しとしとと窓を鳴らす雨滴のようなピアノ・ジャズが流れていた。厚い灰色の空から雫が降りそそぎ、幾重にもカーテンを作る。すべての光を淡く遮るような、上等なレースのカーテンだ。
静かにドラムのハイハットが軋み、やがてテナーサックスの低音がするりと溶け込んでは、柔らかなレースが耳の裏をなぞっていく。頬が冷たい。手も足も、指先も、――唇も。いっそのこと、その繊細なレースで包んでくれたのなら。
カーテンの向こうは白く煙が立ち、大きな影がゆらり、ゆらり、揺れている。行き交う人々の顔はもやに消えて――。
「――ちゃん!」
私を呼ぶ声に、ハッと我にかえる。
ここは、常と変わらぬ昼下がりのブラッスリー。忙しないランチタイムを終えて、夜に向けて仕込みをしているところだった。ただちがうのは、たった今、水をそそいでいたはずのグラスから水があふれていることだろうか。
「すみません店長!」
慌ててピッチャーとグラスを置いて、カウンターテーブルと床にできた水たまりを拭う。手にしたダスターはぬるく、すっかり手は冷え切っていた。
「めずらしいね、そんなにボーッとしているなんて」
なにかあった? さりげなくモップを持ってきてくれる店長にひとまず礼を述べて、床をきれいにする。かなりの量があふれていた。
こうなるまで気がつかないなんて、本当どうかしている。だが、床がいつもどおりの様相を取り戻していくなか、心は依然、細雨に取り残されたままだ。
「午前中はそんなことなかったのにねえ」
「すみません、夜は気を抜かないようにするので」
理由も言わずにただ眉を下げる私を、店長は咎めることも追及することもしなかった。眼鏡の奥でやさしく微笑を浮かべたあと、そうだ、と彼はさりげなく続けた。
「雨、降りだしそうだね。外の看板、入れてもらってもいいかい」
窓の向こうは、アーマーガアの羽毛が空を包んでしまったかのようにほの暗い。昼間だというのに、くもり空のスパイクタウンは、まるで夕暮れのようでもあった。
――雨、そうか。小さくつぶやくと店長は不思議そうに頭をかしげた。なんでもありません、と笑みを作って私は店の外へ出た。
私の思考を奪うものがなにかは、はっきりとわかっていた。
サヴァランを届けにいった、あの日。静謐という言葉が似合う厳かな宝物庫の一室で、不意に訪れた口づけ。ほんの一瞬のふれあいだった。しかし、その熱は永遠のようにも感じた。どうしようもなく熱くて、脳髄までとろとろに溶けてしまいそうで。その反面で、心臓はまさしく息を吹き返したかのように激しく鼓動を刻んだ。背すじがぞくりと粟立ち、指先はちりちりし、しかし、まばたきをしたときには、すでにあの形の整った薄い唇は離れていた。気がつけば私は、「やめないで」と懇願していた。
震える唇で、シャンデリアに瞬くキバナさんの碧い瞳を見つめながら。潤んだ吐息がばれてしまうのではないか、そんなことを考えることもできずに。離れていった唇を、熱を、彼を、どうしようもなく求めてしまっていた。
いつからだろう、胸の奥に灯った小さな燈火が激しく燃え盛る炎へと変わったのは。それなのに、それ以上彼の熱が分け与えられることはなかった。
――悪い、これ以上はできない
わしゃわしゃと私の前髪を掻き乱した大きな手が、どうしようもなく熱かった。彼がどんな顔をしているのかもわからず、どんなことを考えているのかも理解できず、ただ、頭の中が灼熱の砂漠を歩いているように重く閉ざされていた。
やがて手のひらが離れ、重くなったまぶたを持ち上げると、そこにはもう冷えた現実が待ち受けていた。
「キバナさんの、ばか」
思い出すだけで、目の奥が灼けつくように痛む。はしたなく彼を求めてしまった自分に、そして、拒絶された自分に、酷い吐き気をもよおす。
ならば、なぜキスをしたの? なぜ、私だったの? なぜ――。
わたしの、ばか。つぶやいた声は湿った空気にほどけていく。いっそのこと、雨が降ってくれればいいのに。そう思えど、灰色の地面には、汚れはあれどひとつのシミすら刻まれていない。やさしすぎるジャズの旋律が、かえって私をどうしようもなくみじめな気持ちにさせる。
