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 授業が終わって、部活もないからと池袋に向かった帰りだった。中板橋にも画材店はあるが、高校に上がり技術的にも表現的にも広がった彼女の世界はその小さな文具屋の片隅に置かれた画材たちでは物足りない。そうして立ち寄った池袋で行き交う若者たちの一人になりながら、なくなりかけていた剥離剤や絵の具を伸ばすための油、そのほかにも油彩のチューブをいくつかと新たな木炭や鉛筆、クロッキー帳を購入した。
 高校生にとってはなんとも痛い出費だったが、部活や勉強のためなら、両親は毎月のお小遣いに加えていくらかお金を渡してくれる。そう思うと両親に感謝してもしたりないほどだ。
 あのゴッホだってカンヴァスや絵の具一本を手に入れるのに苦労していたというのに――まあ彼は画商である弟のテオからの仕送りを頼るのだけれど。とにかく、お金の心配をせずに絵を描けるのはなんて幸せなのだろうと結梨は画材の入った袋を大事に抱えて電車に乗った。
 同時に、昏れなずむ東京の景色を眺めながらいだいたのは、一抹の不甲斐なさだった。
 こうして結梨が親のお金でのうのうと画材を買い絵を描いているあいだにも、幼なじみの多々良はバイトをしてダンスのためのお金を稼いでいる。自分の幼なじみはスゴい! 自立しようと頑張っていて、カッコいい自慢の幼なじみなのだ! ――そんなふうに思って誇らしかったが、どんどん大人の階段をのぼっていく彼に焦燥をいだかないわけがなかった。
 わたしもバイト、しようかな。そんなふうに結梨は考える。
 毎月のお小遣いが足りないわけではないが、画材のことを考えると両親に甘えっぱなしでいるのも気が引ける。なにかも与えられることに慣れていた自分に恥ずかしさをおぼえるようになったのだ。それも、結梨の成長の証。だって彼女はそんなこと、中学生のころにはほとんど考えもしなかったのだから。
 大学までエスカレーター式で進学できる女子校となれば、周りはお金持ちばかり。会社社長の娘や弁護士や税理士、代議士など華々しい経歴の親を持つ生徒が山ほどいた。不自由なく遊べて、なにもかも簡単に享受できる、そんな生活が当たり前だった。だから、結梨も気にしたことがなかった。
 しかしこうして一歩外を出てみれば、その世界のほうがズレているのだと気がついた。結梨は自分を恥じるばかりで、そう気がついた成長のことはちっとも目を向けないのだが。彼女にとって不自由や苦労は大人の証としてちょっぴり――いや、かなり恰好よく映るのだった。それに比べて、わたしといったら……。
 けっして、そのころの友人たちが悪いわけでもないし、仲良くしていた子だってたくさんいる。価値観の合う子だって中にはいたし、今だに連絡を取り合う友人たちもいれば、彼女たちと遊ぶ約束をすることもある。それはそれ、これはこれ、だ。
 結梨は多々良が好きだった。昔から多々良は結梨にとってやさしくて頼れるヒーローで、それは今も変わらない。自分がやると決めたことをきちんとやろうとする背中は、なんとも大きく見えた。
 中学三年の秋、幼なじみの背を追いかけてダンススタジオに突撃したあの日から、見違えるほどに変わった彼を心から誇らしく思う。やっぱり、多々良は結梨にとって、一番近くにいるやさしくて格好いい大切な半身のようなもの。
 けれど、どんどん彼は進んでいってしまう。
 自分なりにひとつずつ解消していこう、と言い聞かせるが、結梨は多々良のとなりに立ちたかった。負けたくないとかいい顔をしたいとか、そういうことではなく、多々良にとっても自分は、いい意味で「対等」な存在でありたかった。

 電車を降りたあとは、駅を出てまっすぐ家に帰らず、先日室井と通った歩道橋へ向かった。夏に向かって日も延びてきた今日このごろ、まだ辺りは夜の準備をし始めたばかりだった。うっすらと東の空から宵のヴェールが迫ってくる様は、忙しない周囲とはちがってなんとも情緒の深い。
 急いで歩きたくなるけれど、そこをかえってわざわざ立ち止まってみる。階段を上がって、天辺の特等席を陣取ると、結梨は広がる空を眺めた。
 その身を包む空気は穏やかで、風がかすかに吹いては髪をさらう。晒された頬は残りの陽射しを浴びて、少しずつ熱を帯びていくようだった。
 こうしていれば、らしくない感情はしまい込める。焦ったって、いいことはない。「待ってよ、たーくん!」――そんなふうに腕を掴んで引き留めそうになるのを、こらえることができる。
 空に向けて、カバンの中から一枚の写真を取り出して並べてみた。右手に構えて、斜め上の空を。
 結梨がその先に、ある姿を見つけたのはそのあとだった。
 手を下ろした結梨の視線には、ブレザー姿の……。
「えっ、ひょ、兵藤さん!?」
 そう、清春の姿があった。さすがに今日はボタンを掛け違えてはいないが、だらしなくジャケットの前を開け放って睡たげとも言える目でこちらをまなざしている。
「どうしてここに?」
 だってここは中板橋。彼の家は池袋じゃなかっただろうか。信じられないという思いと、あの清春が突然目の前に現れた思いと、ごちゃまぜになって赤いやら青いやら忙しい結梨をよそに、「たまたま見つけて、声かけようと思ったらここまできてた」と清春はのろのろと歩み寄ってくる。
