富士田組が小笠原ダンススタジオから兵藤ソシアルダンスアカデミーに移籍したのと同じく、季節は移り変わりもう間もなく六月。東京にも長雨の季節がやって来る。テレビの天気コーナーでも、有名な気象予報士がそろそろ梅雨入りかと説明していたばかりだ。
ぼんやりと青色が薄まった空を眺めながら、結梨は雨が降り出しませんようにと心の中で唱えて絵筆を握っていた。
「如月さん、最近色使いが変わったね」
いつの間に後ろに来ていたのだろう。結梨のキャンバスを眺めて、無精髭を撫でるようにして言った美術部顧問に結梨は目を瞬かせる。
彼はそっと教え子に視点を転じると、優しく笑みを浮かべた。
「気がつかなかったかい」
「自分では、そんなに……」
「ふむ。無意識のうちに選ぶ色が変わるのは良くあることだ」
意識的に変えることは勿論ごくありふれたことだが、意識や理解を超えたところで感情に動かされて、色を選ぶこともよくあるという。
ピカソが親友の死を契機に「青の時代」と呼ばれるほどに青を自らに用いた話はあまりに有名だ。そのようにして、人間と色彩はうまく結びついている。
「でも、なんだか前より色を多く使えている気がします」
たしかに、それはハッキリとはわからないけれど、言うなれば「自由」が増えた。自由に、色を使える。無意識のうちに。
「こう、頭の中に豊かな光景が思い浮かぶような、たとえば、花畑が広がるような」
たとえば色彩の魔術師と呼ばれるアンリ・マティスが、雨上がりのニースの光り輝く美しさから生まれたように。ふとしたところで、色彩の花は開花する。
ふむと恩師はまたひとつ顎を撫でた。
「まだまだタッチも変わっていくだろうね。そこで、もしかしたら如月さんは悩むかもしれない。苦しくなるかもしれない。けれど、きっと描くことがさらに楽しくなる」
まだ見ぬ夢を描くことの不安をどこかで感じながら、それでも結梨は彼の言葉にやわく頬をゆるめて、はい、と頷いた。
夢中になって絵筆を握っていたら、すっかり日は沈み始めてしまっていた。
上履きからローファーに履き替えたところで結梨は下駄箱の向こうに人影が動くのを見た。吹奏楽部の生徒だろうか。美術部は自分が最後に鍵を返したから、きっと他の生徒はもう既に帰路についているはずだ。
下駄箱に手をつきながら、コンコン、爪先を打ち付けて、踵をローファーにしまう。すると、その影が姿を現した。
「……今、帰りか」
室井だった。
「室井くん」
ポケットに手を突っ込んで下駄箱の陰から姿を現した彼に、結梨は表情を緩める。そして、ゆっくりと首を縦に振った。
「創作意欲が湧いて、気がついたらこんな時間だったよ」
「下校時間ギリギリまで? お前も良くやるよな」
呆れたように眉を上げながら言う室井に、結梨は苦笑いを浮かべる。
「だって、調子良かったから、出来るところまでやりたくて」
家に持ち帰る事も出来るが、それは絵の具が乾いてからだ。瞬間的なインスピレーションを筆に載せるには、少し間隔が空いてしまう。創作者ならば誰しもが経験することだろうが、それはたいそうもどかしい。
室井もその気持ちが分かるようで「まあわからなくもないけど」と口にすると、呆れ顔を少しだけ緩めた。
「一人なのか」
片手をポケットから抜いて、室井が結梨を見やる。うん、と彼女は頷いた。
「待たせるのも悪いから、友達にも先に帰っててもらったの」
「そうかよ」
とは言うが、彼は揉み上げの下あたりを人指し指で掻きながら、視線を少し伏せて唇をもぞつかせている。
どうしたの――聞こうとしたところで、視線がぱち、とぶつかった。
「送る」
キリッとした眼差しが真っ直ぐに自分を見つめていた。思わず息をゆっくり吸い込みながら、結梨はつい、送る? と首を傾げた。
「家まで」
「大丈夫だよ、そんな遠くないし」
慣れたいつもの帰り道だ。ひとりで帰れるからそれは悪い、とへらりと緩やかな笑みを浮かべるが、室井は指の動きを止めて言葉を続けた。
