第二幕 第十話

 それから数日。何事もなかったかのように穏やかな日が続いた。
 昼間は万事屋の仕事の手伝いに、夕方からは三人とお登勢さんのお店に食べに行ったり、はたまた家で食卓を囲みながらテレビを見たり、ついこの間までと変わらない、いつも通りの生活に戻っていた。
 そして、今日は午後から逃げ出した飼い猫探しの依頼を手伝った。夜には手持ちが増えたから、と、銀さんがパチンコに行ってしまう前に、材料をたんまり買って今年初めての鍋をしたのだった。

 

 夜――気がつくと、わたしは、冷たい水の中にいた。
 ごぽり、喉元から絞り出されるように唇からあぶくがこぼれた。ゆらり、ゆらり、踊るように水中を舞いながら、真上に瞬く光へと上がっていく。
 太陽だろうか、それとも、月だろうか。ぼんやりと暗闇を照らしている。
 ――苦しい。
 必死にその光へと腕を伸ばすが、どんどん、体は沈んでいった。内臓全てが重たい鉛玉に変わってしまったように、下へ、下へ。音のない、真っ暗な水底へ。
 溺れた蟻のように懸命に水を掻けども、ただ、泡を浮かび上がらせるだけ。
 苦しい。
 息ができない。
 ぼんやりと浮かんでいる光は遠い。ゆらゆらと光が波に揺蕩う。
 ――だれか、
 そして、次の瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
 ――だれか助け、

 ごぽり。
 勢い良く、また口から泡が立つ。

 

「――ッ!」
 息苦しさに、目がさめた。
 浅い呼吸を繰り返しながら起き上がると、額には薄っすらと汗が滲み、髪の毛が張り付いていた。
 なんて、気持ち悪い目覚めだろう。最悪だ。髪を掻き分けるように額に手を当てて、瞼を閉じる。
 ――夢。
 ッハァ、と大きく呼吸をして、肺に空気を送り込む。漸く生きた心地がして、何度かそれを繰り返した。
 お腹の辺りに感じる重みを確かめる為に枕元に置いていた行燈を灯すと、隣に寝ていた筈の神楽ちゃんの足がドン、と我が物顔で乗っているのがわかった。
 どうりで重く、水面に浮かび上がれなかったわけである。納得がいって、ひとりでにふ、と自嘲する。
「もう食べれないアル……」
 当の彼女は、呑気にもむにゃむにゃと寝言を口にしている。その顔は緩んでいて、たらふく食べ物を食べられる幸せな夢の国にでも行っているのだろう。
 どれだけ寝相が悪いのかしらこの子は。呆れつつも、どこか微笑ましくてぎこちなく頬が緩む。
 そうっと足を持ち上げて、布団に下ろした。
 真選組から帰ってきた夜以来、こうして神楽ちゃんと寝るようになった。
 二人で布団を並べて、眠くなるまでお喋りをする。大抵は子守唄を聞かされた子どものように、神楽ちゃんが微睡みに包まれて、先に眠りにつく。そして、わたしは行燈を消すと布団の中に丸々って、猫のようにして目を閉じるのだ。
 神楽ちゃんなりに、きっとわたしのことを心配してくれているのだろう。朝、起きるたびに「よく眠れたアルか」と眠気まなこを擦りながら聞いてくるのが、胸の奥をぎゅう、と締め付けてやまない。
 たしかに、まだあの時を思い出すと体が震える。あの男たちの手を、感触を。そして、噎せ返るような血と泥の匂いを――。
 けれど、神楽ちゃんのおかげもあって、夜は殆ど眠れるようになっていた。
「また、お腹出して寝て」
 パジャマのボタンの隙間から白い肌が覗くのを見て、わたしは頬に笑みを浮かべる。
 この季節、朝方は意外と冷え込む。風邪を引いてはいけないと思い、肌掛けを掛け直してはその顔を覗き込む。
 我が子の寝顔をいつまでも見守りたくなる母親の気持ちが、今ではよくわかる気がした。
 つんつん、と胸をつつくような愛おしさにまなじりを下げて、神楽ちゃんの額をやさしく撫でると、そうっと起き上がり、布団を抜け出した。

