その日の放課後、結梨は久しぶりに小笠原ダンススタジオに寄ることにした。中学の卒業式終わりに、たまたま寄った以来だ。
揚げ物の美味しそうな匂いにつられそうになりながら、線路沿いを歩いていく。とんかつ一番の看板が見えて、すぐ隣がスタジオの入ったビルだ。スタジオの名前が入った窓を体を少し屈めてちらりと覗くと、Tシャツに練習着のスラックス姿の少年が見えた。きっと、幼馴染だろうと頬を緩めて、階段へと向かった。
コツンコツン、と、階段を下りていく度に、音が響く。少しずつ、かかっているクラシックの曲が聴こえてくる。
久しぶりに、多々良の踊っている姿が見れるかもと思い、結梨はまるで観劇にでも行くかのような気分だった。
「あれ、結梨じゃねぇか?」
最後の一段を下りて、ドアノブに手を掛けた時だった。階段の上から、声が掛けられた。結梨は上を見上げると、ぱちぱちと瞬きをしてから、嬉しそうに顔を明るくした。
「要さん!」
ライダースジャケットを羽織った、要の姿がそこにあった。逆光でどこか仰々しく見えるのが、彼らしい登場だ。
「お久しぶりです」と破顔すると、要も、おう、と片手を上げながら口元を緩めていた。
「旦那に会いにきたのか」
「はい――って、旦那じゃありませんから!」
「なんだ、ノリツッコミまでできるようになったのか、成長したな」
「要さんのせいでですね……」
お馴染みのやりとりをしながら、後ろからもう一つ足音が聞こえてきて、結梨は首を傾げる。
「あれ、新しい生徒?」
ひょい、と大きな要の後ろから現れたのは、黒髪の女性だった。結梨を見て、長い睫毛を揺らしている。
――綺麗な人、誰だろう。
結梨は要の彼女かと思い、思わず身を固くした。
「ちげーよ、こいつ、たたらの幼馴染」
「え、たたらくんの幼馴染?」
途端に爛々とした目を向けられて、結梨はぺこりと小さくお辞儀をした。
「結梨がビビってんぞ、男女」
「えっ、私なんかしちゃったかな!?」
「ゴリラ並みのオーラだからだろ」
「ハァ!? 要ちゃんって本当デリカシーの欠片も無いよね」
――びびってはないです、と言いたかったが、割り込む隙もなく、目の前で始まった言い合いに、結梨は目を丸くして二人を交互に見遣った。
とても綺麗で雰囲気のある女の人だが、勢いはあの要にも負けていない。見た目とのギャップに少々驚きながらも、ついには取っ組み合いになってヒートアップしていく喧嘩に、結梨はあわあわと慌て始める。
「ああ、あのっ、要さんの彼女さん……ですか?」
お邪魔虫は退散します! と逃げる心持ちをしながら言うと、互いの肩を掴んでいた二人が、勢いよく結梨を見た。
「「それはナイ!」」
まるで、図ったかのように、ぴったりと声が重なった。
「ちょっと、真似しないでよ要ちゃん」
「んだよ千鶴、それはこっちの台詞だ!」
そして、諍いは新たなベクトルに向くのだった。
喧嘩も息が合ってるなあ、とぼんやりと眺めていた結梨だったが、要が鼻血を出したところで諍いは終息した。
ティッシュを差し出しながら、結梨は、千鶴と呼ばれた女性に自己紹介をする。
「たたらの幼馴染の如月結梨です」
「へえー! 意外、たたらくんにも、ちゃんと女の子の友達居たんじゃん」
「友達というより嫁だな、ウン」
「だから!」
「また余計なこと言って」と口を尖らせて要を睨むと、横から「やだ、かーわーいーいー」と声が上がる。
「私、コイツのパートナーの本郷千鶴ね」
親指で要を指しながら、千鶴は結梨に向き直った。
「本郷さん、要さんのパートナーさんなんですか!」
「そ! ていうか、本郷さんなんて堅苦しいし下の名前でいいよ」
「千鶴、さん」と嬉しさを噛み締めるように、口にすると、彼女の少しの表情の変化を見ていた千鶴は口元に手をやって、「超萌えるんですけど」と、ふるふる身体を震わせていた。
