「たーくん、ごめんね」
済まなそうに椅子に座って両手で膝をぎゅと掴みながら、「大丈夫?」と結梨は多々良に問うた。
向かいのソファに腰掛ける多々良は、環から擦りむいたところを消毒してもらっている。消毒液の刺激に呻き声を漏らしたものの、結梨の声掛けに、へらりと情けない笑みを浮かべて、彼女の心配を取り除くように「平気」と返した。
「オイ聞いたか、たーくん、だってよ」
「こら、仙石くん」
ぷ、と吹き出す要を環は咎めたが、時既に遅し。結梨は要の言葉にハッとして、一気に顔を赤くすると、体を小さく縮こめてしまった。
「ッグ、いてえ!」と要の叫び声が上がる。物の見事に拳を一つお見舞いされたようだ。
そのまま涼しい顔で拳をしまった環は、済まなそうに幼馴染を見つめる結梨に、柔らかい笑みを向けた。
「仲良しさんなのね、結梨ちゃんとたたらくんは」
「あ、はい……。小さい頃からご近所さんで一緒に遊んでたんです」
結梨が「ね、たたら」と多々良に同意を求めると、彼もこくりと頷いた。
「なんだ、お前ダチ居るじゃねぇか」
「ま、まあ結梨は幼馴染なんで」
頬を掻く多々良に興味無さげに相槌を打ったあと、殴られた箇所をさすりながら、要は結梨を見る。
「結梨はダンスやんねぇのか?」
「えっ……、わたしは、その、いいです」
結梨は熱を帯びたままの顔を隠すように、慌てて両手を顔の前で振った。その様子に、きょとん、とした表情を向けると、要は、物思いに耽るように顎に手を当てる。
「お前……」
要は、大きな体を屈めながら、神妙な顔つきで結梨に迫っていく。
ずんずん、と近付いてくる要の端整な顔。思わず、結梨は椅子の上で上体を仰け反らせた。硬直した身体をすっぽりと大きな影が包む。
要を見上げる顔は、もはや林檎のようで、大きく見開かれた瞳は潤んでいた。
ごくり、要は生唾を飲む。
「さては、俺に惚れたか」
「結梨は恥ずかしがり屋で人見知りなんです!」
「やめてあげてください!」という多々良の必死の叫びと共に、要の頬に今度は平手がお見舞いされた。
「でも、折角ならダンスやってみたら?」
「え……」
「楽しかったでしょう」という環の笑みに、結梨は眉を下げて戸惑ったように手のひらを合わせて、指先をもじもじと動かした。
「楽しかったですけど、わたし運動はそんなに得意じゃないんで」
「そう? 踊れていたけれど、ねぇ仙石くん」
環の視線を感じた要は、真っ赤な紅葉を労わるように撫でながら、ただ肩を竦めた。
一方で、結梨は前髪を手で触りはじめていた。先程の要の行動のせいで彼のことを見ることが出来ないようだ。わざと視界を遮って、顔の赤らみが引くように願っている。
決して要に惚れている訳ではないが、自分よりも歳上であり、性格に難はあるとは言えど、見た目麗しい彼は結梨には刺激が強すぎるようだ。
「結梨ちゃんがよければ、たたらくんと踊ってみたらって思ったんだけど……」
「う……でも、ごめんなさい」
結梨は頭を垂れた。
もし結梨がダンスを始めるならば、多々良のパートナーにうってつけだと環は考えたのだ。シャドー練ばかりでは変な癖もついてしまうし、そもそもモチベーションが断然変わる。
だが、結梨には全くその気はないようだ。
済まなそうにしている結梨に、「気にしないでね」とゆったりとした手つきで救急セットを片していく。
多々良は彼女がダンスをやらないということには異言がないようで、二人のやり取りに苦笑すると、次には期待の眼差しで仙石を見上げていた。
「仙石さん。あの、ぼ、僕のリードは」
「犬の散歩から介護士に昇進だ」
「喜んでいいんですか、それは!?」
「調子に乗るなよ」と真顔で返されて、多々良はシュン、としてしまう。
要はそんな多々良を気にすることもなく、再び結梨に視線を送る。
「それで、結梨はなんでここに来たんだ?」
結梨は要からの視線にもう過剰に反応はしなかったものの、こそばゆそうに、髪の毛を耳にかけ直した。