「こんな時間にお夜食ですかぁ」
 台所で冷蔵庫を開いたところで、突如後ろから唸るような声が聞こえた。
「ひっ」と小さく悲鳴をあげながら思い切り肩を揺らして、恐る恐る振り返る。
「ぎ、んさん」
「いや、悪ィ、そんな驚かせるつもりはなかったんだけどよ」
「心臓、止まるかと思いました」
 ほぼ目が閉じかかったまま、ゆらりお化けの如く闇夜に姿を浮かび上がらせた銀さんに、胸のあたりを押さえる。
 拳一つが丸々入ってしまいそうなほど口を開けて大きな欠伸をしながら、彼は頭を掻いて近くに寄ってくる。彼の手に合わせてやわやわと動く銀色の髪がまるで動物を見ているようでわたしは肩の力を抜いた。
「夜食ってほど、いいもの入っていないんですよねえ」
 冷蔵庫の中を見てみれば、卵ともやし、水、そしていちご牛乳しか入っていない。夕飯の鍋の材料は粗方掃けてしまった。卵ともやしが残ったことは奇跡に近い。
 銀さんも、苦言を呈すわたしのすぐ後ろから覗き込むように体を屈めて「シケてんな」と毒づいた。
 自分の家の冷蔵庫なのに、という呆れ心をしまってわたしは水入れに手を伸ばす。
「お水、頂こうと思って。銀さんも飲みます?」
「いいわ、俺はこっち」
 そう言って銀さんは後ろから長い腕を伸ばして、ピンク色の紙パックを取った。
 シンクに置いてあるグラスを二つ用意して、彼に一つ差し出す。
「さんきゅ」
「いいえ」
 ――だが、銀さんの指が伸びてきて、ほんの少し、指先が触れ合う。
「っ……」
 思わず、グラスを手放しそうになったが、気がついたときには銀さんの手の中にあった。
「あぶねー」
「す、みません」
 銀さんは気にしていない様子でうんともすんとも言わずに、再び、大きな欠伸をひとつ漏らした。そしてパックから自分のグラスにいちご牛乳を注ぐと、銭湯の湯上がりみたいに腰に手を当てて、一気にそれを傾けた。
 冷蔵庫の明かりに、ぐびぐび、と喉仏が上下に動く。それを、わたしはぼう、と眺めていた。
「そんなに見られると飲み辛いんだけど」
「本当にお好きなんだなあ、と思って」
「みんな好きなもんだろ、いちご牛乳は」
 続けざまに「お前は?」と聞かれて、こっくり頷く。
「小さいころ、母が初めて買ってくれたいちご牛乳がすごく美味しくて。やみつきになったら困るって、時々しか飲めなかったんですよね」
 あのころらいちご牛乳なんて少し特別な飲み物だった。買い物に出掛けた際に、小さな紙パックのそれを見つけ、せがんでやっと買ってもらえたのを覚えている。
 甘くて、とろっとしていて、どこか、ホッとする味。
 学生時代は、学校に自販機があったりして、幼少期とは反対によく自分で買って飲んでいた。昔のように天上の飲み物みたいには思わなくなったけれど、特別は特別だったかもしれない。
 そして、大人になるにつれて、次第に飲まなくなった。だが、それでも、時折、無性に飲みたくなる、それがいちご牛乳だ。
「売っているものも好きですけど、家で苺と練乳と、牛乳で特別甘くした自家製のも好きでした」
「アー贅沢なやつね」
「スプーンの腹で、頑張って苺を潰すんですけど、上手くできなくて飛び出しちゃうんですよね」
 あたかもスプーンを持っているようにして、苺を潰す仕草をして見せれば、銀さんはわかる、と頷いた。
「お前も存外いける口だね。やべーな苺買ったら争奪戦は避けられなさそうだ」
 どこか満更でもないようにそう言って、冷蔵庫を閉じて持っているいちご牛乳のパックを肩口あたりまで掲げて揺する。
「ま、そんな凛子チャンには今日は出血大サービス。銀さんのいちご牛乳、特別に恵んでやらァ」
「あの、ありがとうございます……?」
 こんな夜更けに甘いもの、と口元を多少は引きつらせたのだが、グラスにとぷとぷと注がれたいちご牛乳から、ほんのりと苺の甘酸っぱいようで、とろけるようないい香りがして、それを思い切り吸い込んだ。
 手の中のグラスが乳白色に染まっている。月明かりではその色までは確かではないのだけれど、きっと薄い桃色なのだろう。小さいころ胸をときめかせた、やさしい色。
 グラスを口元に運ぶ横で、銀さんは二杯目を注いでいる。糖尿気味だって言われている癖に大丈夫なのだろうか、そんなことを思いながら、暗闇の中で甘い匂いに包まれる。
「おいしい」
 口をつけて、ごくり喉を潤せば、あのこびりつくような重々しいなにかはすとんと落ちていった。懐かしいような、ほっとするような。変わらない味だった。
 思わず口を突いて出た感想に、銀さんは「だろォ」と眠いのを堪えながら自分のグラスを傾けた。
「眠れないお子様にはうってつけだよなぁ」
「あら、銀さんのことですか?」
「お前だよ、バーカ」
 銀さんだって飲んでるじゃないですか、とくすくす笑いを隠しながら言うと、彼はバツが悪そうに言葉を吃らせながら「馬鹿野郎、これはな俺にとっては水だよ水。いやむしろ聖水だ」と主張した。
 この、どうしようもないくだらない空気に、何度助けられただろう。
 頭の中が綿菓子かなにかでできているように装って、このひとは物事の奥の方を見据えている。まるで見えないなにかが見えているような、そんなふうに。
 ぶっきらぼうで、お金にだらしがなくて、女にもだらしがないらしいし、ついでに足も臭いと神楽ちゃんは言うけれど、それでもなんだかんだ、優しい。
 銀さんだけではない、神楽ちゃんも新八くんも、お妙ちゃんも、それから――この世界のだれもが、様々な鎧を身に付けながらも、その下に優しさを備えている。
 男たちに襲われたわたしに、彼らはなにもなかったかのように普通に接してくれた。
 どれだけ、有り難かったことだろう。辱めを受けたわたしを、今まで通り――確かに過分に心配されるようにはなったが、それでも、以前のまま――受け入れてくれるだなんて。
 あの日、しょうもない話でわいわいと騒ぎ出す彼らに、わたしの中の凍て付いた氷のような箇所が、じんわりと溶けていった。複雑に絡んでいた感情の糸が、少しずつ、少しずつ、解れていった。だが、同時にどこか、胸の奥を締め付けてもいたのも確かで。
 それでも、大丈夫、と情けなく笑うわたしを、銀さんは許してくれた。

