事のあらましを大まかに告げた後、多々良が急に遠い目をしたかと思うと、大きく溜め息を吐いた。
賀寿が訝しげにそれを見つめると、もじもじと握った拳の指先を擦り合わせている。
「あのさ、兵藤くんは……その……」
「なんだで」
「結梨のこと気になってるよね?」
「そうだんべ。アイツ案外わかりやすいとこあんめぇ」
賀寿は多々良の言葉に驚きもせず、弁当を食べ終えると、蓋を閉じてナプキンで包んだ。
大阪グランプリではまさかの反応だったが、彼にしてはいつもより人間味があって、正直、好感が持てた。あの時の彼は、まさに純真な十五歳の男子高校生そのもので、――こいつもこんな顔すんだんべな、と思わず安堵した。
相手が自分の知っている人間だったというのもあるからかもしれないが、まさか、あの兵藤清春が興味を持つ対象に普通の女子が入るとは、賀寿は口元を緩めずにはいられなかった。
「気のせいじゃなかったんだ、やっぱり」
もう一度大きく息を吐いて、肩を落とした姿に、賀寿はほんのりと目を丸くした。
「やっぱりって、たたらもそう思う節があったんかい?」
「うん、まあ……」
「なんだで、気になるがね」
聞きたそうに期待の眼差しを向けてみるが、顔を引きつらせただけで、彼は答えることはなかった。
「ガジュくん」
「ん?」
「結梨には、あんまり聞かないであげて欲しいんだ。その、混乱してるっぽいから」
そう言う彼の顔は心配しているようにも焦っているようにも見えて、どうしたらいいかわからない複雑な心境が表れているようだった。
賀寿は訝しむように唇を少し尖らせた。
「おめーは結梨の親父かい」
「そんなんじゃないけどさ」
「過保護すぎんのもやめりぃ。つか、幼馴染の恋路を応援しんでええかや?」
「いや、ていうか、ガジュくんはなんでそんな乗り気なの!?」
「こんな面白ぇことねぇべ! あんの兵藤がダンス以外に興味示すなんて!」
粗暴な普段の様子に反してロマンチストな賀寿には、あれやこれやと二人のこれからを楽しみにせずにはいられなかった。どうせ結梨も結梨で――この多々良の幼馴染ということもあって――そういったことに関しては奥手そうだし、清春は知っての通りあのマイペースさだ。
複雑そうな多々良を他所に、出来ることなら自分が手を貸してやらねば、と節介を焼きたそうな気持ちを丸出しにした。
ふふん、と鼻息を鳴らすと、多々良はどんどん顔が青くなっていった。
そんな会話が成されているとも知らず、A4サイズの茶封筒を大事そうに抱えて、結梨は職員室の扉を叩いた。
学年とクラスを告げた後、「失礼します」と言って中へ入って行く。昼休みの職員室は少しだけ和やかな雰囲気が漂っている。様々な教員の机を通り過ぎて、窓際に近い一画へと足を進めた。
「先生」
「如月さん、どうしたんだい」
美術部の顧問である男性教員が、コーヒーカップを静かに置いて、こちらを向いた。
彼の机は殆ど何も置かれていない状態で、ただ何冊か画集と、よくわからない動物のオブジェ、手作り感が満載のペン立てがあるくらいだった。他の教員たちが机の上に教材やプリントを山程積み上げている中で、美術教員とは思えぬほど、相変わらず綺麗さっぱりとしていた。美術教員だからと言うのは偏見かもしれないが、もっと雑然としているのを想像していたので、彼を訪ねるたびに感心させられる。
以前何故そんなに物がないのかと友人たちと一緒になって尋ねたところ、「美術準備室に全て置いているから」と答えが返ってきたのを思い出した。確かに、準備室は物で溢れているな、と結梨はそっと笑みを堪えた。
「これ、出しに来たんです」
「ああ、これね」
抱えていた封筒を両手で手渡すと、彼は眉を上げて嬉しそうに声を高くした。
「早かったなあ、一番乗りだ」
「作品は、前に完成させたものなんですけど、出しても大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない? 特に製作期間に関しては制限はないしねえ」
そう言って、茶封筒を開ける彼の手を結梨は緊張した面持ちで見守った。
中から書類を取り出して、細かく確認したあと、もう一度茶封筒の中に手を入れた。
「あとは写真だね」
「はい、撮ってきました」
キャンバスは大きいから、一先ず写真を撮って持ってくるように――と言われていたので、封筒に同封していた。ヴィンテージのガラス細工を触るかのように、そっと繊細な手付きで、彼はそれを取り出す。
ごくり、結梨は唾を飲んだ。
「――これは君が描いたのかい」
「はい」
「驚いたな」
結梨が撮ってきた写真をまじまじと見つめながら、薄っすらと口元を緩めて、髭の生えた顎を撫でている。ドキドキと彼の次の言葉を待ちながら、小首を傾げると、優しく細められた瞳が向けられた。
「この絵を誰かに見せたことはあるかい」
