一時はどうなることかと思われた富士田組が再びカップル練を再開させてしばらく。六月になり、要が日本へ帰ってきた。
「うわあ、武道館ってスゴイね!」
九段下駅を出て坂を登っているときから高揚が止まらなかったが、幼なじみと一緒になってフロアを見下ろして結梨は頬を上気させる。
「なんだい結梨、初めてかい」
「初めて! 要さんのダンスを見るのもそうだし、武道館も。こんなに広いんだぁ」
そう、今日彼らが訪れているのは、東京は九段下、日本武道館。仙石組の出場する、日本インター――全日本インターナショナルダンス選手権大会に訪れていた。
本当ならば部活があったものの、ちょうど顧問が都の教員研修会で休みになり、多々良や賀寿に誘われて足を運んだ。
昨年の三笠宮も結梨にとっては異世界だったが、今回はさらにその上を行く。フロア席から一階席、さらには二階席。有名アーティストのライブが行われるともあって、会場規模はかなり大きい。フロアではすでに選手たちが集まってその時を待っているが、錚々たる光景であった。
わあわあと子どものようにはしゃぐ結梨に賀寿は腕を組みふんと鼻を鳴らす。
「驚くのはまだ早いがね、こっからだで」
なんで賀寿が偉そうなんだとツッコむ人間もおらず、結梨はさらに目をキラキラさせて賀寿に迫る。それに調子に乗る賀寿である。
迷子になりそうだからと千夏に腕を組まれ、結梨は立ち入り禁止となっている地下へ向かった。途中仁保がスタッフとして彼らを止めたが、まあ止まる彼らでもない。ガードマンご苦労さまですだお邪魔しますだなんだと軽々と階段を駆け降りては目当ての人物を探す。
そうして飛んでいったのは仙石組のもと。決勝までの控え時間を狙って、要たちに会いにきたのだ。しかし、感動の再会もつかの間、千鶴に抱きつく千夏の横で結梨はひいっと悲鳴を上げてその場に固まった。
「なにしてんの?」
怪訝そうにふり向くが、結梨はそれどころではない。
「こ、これは18禁……!」
「なに言ってんのアンタ」
千夏はやれやれと呆れ顔を見せるが、顔を真っ赤にして今にも泣きそうになっている彼女の視線の先を追いかけてああと納得がいく。
「うわ、要ちゃん、露出狂だって、マジで今すぐ警察に自主したほうがいいよ。結梨の目に毒」
「ハッハーン、結梨、このオレの色気にあてられたか。どれ、ちょっとこっち来い、抱きしめてやろうか」
スケスケ、テラテラ、キラキラ、ドーン(筋肉)――これが結梨の頭の中である。衝撃のあまり、脳が退化したらしい。
されるがまま抱きしめられた結梨はヒエエエと半ば混乱状態で要を見上げる。たしかに要と接するのは、すごく緊張すること――といっても、もう慣れたはずだった。だが、これは別だと目をどこにやればわからなくなって、顔を見つめるしかなくなった。
そんな結梨に、要が動きを止めてごくりと生唾を飲み下すのだが、自分がなんとも色っぽいことに、結梨は当然ながら気づいていない。
「要ちゃん、マジでヤバい顔してる」
「こいつ、大丈夫か? 連れ去られたりしねーか?」
「現在進行形で190越えの巨漢に攫われそうになってるね」
「いやだめだろ。おい、結梨、兵藤のことは考えなおせ。というか俺が許さん。父親として許さん」
「……いったい、いつ、要さんがお父さんになったんですか」
ついにしびれを切らした千鶴が要にローキックを食らわせて、結梨は解放された。
要との再会を終えた幼なじみが横に並ぶと、結梨はその顔をのぞきこむ。
「たーくん、へいき?」
まわりに聞こえないように、呼び方も小さいころの、二人だけのそれに戻っていた。多々良は平気だよと言うが、結梨はどこか不安げに、海外組のもとへ向かう彼の背を見送ったのだった。
日本インターは、まるで別世界のようだった。来た瞬間からそれを感じ取ってはいたものの、どこかコンサートを観に来たような昂揚感で、あくまで結梨にとってはエンターテイメントのひとつのように感じていた。
だが、決して、そんなものではなかった。沸き起こる歓声、絢爛に舞う目映い光、そして、フロアの上で戦うダンサーたち。踊る、だとか、舞う、という言葉は、彼らにとって物足りない気がした。たしかに芸術的な美しさがそこにある。ひらひらとドレスが瞬き、燕尾服が光を跳ね返しきらめく、なんたる優雅さか。なんたる、尊さか。けれどその奥にある壮烈な迫力に、皮膚が、心臓が炙られる心地だった。
