17

 ゆるやかに雨が降り続いている。梅雨の晴れ間は短いもので、まったくワルツを踊ったあの日の青空が懐かしくなるほど空は厚い雲で覆われていた。草木は雨粒の重みで大きく垂れ、地面にはいくつもの水たまりができ、大なり小なりさまざまな波紋を立てている。
 夏に向けて刻一刻と準備が進んでいるのか、首すじを撫でるのはぬるりとした風。結梨はカバンから取り出したベビーブルーのタオルハンカチで額の汗をぬぐうと、傘を空に向けて大きく開き、雨のカーテンへと足を踏み入れた。
 結梨が今いるのは、都内から電車で約一時間、かつて幕府の開かれたことでも有名な神奈川県鎌倉市。いつもなら土曜日のこの時間は部活を終えて帰路についているころだが、所属する美術部の学外研修で、鎌倉にある近代美術館へやってきたのだ。午前中は美術館を堪能し、小町通りの洋食屋で昼食を済ませた。そして、今は、予定されていたオリエンテーリングの最中。といっても、各自自由行動が可能な時間であり、結梨はひとり、鎌倉駅から電車に乗って隣の北鎌倉の駅までやってきていた。
 観光客や学生でにぎわう鎌倉駅前とはうらはらに、北鎌倉はしっとりとした古都の風情が漂っている。雨だから余計に、かもしれない。駅のすぐ横手に有名なお寺があるからもちろん観光客はいるが、それでも、どこか静かな雰囲気がある。OLふうの女性二人組や、ハイキングルックの老夫婦、ほかにも大学生のカップルや、団体、親子連れ、色とりどりの傘を眺めながら、観光客の流れから外れて線路沿いをしばらく歩く。
 オリエンテーリングの内容は単純。鎌倉を散策し、「これだ」と思う題材をひとつ見つけること。七月の学期末テストを終えたのちに行なう新たな制作の「テーマ」を探すのだ。美術部といっても、いつも好き勝手に自分の絵や作品を制作できるわけではなく、それぞれそのときによって課題があり、テーマに沿って制作を進めていくのが、犬飼高校美術部の慣わしである。賀寿が偶然にも美術室へやってきたときは、アクリルガッシュで描く静物画が課題だった。そして、「日常の中で目についたもの」がテーマ。大きな課題のほかにも、日々の活動では一つのものを皆でデッサンするといういかにもな課題なども行なっている。
 と、いうことで、今回は、「私の見つけた鎌倉」がテーマだった。通常学年ごとに課題とテーマが課せられるが、この学外研修は全学年共通。このテーマも一年生から三年生までが取り組む。さらに、その表現方法は油彩でも水彩でも、彫刻でも、陶芸でもあるいは写真でも、なんでもよいことになっていた。
 テーマだけでも個性が光るだろうに、全員の作品が揃ったらさぞ見がいがあるにちがいない。みんなの作品、今からたのしみだなあ、そんなことを思いながら結梨は雨に濡れたアスファルトを進む。しばらく線路沿いに歩いたら、今度は一本側道に入り住宅地へ。そのころにはすっかり人影も少なくなり、建物や地面や、草木を打ちつける雨の音と、ほんのときおり通り過ぎる車の音が遠くに聞こえるのみになっていた。
 雨の中に閉じ込められたみたいだとふと結梨はおもう。しとしとと降り続く雨。人影も車も目の前にはないから余計にただ一人そこに取り残されたみたい。けれど、いやな閉塞感はなく、心がかえって落ち着くのだ。なにもかもを一旦隅に置いて、雨糸で紡がれたカーテンを眺めて、そのさきになにが見えるかを探すわけでもなく、自分の存在を感じる。精神統一をするのに、打ってつけ。
 そんなことしないけどね、と、ひとりでにふふっと笑いながらすすむと、レンガ造りの西洋風の建物が見えてきた。そこが、結梨の目的地だった。
