを禊ぎ祓え」
ぬっと、夜空にさらなる闇が下りた。
「……なんやねん」
七海がこちらを見ていた。結界術が完成した気配を感じながらブレザーの袖口を払うと直哉は胡乱に視線を返した。
「いえ、アナタもそういうことをするのだと感心しまして」
「チンタラされても迷惑なだけや」一蹴して直哉は構えることもなく帳に踏み込む。
だが、「待て、禪院」呼び止めたのは本郷だ。
「河西は殺すな」本郷は強い口調で言う。
「だれに指図しとんねん」
「お願いだ、殺さないでくれ。俺たちは真実を確かめなければならない、確かめる必要がある。これ以上、闇に葬り去りたくないんだ」
直哉は背を向け、あからさまに息をついた。
「上にはきっちり報告してもらおか、どんだけ俺が走り回ったか」
「ああ必ず」本郷はうなずく。
「一番走り回ったのは、間違いなく伊地知くんでしょうけどね」
「ホンマにやりにくいな、もう帰ってええで」
本郷は特殊部隊や救急隊の手配のためにその場に残ることになり、直哉と七海が旧拠点である敷地内に立ち入った。門扉の向こうにはアスファルトが続き、ところどころ設けられた花壇や芝生広場は荒れ放題で、鬱蒼という言葉が似合う。建造物はひとつ、あらゆるものが平行的であり垂直である白い角張ったデザインのそれが、十年前の事件現場だ。
夜も更けているためはっきりとした色は判別しがたいが、長年放置されたこともありかなり汚れが目立つだろう。窓や屋根も直線的であり、入り口部分にのみ描かれた半円アーチがどことなく嫌悪をあおる。
「一九〇〇年代初頭に流行った、アール・デコ様式ですね」
宵闇を切り裂きながら七海が言う。
「へえ、詳しいんやね」
まったくどうでもいいことだ。「常識ですよ」と告げた七海を無視して、直哉はさっさと突き進むと、玄関先のガラス扉についたレリーフを見据えた。
「……女?」
まるで女神と思しき女像であった。長い髪を垂らし、天をあおぎ、長いドレスをなびかせている。よくよく見ると、背後に逆五芒星を背負っていることに気がついた。
「かつての名残りでしょうね。五芒星はもともと女性を示すものではありましたが、それを一九六〇年代に……」
「そういうカルト宗教のシンボルになっとるんやろ。特に、逆さになるとな」
七海はサングラスをあげた。「知っていらしたんですね」
「そのくらいは常識やろ」
ともかく、ここからが舞台の本番であった。ガラスレリーフの扉に鍵がかかっていないことを確認すると、直哉を先頭に二人は中へ入り込んだ。
幾何学的で無機質な外観とはうらはらに、中は絢爛という言葉が似合う造りだった。かつての栄華を物語る調度品の数々、しかし、同時に不気味さをおぼえた。さすがに十年も経っているからか、殺人の痕跡も消し去られ整然としている。だが、まるでキャバクラやホストクラブなど、夜の店によくあるハリボテのそれに思えた。肌が逆撫でられるというか、綺麗に整頓されているくせに、けばけばしいそれらがかえって気色悪い。この建物を覆う影にどんな怪物が隠れているのか、直哉は暗闇に目を凝らした。
エントランスホールを抜けると廊下は左右に分かれた。「あれを」七海が見つけたのは血痕であった。それも、まだ乾き切っていないものだ。ひとつ、ふたつ、と垂れていたのが、やがてレールを描くように廊下の先へ続いていく。辿っていくと、それは不自然に壁の前で途切れていた。
「隠し扉でしょうね」
七海がいくらか壁を手のひらで探ると、「やはり」自ずと内開きに壁が開いた。中は真っ暗だった。「明かり」とにべもなく告げた直哉に、七海はサングラスを押し上げながらスーツの胸もとからスマートフォンを取り出した。
やがて闇が明かされる。ライトに照らし出されたのは、血塗れで横たわる更家の姿だった。七海が駆け寄ろうとした途端、影の中でなにかが蠢いた。
カラカラと音を鳴らし其れは素早く動き回る。「どっちがいく?」
のんきな声だった。「お好きにどうぞ」と七海も同じ調子で答えると、直哉はもったいぶった仕草で両手を広げた。
「ほな、七海君がどぉぞ。俺、できるだけ手ェ汚したないねん」
否や、七海は軽く腕を背に回し、ジャケットの下から得物を手にとった。消滅反応が起こったのは一瞬だった。
へえ、と直哉は感心する。「なかなかやりよるんやね」
「アナタほどではありませんけど」
「そらそうやわ。なに言うてんねん」
とりとめもない応酬を交わし二人が歩み寄ると、更家はかろうじて息があるようだった。「わかりますか」七海が膝を折り、慇懃な仕草で声をかけた。
「きみ……は……」
先に、直哉の姿が目に入ったのだろう。キャメル色のブレザーに目を細め、なにかを語ろうとする。
「かおりせんせいが……あぶない……」
「ここまで、その香織先生とは一緒だったんですね」
弱々しく更家はうなずいた。
「ここは私に。特別一級は今川さんを」
「言われんでもわかっとるわ」
さっさとコンクリートを蹴ろうとするが、待って、と掠れ声がそれを止めた。
「彼女の血は……非常に珍しい血です……」
直哉は眉根を寄せる。「めずらしい血?」
はい、と更家は吐息で答えた。
「彼はたぶん……ずっと、それを求めて……」
更家が咳き込む。七海がその肩に手を添え楽な姿勢をとらせた。
「わかりましたね、特別一級」
直哉はふんと応えた。
「その血を手に入れて、ドウカする、ね。結局、蛙の子は蛙ってわけやな」
視力を補うために、他の感覚器官が鋭敏になることはよくあることだ。河西はおそらく聴覚と嗅覚、それは一般的な人間よりも優れていた。だから、たとえ今川香織の姿形がわからなくとも、わずかな残り香で、彼女の影で、彼女を四年も追い続けた。できる限り足を掴ませない方法で。
「おねがいです……」更家は残った力で地面に爪を立てながら、必死に直哉を見上げる。その顔はなんとも無様だ、と直哉は思った。
「しゃべらないほうがいい」七海は告げる。だが、更家は続けた。
「彼女は、現状、輸血ができない状態です……代わりの血が、ないんです、だから……」
やれやれと直哉は首を捻った。ゴキリ、と重々しい音が剥き出しのコンクリートに響き渡った。
「そんで、命をかけてでも守りたい、ねえ」
そのとき、またもや影でなにかが蠢いた。
「悠長にしている暇はありませんね」七海が息をつく。「ここはもう任せて、さっさと向かってください」
「ご親切にそらどぉも。貸しってわけかい」
「……いえ、あなた方に貸しを作るのも遠慮願いたい。ただ、すでに勤務時間を超えているので、手早く済ませていただければ、と」
直哉は喉をくつりと鳴らした。
「当たり前や、さっさと切り上げんで」
そうして彼もまた影の中へ消えていった。