「あ、その……この頃帰りが遅いって聞いたから、たたらが危ないことに首突っ込んでるんじゃないかって、心配で」
答えあぐねるように途切れ途切れだったが、その声色は確りとしていた。
結梨が言うには、道すがら多々良を見かけて、ここまでついて来たのだという。それを聞いた多々良は、「えっ」と驚きパッと勢い良く彼女を見た。
「良い嫁を持ったな、お前」
「だから、嫁じゃないですってば!」
しみじみと顎を撫でながら言う要に間髪入れずに多々良は突っ込んだ。
「ちょっと結梨」立ち上がると、結梨を手招きして、スタッフルームの端っこに寄った。
「お願い、父さんとかばあちゃんには言わないで」
こそこそと彼は気まずそうに言った。
そのお願いに結梨はすぐに頷くが、どこか腑に落ちないようで、複雑そうな面持ちをしている。
「でも、内緒の理由聞いてもいい?」
「それは……ただ、頼らないで頑張りたいから」
「それだけ?」
「うん」
結梨は、多々良の心を読み解こうとするかのように、じい、と彼の目を見つめる。多々良は一瞬どきりとしたが、目をそらさずに彼女を見つめ返した。
小さい頃から互いを知っている二人にとって、何かを隠していることなど、すぐにわかってしまうのだ。結梨にとっても、多々良にとっても。だから、何か確かめたい時には、こうして互いに目をじいっと合わせる癖がついてしまっていた。
「心配、するようなことはない?」
疑う訳ではないが、どこか不安そうに眉を下げながら、結梨は多々良を見つめている。
「ないよ。大丈夫」
多々良は、キッパリとそう言った。
結梨が見つめるその眼差しは、いつもの弱々しげに緩められたものではない。真っ直ぐと彼女を捉え、確かな光が宿っているように感じられた。
「わかった。たーくんが本気なの、わたしは嬉しいな」
結梨は顔を綻ばせる。へへ、と照れ臭そうに多々良も笑って、彼女に礼を言うのだった。
――笑いあうのも束の間、そんな二人にすらりとした影が掛かった。
「そこ、通っていいか?」
二人して、ビクッと肩を揺らして振り返る。練習着に着替えたのか、白いTシャツにスラックス姿の清春が立っていた。
多々良が慌てて周りを見渡すと、二人が立ってコソコソと話をしていたのはスタッフルームへの入り口近くだったらしい。このままでは彼は通り抜ることが出来ない。
整った顔をしているからか、無表情の彼はどことなく威圧感がある。多々良が隣の結梨をチラリと盗み見れば、案の定目を丸くしたまま固まっていた。
「兵藤くん! ごめん、今どくから!」
そうだ、結梨の男性に対する人見知りは、少々拗らせている。多々良はそれをハッと思い出して、彼女の手を引いて避けようとした。
――その時。ガシ、と彼女の両肩が後ろから掴まれた。
「兵藤、結梨はたたらの嫁だ! 手出すなよ」
「は、ハァ!? だから、結梨はただの幼馴染でっ」
犯人は、要だ。結梨を抱き寄せるように肩に手が回され、彼女の背には大きな身体がくっついている。
要は愉しげに満面の笑みを浮かべているが、余計なことを言われた多々良は、信じられない、とでもいうように手を震わせながら驚愕の眼差しで彼を見上げた。
だが、清春はそれらに応えることはなかった。飄々とした顔つきでただ結梨に視線を寄越すだけで、するりと多々良と結梨の横に出来たスペースをすり抜けて行った。
「つまらん男だな、アイツは」
「もう、仙石さん、変なこと言わないでください! それと、結梨を離してあげてください!」
「なんだ、これくらいいいだろうが。なあ、結梨」
要は自分の腕の中の存在に投げ掛けるが、返事がない。
「結梨?」
不思議に思って彼がひょい、と彼女の顔を覗き込む。そして、彼は思わず言葉を失った。
桃色に染め上げられた頰、少し半開きになったぷっくりとした唇、そして、長い睫毛に縁取られた瞳は微かに潤んでいる。
時が止まったように、結梨は要の腕の中で一点を見つめている。
「もう、仙石くん! セクハラはやめて!」
「いてぇ!」
見兼ねた環が要の背中を殴って、彼女は解放されたのだった。