 小川にかけられた石橋の先には、アイアンの美しいアンティークの門扉。砂利が敷き詰められた敷地内にはガス燈風の外燈や青銅のガーデニングテーブルのセット、それから薔薇やマロニエが植えられ、まるでイギリス郊外の洋館に迷い込んだかのような雰囲気があった。
「……ひさしぶりだなあ」
 結梨は門扉の前で立ち止まり、瞑目して深呼吸をした。雨に濡れた、自然のにおいがした。青い草木のにおいや、甘い土のかおり。鎌倉観光をするにはあいにくの雨といったところだが、結梨は雨が嫌いではなかった。よりいっそう強い樹々のかおりに、普段は感じられない自然のやさしさを感じる。
 正直、なにかを見つけるために来たわけではないけれど、どうしても、ここに来たかった。
「あら、お客さんですか?」
 立ち尽くす結梨に声を掛けたのは、犬を連れた女性だった。レインコートを着て、大きなゴールデンレトリーバーをそばに携えている。うしろからやってきた彼女に結梨ははっとほんの少し驚いたが、すぐに、「はい」と、はにかんで女性に案内されるがまま中へ入っていった。
「どうぞごゆっくり」
 そんな声掛けに背中を押されて、チケットの半券を握りしめながらそっと足を踏み出す。小さな美術館だった。それも、結梨にはとても馴染み深い、大切な美術館のひとつだ。一般的なイメージよりかは格段に規模が小さく、しかも住宅地にぽつんと建っているものだから、「アトリエ」と呼ぶほうがもしかしたらしっくりくるのかもしれない。けれど、一歩洋館に踏み込めば、ここが画廊でもアトリエでもないことがすぐにわかる。やさしくワックスで磨き上げられたフローリングを進むごとに、迎えてくれるのは、とある画家の作品。油彩もあれば水彩もある。静物画もあれば、風景画も。しっとりと草木に囲まれたこの洋館で、彼らは結梨を待ち侘びていたかのように、静かに彼女を受け容れる。
 飾られている作品たちは、先ほどの近代美術館や上野の東京都美術館に飾られている有名な絵画に比べたら迫力には欠けるかもしれない。……一般的に言えば、そうだろう。それでも、結梨はここが好きだった。
 小さいとき、家族で鎌倉に遊びにくることがよくあった。都内から訪れやすい観光地というのもあって、ゴールデンウィークやたまたま祝日が月曜にぶつかった三連休、あるいは単なる土日。家族三人で、八幡宮や長谷寺、夏が近ければ由比ヶ浜の海に行ったもの。電車に乗って県をまたぐだけで、同じ関東であるのに、とっておきの旅行気分が味わえて結梨は鎌倉が大好きだった。そんな懐かしい幼少期。父が、ここに連れてきてくれたのだ。
 そのころはまだ、画家の「が」の字もわからぬような幼さで、将来なにをしたいかなども当然考えたことはなかった。手を両親に握られながら、おとぎ話に出てくるようなこの洋館に、ただひたすら胸を躍らせて、なにかおいしいものでも食べられるのではないかと考えてもいた。実際、中に入った瞬間、結梨はショックを受けた。プリンやケーキが食べたかったのに。それには思わず両親も笑っていたが、父に手を引かれて中を進めば、すぐに小さな女の子の機嫌は元通りになった。
 壁に掛けられたさまざまな絵画。猫脚のテーブルやコンソールや、キャビネットに飾られた陶器のオブジェやガラス細工。すべてが一人のアーティストによって作り上げられた、まさしくそこはお城だった。見るものすべてがきらきらと輝いて見えて、あれやこれやと手を伸ばしたくなってしまう。夢中になって奥へ奥へと進んでいくうちに、すっかり結梨はアートというものに心を貫かれていた。それがなんだかを理解しないまま、ただひたすら手を引かれるようにしてかれらに歩み寄っていた。
