第二幕 第十一話

「神楽ちゃん、待って」
 慌てて草履を足に突っ掛けるも、チャイナ服に身を包んだ女の子は鉄砲玉のように飛んで階段を駆け下りていく。その素早さに圧倒されて、わたしは思わず玄関先で二の足を踏んだ。
 目指すは白い綿毛のような毛をたっぷりと身に纏った、大きなもふもふ。そのもふもふの塊もとい犬――万事屋の大事な一員の定春は、ふるふるとなにかを堪えるように震えている。
「やばいアル! もう定春も我慢できないって言ってるネ!」
「それは大変! 先に行ってて!」
 神楽ちゃんはこくりと頷くと、限界迫り来る定春を引っ張って駆け出して行った。
「あれにはついていけないわ」
 その一人と一匹の背中を見つめながら、苦笑いを零す。
「ちったぁおたくも運動したらァ?」
 すると、後ろからのんびりと間延びした声が投げかけられた。
 わたしはぷっくりとふぐのように頬を膨らませながら振り返り、「ピチピチのレディーを捕まえておいて失礼しちゃうわ」と声の主に言葉を返した。
「いつどこで俺はお前を捕まえたんですかぁ?」
「えぇ、覚えていらっしゃらないんですかぁ?」
「ねーよ。つーか、自分でピチピチだとか死語言っちゃう女には、ロクな奴がいねーって銀さん知ってっから、キャッチアンドリリースでヨロシク」
 と、言いながら、銀さんにその頬を摘まみあげられて、現れたふぐもすぐに身を隠してしまう。
 ひどい、と大人気なくもムッとして彼を見上げれば、その目を隠すようになにかを投げ付けられた。
「ほら、早く追い掛けねーと見失うぞ」
 ぽすん。柔らかに顔に当たって、落ちていくそれを手のひらで受け取る。
 いつも使っている巾着だった。
「いけない、忘れるところでした」
 すみません、ひとつ笑いを零す。
 銀さんは大きな欠伸を拵えながら、覇気のかけらもないまなこをこれでもかと細めて、ひらり手をあげた。
「帰り団子買って来いよ」
 さっさと行けと言わんばかりに、シッシッとその手を払うように振られて、わたしは肩を竦めて返事をする。
 そして、神楽ちゃんと定春のあとを追うべく、階段を駆け下りて行った。

「凛子」
「うん? どうしたの?」
 定春が公園の向こうで駆け回るのを、珍しく二人で眺めていると、日傘を差した神楽ちゃんが着物の袂を掴んできた。俯く彼女に視線を下ろすが、その表情は真っ直ぐでさらりとした彼女の髪に隠れてしまっていた。
「私、凛子のこと大好きアル」

 ぽつり、神楽ちゃんは言った。
 一拍置いて、わたしは「うん」と相槌を打つ。
「わたしも神楽ちゃんのこと大好きだよ」
 それから、一音一音、余韻を残すようにゆっくりと告げると、ぎゅう、と袂が強く握られた。
 神楽ちゃんはなにも言わない。
 太陽が天辺あたりまで昇りつめている。夏はとっくに過ぎたというのに、その日差しは強い。神楽ちゃんの差す傘は微動だにせず、彼女の白い肌に影を落としている。
 わたしは頬を緩めて、撫でるように彼女を見守りながら、その先をいつまでも待つ。
「凛子は、大切な存在アル」
「うん」
「大切で、大好きで、大切アル」
 うん、と静かに受けとめる。
 だから、神楽ちゃんはたどたどしく紡いだ。
「もし、あのグラサンエロ親父のところに行っちゃっても、たまには会ってくれる?」
 いつものあの明朗な大の男も恐れぬような物言いとは違い、酷く小さな声で。向こうで定春と駆け回る子どもたちの声に紛れてしまいそうだった。
 神楽ちゃんの真面目な言葉に、わたしはひとつ、瞬きをした。
「グラサンエロ親父って、松平長官のこと?」
「当たり前ネ、他にだれがいるアルか」
 わたしはいけないと思いつつ、くすくす笑いだしてしまった。
「っもう、笑いごとじゃないネ!」
 怒った様子で神楽ちゃんは顔を上げた。
 ごめんね、目尻に浮かんだ笑みを残したまま謝るが、神楽ちゃんは眉を歪めて難しい顔で口を尖らせる。
 その拗ねたような仕草すらも愛らしくて、わたしはなにも言わずに、袂を掴んでいた神楽ちゃんの手を取った。
 神楽ちゃんが、は、と小さく息を呑んだ。
「大丈夫だよ、わたし、松平にはならないから」
 そして、わたしはその小さな手をぎゅう、と握り締めて、神楽ちゃんの目の高さに合わせて体を屈めた。
 青い、透き通る海のような綺麗な瞳が、ふるふると揺れている。今にも泣き出しそうで、いつもの粗暴で不器用なやんちゃ姿ではなく、ただの一人の少女の姿だった。
 だが、桃色の小ぶりな唇から飛び出たのは、反対の言葉で。
「なんでネ! このままじゃ仕事も見つからない、家もない、プー太郎どころじゃないヨ。ホームレス真っしぐらアル!」
 神楽ちゃんは声を大きくして捲し立てるように言う。少し調子を取り戻した毒舌は、実に的を得ていて「たしかに」とわたしは笑い肩を揺らした。
 なにか言いたげに、眉を跳ね上げた神楽ちゃんに、でも、と続ける。

