04

 三笠宮杯当日。
 何故だか緊張して眠れずにこの日を迎えた多々良は、寝不足を隠せずにいたものの、心のうちから沸き起こる高揚に体を委ねていた。
 東京体育館という大きな会場に、ひしめくように二階三階席に集まった観客、そして、フロアには数多くのダンサー達。初めて踏み込む空間に、多々良ははしゃいでいた。
 だが、浮き足立っていた多々良は、要に早々に叱られてしまうのだった。
 多々良の行動は見に来た者ならば、当たり前に感じる興奮ではあった。観客としてなら、咎められなかったのかもしれないが、要はあくまでどこまでいってもダンサーなのである。
 今彼らが来ているのはただの発表会ではない。競技大会であり、勝敗の世界だ。
 要はそこで生きている。そして、多々良はそこに足を踏み入れたのだ。

『ラテンアメリカン、二次予選――Samba!』
 選手控え室で集う選手達や雫と清春の姿を見て、まるで戦士のようだと圧倒されたのも束の間、ついに彼らシード組の出るラテンアメリカン二次予選が始まった。
 会場が桁違いに盛り上がる。
『兵藤く――ん!』
『花岡ぁぁ!』
 客席では、あの兵藤組への熱狂的な声援が飛び交う。
 ――サンバ、チャチャチャ、ルンバ、そしてパソ・ドブレ。多々良はそれぞれの種目で異なる顔を見せる彼らのダンスに夢中になるのだった。
「そういえば、結梨は?」
 頬を上気させながら食い入るようにフロアを眺めている多々良に要が尋ねる。
「あ、午前中は部活があるみたいで、終わってから来るって言ってました」
「なんだ、部活なんぞやってんのかアイツ」
「そうなのね。でも残念ね、兵藤くんのラテン最初から見れないなんて」
「アイツ、こんなの見たら腰抜かすんじゃねぇのか」
 笑い出す二人に多々良は先日、この大会について告げた時のことを思い返した。

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 ――兵藤くんと花岡さんが出るんだ。
 彼がそれを口にして、顔を真っ赤にした結梨。人見知りで、すぐに顔が赤くなる彼女のその表情は、多々良にとって見慣れたものだったが、その時は明らかに違ったのだ。
 どこかうっとりとしたような恍惚な表情で――そんな顔を多々良は見たことがなかった。
 彼は不覚にもどきりとした。
 幼馴染のそんな姿に、まるでいけないものを見てしまったかのように思われたからだ。
 スタジオに居た時には要の大胆な行動もあったのと、単に彼の容姿に緊張してしまっていると思い気がつかなかったが、多々良は確信した。
「結梨、もしかして……」
「たーくん、絶対、言わないでねっ」
 お願いだから、と頬を赤らめながらずい、と迫られて、多々良は困惑しながらも首を縦に振った。
 結梨は清春に惹かれているのだ。
「どこが、良かったの?」
 人見知りの彼女が、初めて出会った人に心を奪われるとは。多々良は純粋に不思議だった。
 確かに、彼は容姿が優れていて、目を惹く。それでも、彼女にとって、そういう人はどちらかというと苦手なタイプに分類されると思っていたのだ。
「なんだろ、一目見てこの人王子様だって……やだ、こんなこと言わせないでよ、たーくん」
 恥ずかしそうにチラシで顔を隠しながら結梨は怒った。
 多々良は「ごめん」と苦笑いを浮かべて頭を掻いたのだった。

 

「お前、その顔は……ヤキモチか」
「はぁ!?」
 要の言葉に一気に思考を呼び戻されて、多々良は勢い良く立ち上がってしまった。
 幸いジュブナイルの予選が始まっていたので、他の観客には然程注目されなかったが、仁保や番場の視線を浴びて、彼はしゅん、と小さく椅子に戻る。要と環は愉しげだ。
「だから、結梨と僕はそんなんじゃないって言ってるじゃないですか」
「そりゃわかってるが。そうとは言っても、なあ、たまきちゃん」
「そうねぇ、色々な嫉妬の形があるから」
 ニヤニヤと緩む口元を手で隠しながら、大人たちは多々良を揶揄う。
 彼も彼で否定はするものの、言葉に詰まって、彼らの思う壺だ。
 実際、多々良は複雑な気持ちだった。幼馴染を取られるような感覚と、遠い世界に行ってしまうような寂しさ。そして、彼女を応援したい気持ち。多々良はジレンマの前に立たされているようで、きゅ、と太ももの上で拳を握った。
 相手が知らない人間であれば、まだマシだったかもしれないが、相手はあの兵藤清春だ。
 だが、多々良はフロアを見つめ直す。
 先程までのラテンダンスを思い返して、結梨がどんな反応するのか、楽しみにしている自分も居た。