「どこから!?」
「……池袋?」
「声、かけてよ!!!!」
 ほとんど最初からじゃないか。結梨の声がグラデーションの美しい薄暮の空に響き渡った。
 車が一台、二台、と過ぎていくが、不思議なくらい静かだった。結梨がこの場所を好きなのも、それが理由のひとつといえる。
 静寂が辺りを包んで、まろやかに刻が彼女たちを追い越していく。そんな中、清春は結梨の手に握られた写真を目で示した。
「それ、ポストカードか?」
「ううん、これは写真。わたしが撮ったんだよ。……っていっても、友だちのカメラだったんだけど」
 室井からもらった写真のうちの一枚だった。律儀にも現像してくれた彼は、昼休みにいちご牛乳を買いにおりた結梨に届けてくれた。ほんとうは室井の写真が欲しかったんだけど、と唇を尖らせた結梨だったが、「……また今度な」と室井は言った。なんだかんだ優しい彼だった。
 それをおもいだして頬をほころばせながら、大事に両手で写真をもって眺めると、「ふうん」と彼はそっけないとも言える相づちを返してきた。
 はたと結梨は顔を上げて、こんなの興味ないだろうと取り繕うとするが、清春はズボンのポケットへ差し込んでいた手を抜いて結梨の前にスマートフォンを取り出してみせた。
「え、携帯?」
 なにを考えているのか、よくわからないのは今に始まったことではないので驚くことはないが、おそるおそる――それも頬を桃色に染めながらこの美人な想いびとを見あげると、彼はぴくりとも表情を動かさず長いまつ毛を結梨に向けて瞬いた。
「如月の好きな空、撮れ」
「えっ」
 なにを言い出すかとおもえば。まったく、これは予想外だった。もしやメールアドレス交換しようとかだったらどうしよう! と一瞬でも考えた結梨はその思考をダルマ落としのごとくスコーン! と叩くようにして追い出すと、彼女を困惑させる一人とひとつを見比べた。
 だが、清春は意に介すことなく――すこしは気にして欲しいのだが! ――あまつさえ携帯を手にした右手をひょいと上げて、「はやく、日が沈む」と促してきた。
 思わず目を白黒させそうになった結梨だったが、もごもごといくつもの言葉を飲み込んで携帯を受け取った。もはや、兵藤清春という人間は、こういう男だと結梨も理解っていた。
 清春の温度を帯びた携帯に、思わず手がやけどしそうになりながら、結梨は告げる。
「うまく撮れるか、わからないよ」
 どうして、わたしにこんなことを頼むのだろう。自分で撮ったらいいのに……。緊張で予防線を張る結梨に、清春は「がんばって」とそこで初めて唇を薄くして片方の口角をつりあげた。
 ほんとうに、この人は――! 叫びだしたい気持ちを堪えて、結梨は携帯をスリープ状態から起こした。震えないよう注意を払って、日の入りの始まった薄明の空にカメラを構える。
 もう少ししたらいっそう深い青が彼らを包み込む。太陽がしずみ、青い光の乱反射のみが高い空に届く、ブルーモーメント。瞬きのうちに空は変わりゆく。どの一瞬を捉えたらいいのか、迷う。
 けれど、結梨は今の時間、ビーナスベルトの見えるピンクとブルーの淡くやさしい空が好きだった。
 カシャ、とシャッター音が響いて、結梨はいつのまにか止めていた呼吸を取り戻した。
「トワイライト、っていうのかな。わたしね、それが好きで、気がついたら眺めてるんだ」
 なにかあったとき、なにもなかったとき、どんなときでも包み込んでくれるうつくしい時間。結梨は先ほどまでの困惑をすとんと削ぎ落として、清春に自分の好きなもののひとつを伝えられることをうれしく思った。
「如月は、朝焼けって感じだけどな」
 携帯を返しながら、えっと結梨は顔をあげる。
「わたし、たそがれって似合わない?」
「……いや」
 否定はしたものの、そこで清春は携帯に手を伸ばしたまま動きを止めた。静かに刻が過ぎる。
 ど、どうしたものか。ドギマギさせられながら清春の顔を下からのぞきこむ。
「……似合わないかもな」
 やっぱりかああ、思わずショックでよろめきそうになった。堪えたが、好きだと言い切ったぶん恥ずかしくなって、半ば携帯を押しつけるようにして返すとアワアワ両手で顔を覆った。まったく、このひとの前ではいつもの自分でいられやしない!
 だが、当の清春はそんな結梨の心情などつゆ知らず、彼女の撮った写真を眺めて滔々と流れる静寂のあわいを繋ぐようにして続ける。
「如月は燃えるような色じゃない。暗闇に光が射し込んで、やわく、少しずつ明るくなっていく。そのうち、いつのまにか、目が痛いくらいにまぶしくなる」
 結梨は指のあいだから清春を盗み見た。彼は携帯をしまったあと、ふと口もとをゆるめて微笑した。
「家、送る」
 彼は歩きだした。なにからなにまで、清春タイムだ。沖縄時間よりもマイペースで、ある意味台風のよう。
 きょとんと瞠目を繰り返しながら、ブレザーの背が、また逞しくなったなだらかな肩やしなやかに伸びた首すじが一歩ずつ遠ざかるのを眺めていた結梨だったが、ハッと気がつくと、
「兵藤さん、そっち反対だから!!!」
 と、いよいよ叫んだのだった。