「たーくんに、ポストカード買ってあげるんだ」
 そんなことを思いながら、思えばこれが生の「アート」というものに触れる、初めての機会だった。お絵描きや工作は好きだったけれど、将来の夢を訊かれれば、「お花屋さん」や「ケーキ屋さん」あるいは「およめさん」そんなふうに答えていた時代。結梨は秘密の花園にたどり着いたのだった。
 毎年のように通った小学校時代。行きたいところがあるかと訊かれれば、「鎌倉!」と答えるほど。ここには思い出もたくさん詰まっている。しかし、年齢を重ねるにつれて、次第に脚は遠のいていく。
 床板を静かに踏みしめながら、結梨は展示室を順に回った。一見すれば、お金持ちの邸宅といった広さなので、当然、いくつも展示室があるわけではない。でも、アンティークな洋館の一室、一室をゆっくりと堪能しながら足を進める。
 部活は一度ランチの時点で解散したため、時間にとらわれる必要はなかった。ひとつずつ作品の前に立ち止まり、じっと味わって、最後の展示室の前の、置かれたチラシにすら手を伸ばす。
 一日、スッキリとしない天気ではあったが、雨のおかげで余計に時がゆっくりと流れていくように感じた。いつまでもここに居座れてしまう、そんなふうに思ったとき、最奥の展示室に佇む人影を見つけた。
 あまりに静かだったから、ほかに人がいるのに気がつかなかった。もう少し遅らせて入るなど、気遣うことができたはずなのに、四角く切り取られた戸口の先にその姿を見た瞬間――その背を見てしまった瞬間から、結梨は動けなくなった。
 一面、真っ白い壁に囲まれた展示室。その中央、飾られた一枚の額縁の前に、ひとりの男性が佇んでいる。白いシャツにベストとスラックスという、まさにうってつけの格好。ぴんと糸を張ったように伸びた背すじと、アルプスの山でも描くような立派な肩と。単純にその立ち姿が綺麗というのもあったが、なにより、一枚の絵に向き合う彼のそのうしろ姿が、唯一無二の芸術であるように、結梨の目を奪ったのだ。
 息をすることすら、精一杯になるほど。容姿が美しいとか、かたちが美しいとか、そういうのではない。その空間が、彼の存在で完成されたような、ある種の完璧さ。そこに、わたしは要らない。この空間に立ち入っては、いけない。そこには彼と一枚の絵しか存在しておらず、何人たりともその聖域を侵せない。
 息を吸うのすら、億劫で。しかし、からからになった肺を満たそうと唇を舐めたそのとき、彼がふり返った。
 びくり、と肩を揺らした拍子に、手の中からチラシがこぼれ落ちる。はらり、はらり、はらり――。
 一秒か、二秒か、それとも五秒か。少しして、結梨ははっとして慌ててしゃがみこんだ。
 ――はずかしい。しかも、見ていたことがバレたかもしれない。見られていた側の人間からしたら、さぞ気持ち悪いことだろう。ああもう結梨のばか! さっさとチラシを集めて、ひとつ前の展示室に戻るつもりが、散らばったチラシを集めるのに手間取ってしまう。
「すみません、あの、これ全部拾ったらあっちにいくので、どうぞ、ゆっくりご覧になってください」
 喉が渇きすぎて変な声になっていたかもしれない。挙動不審だし、早口だし、こんなの変な人間だって言っているようなものだ。だが、もはや後の祭りだ。とにかく、今結梨にできることといえば、一刻も早く空気になること。わたしは空気、わたしは空気。要あたりが見たら、お前らやっぱり幼なじみだな、と目を平たくするだろうが、結梨はそんなことどうでもいい。
