――ぴちゃん
水の滴る音がする。
――ぴちゃん
――ぴちゃん
辺りは真っ暗で、なにも見えない。
(ここは、どこ……)
ゆらりゆらりと、ぬるま湯に浸かっているような心地だった。自分の体に力は入らず、体がそこにあるのかもわからない。ただ、意識だけが暖かな海で揺蕩っていた。
滔々と広がる闇の中、美月は一人だった。光もなにもない、天も底も知れぬ広大な世界に独りきりだった。
(みんな、は……?)
――みんな? 美月は考えて、すぐに疑問に思う。
みんなとは、誰だ。誰のことを考えたのだ?
(わたし……)
そのとき、声が聞こえた。
――あなたはだれ?
(わたしは……)
――私はだれ?
(わからないよ)
――私はなあに?
(どういう、こと?)
――あなたは、なあに?
暖かな湯に浸かっていた体が、一気に冷え込んだ。まるで氷の湖に引きずり込まれたかのように、体は凍てつき、心までもが氷となってしまいそうだった。
(こわい、こわい、こわい……)
ひとりきりだった。知らない世界に、ひとり、美月は彷徨っていた。
(ここは、どこ? あなたは、だれ? わたしは、だれ?)
――目覚めなさい
女性の声が聞こえてきた。騒めく胸をそっと撫でつけるような、凛々しくもやさしい声だ。
(だれ……?)
――目覚めなさい、愛しい子
光が射し込んだ。どこまでも続く闇を、ひとすじの光が照らした。碧白い光。やがて、美月をすっぽりと覆う。
――あなたを、探してる
(わたしを? だれが?)
美月の意識はそこで途絶えた。
*
エアリスの育ての母であるエルミナから、彼女の古代種に纏わる話を聞いたのち、クラウドたちは神羅へと彼女を取り戻しに行くことを決意した。
「……ミツキは、白い猫はなぜ?」
すべての話を終えて、クラウドがぽつりと呟く。
「ここに来たときには、あの子は元の姿だったんだ。だけど、なにかが起こって、エアリスが連れ去られる瞬間に、猫になっちまったんだ」
エルミナが答えると、きれいな弓なりの眉が歪んだ。
「それを、あの男が見ていたのか」
「そうさ。私とマリンとで急いで隠そうと思ったんだけどね、すぐに赤い髪の男がやって来たよ」
「赤い髪……」
クラウドの頭には、教会、そしてプレート支柱で戦った男が思い浮かんでいた。
「それで、ミツキは?」ティファが訊く。
「捕まる前に、逃したんだ。スラムに紛れちまえば逃げ切れるだろうと思ってね」
「じゃあ……」
ティファに向けて、エルミナがかぶりを振る。
「どうなったのか、わからないんだ」
「そんな……」ティファは口元を手で覆った。
「ミツキ、この世界で、ひとりなのに……」
「あの子は、何者なんだい?」
ティファの言葉に、エルミナが声を低めて訊ねてきた。ティファは困ったようにクラウドに視線を寄越してくる。
何者――少し考え込んだあと、クラウドはひとつ息をついた。
「……それは俺たちにも。だが――」
ごくり、唾を飲み下す。
「探さないと、危険な目に遭うかもしれない」
神羅が美月を追う理由は、きっと猫になるという特殊能力が原因だろう。たしかに、伍番魔晄炉爆破の際に彼女は現場にいたが、美月の存在をこれまで神羅は知らなかったはずだ。ツォンが猫に変身する彼女を見て、上に報告し、捕らえろという命令が下った。
エアリスという『古代種』とともにいる、不思議な能力を持った人間――神羅はなにがなんでも手に入れようとするはずだ。
「危険な目って……?」ティファの瞳が揺れている。
クラウドの脳裏に過ったのは、白い柔肌に伸びる大きな手、荒々しい息遣い、それから、熟れた果実を貪る獣を受け入れる、女の悲しくも艶やかな横顔――だが彼はかぶりを振った。
「わからない。とにかく、逃げ切れたのなら、あの女を神羅に捕らえられる前に俺たちで助けないと」
「だけどよ……」