それでも時は無情に過ぎていく。クローズドの札は下りているが、今は仕事中だ。体だけでも動かさなくては。
耳を塞ぐように髪を掛け直すと、私は看板の片づけにとりかかった。
「……あれ?」
薄汚れた地面にしゃがみ込み、黒いコンセントを抜いていると、視界になにやら小さな影が写り込んだ。
「モルペコ?」
黒、黄色、茶色という三色の配色が特徴的な姿は、どことなくピカチュウに似ているだろうか。スパイクタウンはずれの草むらでよく見かける愛らしいポケモンだ。
もしかして、街に紛れ込んできてしまったのか。看板の影から現れたその小さな存在に目線を合わせ、おもむろに手を差し出してみる。
「きみは、迷子?」
訊ねてみるが、反応はない。ただ、こちらをじいっと観察するくりりとした瞳は私を不思議な気持ちにさせた。なんとなくこの目を知っているような、そんな気がした。
「食べものは持っていないんだ」
ごめんね、と肩をすくめると、モルペコはその言葉を理解してか、タタッと駆けて行ってしまった。まったく、ゲンキンな子。そんなに匂いがしたのだろうかと袖口に鼻を寄せるも、染みついた自分の匂いなどわかるはずもない。ふう、とひとつ小さく息をついて立ち上がる。少しだけめまいがした。
看板を店の中へしまい、それから傘立てを出しに戻る。なかなかの力仕事だ。腰を痛めないように気をつけながらそれを運び、いつもの場所にセッティングする。上体を上げたところで、不意に背後から足音がした。
「あなたは、マリィちゃん?」
おもむろにふりかえった私の目に飛び込んだのは、ピンク色のワンピースを着たあどけない少女と、その腕に抱かれるモルペコの姿だった。
こっくり、ふたつに結わえられた髪がやわらかく揺れる。メイクなど施していないだろうに、人形のように整った顔立ち、陶器を思わせるなめらかで白い頬。そして、桃色に染まった唇がなんとも愛らしい。
彼女は常連であるネズさんの妹、マリィちゃんだ。
「どうかしたの?」
こうして面と向かって話すのは初めてだった。怖がらせないようにと丁寧に声をかけるが、さきほどのモルペコ同様、返事がない。ただ、精緻な顔の中で口もとがもぞもぞと動いたのがわかった。
「……と」
「え?」訊き返すと、青白い頬がぽっとピンクに染まった。
「お願いがあって、来たと」
ぱちり、ぱちり、目を瞬かせる。だが、彼女の真剣な表情にふっと頬を緩めると、「よければどうぞ」とドアを引いた。
ちょこん、と人形みたいにスツールに座るマリィちゃんにドリンクを作る。外は少し肌寒かったため、あたたかいエネココアだ。出来合いのミルクココアを淹れるだけではなく、特別にバターと塩を加え、いつもより濃厚な味わいになっている。ひと手間工夫するだけで、何倍も格別な飲み物になるから、ココアは不思議だ。
熱いから気をつけてね、とカップを差し出すと、彼女は控えめに礼を述べてそれを受け取る。足もとのモルペコにはモーモーミルクをそそいであげた。
「好きにキッチン使っていいからね」と言い残した店長の姿はすでに見えない。気を遣ってオフィスに戻ってくれたのだろう。ふたりと一匹の店内には、あいかわらずゆったりとしたピアノ・ジャズが流れていた。
ごくり、彼女がココアを飲むのに合わせて、私も自分のそれに口をつける。
「お願いって、なにかな?」
なにか、困ったことでもあったのだろうか。頬の赤みが引いてきたころ、そっと本題を切り出すと、彼女は視線を両手に包み込んだカップの底へ落とした。
伏せたまつ毛は長く、しっかりネズさんの面影がある。彼にもこんな子ども時代はあったのだろう。自然とまなじりが緩む。
「お菓子を、一緒に作ってほしいけん」
「お菓子?」
ひとり思い出の毛布に包まれていた私を見上げ、彼女は力強くうなずいた。
「アニキ、最近疲れてるから。なにか、してあげたくて」
少しだけくたびれた大きめのジャケットの袖から、白い指先がのぞいている。もじもじと忙しなく動き、カップのはらを撫でる。
なんだか、喉をくすぐられた気分だ。妹がいたら、こんななのだろう。そう思ったらいてもたってもいられず、私は手にしていたココアを勢いよく飲み干した。
