16

 いったい、ぜんたい、どうなってるの!?
 ――結梨の心情はこうであった。

 マジックアワーに起きたできごとは、もしや本当に魔法かなにかだったのではないかと思うほど大きな衝撃を与えて瞬きの間に過ぎていった。
 あれは魔法が見せたまぼろしだったのではないか、自分は夢でも見たのではないか、そんなふうに、その直前までセンチメンタルに思っていた悩みすらも吹き飛ばして頭を抱えてしまうほど。だが、幸か不幸か、それが現実だったと実感させられるものが手のひらにひとつ、握られている。
 あの不可思議な再会を経て数日、結梨は届いたメールをじっと眺めては、頭を抱えたい気持ちになって唇をむずむずと噛みしめた。
「なになに、変な顔して。結梨ってば、どうしたの」
 やってきたのはクラスメイトだった。よくランチを共にする友人で、入学してから仲良くしている一人だ。彼女はぎゅっと難しい顔をしている結梨の肩に抱き着くと、こてん、と頭を彼女の側頭部に預けた。女子にとってのスキンシップはこんなものだ。結梨はおどろく様子もなく、「変な顔してないもん」と唇を尖らせると、がっくり肩を落とした。
「なになに、恋のお悩みですかぁ?」
「やだ! 結梨ちゃんに春!?」
「春はもう過ぎて夏だけどね」
「そんなことはいいの、それで、あの王子様と進展あったの!?」
 否や、群がる群がる。たいていはいつものメンバーだが、女が三人よればなんとやら、一気に華々しくなった周囲に結梨は顔を真っ赤にしながら、「大きな声で言わないで」と弱々しく答える。
「……で、どうしたの」
 肩に一人、前の席に一人といつもの二人に囲まれて結梨は尋問を受ける。それがね、と観念して携帯を差し出すと、結梨は両手で顔をおおった。
「メールアドレスを、交換したんです」
「ほう、メールを」
「なるほど。よし、続けて」
「はい。それで、交換したんです。交換したんだけど……」
 そう、そこからが問題だった。――いや、あの兵藤清春のメールアドレスを手に入れただけで、結梨にとっては大問題だったのだが、それはさておき、現在その清春から送られてくるメールに彼女は苦戦していた。
「キレーな空だね」
「うん、空だ」
 画面をのぞきこんで、口々に感想を述べる二人に、そうなの、空なの、と結梨はうなずく。
「で、これが?」
「……その、空なんだよう」
 はて? といった顔つきだったが、詳しくメールを確認して二人はなるほどと納得した。
「その王子様とやらは、こういうタイプなんだ」
「今どきメッセージもなにもなく写真だけって、なかなかないよね」
「しかも、件名に《空》って。知ってるから!」
 まったくもってそのとおりである。清春から送られてくるメールは、まだ数回ではあるけれどいつもこうだった。唐突に送られてきたと思えば、風景写真が一枚ぺろりと貼り付けられている。今日みたいに件名に日本語が入っているだけいいほうで、基本は《no title》という字面が並ぶのだ。それに対して結梨は率直に「キレイな○◯だね」とかなんとか返したりするのだが、当然清春の反応はうすい。メールだというのに、まるで目の前でこっくりうなずくように、「ああ」とか「うん」とか返ってくるだけ。
 はてさて、どうしたものか。正直、清春とメールをしているだけで天をあおぎたくなるような嬉しさだというのに、結梨は毎回悩まされていた。これはいったい、なにを伝えたいのだろう。そして、どう返したらいいのだろう、と。
 恋に悩みはつきものだが、結梨も例外になく、清春を相手にするとメールの一文字を打つのにも気を遣った。ただ、けっして、その悩みはいやなものではない。
「結梨はなんて返したの?」
「まだ、なにも。なんて返したらいいかなあ」
 最初は、どんなメールでも嬉しかった。今もそれは変わらない。一人で清春からのメールを眺めては、あの日のまぼろしを現実として確かめ、高鳴る鼓動を楽しんでもいた。一人で内緒にしておきたい気持ち、それが結梨の中にはあった。けれど、わらにもすがりたい思いとはこのことか。だって、せっかくメールをするなら、楽しいと思ってもらいたい。自分とのメールが、特別なもののひとつになってほしい。そんな思いだった。
 ふむふむと考えていた友人たちだったが、目の前の席を借りてうしろを向いていた一人が、「じゃあ三人で自撮りしたやつは」と手を打った。
