「えっ、兵藤くんが家に来た!?」
「たーくん、しっ! 声が大きいってば!」
声を張り上げた多々良に、結梨は慌てて人差し指を唇に当てて言った。
「ごめん!」と多々良が肩を揺らして謝ると、結梨はもう、と唇を尖らせた。それからぎこちなく視線を落とし、紙パックのいちごオレを手にした。
多々良と結梨は今屋上に居る。
昼休みに廊下ですれ違ったところ、結梨に引き摺られるようにして屋上まで連れて来られたのだ。多々良は週末のグランプリ戦で兵藤組が復帰したことを嬉々として伝えようとしただけだったのだが、目が合った瞬間、ズンと近付いて来るなり、腕を掴まれた。
「たーくんちょっと来て!」などと助けを求めるような顔で言われては、断ることも出来ず。今に至るわけである。
晴れ渡った五月の空、温かな日差しが二人を照りつけている。吹く風はどこか青い爽やかな香りがして、夏に近づいて居るのを感じさせた。
結梨は着ていたセーターを脱いで腰に巻き付けていた。既に、涼しげな格好だ。
端の方でコンクリートに腰掛けてジュースを飲む彼らの他にも、屋上には気晴らしにやって来た生徒たちの声が呑気に聞こえてくる。
「それで、来たのって、いつ?」
こそこそ声を小さくして、多々良は出来るだけ結梨の方へ身を寄せた。
「その、月曜」
蚊の鳴くようなか細い声が聞こえて、多々良は結梨を伺い見た。
「月曜って……グランプリ戦終わってすぐ?」
結梨は首を上下に振って、続けた。
「だから、優勝したのも兵藤さんから直接聞いたから、その、知ってるの」
「そ、そうだったんだ」
結梨は溜め息を吐いて、悩ましげにいちごオレのパックを指で弄っている。
家に来た、ということは、既にそういう仲にまで発展したのだろうか。多々良は昼食を吐き出したくなるような心地がして、唇をぎゅっと結んだ。
必死に脳内であれこれと幼馴染の彼女の性質を立ち並べて、自らの予想を否定していくが、次から次へとフラグは立てられていく。なんてことだ……そう思った矢先、多々良はハッとしてかぶりを振った。
――いや、全然二人が付き合ったら嬉しいのに、何僕は動揺してるんだ!?
突然の行動に、結梨が訝しげにこちらを見てきた。
そして、一寸置いて彼女は「たーくん。兵藤さんとわたし、付き合ってないからね」と言った。多々良はホッと胸を撫で下ろした。
「それで、兵藤くんはなんで家に?」
気を取り直して多々良は尋ねた。
「ていうか、兵藤くん結梨の家知っていたんだね」
「違うの、家に来たのは成り行きっていうのかな。駅着いたら、兵藤さんが居て」
「えっ?」
「その、わたしが来るの待ってたって」
多々良は結梨の言葉にぎょっとして、思わず彼女の顔を見た。
熟した苺のように頬を赤くして、一点を見つめている。まさか。多々良はごくり、唾を飲んだ。
――あの兵藤清春が、駅で自分の幼馴染を待ち伏せしていた、だと?
多々良は自分の耳を疑って「も、もう一回」と言うが、必死な顔をした結梨に「二回も言わせないでよぉ」と言われてしまったのだった。
「結梨を待ってたって、それって……」
「いや、あの兵藤さんのことだから、本当に変な意味があったわけじゃないと思うんだけど……」
自分の言葉を疑うように、段々と語尾が尻すぼみになっていく。そして弱々しく「多分……」と付け加えると、結梨は多々良の視線から逃れるように熱を帯びた頬を手で覆った。
「多分、って」
「だってほら、前にもあったよね?」
「ああ、うん。まあ、そうかもしれないけどさ」
多々良は俯き気味に瞳を左右に泳がせたあと、パックジュースのストローを咥える。
中学三年の秋、三笠宮杯での無理が祟って入院した清春が、退院したその日に突然、多々良の家を訪ねて来たのを思い出していた。
岩熊との話を終えて自宅の居間の襖を開けると、結梨と父と祖母――そこまでは常の光景だったのだが――そしてその祖母に相撲の実況をしようとしている姿があって、不意に心臓が飛び出るかと思ったのだ。
家の周りを徘徊していたところを鉄男に救出されたとの事だったが、何故彼はわざわざ家を訪ねてきたのか。今でも正直、そこに至った考えが掴めていない。
それだから、確かに彼なら他意無しにこういった事をやってのけるだろうと頷けた。
だが、多々良としては、素直にそう決めつけるのはどうかとも思った。
何故なら、天平杯の時、彼は彼なりに結梨のことを気に掛けている部分があるのを、多々良は薄っすらと感じ取っていたのだ。
結梨が否定するのを半信半疑で聞いていた。
「それで、彼の用事はなんだったの?」
「わたしが兵藤さんに伝えたいことがあるって、ガジュさんが言ってくれてたみたいで。わざわざ聞きに来たんだって」
結梨は言う。
「へ、へえ」
――もうそれって、そういうことじゃないのか?