「それ、消えたか」
 無意識のうちに鎖骨のあたりをさすっていたらしい。銀さんはこちらを向くことはなく、流すように視線だけを寄越して、眉を上げた。
 同時に考えていたことを見透かされていたようなような気がして、心臓が跳ねる。
「そう、ですね。もう殆ど見えないくらいです」
「そ。そらよかったな」
 あの時に付けられた痕は薄くなり、もうすっかり見えなくなっていた。頬骨を殴られた時の痣は、茶色くなってまだしつこく残っているが、鏡の前に立つたび瞳を伏せることはなくなった。
 銀さんはわたしが手にしていたグラスをやんわりと奪って流しに置くと、いちご牛乳のパックをしまうべく、身体を屈めた。
「さーてと、もう一眠りすっかな」
 そして、そう言うと冷蔵庫を静かに閉じて、わたしに背を向けた。
「お前も、あんまり夜更かしすんなよ」
「はい。おやすみなさい」
 小学生に対する物言いに眉をハの字にしながら、わたしは軽く頭を下げる。
 銀さんは台所からゆっくりと居間へと向かう。わたしはもうしばらくここで月光に当たろうと思い、それを見送っていた。
「あー、凛子」
「はい?」
「その、なんだ」
 台所の入り口あたりで足を止めて顔だけをこちらへ捻らせた。
「眠れないなら、こっち来れば?」
 欠伸をしながら言われた言葉に、わたしは少しばかり悩んだが、あの気怠げな瞳に見つめられるがまま、こくり頷いた。
 底知れぬその瞳も、いまだけはどこか丸みを帯びているように感じて、吸い寄せられるように、彼の後についていった。いや、もしかしたらただ、眠たいだけだったのかもしれないが。
 居間に向かうと銀さんは迷うことなくソファに横になった。クッションを枕にして、足を肘掛に載せる。
「ソファで寝るの、疲れませんか」
「別にィ」
「すみません、長居してしまって」
「べっつにぃ」
 銀さんはもう目を閉じているのだろう。返ってくる言葉も、次第にたどたどしい喋り方になっていった。
 寝ましたか、小さく訊ねるも、銀さんは声もなく寝返りを打って背を向けてしまった。
 夜中に二人きりというのも、どこか緊張してしまって、どうにも眠れそうにないわたしは、ソファにとっぷりと体を預けながら、膝を抱いた。
 しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 ――寝た、のかな。
 おやすみ三秒だなんて、大きな子どもみたいだ。
 ふわふわした髪の毛に触れたくなるのを、今は堪えて、撫でるようにその後頭部を眺めた。