クラウドの言葉に、バレットが言葉を挟む。
「とうちゃん……?」
そこに、か細い声が降りてきた。
「マリン!」
二階から姿を現したのは、バレットの娘であるマリンだった。バレットはなりふり構わずマリンへと駆け寄ると、その腕に娘を閉じ込めた。
「おひげ、痛いよ、とうちゃん」
「よかった、無事だったのか!」
バレットはぎゅうぎゅうときつく抱きしめる。苦しそうに身動ぎをするマリンだが、その顔はどことなくうれしそうだ。
「ミツキおねえちゃんが、ここまで連れてきてくれたの」
腕の中から必死に顔を上げて、マリンが言う。
「あの女が……」
「マリンだけじゃないよ。ひとりの子みつけて、みんな助けてくれたの」
マリンの言葉に、バレットは言葉を失くした。
「おねえちゃん、手が震えてた。ずっとね、涙がこぼれそうだったの。でも、マリンたちに大丈夫、大丈夫だからって、言ってくれたんだよ」
「ミツキ……」ティファが拳を握りしめる。
「とうちゃんたちは、みんなを助けるために戦ってるんだって。だから――」
マリンの言葉を遮って、バレットは彼女の小さな頭を胸に押しつける。
「……お前ら、なんとしてでも、あの女を探し出すぞ。勝手に死なれちゃ、胸糞悪ぃからな!」
低く、力強い声が、しんと冷えた空気を揺るがした。こっくり、ティファとクラウドは頷いた。
*
目が覚めると、ベッドに寝かせられていた。薄暗い工場を思わせる、奇妙な場所。消毒液の匂いがする。病院かなにかだろうか、考えるも、まさか、と考えを改める。
意識はあるはずなのに、体は動かない。鼻から上だけ目覚めたような、そんな感じだった。辛うじて目玉をぎょろりと動かすと、腕や脚から管が伸びて、機械に繋がっているのが見えた。
ピ、ピ、と規則的な電子音が響いている。どうやら耳も正常らしい。
「ふむ、体内構造は、そこらへんにいる女となんら変わりはない」
不意に声が聞こえて、美月はそちらへ視線を向けた。
大きなモニターを覗き込んでいる、白衣姿の男。髪を後ろで束ね、眼鏡をかけている。酷い猫背が特徴的だ。
「だが、血液サンプルは……」
ぶつぶつ、呟く声はきちんと聞き取ることはできない。なんの話をしているのだろう。美月はぼんやりと男の声に耳を澄ます。
「おや、目覚めたかね」
と、男が目を開けている美月に近づき、顔を覗き込んできた。
(あな、はだ、れ……)
唇は微かに動かすことはできたが、声にはならない。男は薄い唇を頬に食い込ませた。
「君は、己を知っているのかね?」
(わたし、は……)
くつり、男の笑う音がする。
「自分が何者か、我々になにを及ぼすのか、興味はないかね」
(そんなの、しらな……)
眼鏡の奥の奇妙な光に、美月は背すじに異様な寒気を覚えずにはいられなかった。
「……まあいい。貴重なサンプルだ、余すことなく、使わせてもらおう」
男が喋りながら、一本の注射を手にする。
(なにを……)
美月はただぼんやりとそれを眺めていた。意識はあるのに、肝心な部分に靄がかかって、どこかテレビに映った映像を見ているかのようだった。くっくっくっ、と男の不気味な喉の音が耳を撫でる。注射針の先から透明な液体がひとすじ噴き出し、ゆっくり銀色の針が近づいてくる。
(やめ……ッ)
腕に痛みが走り、やがて、美月の意識はまたしても薄らいでいった。
「――お、起きたか」
次に目が覚めると、目の前に飛び込んできたのは、燃えるような赤だった。
「ここ……」その激しい色に目を灼かれ、瞬きをしながら美月は声を漏らす。
「ん? ここは神羅の本社だぞ、と」
「しん、ら……」
そこで美月の意識は覚醒した。
「神羅!」
「おっと」
勢いよく飛び起きた美月に、レノは体を仰け反らせる。
「危ねぇ。頭突き食らうとこだった」
不自然な体勢をとったにもかかわらず、レノはよろけもせずに姿勢を戻す。