「ええと、完成したのは、一人だけ」
「そうか。その子は幸せだな」
途端に顔に熱が集まるのが分かった。ぽん、と湯気が立っているのではないかと思うくらいに、熱い。スカートをきゅ、と握り締めながら、真っ赤な顔を少しだけ俯かせた。
彼女の様子に、顧問教諭は「ハハ」と声を上げて笑い出した。
「如月さんは感受性豊か、表情も豊か。いいことだ!」
「わ、笑わないでくださいっ」
「いやいや、すまんね。若い頃を思い出して、つい戯言を挟みたくなってしまったよ」
彼の若い頃がどんなだったか、ひょっこりと興味が湧き上がるが、結梨は自分の顔の熱を冷ますのに必死だった。前髪を垂らして、それを整えるように手で梳く。
少しは赤面症もマシになったと思っていたが、それは気のせいかもしれないな、と心の中で項垂れたくなった。
彼は一頻り写真を眺めて、うん、と何か納得したように頷いた。
「実際にこの目で見てみたくなったよ。大変かと思うが、明日持ってきてくれるかい」
未だほんのりと桃色に染まる顔で、彼女は目を大きくして、彼を見た。
憧れの存在の一人である人が、穏やかに笑みを浮かべて発した言葉は、なんてことのない一言だが、彼女にとっては何よりも心に響く言葉だった。
「はい、わかりました」
震える唇で、発した声は微かに裏返ってしまった。顧問教諭は、「また明日よろしく」と写真を丁寧に封筒に戻しながら、笑っていた。
お辞儀をして、結梨は踵を返す。走り出したくて堪らないが、ぎこちなく早歩きをして、どうにか堪えた。
結梨は職員室を出た後、大きく息を吸い込んだ。
「やっ……たぁああ」
そして、堪えていたものを解き放つように、小さくガッツポーズをした。
次の日、大きなキャンバスを白い袋に入れて、結梨は登校した。いつもより早く家を出たので、生徒の姿も疎らだった。
校舎の向こうのグランドから、野球部の朝練の声が聞こえている。「朝早くから偉いなあ」などと呟きながら、職員室へ向かった。
職員室に着くと、始業よりも幾分か早いこともあって、いつもよりも静かだった。顧問教諭もまだ出勤していないようだったので、部活動の鍵貸出表に名前を書いて、お菓子の缶の中から鍵を借りた。
そして、一先ずキャンバスを置くために美術準備室へと向かった。
昼休み、結梨は油彩画を顧問教諭に見せた。
清春以外に見せるのは初めてで、正直緊張したが、それはすぐに解かれた。
――写真で見るよりも、迫力があっていいね、という言葉に、結梨は胸を撫で下ろした。
鮮やかな色彩、ボールルーム・ダンスを踊る一組の男女の絶妙な構図が、見るものを高揚させる。結梨が描いた――三笠宮杯のスタンダード二次予選、ワルツの絵だ。
「なんて楽しそうに踊るんだろうね」
窓際の壁に立て掛けた絵を見ながら目尻に皺を作ったのを見て、思わず結梨も嬉しくなった。唇をはむ、と柔らかに合わせてはにかむと、照れ臭そうに身体を震わせた。
「この絵を見てるとね、思わず競技ダンスの世界に足を踏み入れてみたくなるよ」
「すごく、素敵なんです」
「如月さんも、虜になったのかい」
「はい。まだ、詳しくはないんですけど、競技ダンスやダンサーたちが好きになりました」
様々な――それも、一言では表せないほどの――想いが詰まった作品だ。不思議なほどに、胸を張って、この絵の前に立つことが出来ていた。
今でも、あの日――三笠宮杯、東京体育館の眩い照明の下、大きなフロアを目の前にして、あの瞬間に味わった衝撃と感動を覚えている。自分の中の感性や衝動に火を着けた、幼馴染の姿――描きたい、描かなくては、と一心不乱に筆を握った時の鼓動の音。
それらは、結梨の一部となって、今でもその灯火を揺らしていた。
一つ夢が叶った喜びと、新たな世界の始まりを胸に抱きながら、今度は、たくさんの人に見てもらえるように、結梨は願う。
この絵を応募する東京都学生美術展は、名の通ったコンクールだ。何千、何万もの作品が応募される、その中で賞を貰うことは大変難しいことだ。だが、不思議と恐れはなかった。
結果が全てではないが、この絵を通して人々の心に新たな窓や扉を一つ作れるのではないかと、胸が高鳴った。結果が、既に待ち遠しかった。
目尻に深く皺を作ると、顧問教諭は大切そうにキャンバスを抱えて、結梨が入れてきた袋に仕舞った。ここから先の手続きは任せれば良いので、それを見届けると肩の力を抜いた。
「そういえば、うちの学年にも競技ダンスやってる奴がいてなあ」と賀寿の話題になって、「競技ダンスを揶揄う奴に喧嘩を売る血の気の多い奴」と評されていることには、思わず笑ってしまった。
職員室を出ると、まるで晴れた夏空のように気分がさっぱりとしていた。隠し切れない喜びに、思わず頬が綻んでしまう。軽やかな足取りは、まるで羽根が生えたかのようで、今にもスキップしだしそうな勢いだった。