「もう暗くなるし、危ねぇだろ」
彼の視線に釣られて、結梨もガラス戸の向こうを見やる。
一日の終わりに向けて少しずつ憂いを帯び始めているかのように、空の色が橙から灰色みのある青に移り変わっていた。夏に向けて日は伸びたが、もう間も無く暮れていく合図だった。きっと駅に着く頃には既に真っ暗だろう。
――そっか。
結梨は小さく息をついた。彼は心配してくれているのだ。
「あの……じゃあ、お願いします」
危ないと言われては返す術も無く、結梨はカバンの持ち手を握りしめて、前髪をさらりと垂らしてはにかみながら言った。
こくり、小さくだが、たしかに彼が頷いた。
結梨は彼に歩み寄る。仄かに頬が赤らんで見えるのは、先程までの夕焼けのせいだろうか。
背の高い彼を見上げる。暫し彼らは不思議と見つめ合っていた。言葉も無く、ただ黄昏時の揺蕩うような静けさの中で、瞳の中に互いの姿を映していた。
「……行くぞ」
くるりと踵を返すようにして、室井が先に動き出した。「うん」と小さく呟いて、結梨もその後を追った。
「今日も一日蒸し暑かったね」
「ああ」
「でも、来週からは雨だって」
「雨は、怠いな」
ぽつりぽつりと言葉を落としながら、二人は歩いていく。どこかよそよそしい室井に、結梨までもが落ち着かないように視線を泳がせていた。
学校から男の同級生と一緒に帰るなんて、多々良以外で初めてだ。そう考えると少し緊張していた。
「お家、どこらへん?」
どうにか話題を捻り出す。
「玉村中の近く」と室井もぶっきらぼうながら返してくれた。
「え? じゃあもしかして玉村中だった?」
玉村中といえば、結梨の住んでいる地域の公立中学だ。結梨が中学受験をしなければ、もともと通う予定でもあった。
だからなんだよ、とすげなくそっぽを向く室井に、結梨は「わたしも!」と声を弾ませる。
「わたしも、そっちのほうなんだ!」
まさか、高校で多々良以外にそんなひとに出会えるとは。それに、室井との共通点が見つかって、なんだか背中に羽が生えた心地だった。
「……そうかよ」
「うん!
にこにこ、笑っている結梨に室井は唇をもごつかせ、そっけなく地面の小石を蹴る。彼の心のうちを、結梨はまだ知らない。
そんなふうにしばらく歩いて歩道橋に差し掛かるときだった。
「わあ、空が綺麗」
天を仰ぐと、藤の花が満面に花開くように、美しいむらさき色が一面を染めていた。春が過ぎて、夏がやってくる、そんな青い空気を感じさせる。
室井も足を止めて、同じようにして空を仰ぎ見た。
「そうだな」
そう言う彼の声色が、いつもよりうんと優しくて、自然と頬がほころんだ。
「そういえば、室井くんの写真の中でも、一枚夕暮れの空があったよね」
思い出して気持ちが弾む。それに身を預けて「あれ凄く綺麗だった」とスキップをしながら隣に並んで、室井に微笑んだ。室井は急に咳き込んだ。
「え、大丈夫?」
「ッ、お前が変なこと言うから!」
「え、あ、ごめん?」
「大丈夫だけどよ」
心配そうに手をアワアワさせる結梨をよそに、室井はそっぽを向いて階段を登りはじめる。だが、その耳は真っ赤だった。なにかしてしまったかと不安になったが置いてかれると気づいて彼のあとを小走りで追いかけた。けっして、室井が彼を置いていくことはないが、結梨はそんなことを知らない。
「……つうか、よく覚えてるよな、そんなの」
手の甲で口元を覆う室井に、隣で笑みを深くする。
「この時間の空が好きだから、印象的だったの」
そうだ、夕暮れの空が好きだ。季節によって色がちがう。それどころか、毎日、同じ場所で空を見たとして、一度も同じことはない。
青空より、星空より、この切ないほど儚いほど美しい夕暮れが好きだった。
だから、とてもよく覚えている。薄墨がかった空をなんとも儚くも鮮やかに映した写真。
「不思議なやつ」