「例えこの先が茨の道でも、神楽ちゃんたちがいてくれるでしょう?」

 じい、と見つめられる。青い宝石が相も変わらずゆらゆらと揺れて、わたしは目を逸らさずにそれを見つめ返した。
 傘の端から溢れた太陽の光が射し込む。ゆるりと宝石が煌めき、やがて、長い睫毛が揺れた。ゆっくりと瞼が下された。
「ハァァアアア」
 神楽ちゃんは呆れたように大きく息を吐いた。
「凛子がどうしてもって言うなら、仕方ないネ。皺くちゃのババアになるまで一緒にいてやるヨ」
 やれやれ、ワザとらしく肩を竦める神楽ちゃんに、わたしは笑みを漏らす。
「それは心強い。頼んだよ、神楽ちゃん」
「ワオン!」
 神楽ちゃんの代わりに、定春が鳴いた。任せろ、と言わんばかりのそれに、わたしたちは目を見合わせたあと、彼の方を向く。
「あ! 定春、ごっさ泥だらけネ!」
「あちゃー。鼠でも追い掛けて穴掘りしたのかしら」
 いつの間にか白い綿毛が茶色く染まって、でも誇らしげにお座りをしている定春を呼び寄せる。
「これじゃ、帰りに団子屋に寄れないね」
 大きな体についた枯葉を取りながら言うと、神楽ちゃんは目を輝かせる。
「団子屋!?」
「うん、銀さんにお使い頼まれていたの」
「凛子、それを早く言うネ! 定春、一旦家に帰って体洗って、そしたらお留守番できるアルか」
 ワオン、また一つ、定春が吠えた。
「それで、銀ちゃんも新八も連れて、みんなで団子食べに行くネ!」
 そうとなれば善は急げ、神楽ちゃんは定春をリードに繋ぐと、オー! と拳を上げた。
 しんみりとした空気はどこへやら。
「あっ、待って神楽ちゃん」
「凛子、団子は待ってくれないアル。早くするヨロシ!」
「ええ! もしかしてまた走るの!?」
「またって、全く凛子は文句ばっかりで駄目アルな。皺くちゃのババアになってもかぶき町フルマラソンに参加しようって約束したネ」
「全然してないから、それどころかマラソンのマの字も出してないから。43.195キロの茨の道は御免だから。お願いだから普通の老後生活送らせて、って神楽ちゃん待って、腕掴まないで」
「凛子は鈍足ネ。もうちょっと運動した方がいいヨ」
「あなたたちが異常なの!」
 とかなんとか言いつつ、鉄砲玉の如く駆け出していく神楽ちゃんに腕を引かれて、飛ぶようにして万事屋へと帰っていくのだった。

 

 こうして、わたしはついに松平家の養女になる話を断った。
 松平様が名残惜しくも、優しい面持ちで「そうか」と答えを受け入れてくれた時、全身の力がすう、と抜けて、わたしは安堵したように、自然と笑みをこぼしていた。
 どこか後ろ髪を引かれる一抹の思いを断ち切って、深々と頭を下げて応接間を後にすると、