「あなた……!」レノの姿に、美月は体を強張らせた。
「そんな反応すんなって、さすがのレノさんも傷つくぞ、と」
「ち、近寄らないで!」
両手を突き出して、拒絶する美月。レノはやれやれと、片腕を上げた。
「ったく、せっかく人が心配で見に来てやったっていうのに、つれないモンだ」
「心配? あなたが、ここへ連れてきたのに?」
どうやら思いのほか頭はしっかりしているらしい。まざまざと思い出される教会での出来事に、顔が歪む。
「ま、そうだったな」
レノは肩をすくめると、美月のいるベッドに腰掛けた。
「なに、しに来たの……」
部屋は四畳半ほどの、薄暗い独房のようなところだった。ベッドの脇に簡易椅子がある。なぜそちらへ座らないのか――ぽすん、軋んだベッドの感触に、戸惑いながら美月はレノを見つめる。
「見張りだぞ、と言いたいところだが、あいにくこの体でな。気分転換に様子を見に来たってワケだ」
レノは右腕を上げる。スーツの袖口から見える腕は包帯でぐるぐる巻きにされている状態だった。そんな素ぶりは全くといって見せなかったが、相当、酷い怪我を負っているのだろう。
「……それなら、どうぞ休んでいてください」
言って、美月は男からほんの少し距離をとる。
「ツレねぇなあ。俺はアンタに訊きたいことがあったんだぞ、と」
「訊きたい、こと?」美月は眉根を寄せた。
訊きたいことなら、自分にも山ほどある。だが、それを口にする前に、レノが間髪入れずに、ああ、と頷いた。
スーツの胸元から白い布を取り出して、その右腕を肩に吊る。なんだか拍子抜けだ。美月は眉根を緩めて彼を観察する。だが、彼は気怠そうに首を、二、三度捻ると、鋭いまなざしで美月を射抜いた。
「アンタ、何者だ?」
先ほどまでの空気とは一変し、ピンと糸が張り詰めたような表情を浮かべている。初めて教会で見たときよりも、そして、二度目に目にしたときよりも、研ぎ澄まされた男の顔。まさに、虎が亥を狩るときのような。
――あなたは、だれ?
男とも女ともつかぬ声が反芻する。
ずきん、とこめかみの辺りが痛み、美月は咄嗟に頭を押さえた。レノはまばたきすらしない。痛みをこらえる美月をただじっと見つめていた。
「なにもの、って」美月は顔を歪めながら、レノを睨みつける。
「……名乗るときは、自分からって、教わらなかった?」
せめてもの抵抗だった。キッと睨んだ先に、緑色の瞳があった。怜悧な面差しは、まるで隙がない。真っ赤な髪に気を取られてしまうが、スッと通った鼻筋やすっきりとした目元は、よく整っている。
気圧されそうになりながらも視線を逸らさずにいると、不意にふっと口元が緩められた。
「俺は、レノだ。これでいいか、姉ちゃん」
予想外の反応に、驚きのあまり、今度は間抜けな顔で彼の顔を見つめることとなった。
突如霧散した殺気に、ぱちり、目を瞬かせると、なんだよ教えたぞ、とレノはニヒルな笑みを浮かべてくる。
「……美月」
一歩先を越されたような感覚に、どこか居心地の悪さを感じるも、自分の言葉を反故するわけにもいかない。苦々しく小さく口にすると、レノは、「へえ、ミツキ。ミツキ、ね」とその名を繰り返した。
「……なによ」
「いんや? かわいい名前だな、と思っただけだぞ」
どこまでも軽いリップサービスに、どうもありがとうございます、と美月は素っ気のない態度をとった。
「それで、もう満足ですか」
「強気な女も嫌いじゃない」
「……なんなんですか」
フン、とそっぽを向く美月に、レノはくつくつと喉を鳴らしている。
「そう邪気にすんなよ。アンタに渡したいものがあったんだ」
気分転換に来ただけじゃなかったのか、心の中で毒づきながら、なんですか、と美月は訊ねる。
「ほらよ」
