五月下旬、都内某所。
その日、兵藤組と赤城組は有明のダンスフロアで強化練習に参加していた。練習を終えて、真子は群馬へ、雫は宿題があるからと早々に帰路に着くのを見送ると、清春と賀寿は夕飯を摂りにファミレスへ入った。各々好きなメニューを頼んで、料理が出揃うのを待つ間に、練習の成果を客観的に討論する。互いに己の技術にはストイックなので、話が尽きる事はなかった。
賀寿がドリンクを取りに行って帰ってきたところ、ガス入りのミネラルウォーターを飲んでいた清春が「そういえば」と話題を変えた。
「この間、富士田がうちにきた」
「兵藤んとこのスタジオに?」
賀寿の問いに、首を上下に一度振った。
清春の家は、ダンススタジオを経営している。兵藤ソシアルダンスアカデミーと言えば、元スタンダードプロ選手のマリサがコーチングする名門スタジオだ。兵藤組の練習の場の一つでもある。
学校から帰ると、スタジオへの階段を上がったところに、珍しい訪問客ともいえる多々良の姿を見つけたのだった。
「また、なんでだべ?」
「リードについて学びにきたんだと」
清春は多々良がマリサのもとで学ぶスタンダード選手――釘宮方美と合わせていたのを思い出しながら言った。
「あーね。じゃじゃ馬とギスギスしてたんはそういうことかい」
「じゃじゃ馬……?」
「たたらの新しいパートナー。リーダー経験者らしいんきゃ」
「ふうん」
なるほど、清春は眉を微かにあげると、頬杖をついた。
カップルを組んだはいいが、そのパートナーに相応しいリーダーになりたくて困っている、という多々良が、マリサに言われるがまま、釘宮をフォロー役にワルツを踊った。
清春としては、彼のリードに興味があったので、相手役に自ら志願したのだが、相手を伺うリードに痺れを切らした方美が、役柄をスイッチして多々良を躍らせたのはかえって興味をそそられた。
天平杯で見た時よりも、格段に良くなっている動き、マリサや方美に散々言われながらも、灯火を絶やさない眼差し。
――うまく嵌れば化けるわよ。
マリサの言葉が清春の脳内で反芻した。沸々と鳩尾の辺りが疼いて、口元を歪める。
「そうこなくちゃな」
清春は、鮮やかな色彩の男女の絵を思いがけず脳裏に描いていた。
甘い優しい香りのする部屋の片隅で、白いレースカーテンがはためく。淡い金色の光が煌めいて、イーゼルに立てられたその一枚のキャンバスを照らしている――……。
「ん?」
不思議そうに賀寿がこちらを見ていたが、「なんでもない」と目蓋を下ろすと、丁度運ばれてきたサラダを目の前に引き寄せた。
「結梨も心配してらい、まあ、その調子なら大丈夫かいね」
そう言いながらエプロンを首から下げ、ハンバーグステーキにソースをかける賀寿に、清春は目蓋をあげて一瞥を寄越すと、フォークを思い切りレタスに突き刺した。
「富士田なら、心配要らないだろ」
そう言って黙々と食べ始める清春を賀寿はじいっと眺めていた。
「なあ、兵藤、結梨のことどう思ってんだんべ」
暫くして、メイン料理に手をつけようと口元を一度拭いたあたりで、賀寿がこちらを窺うようにして尋ねてきた。
賀寿は既に先程のハンバーグステーキを食べ終えたようで、さらに追加で何かを食べようとメニューを開いている。
長い睫毛を揺らして、清春は気怠げに落としていた視線を擡げる。
「如月? どうした急に」
怪訝そうに瞳を細めると、それを受けた賀寿は、何故かう、と気まずそうに視線を泳がせた。メニューを握る手に力が込められていて、聞いてきたのはそっちだと言うのに動揺しているようだった。
「いや、その……」と呟いたあと、一度大きく息を吐き出すと彼は観念したように続けた。
「オメーにしちゃ、やけに気にかけてんべ?」
「そうか?」
「そうなん!」
清春は微かに顔の筋肉を動かした。だが、彼にバレないうちに視線を逸らすと、すぐにカトラリーケースに入ったナイフとフォークを取り出して、ステーキを食べ始める。
賀寿は黙ってメニューと清春を交互に眺めながら話の続きを待っているようだ。だが、清春は音も立てずに器用にレアに焼かれた肉を切っていく。
暫くして、賀寿が痺れを切らしたように机を叩いて立ち上がった。思いもよらぬ勢いに、清春は、きょとん、と目を丸くして、賀寿を見上げた。
「つうか、好きとか普通とかあんべ!? 食ってねぇで、言えやい!」
「俺、待ってたんだけんども!?」と眉を釣り上げながら、賀寿は必死の形相を浮かべている。
カトラリーをグリル皿の上にバラバラに置くと、咀嚼していた肉を嚥下してから、口元を紙ナプキンで拭く。
「そんなに怒らなくてもいいだろ」
「怒ってねぇがね! オメーがはぐらかすから」
「はぐらかしてない」
「オメーはなっから、ムカつく野郎だべ!」
悠長な仕草とは対照的に、賀寿は鼻息を荒くして、まるでクイズ番組のようにベルを勢いよく押した。店員がすぐにやってきて、賀寿は追加でグラタンを頼む。
ミネラルウォーターのグラスを傾けながら「よく食べるな」と言うと、「育ち盛りなん!」と毛を逆立てた猫のように威嚇された。
頬杖を付きながら、ストローでくるくるとグラスの氷をかき混ぜて、拗ねたようにムッと唇を引き締める賀寿は、歳上には見えなかった。