「アアアアアまじかァァア、凛子ちゃんに断られちゃったよォォオ。くっそ、なんだよあの笑顔、可愛いじゃねぇか! オジさんは凛子ちゃんの幸せを祈ることに決めた! でもまじでなんかこう、腹ん中むしゃくしゃするからさぁ、ちょっと近藤そこ立ってくんない?」

 ――云々。

「いやとっつぁん、腹癒せに俺を銃の的にするのだけはやめてくれねェか」
「うるせェ! 武士に二言はねェ」
「二言どころか一言もなかったんだけど!?」
「凛子ちゃんンン、フられたとしても、俺は一生君を永久指名するからなァァア! 貴女が、好きだからァァア! 一発ヤレるまで諦めねェからなァァアアアッ」
「なんかかえって目が爛々として……って、ちょっ、セーフティ外さないでとっつぁん危ないからってうぉおおあああッ」

 ――ガウンッ
 なんて、閉じた襖の向こうから聞こえたのを、わたしは堪え切れずにくすりと笑いを漏らした。
 そんなわたしの横で、見送りにと共に席を立った副長さんが大きな溜め息をつきながら頭を抱えている。
「にぎやかですね」
「あの人が来ると、にぎやかどころじゃねェ。嵐だよ嵐」
「まあ、たしかに。でも、温かいひとですね」
 苦言を呈した彼にそう言えば、彼は流すようにこちらに視線を寄越したあと、小さく息を吐いて「まあな」と肩を竦めた。
「よかったのか、これで」
 その言い方がだれかさんに似ているようなそんな気がして、わたしは目の前の男をまじまじと眺める。
「……なんだよ」
「いえ、まさか貴方にそんなことを言われるとは思わなくて」
 言葉を呑み込み、虫の居所が悪そうに眉をひくつかせる様子に、わたしは頬の皺を深くする。
「大丈夫です、色んな人が支えてくれますから」
「ま、とっつぁんも黙っちゃいねェだろうしな。今後も付き纏われる覚悟、しておいた方がいいぜ」
 ご愁傷様などと言い出しそうな呆れ口調に、とんでもない、と声を裏返したあと、今度はしっとりとゆるやかに静めて紡ぐ。
「こんなわたしに、嬉しい限りですよ」
 気持ちを抑えきれず頬や口元に浮かび上がらせる。彼は呆れたように、ふん、と鼻を鳴らした。
「色々と、ありがとうございました」
 泣く子も黙る鬼の副長、そんな彼の姿を目に写しながら、わたしは背筋をぴん、と伸ばした。
 解せぬように眉を顰めながら、彼は器用に目を瞬かせる。
 このとき、きちんと顔を向かい合わせたかもしれない。常々彼の醸し出す冷ややかな印象は、端正な顔立ちを際立たせる。相変わらず、いけ好かないほどに、整った顔のひと。
 だが、面食らったように微かに目を大きくする姿は、どこか年相応、否、あどけないような、どこか丸みを帯びた姿だった。
「……俺ァ、なんもしてねェよ」
「倒れているわたしを助けてくれたの、副長さんだとお聞きしましたから」
 なんだかんだ二度も助けてもらってしまったのだ。すまいるで指を切ったときと、先日――。
 しっかりと彼を見据えこうべを垂れると、彼は黙り込んで、そっぽを向いてしまった。
「次、どっかでのたれ死んでても、俺ァ助けねェからな」
 そして、背を向けて歩き出す。
 吐き捨てられた言葉に、わたしは一寸目を瞬かせて茫然と立ち尽くしていた。だが、その言葉の意味を理解した時、頬に笑みが溢れて止まらなくなった。
「お優しいですね、本当」
「るせェ。今度余計な口聞いたら、しょっ引くぞ」
「ああ、怖い」
 口に手を当ててくすくす笑いを隠すと、チッと舌打ちが聞こえてくる。
 銀さんの憎まれ口がうつったかしらね、なんて。胸の内に浮かんだ加虐心に蓋をする。以前のような喉のザラつきも、鋭く射抜くような視線も、まるで気にならなくなった。
 晴れやかな空の下、庭先では楠に冬鳥がやって来て枝木を揺らす。ほんのりと冷たい空気が笑いすぎて火照った身体をさましてくれる。少し早い冬の匂いがすぐそこまで来ているような。だが、秋は穏やかで心地いい。
 黄色や赤、鮮やかな色合いに染まった葉が落ちていく。なんてことない風景だと言うのに、とても美しく感じた。
「オイ、突っ立ってると置いてくぞ」
 そう言いつつも、ゆっくりと進んでいく背中を見つめて、わたしは目を細める。そして、遅れぬよう、後を追いかけた。