 あたふたと床に張りついたチラシを集めていると、「僕以外にここへいらっしゃる方、初めて見ました」となめらかなサテンのような声が耳を撫でた。
「うれしいです、知っている方がいらして」
 先にきょとんとしたのは彼のほうであったのに、今度は結梨が不意をつかれる番だった。結構な距離があったというのに、彼はもう結梨の目の前にいて、長い体躯を小さく縮こめながらしゃがみ込んで残ったチラシを手にしていた。ふにゃりと笑うその顔は、想像以上に端正なもので、いや、精緻と言ったほうがいいかもしれない。
 コツ、コツ、と革靴が鳴る音が、したっけ、しなかったっけ、そんなことをトンチンカンに考えながら、結梨は長いまつ毛の先のきらきらとした薄い虹彩を眺めていた。

「そうなんですか、部活動でこちらに」
 感心して言うのは、先ほどの彼だ。蔵内一創、結梨より二つ上の高校三年生で、近くに下宿しているらしい。同じ高校生だと知ったときには卒倒しそうだったが、彼の持つ独特な空気に丸め込まれてなんだかんだと一緒になって売店のポストカードを選んでいた。
 ほんとうは、絵の一枚、二枚買えたらいいのだけれど、当然高校生のお小遣いでは難しい話。「はい、午前中は近代美術館に行きました」と答えながら、水彩で描かれたイングリッシュガーデンの一枚を手に取る。
「それ、すてきです」
「……好きなんです、なんてことのない風景なのに、どこか風を感じて」
 照れ臭くなって笑えば、彼はにっこり破顔した。
「かれがイギリスのコッツウォルズに住んでいたときの作品ですね」
「すごい、知ってるんですね」
「ええ、僕もコッツウォルズ時代の作品が好きなので」
 やわらかな絵筆が、その庭の明るさを伝えてくれる。溢れる緑と、咲き誇る花々と。置かれたガーデニングテーブルとチェアが、人のぬくもりを感じさせる。テーブルの上のカップにふらりと寄ってくるモンシロチョウと、花の蜜を集めるミツバチと。
 たーくんにも昔、買って帰ったな、そう思うと懐かしくて自然と頬がゆるんだ。もう、とっくに捨てられてしまっただろうか。
「はじめてここにきたとき、かれの絵を見て思いました。窓だ――って」
「窓?」
「最後の展示室。窓がひとつもないんです。それなのに、額縁に飾られた絵をみた瞬間、そこにないはずの窓が見えた気がしたんです」
 白い壁を懸命に見上げて、吹く風のあたたかさ、そよぐカーテン、射し込む光。青い香りまでをも、感じる。
「……それから、ずっと、その窓のことが忘れられなかった」
 遠ざかった時期はもちろんあった。たーくんに後ろめたい秘密を抱えたとき、なにもかもうまく描けなくなったとき、そして、今日まで。鎌倉に来ることは一度もなかった。
 へへっとはにかんで、「買ってきます」と結梨は手にした二枚のポストカードを掲げた。
「ありがとうございました。とっても、充実した時間が過ごせました」
 揃って美術館を出て、エントランスのポーチの下で傘を開く。結梨の手にはポストカードの入った小さめの白い紙封筒が、蔵内はミュージアムの刻印の入ったビニール袋を小脇に抱えていた。絵本を一冊、買っていた。
 こちらこそ、と微笑して、結梨をエスコートする。あくまで自然体。さも当たり前のようにスマートに。転ばないようお気をつけて、と段差の前で手を差し伸べられたときには、結梨はひゃっと心臓が掴まれた。もしかして、英国紳士だったりしないだろうか?