だが、職員室を出て階段へと繋がる廊下の角を曲がろうとしたところで、すぐ目の前に人影が迫っていた。――あぶない! 思わず、結梨は目を閉じた。
「お前……」
「ご、ごめん室井くん!」
間一髪、すんでのところで踏み止まったので、ぶつかりはしなかったが、恐る恐る目を開くと、相手はまたしても室井だった。
浮かれて人に衝突しそうになるとは、なんて迷惑な話だ――結梨はしゅん、と身体を小さくした。
室井は目を丸くしていたものの、目の前に飛び込んできた女子生徒が結梨だと分かると、呆れたように息を吐き出した。
「気を付けろ」
肩身の狭い思いをする結梨だったが、彼の物言いはとても柔らかかった。それには、つい瞬きをぱちぱちと二回ほどして、何かを確かめるように彼を見てしまった。
「なんだよ」
「あ、ううん。室井くんは優しいね」
へへ、と照れ臭そうに笑って顔の横に垂れた髪を耳にかける。
「……お前は、放って置けない奴だな」
そう言う室井の顔は、どこか苦々しい感情を堪えるかのように顰められていて、「あのっ本当、ごめんね」とあたふたと焦りながら結梨が謝ると「そういう意味じゃねえ」と一蹴されてしまった。じゃあ、どういう意味だ、と困惑していると、「あーもう、いいから! 気にすんじゃねぇ」と彼はガシガシと頭を掻いて、こめかみ辺りのまっすぐな黒い髪を乱れさせた。
「室井くん、職員室に用事?」
「別に、ただ通りかかった」
いつものように簡素な返事が返ってくる。それが彼なので、気にもとめずに相槌を打つと、室井と目があった。その瞬間に何かぱちりと感じて、思わず瞬きを何度か繰り返した。彼は咳払いをした。
「如月は」
「コンクールに出す絵、先生のところに届けに行ってたの」
「だから、デカい袋――……なんでもねぇ」
何かを言いかけたようだが、言葉半ばに、視線をふい、と逸らされてしまった。結梨は首を傾げてそれを見る。気まずそうに「だからなんでもねぇよ」と念を押すと、室井は眉間に皺を寄せていた。
結梨は不思議そうにしていたが、まあいっかとひとりでに完結させて、窓の向こうの晴れた空を背景に、室井を眺めた。
翳りのない青い空に、白い雲がもくもくと、穏やかに流れている。
ふと、唐突に彼が一眼レフを構える姿が思い浮かんだ。
室井の写真は、単なる風景を映すのみならず、どこか寂しげだったり、愉しげだったり、その一瞬に命を吹き込んだかのように、生き生きとしていた。
ピントを合わせる対象を操って、独特の構図や印象を生み出せることに結梨は驚かされた。
絵画は感性や感情、創作を意識するあまり、どこか自分の中で美化されたモチーフを描いてしまうこともあるし、作り上げた景色が不自然に見えてしまうこともある。写真は違う。撮影するモチーフは現実にあるものであり、自由にコントロールすることはできない。だが、ありのままの美しさや率直な感情を表現することができる。
まさにその通りだと、結梨は室井が撮った写真を見た時思った。絵画にはない美しさがとても新鮮で、魅力的だった。
――また、見たいなあ。最近は写真撮ってるのかな?
「おい」
「へっ?」
聞こうかどうか迷って、暫く黙っていた結梨の前に、室井のブレザーのポケットから何かが差し出された。結梨は突然のことに、素っ頓狂な声を出してしまう。
室井が差し出してきたのはピンクと白の可愛らしいデザインの紙パックジュース。結梨がいつも飲んでいるやつだ。
「これ、やる」
きょとん、としながら、いちごオレと室井とを交互に見つめた。
「いいの? でも、室井くんが飲むんじゃないの?」
「こんな甘ぇの飲むかよ」
「美味しいよ?」
飲料メーカーの営業並みにいちごオレの良さを売り込もうとしたが、早くしろ、と言わんばかりに再度ジュースを差し出されたので、躊躇いながらもそれを受け取った。
水滴が手のひらについてひんやりとした。きっと、まだ買ったばかりだ。
「カフェオレ押したら、間違えて出てきたんだよ」
「それは、災難だね」
カフェオレもいちごオレも甘さ的には然程変わらないとは思ったが、うんざりとした顔をした室井に、それ以上は物言わず、ただ、からからと結梨は笑った。
「あ、お金渡すから待ってね!」
「いらねぇよ。じゃあな」
「えっ、待ってよ室井くん!?」
小銭入れを取り出す仕草をした結梨に、室井は素っ気なく返して、さっさと踵を返してしまう。
偶然遭遇してぶつかりそうになった挙句、いちごオレを貰うなんて。
写真のことも聞けなかったし、本当はもう少し話したいこともあったのだが、彼は既に階段を一段一段上がっていくところだった。
離れていく背中に、慌てて「ありがとう!」と大きな声を出すと、ひらりと手だけが振られた。
ぎゅう、といちごオレを握りしめて、それを見送る。
「お、男の子って、ホント、不思議……」
結梨は思わず、ぽつりと呟いた。