「よし、じゃあ作ろうか」
「……いいと?」
翡翠色の目がパッと輝く。もちろん、と握り拳を作ってみせると、マリィちゃんは安堵したのかとろりとした笑みを浮かべた。
「作ってみたいものがあったらなんでもいいよ、って言いたいところなんだけど、今日は簡単にカラメル・プディングでも作ってみようか」
奥の厨房へ行き、余っていたエプロンをマリィちゃんの首にかけて紐をきゅっとしめてあげる。ひとりでお菓子づくりをすることは、ほとんど日課になっていたが、だれかと一緒になって作るのは久しぶりかもしれない。こうして厨房にふたりで立つと、なんだかいつもとちがう場所にいるみたいだった。
「プディング……」かすかに頬を染めてマリィちゃんはつぶやく。
「そう、カラメルたっぷりのプディング」
ブラッスリーにはもちろんさまざまな材料が揃っているが、あまりに複雑なものを作っても意味がない。家に帰ってからマリィちゃんが作りやすいように、今回は身近な食材で作れるお菓子を選んだ。
「とろとろが好き? それとも、固いのが好き?」
調理台の上にボウルと泡立て器などの調理器具を用意する傍ら、きれいに手を洗っているマリィちゃんに訊ねる。小さく、「とろとろ」と返ってきた。
「そっか、とろとろのプディングっておいしいよねぇ」
「アニキも、とろとろのやつが好きだと思う」
そう言う彼女の口もとはやさしげだ。
「じゃあ、決まりだね」
目を見合わせてうなずき、次は材料集めにとりかかった。卵と牛乳と生クリーム、それからグラニュー糖。プディング液をそそぐ容器には、ちょうどいいサイズのココットがあったので、店長に言ってそれをいくつか借りた。
「まずはカラメルづくりから始めよう」
はい、と愛らしい声がすぐさまあとを追いかけて、私は思わず頬を緩めた。
やさしい味わいのババロアとはちがって、なんといっても苦味がほどよいカラメルがプディングの要だ。焦がしが甘いとおいしさに欠けるし、かといって焦がしすぎるとくどい。その中間、卵とクリームの甘みをそっと彩ってくれるようなほろ苦いカラメルソースこそ、カラメル・プディングの至高と言えよう。
コンロにミルクパンを用意して、マリィちゃんに材料の指示を出す。グラニュー糖を必要分量り、それから大きなボウルに水と別途カップ半分ほどの熱湯を。お湯を沸かすのはポットに任せた。
「まずは、お鍋にグラニュー糖を入れて火にかけよう。火は、中火ね」
こくり、小さな頭がうなずいて、細い指先がグラニュー糖の入った容器を持ち上げる。ミルクパンの底に白い山ができあがると、マリィちゃんはコンロの火をつけた。チチチ、と音が弾けたあと、指示どおりに鍋を温める。気を抜くとあっという間にカラメルが焦げてしまうので、決して火を強くしすぎないことが重要だ。
「グラニュー糖はふつうの砂糖じゃ、いけんの?」
マリィちゃんはじっと鍋を見つめて訊ねる。
「うぅん、いけないってことはないんだけど、砂糖はこくと甘みが強いから、お菓子に使うならグラニュー糖がおすすめかな。そのほうが上品な味わいに仕上がるよ」
ほう、と感心したように唇を半開きにする姿が愛らしい。頬を緩めて、そのまますぐ横で小さなパティシエを見守った。
少しして、グラニュー糖が溶けだし液体状になってくる。カラメルづくりはここからが勝負だ。一、二分すると全体的に色づいてくるので、目を離さずに木ベラでかき混ぜなくてはならない。
「色が濃くなって、サアアッと泡が立ってきたらすぐ火を止めてね」
マリィちゃんがそうする横で、私は水を張ったボウルを用意する。
「それで、水で冷やせばいいと?」
「そうそう。放っておくとすぐ真っ黒になっちゃうから」
かといって、焦ると火傷をするおそれがあるので気をつけなくてはならない。心配そうな横顔に、合図を出すから大丈夫だよ、と声をかける。
こっくり、真剣なまなざしでうなずく姿がどこか小さいころの自分と重なって、緩んだ顔はいつまでも治りそうになかった。
「そうね、ロコン色くらいになってきたから、もう少し。そう、オッケー」