結梨にとって、公式戦を、そもそも競技ダンスをまともに見るのは、これで二回目。浮かれていた自分をどこかで恥じた。それでいて胸が高鳴って仕方がなかった。
幼なじみの多々良が、ここで戦う。友だちの雫や、千夏が、賀寿が、そしてあこがれの清春が、この世界で命を燃やしている。世界がパァっとスポットライトに照らされて、さらにはっきりと明るくなる。だが、まだ眩しすぎて、目を開けていられないほど。それでも、閉じてはいけない。
――もっと。もっと、わたしも、いのちを燃やしたい。
限りある人生の中で、ただその瞬間をそのひとときを永遠に感じながら、ひたすら絵筆を握りたい。
そう、思うようになっていた。
「結梨?」
「なにしてるん」
決勝戦、ジャイブを残しボルテージが最高潮になるさなか、結梨はカバンからクロッキー帳を取り出していた。スケッチブックは大きすぎて持ってこられないから、ポシェットに入るちいさなものだ。それに、結梨は何枚も鉛筆を走らせていく。
千夏と賀寿がギョッとして声をかけるが彼女は気づかない。多々良は肩をすくめて、だが幼なじみの横顔を真剣に眺め、ただそれを見守っていた。
「結梨さ、絵描いてるとき、なに考えてんの」
日本インターから数日、千夏と屋上でランチを摂っていた。紙パックのジュースをジュッと吸ってから訊ねてきた千夏に、結梨は空を仰ぎながらもわもわと考えた。
「描いてるときかあ」
「なにが見えてるって、言ったほうがいいのかも。あのときの結梨、なにかに取り憑かれてるみたいだったから」
結梨はああと頭を抱えた。
「ごめん、武道館のときだよね。わたし、よくやっちゃうんだ」
「いや、びっくりしたけど、でも、それはいいよ。アンタが頑固でこう思ったら真っ直ぐドンな子なのは、まあわかってきたしい?」
飲み終えたのか、パックを横へ置き千夏は手をうしろへ突き出して、結梨よりも大胆に空を見上げた。
結梨はその横顔をみやる。どこか、さみしげな顔。思案げ、というのが正しいのかもしれない。彼女の色は、ブルー。……いや、ちがう、千夏はブルーじゃない。ひまわりみたいな燦然たるイエローと、燃え盛るアマリリスのような情熱の赤と、たしかにその色があるのに、その上に上等なレースの――それもほとんど透明にちかいヴェールをまとっている。
雫がその名をあらわすように澄んだ美しさがあるとしたら、千夏はもっと烈しい。けれど、決して、粗野ではない。きれいだなと結梨はおもう。野生的なしたたかさの中に、上品で、洗練された美しさが、千夏にはある。
「……なによ」
「いや、ちーちゃん、キレーだなあとおもって」
「ハア?」
その頬がちょっぴり赤いから、満更でもないのだろう。結梨はハッとして、なにを思いついたか「ねえ」と言葉を継いだ。
「今度、ちーちゃんの横顔、描きたい。描いてもいいかな?」
千夏の輪郭や額から鼻梁、そして唇から顎先にかけてのラインはほんとうに指先でなぞりたくなるくらいに美しい。美しいとしか言えない自分が、もどかしくなるほど。
「アンタって子は……」
「ご、ごめん! きもちわるいよね! やっぱ今のなし!」
「……べつに、いいけど。というか、私の話聞いてた?」
唇を突き出した千夏に、結梨はツンと指先で額を押さえつけられる。
「聞いてた、聞いてたよ、えっと、なんだっけ」
「ほんっとーにアンタらって……」
「あっ、絵、描いてるときだよね! そうだよね! ……でも、そうだな、なんか、光がブワッて一気に空から降りそそいで、そこが目映いくらいに明るくなるの。それに、目を閉じたくなるんだけど……まぶしすぎて、すこし、こわいから。それでも、閉じたくなくて、懸命にその瞬間を網膜に灼きつけるの。そして、世界が、見えてくる。苦しいけど、描きたい、描かなくちゃ、楽しいけど、怖い、だってそこにはわたし一人だから。でも、わたしにはここだって、おもう」
言っているうちに、わけがわからなくなってきた。「なあんて、ね! わたしも正直、まだはっきりとわかんないんだ」――だって、この衝動を強く感じるようになったのなんて、つい最近だから。
へへっと頭をかくと、千夏はしばらく結梨を見つめて、……それも、その目には半ば驚きと慄きを載せて、そうして、ちいさく息をついたのだった。
おもわず首をかしげるも、千夏はなんでもないから! とそっぽを向いて空のジュースをまたひとつジュッと強く吸った。