「それ、名案」
「でしょ!? 結梨ちゃんの写真、送ったら喜ぶんじゃないかな?」
「待って、まってまって! それはむりだよ!」
 いきなりハードルが高すぎる。あわてて止めに入った結梨に、二人はえーと頬を膨らませた。
「ぜったい、いい案だと思ったのに」
「それ。だって結梨の写真、うちらが欲しいもん」
「ふたりには、いくらでも送るけど!」
 ……だが、清春は別だ。突然、顔写真が送られてきたら、自意識過剰だとかなんとか、引かれないだろうか。いまいち、自分に自信のない結梨である。
「じゃあさ、結梨も空を撮れば? こうやって!」
 肩に抱きついていた彼女がおもむろ「自分の携帯を取り出して、空に向けた。画角に映るのは青空と、ピースサイン。
「調子乗ってると思われないかな」
「結梨ちゃん、気にしすぎだよう。それくらいアピールしないと! むしろ、これでもアピール足りないくらいだから!」
「そうかなあ……」
「そうそう。結梨が見てるものを、どーんと送ってやんな!」
 だが、結局、ピースサインとともに撮った写真には、「なんでピース?」というにべもない言葉が返ってきて、あえなく撃沈するのだった。
 でもでも、きっと兵藤清春という人間にはおそらく、悪気はなかったはず。……と、思いたい結梨だった。

 そんなこんなでささやかにブルーな昼下がり、羞恥心と後悔とで今にも膝を抱えて「なんでようう」とうずくまりたい結梨だったが、力を振り絞って一階の自販機まで向かった。こんなときは甘いものに限る。ありったけの砂糖が必要だ。
 がっくり肩を落としたまま廊下を歩いていくと、「お、結梨だべ!」と背後から声がかかった。
「ガジュさん」
「なんらい、今にも死にそうな顔して」
 いつもだったら嬉しい邂逅も今日ばかりは元気が出ない。しかし、清春からのメールに一喜一憂しているとは言えずに、「なんでもない」としわくしゃな顔をして答える結梨である。
 賀寿は迷わず吹き出した。
「なんつー顔してん!」
「いいんだもん、元からこういう顔なんだもん」
「ハァ? しっかし、それ、どっかで見たことある顔だで」
「どんなぁ」と、うなだれる結梨に、黄色いヤツだ電気がでるだなんだとひとしきり笑ってから、賀寿は「そんで、なに飲みたいん?」と結梨に訊ねた。
「へ?」
「おめーも自販だべ? だーけぇ、せっかくだで、このガジュ先輩がジュースのひとつやふたつおごってやんべ」
 ふふんふんと得意げに鼻を鳴らす賀寿を見上げて、なぜだか泣きたくなった気がした。
「ガジュさん」
 と、感動のまなざしで見上げれば賀寿は有頂天である。妹の真子も、こんな無邪気な時代があったのに、まったく最近の真子ときたら……と遠き日に想いを馳せていることを、結梨は知らない。
 うう、と抱きつきたくなる衝動を抑えて、またもやしわくしゃな顔を作ると、「んだで、その顔やめりぃ!」と頭をわしゃわしゃかき混ぜられた。なんだかんだ空気の読める男、赤城賀寿である。

「このあいだのインター、すごかったね」
 いちごオレを二つも抱えながら屋上にたどり着いて、結梨と賀寿は空いていたベンチに座った。
「あー……そうだべな…………」
 バレーボールをする生徒、お弁当やお菓子を広げる生徒、明るい空間の中で、今度は賀寿が暗い顔をする番だった。
 インターといえば、要の出場した全日本インターナショナル選手権。要は海外勢に混じり堂々三位入賞を果たした試合だ。だが、その話を聞いて脳裡をよぎった記憶はよほど苦いものだったのだろう。結梨は千鶴と千夏、「ダブル・ちーちゃん」コンビに守られていたため、とある場面を目の当たりにすることはなかったが、すごい形相で奥の控え室から激走してくる要と多々良を見かけていた。そして、ゲッソリした賀寿が海外選手に肩を組まれて出てくる姿も。その後、彼はしばらく放心状態だった。
 健康的にもやさいジュースを咥えたまま、ベンチの背もたれに腰かける賀寿の顔を眺めて結梨も眉をさげる。人生いろいろ、だ。
「そういや、あん時の絵、完成したん?」
 早くも飲み終わったのか、パックを捻り潰してベンチの端に置きながら賀寿は言う。
「まだだよ。というか、クロッキー帳に描きなぐったまま」
「なんらい、あんな一生懸命描いてっから、どんな傑作ができるのかと楽しみにしてたんに」