上げて、と合図を送るとマリィちゃんは火を止めてミルクパンを水にさらした。ジュウッと水の蒸発する音がして、ふきんを敷いた調理台にそれを置く。カラメルは浅黒く、すでにテラテラとしたつやめきを放つ飴状に変わっていた。
「これにお湯を入れるんよね」
「うん。溶きのばしたら、固まらないうちにココットに入れてね」
白く華奢な指先がお湯の入ったカップを傾ける。もくもくと湯気が立ち、香ばしい匂いが鼻を掠めた。
「いい感じ」
ココットへカラメルソースをそそぎ終えたマリィちゃんに笑いかける。彼女はホッとしたように、またしても唇を半開きにして胸に手を当てていた。
そのあとはプディング液づくりだ。ココットを冷凍庫で急速に冷やしつつ、新たに鍋を用意し牛乳と生クリームを火にかける。ここでもカラメル同様、気を抜かないことが大切だ。
牛乳は熱しすぎると表面に膜を張る。その膜にはたんぱく質や脂肪分が含まれており、プディングにおいて重要な旨味の役割を果たす。したがって、プディング液を作る際には、決して膜を張らないよう火加減に注意しなくてはならない。温度でいうと、ちょうどよいのは約五十度。だが、料理用の温度計がある家庭など少ないので、触って熱いかも、と感じる程度が目安だ。
それを伝えると、マリィちゃんの眉根がこれでもかと寄った。
「五十度……」
「心配しないで。今日はきちんと測れるから、こんな感じって覚えて帰ろう」
なんとかその眉間のしわをほぐそうと、あたふたと温度計を取り出す私であった。
牛乳と生クリームを弱火で温めるあいだ、卵を割って卵黄を用意する。
とろとろのプディングと固いプディングのちがいは、大きく分けて全卵を使うかどうかと、生クリームを使用するかだ。今回作るのはとろとろタイプのため、丁寧に卵黄と卵白を分けたあと、卵黄のみをボウルに入れてグラニュー糖をすり混ぜる。ホイップとちがって泡立てる必要はないので、もったりするまで切るように混ぜるのがいい。
頃合いを見て、温めていたクリームを確認する。見た目には変化が見られないが、ちょうど五十度近くになっていた。
マリィちゃんにその熱さを確認してもらう。
「……熱かね」
「熱いね。お風呂よりは」
おそるおそる小指を伸ばす姿は、新種のポケモンのようになんともかわいい。ちなみに、モルペコは厨房には入れないのでホールで留守番中である。
「これが、五十度……」
きっと必死にその感触を焼きつけているのだろう。小さく繰り返すマリィちゃんを目で撫でて火を止める。それを卵黄の入ったボウルに何回かに分けてそそいだらプディング液の完成だ。
「一気にそそぐと固まり始めちゃうからね。あと、バニラエッセンスを混ぜるならこのタイミング」
入れる? と用意していた小瓶を掲げると、マリィちゃんはふるりと首を横に振った。
「なにも入れないほうが、アニキは好きだと思う」
その顔は自信と期待に満ち、どこか輝いているようにも見えた。
ざるで濾したプディング液をココットへそそいだあとは、フライパンで湯せん焼きをする。オーブンがあるならそれでもいいが、こちらのほうが幾分か手軽だ。しっかりアルミホイルでココットに蓋をして、沸騰させた湯にかけ弱火で十五分。
待っているあいだに、厨房でひと休みだ。
「このカラメル・プディング、きっとすっごいおいしいよ」
厨房はすでに熱気に包まれていた。ふたりして暑さに袖を捲り、額に汗をにじませている。キンキンに冷えたレモンスカッシュを渡すと、マリィちゃんは視線を床に落として、もじもじとそれを受けとった。
「まだ、わからんよ……。もしかしたら、おいしくないかも」
「そうかな? 私は絶対においしいと思うな」
ゆっくり、顔が上がる。どうして? という表情だ。私はつい微笑んだ。
「だって、マリィちゃんはずっとお兄さんのこと、考えながら作っていたでしょう?」
アニキはとろとろのプディングが好き、や、バニラエッセンスはいらない、など、終始やさしい声で彼女は紡いでいた。だが、それだけではなく、彼女の目線や顔つきが兄への想いをしっかり物語っていた。