結梨の言葉に思わずそう言いたくなるが、多々良は平然を装って相槌を打った。
家に上がることになったのは、仕方のない成り行きらしいからそれは置いておくとして、わざわざものぐさな彼が、友人の用件を聞く為だけに待ち伏せするだろうか。会えるかもわからないというのに、悠長に何時間も待つだろうか。全く、考えが読めない。きっと、気は長いと言われる自分でも、この場合他の方法を探し出すだろうに。
多々良は頭を抱えたくなった。
そんなことをするのは、他でもない清春にとって、結梨が特別だからなのではないか――多々良はそう考える。それでも、すぐに――いや、でも兵藤くんのことだから無意識かもしれない、と相反する意見がやってきて、それらが延々と頭の中を回り続けていた。
「もう、男の人って、何考えてるの? さっぱりわかんない……」
大きくため息を吐いて項垂れる結梨の姿に、デジャヴを感じて苦笑いを浮かべる。
「ごめん、兵藤くんの考えることは僕もわからないよ」
結梨は肩を落とした。
「だよねぇ。あれは夢だったのかと今でも思う」
「はは、夢だったりして」
「リアルすぎて怖いよ。家に連れ込む夢なんて!」
じゅっ、といちごオレを勢いよく吸うのが聞こえた。彼女の物言いに、多々良は表情を固くして、「その表現の仕方はどうかと思う」と間髪入れずに言うのだった。
「でもさ、良かったじゃん結梨」
結梨は多々良に、なにが? と子鹿のような眼差しを向けた。
「ほら、距離が縮まったんじゃないかな?」
「そう、かなあ」
「そ、そうだよ!」
気まずさを取り払うように、多々良は努めて明るく振る舞うのだった。
相変わらず、屋上は長閑だ。向こう側でバレーボールをする声が聞こえてくる。温かな風が時折吹いて、彼らの髪をさらさらと攫っていく。思わず悩んでいることすらも忘れそうになって、ふと空を見上げれば、雲の合間、遥か遠くに飛行機が飛んでいるのが見えた。
二人はしばらくの間、無言で空を眺めていた。
「正直、すごくびっくりしたんだよ」
青空を一緒になって見上げながら、結梨はジュースを持つ手を下ろして、ぽつりと呟いた。
「そりゃそうだよね。でも、嬉しかったんでしょ」
「うん。ドキドキした」
はあぁ、と平常心を保つかのように、結梨は息を長く吐き出した。
その横顔は薄っすらとピンクに染まっていて、気恥ずかしそうに伏せた瞳を縁取る睫毛が長く艶めいていた。
多々良はこれで何度目になるかわからないが、まるでいけないものを見てしまったかのように思えて、肩を揺らして、悲痛な叫びをあげたくなった。
――一体何をしたんだ君は、と飄々とした清春の顔を複雑な思いで脳裏に浮かべて。
「結梨は、兵藤くんのことどう思ってるの?」
必死に平常を保ちながら、勇気を振り絞って、多々良は尋ねた。
「どうって」
「好き、なんじゃないの?」
「……わかんない」
肩を竦めて、再びいちごオレに口を付ける結梨。
伏し目がちにそう言いながらも、こうして彼の話をすると頬を染める彼女を見ていると、――僕がこんなことを聞くのもなんか笑えるな、と自嘲しつつ、きっと自分の問いは的を得ているのではないかと多々良は感じた。
もしかすると、彼女はそう言うことで、自分の中の感情を鎮めようとしているのかもしれない。長年見てきた彼女のことだ、多々良はなんとなしにそう思えてならなかった。
自分の恋愛経験なんてからっきしだと言うのに、もどかしくて背中を押してやりたくなってしまいたくなって、ポリポリ、と再び頬を掻いた。
「兵藤くん、結梨のこと気になってると思うけどなあ」
「ッケホッゴホッ」
多々良がぽつり呟くや否や、結梨は勢い良く咳き込んだ。
「だっ、大丈夫?」
そう尋ねながら苦しそうにするその背中を摩ったが、彼女は涙目になりながらふるふると首を振るばかり。
「たーくんが変なこと言うから!」