美月の目の前に差し出されたのは、二つのカプセルだった。男の手のひらに載った、小指の爪ほどの小さなそれ。フィルムの色は真っ白だが、中の色が薄っすら透けているのかほのかに緑色に染まっていた。
「……いらない」美月はかぶりを振る。
「悪いことは言わない。飲んどけって」
「いやです。なにが入ってるかわからないものなんて、飲みたくありません」
ましてや、その気味の悪い色だ。どことなく、魔晄を連想させる。もし本当に魔晄が入っていたら、どうなるかわかったものではない。
「まったく、ミツキちゃんは強情だな、と」
呆れを含んだようなしゃべり口だが、その声色は愉しげだ。
「薬、嫌いか? なんならレノさんが飲ましてやるぞ」
「結構で――」
ぷいとそっぽを向いたままの美月の頬に、冷たいなにかが触れた。それが、男の指だと気づくのは、少ししてからだった。するり、頬を撫でたかと思うと、ムッと結んだ唇をやわくなぞった。果実から滴る蜜をそっとすくうような指先だ。ぴくり、その繊細な快感に体を揺らして男を見る。と、瞬く間に唇が奪われた。
「ッ……はぁ……んっ……」
最初は唇のあわいに触れるだけのキスだったのに、熱が重なった瞬間、なにかが弾けたように噛みつくようなキスに変わっていた。抵抗しようにも、うまく力が入らない。男は片手で美月の頭を捕らえ、逃がすまいと舌を捻じ込んでくる。歯茎、上顎、舌の裏、余すことなくねっとりと舐めあげられ、呼吸をする暇もなく、美月は溺れた魚のように喘ぎながら彼の口づけを受け入れるばかり。
コルネオの館で受けた口づけとは大違いだった。どこか繊細で、それでいて、飢えた獣のように情熱的。ときおり薄っすらと開かれる瞳はセクシーで、少しだけ硬くなった指先が顎や首すじをなぞるたびに、体がわなないてしまう。このままでは、きっと思考までも食べられてしまう、そう、感じた。
やがて、口の中が彼のものか自分のものかわからない唾液で満たされると、美月はごくん、とそれを飲み下した。
「ん、イイ子だ」
唇が離れ、つ、と銀色の糸が伝う。はあ、はあ、と肩で息をする美月の頭を、そうっと大きな手のひらが撫でる。その不可思議なやさしさに、美月は目眩がした。
「な、で……」
「人の善意は受け取っておくモンだぞ、と」
「善意って、勝手にしたんじゃない……っふぁ、っ……」
威勢良く彼を睨み、胸板を叩こうとしたところで、急に全身の力が抜けてしまった。
がくん、と倒れこむ美月をレノが抱きとめる。
「安心しな、ただの麻酔薬だ」
「やっ、ぱ、へんな、もの……」
「このあとも実験が行われんだ。少しは眠っとけよ、ミツキちゃん」
耳の裏に、ねっとりと熱い感覚が這う。
「さい、てい……」
意識が滔々と揺らぎ、白いカーテンの向こうに引きずり込まれていく。必死で腕を伸ばすが、掴むものがなにもない。
「なあ、アンタの体、最高だぞ、と」
はあ、と熱い吐息が耳にかかる。
美月はもう一度、最低、と吐き捨てた。
*
「ダメね、見当たらない。白い猫を見た人もいないって」
クラウド一行は、手分けして伍番街を探し回っていた。美月の姿を見た者や、彼女に連れられてきたという子どもには出会いはしたが、白い猫を見つけるどころかその目撃情報すら一切手に入らなかった。
思いつめた表情で戻ってきたティファに、こっちもだ、とバレットもかぶりを振る。
クラウドは口元に手を当てて考え込んだ。
「伍番街にいないとなると、もっと先に……?」
「でも、あの小ささじゃ、そう遠くには行けねぇだろ」
猫になった美月の大きさは、クラウドの両手のひらに少し余るほど。通常の猫の大きさとは異なる。どちらかというと、子猫に近いサイズだ。
たしかに、クラウドはバレットに頷く。
「だとすると、六番街か、ここか。もう一度……」
「ねえ、クラウド」
探してみよう、そう言おうとしたところで、ティファが口を開いた。
「なんだ」