「よく言われる」
なんとでも言って、と結梨は白い歯を見せて大胆にニシシと笑った。小学生のようなその仕草に、室井は視線を逸らして、「そうかよ」と頭を掻いた。
「ねえねえ、最近は撮ってる?」
結梨は歩道橋を二人で上がりながら両手の親指と人差し指を使ってカメラを作ると、少しワクワクしながら尋ねた。
階段を登りきる。いっとう空が近くなって、室井は息を吐き出しながら、ああ、と頷き、彼女に先を言われるまでもなく左肩に掛けられていた鞄を開いた。彼は空を仰いでいる。まだ、辺りは明るい。
結梨は彼がカメラを取り出すのだとわかり、瞳をきらりと輝かせた。
室井は、「あんまり見んじゃねーよ」とぶつくさと文句をいいながらも、慣れた手つきで、鞄から一眼レフを取り出すと、空に向かって構えた。とても、綺麗な仕草だった。
カシャリ、乾いた気持ちのいい音が鳴り響く。そして、二人は一緒になって、画面を覗き込んだ。
「相変わらず、すごい。……きれい」
西の空の、雲の切れ間から差し込む光が、神々しいカーテンのようだった。
ほう、とため息交じりの言葉に、室井はツンとした様子でカメラを操作し続けた。
「褒めてもなんもでねぇよ」
「いいじゃん、本当のことを言ってるんだから! 素直に受け取ってよ!」
室井は照れ臭そうに「ったく騒がしいやつだな」と言うと、再び空にカメラを向けた。
今度は反対側。濃い青に暮れなずむ空に、ほんのりと赤紫に色付いた雲が浮かんでいる。もう、藤色の空はどこかへ消えていた。
カシャ、心地よい音の後に、同じように二人で覗き込む。ドギマギする室井の横で、結梨が小さな歓声をあげた。
「これ、すごい好き!」
わあ、と空と写真を見比べながら、興奮気味に声を高くすると、最後に室井の横顔を見た。
彼は真摯な眼差しで、手の中の一眼レフを弄っている。
「あとで現像したら、やる」
「いいの? ありがとう!」
あまりに結梨が喜ぶので、室井は満更でもなさそうに、顎を少しだけ上へ反らせて、唇でいびつな弧を描いていた。
頬を上気させて夢中になってカメラの画面を覗き込む結梨を、今度は室井が見つめる。
「……やってみるか」
低く落ち着いた声に、結梨は思わず瞳を大きくして、ぱちぱちと瞬きをした。
「いいの?」
室井はこくりと頷いて「ほらよ」とカメラを手渡してきた。
慎重に受け取ったそれは、筆よりも何倍も重たかった。ずしりとしたそれに戸惑いながらストラップを首から下げる。結梨は心許なく室井を仰ぎ見た。
「押すだけでいい」
「押すだけ?」
こくり、室井は今一度頷く。
一眼レフを触るのは初めてだ。押すだけで、果たして室井が撮ったように写真が撮れるのか。そんな一瞬で――? 不思議で堪まらなかった。
半信半疑で結梨は室井に続ける。
「本当に? それだけ?」
「だから、大丈夫だって言ってるだろ!」
からからと笑ったあと、ようやく決心がついてカメラを構えた。
橙と紺のあわいを揺蕩うひつじ雲。太陽が完全に見えなくなるまで、あとわずか。一瞬の、永遠――カシャ、と心地の良い音が響いた。
一緒に覗き込む。その時、思いがけず肩が触れ合って、二人は目を合わせて互いに息を飲み、睫毛を揺らした。結梨は心臓が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
いつの間にか縮まっていた彼との距離、結梨は驚いて言葉を失う。恥ずかしさと照れと、あとは、よくわからない鼓動の高鳴りになんて言おうと迷って、ええっと、と小さく漏らす。
「……悪くねぇんじゃねーの」
頬を掻きながら切り出した室井に、「えっ、本当!」と鼓動を隠すように大げさに驚いた声を上げた。ああ、と室井は答えた。
「やったぁ、室井カメラマンに褒めてもらえた! 嬉しいなあ!」
口元を綻ばせて喜ぶと、室井は溜め息を吐いて「調子良いやつ」と薄っすら笑みを頬に浮かべた。