「銀さん、わたし、怖かったんです」
 静かな万事屋で、ぽつり、唇から吐息を漏らすように紡ぐ。
「だれかの優しさに甘えてしまうような気がして、すべて仇で返してしまう気がして」
 この世界に来て差し伸べられたいくつもの手を思い出す。だが、わたしはその手を取るのがどうしようもなく怖かったのだ。
 なにもかもを失って、わたしが手にしたのは、重くてどす黒い感情で。まるで自分ではない、他のなにかが腹の中を蠢くように、その負の感情を押し上げてくる。
「わたし、ね。初めて、だれかを殺したいと思ったんです」
 その感覚を思い出して、ぶるり、身震いがして、ソファの上で強く膝を抱え込んだ。
 漠然としたなにかに呑み込まれて、沈んでいってしまいそうな、溺れてしまいそうな恐怖が襲いかかる。それが、なんなのかは、自分でも言葉にはできない。
 ぎゅう、と爪を食い込ませるほどに、強く、自分を抱きしめる。
「初めて、ひとを、世界を、こんなにも憎みました」
 自分が自分でなくなったみたいだった。日ごと濃くなっていくあの人の影と、腹の中の黒い感情。言い表せないほどの感情の昂りと、執着。 まるで、そう、牙を携えた獣が《東雲凛子》という人間の皮を被っているみたいに。
「こんなわたしが、だれかの手を取るのが、だれかの側にいるのが、こわかった」
 だから、全てを突っ撥ねて、無理矢理前を向こうとした。
 ――けれど。
「でも、わたし、ね」
 ぎゅう、と膝を抱える力を強くする。

「あなたたちが大好きみたい」

 どうしようもなく、ここが、あなたたちと笑い合うのが、心地よくて仕方がなくなってしまった。
 それを口にする勇気はないけれど、確かに育んで来た想いを唇に載せれば、嬉しさが頬に込み上げた。
 渦を巻くおどろおどろしい感情を抱えていても。拭うことのできない、錆や汚れが心を蝕んでいたとしても。
 それでも、なんとかなるんじゃないかと思えてしまうくらいに。