 インターのとき、一心不乱にえがいたクロッキーは自室の机の上に置かれている。要たちが出るまで待機していた幼なじみたちより、一足先に家に帰ってからも興奮が冷めず、何枚も何枚も頭に思いつく光景を鉛筆に籠めた。だが、そこから先に進むことができずにいた。
 いのちを燃やしたい、ひたすら描きたい、そう思う気持ちとはうらはらに、浮かび上がるのは「わたしに描けるだろうか」という不安だった。あの日感じた、心臓のひりつくような感覚。全身の細胞が沸き立ち、いてもたってもいられなくなる、その瞬間を思い出せば出すほど、二の足を踏んでしまう。絵を描くことは好きだ。昔よりももっと、好きに描けるようにもなってきた。けれど、好きの先に――あるいは前に、立ちはだかる壁がよりいっそう大きくも感じられるようになった。
 絵筆をとって、カンヴァスに向かえばいい。布を張ったりしなくとも、画用紙だっていいはずだ。それでも、光が注いだあの瞬間を、眩しくてたまらずに目を閉じたかったあの瞬間を、描きたいと目を離せずにいた、あの瞬間の衝動を……。どう表現すべきか、どこまで表現できるのか、結梨は「これだ!」というものを見つけられなかった。
 それは、要が自分で納得のいかない「三位」という成績に終わったからではない。多々良とあれ以来、ろくに話していないからでもない、とおもう。描きたい。描きたいと思うのに、苦しくなる。描いてはちがうとページをめくって、色を載せてみては色鉛筆を放りだして、ついには椅子の背もたれに身体を預けて天をあおぐ始末。
 絵を描くことが好きだという気持ちが強くなってきた一方で、やりたいと思うことがこれまでより格段に増えた結果、力量不足もはっきりと身に沁みた。それをどう解消すべきかなんとなしにわかっているぶん、苦しくもあった。
「でもね、今度ちーちゃんを描くんだ」
「あのじゃじゃ馬の?」
「じゃじゃ馬って、ちーちゃんの横顔は芸術的なんだよ」
 まあガジュさんも彫り深いけど、といちごオレをすすって、結梨は脚を投げだす。
「みんな、すごいなあ」
「なにがだべ」
「どんどん前に進んでいく」
 賀寿はわけのわからなさそうな顔をした。それが、いつもの賀寿らしくて、結梨はつい苦笑した。
「ダンサーって、すごいなってことだよ」
「結梨もやってみたらいいべ」
「わたしは、いいよ。運動音痴だし」
 幼なじみとホールドを組み、見よう見まねでフロアに滑りだしたときのことが、遥か昔のことのように感じる。介護老人とヘルパーとか、なんとか。
 いちごオレを手にしたまま、小さな室内シューズの汚れたつま先を見つめていると、器用にもベンチの背もたれに座っていた賀寿が飛び降りた。
「わかんねえべ」
 そうしてにゅっと大きな影が結梨に降りかかって、ぱちりと目を瞬くうちに腕を掴まれた。
 バレーボールが跳ねる音が響く中、静かにワルツが始まった。1・2・3、2・2・3――三拍子を刻みながら、賀寿のたくましい腕に抱かれコンクリートのフロアを回る。
 にぎやかな昼休み。ほとんどの生徒が彼らを気にもとめないが、近くにいた数名が二人のワルツに目を奪われていた。
 結梨は、そんなことつゆも知らなかった。知らないけれど、ふしぎと踊れている自分に、ゾクゾクと言いようのない感覚を味わっていた。なめらかにすべっていく。音楽がないのに、勝手に耳の裏で流れている。ここはフロアではないのに、世界の真ん中に引きずり出された心地。自分の身体が、勝手に動いていく。
「これがダンスだで、結梨」
 唇をつり上げる賀寿の好戦的な表情に、結梨はショートしそうな思考を懸命に繋ぎ止めて彼を見上げる。
「……リードされるって、なんだか、こわいかも」
「そうかあ?」
「だって、わたしでも踊れちゃうなんて」
「ま、オレの手にかかればこんなん朝メシ前だべ」
 スロー・アウェイ・オーバースウェイ――とまではいかないが、優雅にスウェイで決めて、フィナーレ。
 涼しげな賀寿とちがい、結梨は肩で息をしながら、余韻に浸っていた。
 ――これが、ダンス。
「ダンス」だなどと表現するのは、おこがましいかもしれない。けれど、わたしは、まだなにもわかっていなかった。
 あのフロアに立つ人間の鼓動を、なにひとつ理解できていなかった。
 だが、ぱちぱちと小さく拍手が鳴りだして、結梨は顔を真っ赤にしながら慌てて賀寿の背中に隠れるのだった。