「変なことじゃないって。ただ、僕はそう思うだけで」
「兵藤さんがわたしなんかを気にすると思う?」
「なんか、って言うなよ。結梨はちゃんと魅力があるんだから」
多々良はジュースを飲み終わると勢いよくパックを畳んで、自分の横に置いた。
結梨はパステルカラーのハンカチを取り出すと、口元を押さえながら、難しいことを考えるように眉を寄せた。
「わたしも、初めは気にしてくれてるのかな、って嬉しかったんだけど。でも、それはたーくんの幼馴染だからっていうのが大きいと思うんだよね」
「そんなことない。僕が居なくても、結梨の魅力に気がつく人は多いよ」
結梨は納得がいかないように、首を捻る。
「だって、たーくんの絵を見て、――俺も負けてられないな、って」
「は? 僕の絵?」
多々良はきょとん、とすると続けざまに「なにそれ!?」と驚いて食い付いた。結梨は気難しそうにしていた顔をみるみるうちに七変化させて、終には、しまった、というような顔をした。
「まだ内緒にしておくつもりだったのに」
「どんな絵!?」
「うーん、たーくんが踊る……絵?」
「えっ! み、見せてよ!」
勢いよくそうは言ったものの、多々良は考え直して「いや、やっぱり恥ずかしいから、やめとこうかな。あ、でも」と口籠る。もじもじ、と膝の上で握った拳の中で指を擦った。
痺れを切らした結梨は「もう、どっち!?」と、頬を膨らませて多々良を見るので、意を決したように、「見たい!」と多々良は声を上げた。
じいっと注がれる視線に悩むような仕草をするも、結梨は暫く答えなかった。そして、「やっぱり、駄目! 内緒!」と頭を振る。「ええ!?」間髪入れずに、残念そうな多々良の声が上がったのは言うまでもない。
「それで、僕の絵を見て、負けてられないって?」
納得のいかないような顔をしている多々良には、気が付かないフリをして、結梨は頷いた。
「どういうこと?」
考えが及ばず、多々良は眉を寄せて尋ねる。
「たーくんが上手くなっていくから、負けるわけにはいかない、って意味じゃないの?」
「いや、僕、兵藤くんにそんなこと言ってもらえるほど、ダンス凄くないし」
「でも、兵藤さんにしては、目が本気だった」
多々良はええー、と両手で頭を抱えた。
「実は……僕、日曜の夜、ガジュくんから伝言もらったんだよ」
「兵藤さんから?」
こくり、首を縦に振って、聞かされた言葉を思い返した。
――一年以内にランキングを勝ち上がって、グランプリ戦に出てきて。
そう雫に喧嘩を売られたという多々良に、清春は腹を抱えて笑って言った。
――待ってる、と。賀寿はそう、電話口で告げていた。
「僕が同じフロアに立つのを楽しみにしてくれているらしいんだけど」
「それなら、やっぱり兵藤さんはたーくんを気にしてるんだよね」
結梨はそれを聞いて、唇に指先を当てて思案するように言った。
「でも、そんなの買い被りすぎだよ。そもそも僕は兵藤くんに勝った覚えがない」
「三笠宮杯のワルツは?」
「いやいや、そのあとのタンゴ見たでしょ」
「そうだね。わたしでもわかるらいに凄かった」
「そもそもレベルが違う。だから結梨に言った”負けてられない”って僕のことじゃ――」
そこまで考えて、多々良はハッとした。
「たーくん?」
急に押し黙った多々良の顔を、結梨は不思議そうに覗き込んでいる。
多々良はごくり、唾を飲んでから、結梨を見つめ返した。
「ねえ、結梨……」
勇気を振り絞って言おうとした時、彼らの前に一つのボールが転がってきた。
足先に当たって止まったボールを、多々良が手に取る。「わっり、飛んでっちまったわ!」と聞き覚えのある声がして、二人は顔を上げた。
「おっ、やっぱたたらと結梨だべ! おめーら難しい顔してどうしたん?」
「ガジュくん!」
賀寿が現れたことによって、その話はそこで終わりとなってしまった。