「で、どうなん。好きなんかや?」
ふて腐れたような物言いだが、賀寿の顔付きは至極真面目そうに見えた。
お前は別にアイツの兄でもなんでも無いだろう、と言いたくもなったが、それはミネラルウォーターと共に飲み込んだ。
「好き、ねえ」
賀寿の言葉を繰り返すように呟くと、眉を上げて首を少し捻った。
迷うというよりかは、どこか想像を越えた言葉を口にする時のような一種の感心を含んでいるようだった。
頬杖を突きながら、賀寿が訝しげに視線を寄越してくる。
「なんだで、その反応」
「いや、今までそういうの考えたことなかった」
不機嫌そうに細められていたのも束の間。きょとん、としたように目を何度か瞬かせたあと、みるみるうちに、賀寿の瞳が大きく開かれていった。
そして、注目を集めるのも憚らず、信じられない、とでも言うように「ハァ!?」と大声をあげた。
何か悪いことでもあるのか、と言いたくなったが、面倒なので、顔を顰めてただ一言「煩い」と言った。だが、賀寿は清春に諌められるのも気にせず、興奮気味にずい、とテーブルを乗り出してくる。
「おめぇ、これが初恋なんかい」
「お前の口からそんな言葉が出てくると、なんかむず痒いな」
問いには答えず、あの飄々とした顔つきで、彼は返す。
「う、うるせぇべ! 好きとか、そういうの、ハァ!? 知らんのかい!?」
「興味なかった」
「興味って……まじかい」
賀寿は驚き過ぎ故の脱力ともとれるような顔で清春を見た。
「ああ、本当だ」
だが、清春はそう言うといつものように涼しい顔で、カトラリーを手にして再びステーキを食べ始める。
まるで可笑しなことでもあるのか、というような口調だ。
清春の言葉に嘘は無い。学校でいくら周囲が誰に惚れた腫れたの話をして居ても、清春はどこか自分とは切り離したようにそれを右から左へ流していた。愛がないような人間かと言われれば違う。家族や犬、友人には相応な感情は抱くし、恋愛映画なども見る。ダンスの種目にルンバがあるように、ダンサーには愛を知ることが不可欠なことも理解しているつもりだった。
ただ、“自分の感情の一つとして”――だれか一人の相手にそれが向けられたことは無かった。ダンス以上に彼の心を揺さぶるものが、存在し得なかったからだ。
「なんでもかんでも、すぐに色恋沙汰に繋げて面白いか?」
今回もそうだ。言われるまで、自分の感情論は頭の奥深くに仕舞われていた。
賀寿があまりにも動揺するので、どこか面白く無くなって、そうは言うが彼はその言葉を受け入れない。
「小学生並みか、こいつは……」とぶつぶつ悩ましげに頭を抱える横で、清春はステーキをもう一切れ口に含み、もぐもぐと行儀正しく口を閉じながら咀嚼する。
「こう、なんだべ、胸がきゅうってなったり、キスしてぇって思ったり、無かったんかや!?」
賀寿はとうとう声色を七変化させながら、テーブルをずい、と乗り越えんばかりに清春に迫った。
この調子だと、彼の初恋から今に至るまでを大演説しだしそうな勢いだったので、それは遠慮願いたいと、清春はさも気怠そうに視線を擡げて、賀寿を見た。
「ガジュ、お前はしずくに対してそう思ってるのか」
「ハッ!?」
賀寿は固まる。
「お前、しずくのこと好きなんだろ」
「いや、それとこれとはその……」
まさかそんなことを言われるとは思わなかったのか、勢いを失って尻窄みになっていく賀寿の顔は、結梨がよくするようにほんのりと桃色に染まっていた。
清春は唇を薄くする。
「今のお前の顔、鏡で見てみた方がいいぜ」
「ひょ、兵藤ぉぉおッ」
驚きのさざ波が立ったと思えば、目を釣り上げてぷいっしゅらと怒り出す賀寿に、まったく忙しいやつだな、と思いながら、彼は口元を拭った。
賀寿は眉を顰めて何か言いたいようだったが、真っ赤な顔でただグラスをバッと握ると「おかわり取ってくる!」と、むしゃくしゃした様子で席を立った。
「どうぞ」涼しい顔で送り出す。
ひとつ睨みが飛んできたと思いきや、その主はドスドスと荒々しい足取りでドリンクバーカウンターへと歩いていった。
グラスの中で泡が弾けていくのを眺めながら、頬杖をつく。
後方でぶつくさと言う声が微かに遠くなって、清春は唇の端に力を込めた。
「好き、ねぇ」
低くゆったりとした声でその言葉を紡ぐ。
賀寿の言葉は右から左へ抜けていくことは無く、清春の中にしっかりと落とされていた。
炭酸の泡が、水面に上っていく。
思いがけず、再び、鮮やかな色彩の男女の絵を脳裏に浮かべていた。その横には彼女が居て、煌めきと優しさと、愛しみをたたえるような丸い瞳をゆらゆらと揺らしている。桃色の頬は緩められ、ラズベリーのような甘酸っぱい色の唇が柔らかに弧を描いている。
かと思えば、大胆に目を細めたり、涙を溜めたり、唇を半開きにして情け無い顔をしたり。
自らの脈に合わせるように、清春は、トントン、と指先を打つ。
――如月。
彼女を呼べば、ゆっくりとその唇が開かれて、「なあに」と透き通った声が、清春の耳元を麗らかなそよ風のように撫でた気がした。
清春は、微かに唇の端を釣り上げると、余韻に浸るように、目を閉じた。
