03

 十月になった。
 愈々夏の残滓は秋風に吹かれて何処かへ連れ去られてしまい、ひんやりと仄かに肌をつく寒さに、上着を纏う季節がやってきた。
 多々良が家を出るとすぐ、ブロック塀の向こうに小さな背中が見えた。
「あれ、結梨。どうしたの」
 多々良が尋ねると、結梨は振り返ってにっこりと笑う。
「たーくんと途中まで一緒に行こうと思って」
 そう言う幼馴染の姿に多々良は心が温かくなるのを感じた。口元を緩めて頷くと、彼女と並んで歩き出す。
「学校は最近どう?」
「うーん、それなりかな。もうちょっとで文化祭があるけど」
「本当に。行こうかな。父さんも、聞いたら喜んで行くと思うよ」
「え、やだよ。恥ずかしいから来ないでね」
 眉を寄せて手を顔の前で振る結梨に、多々良は苦笑いを浮かべた。
 小学校までは同じ学校に通っていたが、中学生になると、二人は別々の進路を辿った。
 多々良は地元の中学校。結梨は東武東上線と埼京線を乗り継いだ先の中高一貫の女子校。殆ど同じだった生活サイクルが、がらりと変わってしまった。当然、それまで習慣に近かった登下校を一緒にすることもプツンと無くなって、幼馴染ではあるものの、男と女ということもあってか、顔を合わせる頻度もめっきりと少なくなっていた。
 だが、先日の小笠原ダンススタジオでの出来事以来、こうしてダンスへ通う多々良に結梨が声を掛けることが増えたのだった。
 多々良は隣を歩く結梨をちらりと盗み見る。
「結梨は、進路とか決めた?」
「うーん、大体は?」
 結梨の返答に多々良はやっぱり、と肩を落とす。
 父にも、学校の先生にも予々言われている志望校の話。避けては通れない道ではあるが、中学三年生には耳の痛い話だ。
「結構、決めてるよね、みんな」
「そう言う時期かぁ。でも、うちの学校、一応エスカレーター式だから。まあ上がるのかな? って感じなだけだよ」
「そっか、結梨のとこは大学まで一貫校だもんね」
「だから、うちのお父さんが入れたがったんだよね」
 遠くを眺める結梨を見て、小さく息を吐く。家庭の方針で私学受験をしたという彼女を今ばかりは心の奥で羨んだ。
「でも、ちょっと迷ってる」
 歩く速度を緩めて、ぽつり、彼女が呟いたのが聞こえた。
「え? 迷ってるって」
「外部受験」
 多々良は驚いて、半歩ほど後ろにいる結梨を勢い良く振り返った。
「わたしにも一応やりたいことはあるんだよ?」
 失敬な、と言わんばかりに、鞄を持つ手を持ち直して、むっとした顔を作って自分に向けられたので、彼は慌てて頭を掻く。
「絵、続けてるの?」
「うん、今はちょっとスランプだけど」
 暗くなる結梨の表情とは裏腹に、多々良は先程までの鬱蒼な気持ちが霧散したかのように、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「そっか。結梨の絵、久々に見たいなあ」
「わたしの言葉聞いてた? たーくん!」
「聞いてたよ、スランプなんでしょ? スランプなんて、逆に、格好いいけどな」
 それは絵を本気で描いている人の使う言葉だと彼が言うので、結梨はまるで予想もしていない言葉を掛けられたように「う……」と言葉を詰まらせた。
 多々良は無垢な瞳を煌めかして、彼女を見ている。
 しばらくして、彼女は観念したように肩を落とすと、息をゆっくりと吐き出した。
「たーくんのそういうところ、尊敬する」
「えっ、どういうところ!?」
「もう、いいよ! たーくんはダンス順調なの?」
「怒ってる!?」
「怒ってないよ!」
 わけがわからない様子でリュックの肩紐をぎゅ、と握りしめる多々良だったが、結梨はそんな彼の姿を可笑しそうに笑っている。
 ほっと胸を撫で下ろしていると、結梨が再び足を動かして、隣に並んだ。
「調べたら競技ダンスって奥が深いんだね」
「う、うん! 凄いんだよ!」
 興奮気味に頷いて、話題に食いつく多々良の瞳は、爛々と輝いている。二人は再び歩き出した。
「あの仙石さんなんか、全日本のチャンピオンで……」
 嬉しそうに要のことを身振り手振りで話し出す様子を結梨は微笑ましそうに眺めている。
 傍若無人だが多々良の尊敬するダンサーであり、オーラが凄いだとか、試合のDVDを見ていたら目が離せなかっただとか、ワルツがラテンが、と喉をついて出るように要への賞賛が溢れ出た。
「要さん、そんなに凄い人だったんだ」
「か、要さん!?」
 ほむ、と感心するように彼を下の名前で呼んだ結梨に、多々良はギョッとする。
「俺のことはそう呼べって」
「え、なんで?」
「わかんない。人見知り治そうとしてくれてるのかな?」
「いや、違うと思う」
 ――全くあの人は、と多々良は、心の中でニヤニヤと下品な笑みを浮かべる要を思い浮かべた。
 自分の師の考えは到底読めそうになかったが、多々良はきょとんとした顔で爆弾を投下してくる幼馴染を心から按じるのであった。人見知りでありながらも、慣れてしまえばなんとやら、だ。
 暫くダンスについて結梨に語ったところで、多々良はあることを思い出した。
「そういえば、今週末、空いてる?」
「うん、空いてるよ?」
 そう言いながらも首を傾げる結梨に、多々良はリュックの肩紐を外して、前に背負い直す。そうして徐にチャックを開けて、練習着の入った巾着を押しのけて青色のクリアファイルを見つけると、中から一枚の紙を取り出した。
「三笠宮杯?」
 結梨が首を傾げる。
「うん、今週末にあるんだ」
「ダンスの大会ってこと?」
「そうそう。結梨もよかったら一緒にどうかな」
 競技ダンスの大きな大会――三笠宮杯のチラシを手渡しながら多々良は誘う。
 結梨がダンスをやったのはこの間が初めてだったが、きちんとしたダンスシーンはまだ実際に見たことがない。チラシに載っているひらひらの美しいドレス姿の女性とまるでおとぎの国の登場人物のような燕尾服の男性の姿から、結梨は目が離せずにいるようだ。
 見てみたい、そう言っているかのように結梨の瞳はゆらゆらと揺れ動いている。
「行ってもいい?」
 視線は紙面に落とされたままだったものの、いつもより声が幾らか高い。
「もちろん!」
 多々良は一点の曇りもない笑みで大きく頷いた。
 幼馴染の結梨が自分の好きなものに興味を持ってくれたという純真な喜びと、彼女が心から自分を応援してくれているような心地とを感じていた。
 浮き足立ちながら「それあげるから!」と言うと、結梨は大事そうに指先で摘んで、肩に掛けていた鞄を開けてファイルに仕舞おうとした。
「それね、兵藤くんと花岡さんが出るんだ」
 のほほん、とだらしなく表情を緩める多々良とは裏腹に、鞄を漁る手を止めた結梨の顔は、一瞬にして血色が良くなっていた。