「間に合うかな」
 左手首につけられた革ベルトの時計を見ながら、彼女は早足で階段を上っていく。もう会場は目の前に見えている。あと少しだ。
 多々良によれば、丸一日かけて行う大会だから焦らなくても平気だと言われたが、結梨はそわそわしていた。
「着いた……」
 無事階段を上り終えて、会場に辿り着くと、荒くなった呼吸を整える。肩から掛けた鞄の重たさに、部活道具を置いてくれば良かったか、と考えながらぐっと背負い直した。
 入り口で多々良からもらったチケットを渡して、広い会場に入った。
「うわぁ、すご……」
 東京体育館は、結梨にとってこれまでの人生で無縁の場所だった。それだからか、彼女はキョロキョロと忙しなく視線を動かして、辺りを観察しては心の中で感嘆の声を上げている。
 ふと、そんな場合じゃないぞ、とハッとすると、制服のポケットから携帯を取り出して、時間を確認した。入り口で貰ったパンフレットと照合させれば、ラテン・アメリカンの二次予選が終わった所だった。
 ――よかった、間に合った、とホッと胸を撫で下ろす。
 そのままパンフレットを読み込むと、その下に連なるスケジュールを見て、結梨はギョッとした。
「こんなにやってるんだ……」
 スケジュールの見方は正直彼女には良く分からないものだったが、ジュブナイルやシニアを抜いて、ラテンとスタンダードというのを見ればいいと端的に教えて貰っていた。
 その二つの決勝の時間は午後七時過ぎ。
 想像するだけでも、結梨は目眩がして、鼻筋を指先で押さえた。
 すると、手にしていた携帯が振動した。振動が短い。きっとメールだろう。
「中央二階席、前の方、か」
 それを確認すると、結梨は大股歩きで進み出した。

「あっ」
 多々良たちのもとへ向かう途中、結梨は見知った背中を見つけて、声を上げた。
 その声に気が付いたのか、ゆっくりとその背中が振り返る。
「……富士田の」
「ひょ、兵藤さん!」
「嫁?」
「嫁じゃありません! 幼馴染です!」
 無表情でなんてことを言い出すのか。顔の熱を感じながら、結梨は必死に否定する。
 ――もう、要さんのばかぁ!
 要に対して余計なことをしてくれた、と恨む気持ちが少しだけ沸いた。そうして、恥ずかしいのを紛らわすように、後で一言なにか言ってやろうと心の中で思うのだった。
 鞄を両手で胸の前に抱えて、真っ赤な顔で必死になる結梨に清春はきょとん、とした顔をしている。
 思わず逃げ出したくなるものの、何も言わずに居るのも良くないと思い、結梨はぎゅ、と掌を握りしめた。
「あのっ」
「……何」
「今日、兵藤さんと花岡さんを見に来たんです」
 じい、とあの切れ長でつかみ所のない瞳で見つめられて、結梨はそっと俯く。
 ――そんなに見られると緊張する。
 胸が痛いほどに高鳴っているのを結梨は感じていた。バクバクと煩い心臓。一度静かに息を吸い込む。
 そして、鞄を掴む手をぐ、と強めた。
「あの、兵藤さんのダンス、楽しみにしてます!」
 そう言って勇気を振り絞って顔を上げると、清春が口元を緩めていた。
 ――え?
 予想外、だった。初めて見る彼の笑み。微かに口元が緩んだだけだが、それだけでも、貴重だ。
 時が止まったかのように、結梨は思わず口を半開きにして、それを眺める。
「ヘンな顔」
 清春が揶揄うような声色で呟く。
「へっ、あっ、ええ!?」
 慌ててカバンで口元を隠すも、清春は眼を細めて、こちらを見ている。逃れられない視線に、結梨は鞄を鼻の高さまで持ち上げて、そっと彼を見上げた。
 黒いジャージにニット帽。これがフロアに立つとどうなるのか、彼の燕尾服姿を想像して結梨は胸を震わせる。
 ――あれ?
 すると、あることに気がついて、結梨は、瞬きをした。
 だが、彼は彼女の様子に気がつくことなく、飄々とした面持ちを取り戻し暫し結梨を見つめたあと、「じゃあな」と言うなり、踵を返して行ってしまった。
 その背を見送りながら、彼の頭に視線を送る。
「帽子、裏表逆だった……」
「可愛い」という呟きは、騒めきに溶け込んでいった。