「お前が呑み込まれそうになった時ァ、無理矢理にでもそこから引き摺り出してやる」

 寝ていたはずの銀さんの声が響いた。低くて、胸の奥が疼くような、はっと息を呑みたくなるような、そんな声。

「安心しろ、ウザいくらいに、いくらでも手を差し出してやっから。お前は掴みたい時に掴めばいいさ」

「ぎん、さん……」
 わたしは、茫然と膝を抱えたまま、身動きが取れなくなっていた。
「お、起きてたんですか」
「だれかさんのひとり言がうるせーから起きちまったよ」
「やだ……」
 銀さんがくるりと体を反転させながら言った。
「うそ、待って、ありえないんですけど……」
 突然のことに頭の中が混乱してしまう。心臓がバクバクとけたゝましく鳴り出して、静かな夜更けだと言うのに、やけにうるさく感じた。
 ――もしかして、全部、聞かれていたの?
 どうしよう。
 どうしよう、恥ずかしい……。
 そんなことばかりが頭をぐるぐる渦巻いて、目が回ってしまいそうだった。
「お、起きてたなら言ってください……」
 今が夜でよかった。昼間だったならば、この情けない顔を見られてしまっただろうと考えると、いても立ってもいられない。やっとの思いで両手で顔を覆い隠すと、銀さんは欠伸を堪えもせず、大きく伸びをしながら上体を起こした。
「銀さんはね、空気読める男なの」
「空気読んで、最後まで寝ててくださいよ」
「本当、つべこべうるさい女だね、お前は」
 へえへえ、と小馬鹿にするように言葉を返しながら、銀さんは前髪のあたりを掻き終えると、顔を上げた。
 ほの明かりの中で、銀さんと視線が交わされる。逸らそうにもそらせなくて、まるで絡め取られるように、その瞳を見つめていた。
「つーことで、こっち来いアホ娘」
「なにが、つーことで、ですか。いやです」
「いいから。いつまでも眠れない不良娘には、銀さんが眠くなるおまじないしてあげるから」
「言っていいですか、すっごく、胡散臭いんですけど」
 そう返しつつも、とんとんとソファを叩く銀さんの横に、少しだけ距離を置いて座る。
「大好きって言っといてなんだよ、その距離」
「掘り返すのやめてくださいよぉ、恥ずかしいから」
 両手で顔を隠す。
「お前案外アレだよな、初心なとこあるよなー。今もどうせ顔真っ赤なんだろ、どれ、銀さんが確かめ……イテェ!」
 互いが纏う洗剤の香りの中に、ふわり、いちご牛乳のような甘い香りを間近に感じて、わたしは思い切り銀さんの鼻頭を摘んだ。
「もう! それ以上は怒りますから!」
「もう怒ってんだろーが」
「怒ってません!」
 鼻を放して、ぷい、と子どものようにそっぽを向けば、銀さんは笑いを堪えるように喉を鳴らした。
「ったく、世話のやける小娘だこと」
 そして、ぽんぽん、頭を撫でられた。
「わたしも、もういい歳なんですけど」
 その心地よさに、猫のように擦り寄りたくなるのを我慢して唇を尖らせる。
「いくつになっても女は甘えん坊だって、そうだな、三丁目のヨシ枝が言ってたような」
「ヨシ子じゃなくて?」
「ああそうだ、ヨシ子だったわ」
「銀さんってば、ほんとう……」
 適当な言葉ばかりを並べる銀さんに、わたしは息を漏らす。
「ほんとう、なんだよ。気になんだろ」
 だが、わたしは「ふふ、なんでもないです」と言うと、ソファの背凭れに身を預けた。
「ねえ、銀さんなんだかお腹すいてきちゃいました」
「さっき冷蔵庫見たろ、絶望的なの」
「明日、美味しいお団子、買いに行きましょうね」
「へーへー、お前のへそくりで頼むよ」
「仕方ないですねぇ」
 秋の夜長は少し冷える。首筋を刺す空気に、身を縮こめる。すると、またしても、あの温もりが頭に訪れた。髪の毛を梳くように指先を立てて、ゆっくりと上下を何度も何度も繰り返す。まるで母猫と別れた子猫を慈しむ、そんな、繊細な手つきで。
 次第に微睡みに包まれていきながら、わたしはふふ、と笑みを漏らした。
「なんでかねー、放っときゃいいのに。俺もヤキが回ったもんだぜ……ったく」
 銀さんの、月明かりにたゆたうような優しくて低い声と、その手の温もりが心地良くて、わたしは微睡みにとっぷりと身を沈めていった。

 

 どれだけ苦しくて、もがいて、蹲っても、この夜は優しかった。
 いや、きっと、かぶき町という町が、江戸が、この世界が、夜も、朝も、雨の日も、晴れの日も、どこか、包み込んでくれているようなさりげない優しさに満ちているのだ。

 わたしは、そんな世界で生きている。