 

 屯所からの帰り道。
 どこかすっきりとした気持ちでかぶき町の一番街に向けて歩いていくと、あの馴染みの橋の上に、人影があった。
「銀さん」
 目を瞬かせていると、その人は木でできた橋の欄干に寄りかかったまま、おーす、と手をゆうるり振った。
「なんか、デジャヴだよなぁ、このシーン」
 どうしてここに? 問う私に、銀さんはいつものやる気のなさで答える。
「どっかのだれかさんがまたテロリストに会って血だらけになっちまったら、後味が悪ィんでな」
「だれでしょうか」
「お前だよ」
 目をこれでもかと細めて、ケッと銀さんは吐き捨てた。それがなんともいつもの坂田銀時節で、わたしはふふ、と声を漏らし前髪を揺らした。
 ザッザッと草履を鳴らしながら、欄干に手を掛けてゆっくりと橋の中央に向かっていく。

 ――君は〝まこと〟だ

 もう、どんな声だったかはわからない。それでも、脳に直接訴えかけるように言葉が染みる。
「銀さん、〝真〟ってなんでしょうね」
 隣に歩み寄り、彼の西陽に煌めく銀の絹糸に目を細めながら、迎えの礼を述べるよりも先に口にする。
「さあ、銀さん難しいことはわかんねーからなあ」
 欠伸を噛み殺した声で、銀さんは言った。それから体をくるりと反転させて川面を眺め始める。
 静かな流れを見つめ、なにを思っているのだろう。それは常と同じく窺うことはできない。
 だが、それでも。
「いつかは、全部吹っ切れますかね」
 わたしは欄干にかけた指先をもぞつかせながら続けた。
「さあなァ。何年も拗らせてる野郎も知ってるし、父ちゃん死んだって凛として生きてるやつらだって知ってる。お前次第じゃねぇの」
「そう、ですよね」
 銀さんと同じように川を眺める。
「吹っ切りたいけど、吹っ切りたくないような気もするんです」
 もう、この川に飛び込んであの時に戻りたいとは思わない。だが、川面が波に揺らいで、きらりきらりとさんざめくから、胸の奥が少しだけ騒めいた。
「あーあ、最近の女どもは欲張りすぎだよ、まったく」
 銀さんのうんざりしたような言葉にわたしは笑う。
 欲張り、確かにそうかもしれない。
 ――けれど。
 世の中では白黒付けるとは良く言うものだが、実際には白だとか黒だとかハッキリとしたものなんて少ない。白も黒も、そしてその他の色が混じり合って、物事は色づいていく。
 わたしは川面をぼんやりと眺め続けた。
「忘れたく、ないのでしょうね」
 淀みに浮かぶ泡が、消えたり、大きく一つになったり。そして流れに身を任せてゆらりと遠ざかっていく。それがどこか、自分の胸の内にこびり付いていたなにかと重なって、儚い無情さと、切なさと、どうしようもない愛しさを助長した。
 失われていく記憶の欠片を寄せ集めるように、ぎゅう、と瞳を閉じた。
 瞼の裏にはあの日々が、あの人が、映っていた。
「アイツ、そんなにいい男だったわけ?」
 眩いほどの夏の温かな日差しの中、優しげな微笑みをその頬に浮かべて、わたしの名前を呼ぶ。

 ――凛子さん

 先生、わたしは心の中で応える。
 銀さんの問い掛けに、わたしは思い出し笑いをするように、はにかみを口元に載せた。
「そうですね、いい男でした」
「カーッ、妬けるね」
 吐き捨てられた言葉に瞼を擡げて、銀糸を見上げる。
「忘れなくていいんじゃねーの」
 銀さんは言った。
「あの優男も、お前みてーないい女に覚えておいてもらえたら、男冥利に尽きるだろうよ」
 同じように川面を眺めるその横顔が、胸を擽って。わたしは、ふ、とまなじりに皺を作った。
「帰ぇーるぞ」
 余韻に浸る間もなく、銀さんは身体を起こして、橋から手を離した。