カラメルを焦がしすぎぬよう丁寧にヘラで混ぜるところ。ぜったい好きやけん、とココットへたっぷりカラメルをそそぐところ。火にかけたクリームをじっと見守ったり、プディング液を何度も濾したり。ネズさんのことを想っていないとできない。
「お姉さんも、いつもそうやって作っとお?」
思いがけず返ってきた言葉に瞠目する。しかし、すぐに私は、うん、と目尻を下げた。
「お菓子はね、贈る相手のことを考えるとそれだけでおいしさが増すって、信じてる。科学的な根拠は、って言われると、困っちゃうんだけど。でも、そうしたほうがもらう側もうれしいじゃない?」
こっくり、マリィちゃんがうなずいた。
「……さっきのココアも、このレモンスカッシュもすごくおいしかった」
それって、マリィのことを考えてくれたってことやね。紡がれた言葉に、私はその先を続けることができなかった。こそばゆさから、ぱくぱくと金魚のように口を閉じたり開いたりする私を、マリィちゃんはそっと頬を緩めて受け容れる。花が咲くような、可憐なはにかみだった。
「えっと、そんなふうに言ってくれて、うれしいな」
「べつに、思ったことをただ伝えたまでやけん」
ぷい、と顔を背けて、グラスに口をつける横顔までもが可愛らしい。年相応の女の子らしいその仕草に、どうにもふやけた顔が治りそうになかった。
そこで、けたたましくタイマーが鳴り響き、プディングの完成を報せた。
火傷しないようにキッチンミトンを用いてフライパンから取り出す。アルミホイルを外すと、つるんとクリーム色の天使のやわ肌が現れた。
「完成、だね」
「おいしそう……」
ぽろりとこぼれた声に、すかさず銀のスプーンを渡す。
「熱々のプディングは作ったひとの特権!」
ニヤリ歯を見せると、マリィちゃんは仕方ないとでもいうように呆れた反応を見せる。だが、ちゃっかりそのスプーンは受け取っていた。
ぷるんとした表面をすくい、とろりとプディングが崩れる。うん、これはいい感じだ。その見事な質感にしばらくうっとりしてから、ふうふう息を吹きかけ、せーのと声をかけることもなく一緒になって口へ運ぶ。
刹那、口の中に、ふわっと真綿で包まれるようなやさしい味わいが広がった。
「んぅ……」思わず、感嘆の声を上げずにはいられない。隣では長いまつ毛がふるふると震えている。
「うまか」
頰はほころび、兄に似て美しい翡翠色の瞳が輝いていた。そうだ、この顔だ。
「これはきっと、ネズさんもおどろいちゃうね」
止まらなくなって、もうひと口スプーンを口に運ぶ。やはり、なめらかな舌ざわりも上品な甘みも、それからカラメルの焦げ具合も、すべてが完璧だ。このひと口に、彼女の想いがあふれるほどに詰まっている。
「アニキも」マリィちゃんが言った。
「アニキも、いつもだれかのことを想って曲を書いとおよ」
スプーンを咥えたまま目を瞬かせる私を、マリィちゃんがちらりと一瞥する。そして、きりりと大人びた顔をした。
「アニキ、今度ライブやるけん。見にきてあげて」
女の子って不思議だ。笑った顔、不安そうな顔、真剣な顔、いろんな顔を持っているのだから。
「もちろん」
うなずくと、マリィちゃんは嬉しそうにぎゅうっとスプーンを握りしめて、とろとろのプディングをもうひとすくいした。
つかの間の休憩を終えて、また日常は回りつつあった。
キバナさんからはブリオッシュを食べるポケモンたちの写真が送られてきたが、あの日のことを蒸し返す勇気など、私にあるはずもなく。本当になにごともなかったかのように一日、また一日と時間は過ぎた。ただ、ポケスタを開く回数は以前よりも格段に減り、キバナさんが今どこで、なにをして、どんなふうに過ごしているか、考える時間は少なくなった。それを助長するように、いつしかキバナさんからの連絡も途絶えた。
救いだったのは、ブラッスリーにネズさんやマリィちゃんが遊びにきてくれたり、店長がシュートシティの骨董市に連れていってくれたり、また、ソニアからおばあさまの思い出のケーキを作ってほしいとお願いされたりと、なんだかんだと忙しい日々が続いたことだろうか。
だが、そんなある日、唐突にキバナさんからの連絡は届いた。
「悪い、近ごろ忙しくて連絡できなくてさ」
休憩中のことだった。不意の着信にいつもの癖で飛び出て、私は半ば後悔することになった。