「ここ以外でミツキの行ったことのある場所って、どこかな?」
クラウドは考えを巡らせる。
「あとは、そうだな、ウォールマーケットくらいか……」
言って、クラウドは、すぐさま閃いたように、「そうか」と声を上げた。
「思い当たる場所がひとつある」
「どこだ?」
食いつくバレットに、クラウドは、「ついてきてくれ」とだけ言って、落ち着いた調子で踵を返した。
向かった先は、伍番街の教会だった。クラウドと美月がプレート内部から落ちて、エアリスと出会った場所である。
「ここは……?」ティファが辺りを見回す。
「たぶん、あの女はここに」
クラウドはなぜか確信していた。美月はさほど気が大きいわけでも、機転が利くわけでもない。体の赴くほうへと逃げたと考えると、ウォールマーケットではなく、ここに向かったはずだ。
教会には、あのときと変わらず、淡くも目映い日差しが射し込んでいた。崩れた祭壇のこちら側、教会の中央部には黄色い花が咲き誇っている。そこに、幼いひと組の子どもの姿があった。
「ちょっといいか」クラウドは声をかける。
「白い猫を探しているんだが、見なかったか」
「しろい、ねこ?」女の子が答える。
「ああ、このくらいの、耳にピアスをつけている猫だ」
クラウドが両手でおおよその大きさを示すと、女の子は隣の男の子に目配せをした。
「ううん、わたしたち、みてない」
かぶりを振る二人に、クラウドはそうか、と息を吐く。
「じゃあ、赤い髪の男のひと、見なかった?」
今度はティファが機転を利かして訊ねた。すると、子どもたちは、あっと揃って声を上げた。
「それならみたよ!」男の子が答える。
「それは本当か!」バレットが食いつく。
「うん、まっかなあたまのおにいちゃんが、ぐったりしたおねえちゃんをだっこしてた!」
クラウドたちは目を合わせて、こっくりと頷いた。
「それで、その男がどこへ向かったかはわかるか?」クラウドは続けて訊ねる。
「うぅん、よくわかんないけど、でも、ヘリコプターにのったよ!」
むずかしい字の書いてあるヘリコプターだった、そう言う男の子に、彼らは確信する。
「やっぱり、ミツキ……」
「ああ、タークスに捕まったようだな」
「チックショウ! やばいんじゃねぇのか!」
バレットが頭を抱えると、子どもたちがそそくさとティファの足下に隠れてしまった。
「とにかく、エアリスと一緒に助け出すしかない。向かう場所は決まった」
クラウドは上を見上げる。崩れた屋根の間、遠くに空が見える。きらり、耳元で白い宝石が煌めいた。
*
光の中にいた。目を開くのを憚られるほどの、緑色の目映い光。それなのに体は冷たく、まるで、凍てつく湖の底に、沈められたかのようだった。
(わたし、また……)
レノの言葉どおり、実験とやらが施されているのだろう。体に力は入らない。ただ意識だけが、緑光の湖に漂っている。
(いま、なんじ、なんだろう)
この世界に来てからというもの、時間の感覚が狂っている。夜も昼もないスラム街。気がつけば、ここまでずっと走り続けてきたようなものだった。果たして今が昼なのか、夜なのか、プレート落下から何日経っているのか、もはや美月には見当もつかない。
エアリスはどうしているのだろうか。美月は光に身を委ねながら考える。
『古代種』という聞き覚えのない単語。果たして、それがどのような意味を成すのか。エアリスも、このような実験を受けているのか。
(無事だと、いいな……)
美月はただ祈る。太陽のような彼女の存在を、すずらんのような愛らしい笑みを、光の向こうに思い描きながら。
(クラウド……)
金色の髪をした碧い瞳の彼が、助けに行ってくれるだろうか。そして、自分のことも。
(でも、さすがに、それはないかしら……)
いつまでこの生活が続くのだろうか。いつ、元の世界に帰れるのだろうか。