 風が吹く。
 攫われる髪の毛を懸命に耳に掛け直しながら、少し前を行く銀さんを真っ直ぐに見つめる。

 世界が色づいている。
 鮮やかに、美しく、光り輝いて。

「ねえ、銀さん。わたしのこと、いい女って?」
「んなこと言ったっけ?」
「ふふ、いい女かあ」
「いや、聞けよ俺の話」
 ――いい女。
 繰り返しながら、足を踏み出す。
「うれしい」
「単純な女」
「女はみんな単純なものなんですよ」
 へぇへぇそれは失礼ござんしたね、と小馬鹿にするような返事にくすくす笑って、銀さんの隣に並んだ。

「凛子ー! 銀ちゃーん!」
「凛子さーん、銀さーん!」

 向こうで、手を振っている少年少女の姿が見えた。
「神楽ちゃん、新八くん」
 どうしてここに。
 思い掛けず足を止めて、目を瞬かせるわたしに銀さんも立ち止まった。
「お前を迎えに行くって聞かなかったんだよ」
 どうしてあんなにワガママに育っちまったかね、とうんざりした様子で頭を掻く銀さんだったが、わたしの顔を見るや息をついて面持ちを緩めた。
「行くぞ」
「……はい!」
 はにかみを浮かべて、わたしは頷く。
 そして二人で並んで、ゆっくりと歩いていく。ザッザッと、コツ、コツ、と。橋桁を鳴らす。ちぐはぐなそれが、やがて少しずつ混じり合う。
「あ……」
 ――この匂いは。
 すん、息を吸った。甘い甘い花の香りが鼻腔を擽り、思い掛けず目を細める。
 足を緩めたわたしに銀さんは首を傾げる。
「なんだよ」
「金木犀。いい香り」
「ああ、甘え匂いがすんな。パフェが食べたくなるぜ」
「沖田さんと似たようなこと仰るんですね」
 銀さんは今にも世紀末が訪れるのではないかというほどぐしゃっと顔を顰めた。
「ゲェェェ、アイツと一緒なのはドSだけにして欲しいんですけど」
 なに言ってるんだか。その言葉をさらりと川面に流しながら、すん、と息を吸い込む。
「変わらない、いい香り」
 甘くて、胸を落ち着かせる金木犀――。
 風の騒めきに隠した小さな呟きを、銀さんは聞いていたようで、
「どこにいたって、お前はお前だろ」
 と、ぶっきら棒に言うと、着流しの中に手を滑り込ませて袂を風に靡かせた。
 白い着流しが風にひらひらとはためく。銀色の髪がふわりふわり、足取りに合わせて揺れる。
「ふふ、銀さんってば、ほんとう」
「なんだよ、お前いつも言葉を途中で止めんじゃねーや、気になんだろ」
「なんでもありません」
 ――なんだかんだ、本当、優しいんだから。
 もう一度ゆっくりと息を吸い込んで、大きく伸びをして。甘くて優しい香りに胸を膨らませた。
「でも、本当、いい匂い。袋いっぱいに詰めて、毎日嗅いでいたくなりますよね」
 一息に腕を下ろして、銀さんに歩み寄る。
「なーんかなぁ、絶妙に言うことが可愛くねェんだよなぁ、お前は。減点だ減点」
「なんのポイントです?」
「ン? 決まってんだろ、銀さんのハートを擽るポイントだよ」
「あら、じゃあそこは加点しておいてくださいよぉ、ねっ銀さん?」
「マイナス百点」
「ひどい!」
 心持ち上目遣いをして猫撫で声で言ったのに、あからさまに銀さんは眉を顰めた。
「急に可愛こぶったってなぁ、元がいけねぇ。花より団子感がムンムンに漏れ出てるから」
 とかなんとか。ぶつくさ続く文句に、わたしはからからと笑った。
「アッ、銀ちゃんと凛子がイチャついてるアル!」
「銀さん、ついに凛子さんにまで手を出したんですか!? 僕は、僕は許しませんからねェェエ!」
「良い雰囲気醸し出してしっぽり収まるアルか!? オイオイオイ、こちとら二人が深夜に密会してること知ってんだからナァァア!!!!」
 とうとう待ち草臥れたのか、神楽ちゃんの叫びを皮切りに、ここが住宅地だと言うこともお構いなしに、二人は声を荒げてこちらに向かってきた。その勢いや、まさに猪突猛進。
「あいつらの目は節穴か。処女と童貞が拗らせやがって」
 その言葉に銀さんって本当……と呆れて肩を竦める。それも束の間。次の瞬間には「覚悟ォォオオ!」という叫び声とともに、神楽ちゃんと新八くんが、銀さんに体当たりをした。
 ――相変わらずねえ。
 呑気に口元に手を当てて、揉みくちゃにされる様子を見守る。
 殴られたり、蹴られたり。そして大きな逞しい腕にぎゃあぎゃあと飛びついてくる神楽ちゃんと新八くん。やいのやいの、銀さんはウルセェ離せだとか言っているが、満更でも無さそうで。
 本当に、うるさい。
 うるさすぎる、いつもの万事屋。

