「うち、ここなの」
住宅街を歩いて、彼女は一軒家の前で止まった。
「富士田んちは」
「歩いて五分くらいかな?」
「ふうん」
日本によくある二階建ての洋風な家で、ガレージと小さな庭がある。プランターに植えられた花が黄色や紫、ピンクなど色とりどりに咲いていて、明るい印象だ。
「たいしてお持て成しもできないけど、どうぞ」と言って、彼女は玄関ポーチに上ると、鍵を開けた。清春は「どうも」と言いながら、のんびりと彼女の家の軒先を潜った。
靴を揃えながら脱いで玄関に上ると、仄かに甘い香りがしていい匂いだった。どこかで嗅いだことのある香りだったが、清春は思い出せなかった。
「ちょっと待っててね」という結梨にこくり頷くと、静かに辺りを見渡した。白と木目調を生かしたシンプルなインテリア。雑然としておらず、目に優しい。とても落ち着く雰囲気だ。自分の家以外に、他人の家に上ることは中々無い為、彼には少しだけ新鮮だった。
下駄箱の上には写真立てが何枚か立てられていて、中には、小さな女の子が映る写真も混じっていた。――これが如月か、と清春はぼうっと眺めていると、結梨が「スリッパどうぞ」と戻ってきた。来客用のスリッパを足に突っかけると、階段を上って行く。両親は不在らしい。
「どうぞ」
階段を上って、一番奥の部屋に案内される。扉にはパステルカラーのローマ字で彼女の名が記されたドアプレートがついていた。
結梨がドアを開いて、清春が先に足を踏み入れた。
「これが如月の部屋?」
「そうだよ。朝のままだから、ちょっと散らかってるかもだけど」
どこか照れ臭そうに、彼女は肩を竦めて言った。玄関のインテリアとテイストは似ているものの、全体的に暖色系で色が纏められていて、女の子らしい部屋だ。
散らかっていると言うものの、そうでもない。へえ、と感心するように部屋の真ん中まで足を踏み入れていく。
清春はまた甘い香りがしたのに気がついた。
「如月?」
黙っている結梨を不思議に思って振り返ると、彼女は視線をきょろきょろと泳がせていた。
「どうした、具合でも悪いのか」
「えっ、ううん、たたらと中学の友達くらいしか来たことないから、緊張して」
「俺もしずく以外の部屋に入るの初めてだ」
「そ、そうなんだ」
「それももう何年も前だけどな」と言ってぐるりと部屋を見渡した。
記憶にある雫の部屋とも全然違う部屋、どうにも不思議な感覚だった。入ってすぐ目に入る窓の下には、彼女の勉強机と、小さなカラーボックスが置かれている。絵の具やパレット、スケッチブックなどの画材がそこには収納されているようだ。机の隣――部屋の端に置かれたベッドの上の壁には清春の見たことのない絵やポスターが飾られていて、部屋全体のアクセントになっている。
ほんの少し足を踏み入れたばかりだというのに、――如月らしいな、と清春はぼうっと思った。
そうしていると、結梨が「ごめんね、ソファとかないから良ければベットに座って」と少し乱れていた掛け布団をピンと伸ばした。こくりと頷くと、鞄を床に置いて、腰を下ろす。ぽすん、と心地よくスプリングが跳ねた。
結梨は頬を薄っすらと染めて、清春から視線を少し逸らしている。どうしていいかわからないのだろう、一人であたふたと考える仕草をしたあと、手をポン、と打った。
「お茶入れてくるから、少し待っててね」
結梨の心情を露知らず、清春はベッドに腰掛けて「ああ、お構いなく」と手をあげた。
結梨が部屋を出て行って、清春はぼう、とレースカーテンがはためくのを眺めた。ゆらゆらと風に揺れるカーテンから、淡い光が差し込んで、仄かに黄色く部屋の中を染め上げている。
眠くなりそうなほど、心地の良い静けさと空気感で、清春はひときり無心になり、ベッドの上で寛ぐように座った。堪えきれず、欠伸が出た。
ふと、窓の近くに置いてある何かが目に入った。清春の肩口くらいの高さで、布が掛けられている。部屋に入った時は、全体の雰囲気にうまく調和していて、気に留めなかった。だが、清春は一目見て、それが何であるのか気が付いた。
乾いた唇をひと舐めして、ベッドから立ち上がる。吸い寄せられるように近付くと、窓から差し込む光に当てられながら、サテン地の布をゆっくりと取り去った。
「兵藤さん、お待たせ」
「如月」
戻ってきた結梨を振り返らずに、清春は声を上げた。
「これ」
「あ、もう見たの?」