奇妙な光が、辺りを覆っていた。
*
プレート上部へと向かう列車は、七番プレート落下以来運行中止になっていることもあり、クラウドたちはコルネオの館近くから壁を登り、神羅カンパニー本社へとたどり着いた。
「ここに、エアリスとミツキがいるのよね」
天に刺さる巨大なビルを目の前に、ティファが口にする。その声は、微かに震えているようにも聞こえた。
「ああ。覚悟はできてるか」クラウドは言う。
「覚悟もなにも、やるしかねぇだろ」
クラウドの妙に冷静な言葉に、バレットは肩をぐるりと回す。愛娘のマリンとの別れ際、「必ず、助けてくるからな」と約束をしたのだ。その手前、後にも引けない。とはいえ、もとより、そうする気はさらさらないだろうが。
怖気づいていたティファも、バレットにこっくりと頷く。
かくして、自分たちのせいで巻き込んだ二人を助けようと彼らは足を踏み出した。
バレットの記憶によると、神羅ビルの六十階から上は特別ブロックとなっており、社員でも簡単には入ることができないという。エアリスが連れていかれたのもそこだろうと予測し、ひとまず上に上がることになった。
「……二人を助け出すまでは、あまり騒ぎは起こしたくなかったんだが」
エントランスから正面突破をする方法を選び、混乱に陥った社内を見渡すクラウドに、バレットは、へへへ、と笑う。
「……なんだ、いきなり」
「いや、あんたでも他人のために戦うことがあるんだなと思ってよ。見直したぜ」
「あんたに見直されてもうれしくないね」
にべもなく吐き捨てるクラウドに、ティファまでもが小さく笑いをこぼしたのだった。
神羅兵と戦いながら、都合よくカードキーを手に入れて、一行は六十六階まで上がる。そこで、クラウドはある人物を見つけた。
「……宝条だ」
「宝条?」
だれだそれ、というバレットの言葉を遮って、クラウドは咄嗟に廊下へ飛び出そうとした体を引っ込めた。
「っと、いきなり下がってくんじゃねぇ!」
「しっ、前を通る」
怒るバレットの口を閉じさせて、クラウドは顔半分を壁から出して向こうを覗く。
「……さて、古代種との遺伝子相違はどうだろうか」
長い髪をひっつめて、痩せぎすの体に白衣を纏った猫背の男が、すぐそばを通り過ぎていった。
「古代種……いま、古代種って言わなかった?」
男が通り過ぎて、ティファが小声で口にする。
「そうか、あいつ、思い出したぜ。宝条、神羅の科学部門の責任者だ」
姿を見てピンときたのだろう、バレットが口にすると、あれが噂の、とティファが苦い顔をした。
クラウドはじっと、長い黒髪が猫背に揺らぐのを睨みつけた。不穏さを形にしたようなその背は、エスカレーターホールへと向かっていく。
「奴を追うぞ。なにか、わかるかもしれない」
一行は身を潜めながら、消えゆく影を追った。
宝条に続いてエスカレーターを上がると、研究所と思わしき場所へとたどり着いた。床にびっしりと敷き詰められた配線や人がすっぽりと入れるほどの大きな円柱状のガラスケースが並べられている様は、先ほどまでのこぎれいなオフィスとは打って変わって、かのマッドサイエンティストの醸し出す空気にぴったり合致する。
「……いやな、雰囲気」
「ったく、本当だぜ。見ろ、寒くもねぇのに鳥肌が立ってきやがった」
後ろでそんなやりとりが聞こえてくるのを耳にしながら、クラウドはまばたきもせずに男の背を追いかける。
ガラスケースには、鳥やうさぎ、はたまた馬など、さまざまな生物が入れられているようだった。やがて、宝条はそのうちのひとつの前で立ち止まった。
「ククク、いいサンプルとなってくれるかな?」
クラウドたちはガラスケースの陰に隠れてそちらを覗く。痩せ細った背の向こうには、緑色の目映い光。そして――、
「ミツキ……?」
瞼を閉じた美月の姿が、そこにあった。