 ――けれど、これが堪らなく好き、なのよね。

 目を細めていると、にょき、と手が伸びてきて、あろうことか腕を掴まれた。ちょっと? などと目をきょとんとさせている間に、強く引かれその輪に飛び込んでいく。
「高みの見物たぁ、いい趣味してんじゃないの」
 眉を上げて口元をほんの少し歪ませた銀さんに、子どもの喧嘩みたく、ベェと舌を出した。
 だが、そのまま神楽ちゃんに後ろから抱き着かれ、新八くんと銀さんの胸に押し付けられ、わたしまで揉みくちゃにされ始める始末。
「ちょっとちょっと、三人とも苦しっ」
「新八、今どさくさに紛れて凛子のおっぱい揉もうとしたアルな」
「えー、ぱっつぁんそりゃないわー。マジ銀さんそんな子雇ってたとか、信じらんないんですけどォ。最近の若い子って恐ろしいわー」
「なっ、してませんから! って銀さんンン! なにちゃっかり自分は涼しい顔して凛子さんのお尻に手を当ててんですか!」
「銀さん……」
「え、これお前の尻? うっそぉ、銀さんマシュマロでも触ってるのかと思ってたわ。いっけねー、うっかりうっかり。でも、こう言っちゃなんだけどよ、ちょっと垂れてんじゃね? 銀さんとしてはこう、ぷるん! としたプリンみたいなのが――」
「最っ……低!」
 挙句、お尻をやわやわと揉まれたわたしが、銀さんの頬に真っ赤な紅葉を咲かせたのは、言うまでもない。

 .
 .

「いやあ、凛子さんは本当に良い女だ」
 煤や埃に塗れた出で立ちの近藤を、土方は咥えた煙草に火をつけながら横目で見た。
「自ら望んで茨の道を行くとは、全くお妙さんの次に素敵な女性だよ」
 近藤はふむ、と誇らしげに顎を撫でる。
「あんなこと言われたら、とっつぁんは更に躍起になるだろうな」
「また面倒なことにならなきゃいいがな」
「ハハ。まあ、十中八九なるだろうな」
 ハァ、と大きく紫煙を吐き出しながら、土方は凛とした鈴の音を思い返していた。

 ――それでももし、転びそうになったら、手を差し伸べてくれますか

 長い睫毛を一度伏せ、目元に薄っすら陰を落としてから、真っ直ぐな、それも真っ直ぐすぎる目で彼女は松平を見ていた。
 黒目がちに澄んだ双眸が、雨上がりの日差しに煌めくような瑞々しさを放っていた。だがその奥に、梃子でも動かぬ岩のようなものが土方には同時に見えた。
「強情っぱりな女」
 咥え煙草の隙間から静かに吐き出せば、近藤が目を瞬かせながら、視線を寄越した。
「なんか言ったか」
「なんでもねェ」
 土方は軽く瞳を伏せてから、矢継ぎ早に続ける。
「それより近藤さん、とっつぁんが暴れた後始末どうにかしねェと」
「ああ、今回も派手にやられてなァ。参ったよ、人手不足だって言うのに、また仕事増やして、ってオバちゃん達に怒られちまう」
「そろそろ新しい人間でも雇った方がいいだろうな」
 言うと近藤が嬉しそうに目尻を下げて、そうだな、と豪快に笑った。