 端正な顔だちは、どちらかというと清春に近い系統で、そのフォーマルな格好も相まって、絵本の中の住人みたいだ。その手をとるか、困惑する結梨に対しても穏やかで、「すみません、むやみやたらと女性にふれるのはいけませんね」と眉をさげてチャーミングに肩をすくめてみせた。
「駅へ向かわれますか?」
「えっと、このまま、近くのお寺に向かおうかと、思ってます」
 結局困らせてしまった自分を悔やみながら、それでも懸命に言葉をつなぐ。
「実は、課題があって」
「課題?」
「なにかひとつ、とっておきのものを探して表現してみるんです。彫刻でもいいし、粘土でもいいし、わたしは、絵を」
 いいですね、と、蔵内は傘の下で微笑した。紫陽花が美しい季節だから、有名な境内を散策するつもりだった。でも、手の中の白い封筒を見つめて――一瞬のうちに、閃光が走った。
「如月さん?」
 急に足を止めた結梨を、蔵内は不思議そうに見やる。
「……あの、蔵内さん!」
 彼はきょとんと目を丸くしたが、すぐに、「はい」と答えた。ごくり、生唾を飲み下して、結梨は口にする。
「蔵内さんの絵を、描かせていただけませんか!」
 ――まったく、大胆なのかシャイなのか。呆れる声がどこかから聞こえてきそうだが、こうなったら結梨はまっすぐだ。ここに千夏がいれば、ああ、はいはい、とわかりきった表情で肩をすくめるだろう。
「僕の、絵……ですか」
 彼の反応に、やってしまった、と結梨は我にかえる。
「あっ、その、ほんとう、急にすみません。……でも、展示室にいる蔵内さんの姿が、すごく自分のなかでしっくりきて」
 ビッときた、というのが正しいかもしれない。一枚の絵と対峙する一人の青年。そこにあるのは、静謐な時の流れ。ひたりと冷たい水が、ゆっくりとひとすじ滴る。背を見ただけなのに、どんな顔をしているのか、なにを見ているのか、静かに物語る。
 すみません、と結梨はもう一度謝った。また自分は突っ走って。「きもちわるいですよね、ほんとう、こんなこと言ってごめんなさい」と、頭をさげると、「いえ」と蔵内は言った。
「悪い気はしません。……ただ」
「ただ……?」
「少し、自分なんかが、おこがましいといいますか」
 しかし蔵内は、少し考えるように器用に顎に片手をあてると、次の瞬間にはにっこり破顔していた。
「でも、なんだか楽しそうですね」
 これは新しいタイプの人間だ。多々良ならば、「なに考えてんの!? やめてよね!」と顔を赤くするだろうし、雫も意外と恥ずかしがるだろう。賀寿は「仕方ねえっけ」と言いながらもちゃっかりポーズを決めて、要はもちろんさあ描けとばかりに「一枚五百万で売れよ」とニヤリ。千鶴も、相方とはちがってお金はせびらないが、「やだー、どうぞ!」というタイプ。千夏はやれやれと呆れるし、清春は……「べつに、いいぜ」なんて、意外と言うかもしれない。
 結局、結梨の突拍子もない申し出を受け容れてくれる人間が少なくなかったわけだが、蔵内はなんとなくこれまで出会ったタイプの人とはちがう気がした。
 一瞬、呆気にとられた結梨だったが、背の高い蔵内のどこか幼い笑顔を眺めて、自然と頬がほころぶ。
「蔵内さんって、なんだか小動物みたいです」
 その反面、今度は蔵内が結梨の顔を見て黙りこむ。まるで、リバーシだ。
「蔵内さん?」
「……いえ、なんだか赤ん坊に笑いかけられたときの気持ちを味わいました」
「わたし、もう16になるんですけど……!?」

 紫陽花の寺を回り、結梨は蔵内に見送られ電車に乗った。土曜日ともあり、電車は観光客でやや混雑していたが、結梨はどこか心がふわふわとした心地で東京へ帰った。
「完成したら見せてくださいね」という新たな友人からのメールに、「がんばります」と上腕二頭筋を作ってみせる絵文字を送って、結梨は中板橋を歩いた。雨はまだ降り続いていて、すっかり街が覆われてしまっている。いつしか溺れてしまいそうなくらいに。けれど、弱まった雨足に、どこか気持ちも軽くなる。
 ほんとうは、すこしだけ重たい気持ちであの美術館へ向かったのに。外に出てみることは、いいことだ。どんなふうに描いていこう、胸を熱く膨らませながら、結梨は進んでいく。
 風船みたいな気持ちのまま、「鎌倉行ったよ」と清春に紫陽花の写真を送って、少ししてから「キレイだ」と返ってきたことばに、こそばゆくなって。
 だが、ふとカフェの横を通りかかったとき、木戸のガラス窓の向こうに幼なじみの姿が見えて、結梨は思いがけず足を止めた。明るいカスティールゴールドの光の中、隔てられたドアの向こう。しばらくその姿を眺めて、結梨はそっと唇を噛み締めて歩きだす。