机の上に、麦茶と菓子の乗ったプレートを置いて、結梨は清春のもとへ歩み寄ってきた。
「完成、したんだ」
彼らの目の前にあるのは、イーゼルの上に立て掛けられた、一枚のキャンバス――彼女の描いた油彩画だ。
清春は、三笠宮杯で幼馴染が踊るワルツを、一心不乱に描いていた彼女を思い出した。真っ直ぐにフロアに向けられた眼差し、半開きになった唇。真剣そのものだったが、どこか愉しげで、どんなものを描いているのか、興味をそそられた。
その時の絵が、今、目の前にある。
「これ、富士田だよな」
「うん。たたらとしずくちゃん」
清春は絵に釘付けになっていた。
まざまざとあの時を感じさせるような、強い衝撃を受けていた。それでいて、新たな感情や感性を突き付けられたように、眩暈がしそうになる。ピカソやゴッホの絵画を見た時よりも、はっきりと自らの血の昂りを感じる。
レースカーテンの向こうから、陽の光が射して、その小さなフロアにスポットライトが当たっているようだ。
――こんな風に見えていたのか、清春は、思わず笑い出したくなって堪らなかった。
「これを、あなたに伝えたかったの」
一言一言噛みしめるように、彼女は言った。清春は返事をせず、満足げに片眉をあげて、ちらりと彼女を盗み見ると、瞬きで長い睫毛を揺らした。
「あのフロアで踊ってる時、どんな感じ?」
結梨はしっとりとした声で聞いた。
「どんなって?」
「何を、感じたり、考えてるのかなあって」
彼女は「わたしは、フロアの外からでしか描けないから、気になって」と続けて、流れ落ちた髪を耳にかけた。
「どうだろうな。如月はどう思う?」
「どう、だろう」
「如月もやってみれば」
「えっ、と、それは遠慮しとこうかな」
何をいってるのと清春の顔を見上げて、顔を横に振って否定したあと、「わたしは見るので精一杯」と苦笑いを浮かべて、絵画へと視線を戻した。
同じように淡い光に当てられて、眩しさに目を細めながら、結梨が彼が見ていたキャンバスへと指を伸ばすのが見えた。そうして、キャンバスの縁をなぞるように指を滑らせたあと、つう、と愛おしげに鮮やかな色彩の上へと下ろして行く。
清春は彼女の動作を目で追う。その白い指先から、彼女の腕、肩、そして華奢な首を辿って、隣に立つ彼女の顔を見た。
――思わず、息を飲んだ。
「どうかな?」
どこか特別な世界に連れて来られたかのように、全ての音が遠くに聞こえる。
ただ彼は彼女のゆらゆらと揺れる瞳を見つめていた。微笑みをたたえるように優しく、それでいて、きらりと輝きを放っている、彼女の瞳を。
その瞳が向けられているのは――。
「兵藤さん?」
「やってくれるよな、本当」
小首を傾げて自分を見てくる結梨に、清春はフッと笑みを漏らして、瞼を下ろした。
ふつふつと、静かに沸き起こる熱。肋骨の内側が疼く。それらを味わうように、息を大きく吸って、自らの内に起こる全ての感覚に神経を研ぎ澄ませていく。
「如月」目を瞑ったまま、彼は彼女の名を呼んだ。「なあに」と澄んだ声が聴こえて、清春は余韻に浸りながら、目を開いた。
「見せてくれてありがとう」
「ありがとう、だなんて」
気恥ずかしそうに、彼女は首を微かに振った。
すると、また、ふわりと甘い香りがして、清春は――ああこれは如月の匂いか、とぼんやり頭の隅で考えた。
「実はね、誰かに見せるの兵藤さんが初めて、なの」
「……なんで」
「兵藤さんが見せろよって、言ってくれたから」
「言ったけど、人に見せないと勿体ないだろ」
「だって、一番に伝えたかった、から」
「それは、光栄だけどな」
再び彼女の描いた絵画に視線を戻した彼は、「触っても、いいか」と尋ねた。結梨ははにかみながら、こくりと頷いた。
彼女がするように、指先をそうっと持ち上げて、鮮やかな色彩に触れる。思っているよりも厚く、凹凸のある感触を確かめながら、彼は彼女の描いた、ワルツを踊る男女の姿をなぞっていく。
喉の奥に何かが痞えるように、再び熱い塊が込み上げてくる。より一層、強く、激しく。自分の心臓の音が、聞こえてくる。煩いほどに。全身から、――見ろ! と切望するような叫びが上がる。
指先に籠る力を解放するように、手を下ろす。
清春は静かに結梨を見た。
「俺も負けてられないな」
その眼差しはすうっと細められ、まるで、滾らせた熱情をひた隠すようだった。