「ところで結梨、旦那が取られたぞ」
「へ?」
鼻をティッシュで押さえながら、要はドアガラスの向こうを指で指し示す。
どういうことだ、と恐る恐る覗き込むと、なんと、多々良が女子とホールドを組んでいた。三拍子のワルツの音が聞こえている。ぎこちない動きの多々良が、苦しげな表情を浮かべて、視界から消えたり現れたりしていた。
「カップル組めたんですか?」
結梨の肩を掴んで、一緒になって覗き込む要を見上げる。
「まさか。今略奪愛の途中だ」
「りゃっ!? また変なこと唆して!」
訝しげな眼差しを向けると、要は「またってなんだ、またって」「要ちゃん、サイテー」「お前が居ると心底面倒くせぇ!」と再び言い合うので、結梨は彼らを放ってガラスの向こうを見つめた。
カップル練――組める自信が無いと嘆いていた多々良の姿を思い返す。今日は以前言っていたようなお見合いをしているということなのか。踊る二人を目で追った。
「ていうか、結梨ちゃんもダンスやればいいのに。たたらくんと相性良さそうじゃん?」
いつの間にか、要との言い合いを終えていた千鶴が、結梨の顔の横に手を突いて言った。男前な仕草に思わず頬を染めると、それに気が付いた要がムッとした表情を浮かべる。
「コイツは駄目だ。兵藤がいるからな」
「なっ」ふくろうのように目をまん丸にして、結梨は信じられないものを見る目で要を振り返る。
「えっ、なになに!? 清春の彼女なの!?」
「まだ違う」
結梨は顔を真っ赤に染め上げた。効果音をつけるならば、『ぽ』なんてものではなく、『ボッ』に近い。一気に湯が沸いたように熱を帯びて、思考がぼんやりとする。何も言えずにただ、要を見上げて口をパクパクと開けたり閉じたりを繰り返す。まるで金魚のように見えなくもない。
要は得意げな顔で、鼻の下を擦っていた。
「赤くなって――なにこの子、超可愛い!」
瞳をゆらゆらと揺らして、林檎――いや、今ばかりは真っ赤な金魚とも言える――のような結梨を見つめていた千鶴だったが、一頻り悶えたあと、彼女に飛び付いた。ぎゅう、と抱き締められて、「っぐぅ」とお腹の底からカエルが鳴くような変な声が出てしまった。「圧死に気をつけろ」と要が言うが、手遅れだ。
千鶴に抱き締められながら、なんとか顔だけは胸元から抜け出すと、ガラス越しに、多々良と女の子がターンをしたのが見えた。
――あれ、あの子
結梨は目を何度か瞬かせた。
「声掛けていかなくていいのか?」
千鶴から解放された結梨は、要の言葉に微笑みとも苦笑いともとれるような笑みを浮かべて、首を横に振った。
「チラッと寄っただけですし。お邪魔しちゃ悪いんで、今日は帰ります」
階段を何段か上がったところで、「結梨」と要に引き止められた。
ゆっくりと振り返ると、要が柔らかに彼女を見上げていた。珍しく要を見下ろす形になって、結梨は微かに首を傾げていると、彼の口元がぐっと釣り上げられる。
「お前綺麗になったな」
ふわっと結梨の心に温かな風が吹いたようだった。
すかさず、千鶴が横槍を投げ入れたようで、「ロリコン。要ちゃんきっもち悪ぅ」「ちげぇわ! 素直に思ったこと言っちゃいけねえのかよ!」と言う諍いが続いて始まるのだが。本日四度目だ。
結梨は、思わず肩を揺らして、ふふ、と笑いながら、二人に手を振った。階段を上がっても尚、聞こえてくる二人の声に、喧嘩するほどなんとやら――と思い浮かべながらダンススタジオの窓を再び覗き込んだ。
赤茶色の髪を高い位置で結い上げた女の子と幼馴染が立っている。すっきりとした目元が印象的の彼女は、多々良が散々思い悩まされたあの前の席の女の子だ。
――なあんだ、たーくんやるじゃん
きっと多々良が未だ振り回されているのだろう。ぎこちない二人だったが、それでも、嬉しくなって結梨は口元を綻ばせた。