「キバナ、さん」
「ん。元気にしてたか」
耳もとでささやく声が脳髄を揺さぶる。たった数週間だというのに、何か月も何年も聞いていないようなそんな気がしてしまう。だが、いざ耳にすると、なにもかもが鮮明によみがえってしまった。
唇が疼いたのには知らぬふりをして、はい、と掠れ声で答える。キバナさんは電話口の向こうで、「ならいいけど」とつぶやいた。
「その、今日はどういったご用事で?」
店の外に出て、おそるおそる訊ねる。できるだけ自然に、だが。
「ああ、急なんだけどな、近々会えないかと思って」
本当に、急だ。とくりとくりと波立つ鼓動。それとはうらはらに体が震えだす。外は肌寒いというのに、シャツにエプロン姿で出てきてしまったからだろうか。
「いつ、でしょうか」
キバナさんは淡々と答える。
「そうだな。できれば、早いほうがいい。次の定休日とか空いてるか」
なぜそんなにも普通にしていられるのか。なぜ、なにもなかったように振る舞えるのか。耳にまとわりつく鷹揚な声に、唇を噛みしめずにはいられない。今にも、喉に痞えたなにかを吐き出してしまいそうだった。ここから、今この瞬間から、逃げ出したくてたまらない。それなのに、電話口との温度差にめまいがする。
カタン、どこか遠くで、なにかが崩れる音がした。向こうのスクラップ置き場だろうか、それとも店の中か。カタン、もうひとつ。冷たい風とともに、乾いた音が耳の裏を撫でていく。
「どうだ」
必死に唇をさすって、私は答えを探す。
「わかり、ました」
その声は、情けなく震えていた。
次の休み、約束どおり私はナックルシティへ赴いた。あいにくの天気だった。駅からスタジアムへ向かう足はどこか雲の上を歩いてるみたいに定まらず、慣れたはずの道のりがいつもよりも遠い。反対に、心臓はまるでゴーストがいたずらしているんじゃないかというほどに重く、一歩ずつ目的地へ近づいていくたびに、どくりどくりとうなりを上げていた。
スタジアムに着くと、リョウタさんが出迎えてくれた。先日のお礼に、トレーナーの皆さんで召し上がってほしいとシュートシティで有名なお菓子と紅茶のセットを渡し、中へと案内してもらう。リョウタさんは一見厳格でとっつきにくそうな見た目ではあるが、話せば柔和で温厚な人であった。それが少しの慰みだったかもしれない。
ナックル城を改築しただけあり、スタジアム内部はあいかわらず迷路のように広かった。何回か訪れているはずなのに、今日とて迷い込んだクスネの気分にさせられる。奥に行けば行くほど街の喧騒は遠ざかり、現実世界から隔絶されていく。
音を立てるのさえ憚られ、途中までは焼き菓子に合う飲み物のことなどを話していたが、それすらもいつしかうわの空になる。口ではなにかをつぶやいていたが、どうにか足音を盗んでリョウタさんのあとに続くのがやっとだった。
「こちらへどうぞ」
たどり着いたのは堅牢な扉の前だった。真鍮の取っ手が鈍く瞬いている。もしかすると、以前、訪れたことがあるかもしれない。とはいえ、その記憶を探り出す余裕もなく、ただ体を支配する鼓動を数えていた。
「キバナさま、お連れしました」
顔を合わせたら、なんと言えばいいのだろう。ちゃんと、私は笑えるだろうか。そんなことを考える間に、リョウタさんは躊躇なく扉をノックしてしまう。ぎゅ、と手にした紙袋を握りしめ、息を止めた。
「リョウタ、ありがとう」
失礼します、リョウタさんがドアを開けた中には、ふたつの影があった。
「キバナさん、と……」
「ダンデだ。よろしく」
劇場の緞帳のような赤いマントをなびかせて、ひとりの男性が仁王立ちをしている。
「……チャンピオン?」
そう、ガラルリーグ最強と謳われるチャンピオン、ダンデの姿がそこにあった。
では、自分はこれで、とリョウタさんがドアを閉めて、トップジムリーダーと無敗のチャンピオンの前に取り残される。ぱちりぱちりと瞠目を繰り返し、開いた口が全く塞がらない様子はさぞ滑稽だっただろう。
「キバナから話は聞いてるぜ。ケーキづくりがうまいんだってな」
チャンピオンは言う。
「聞いたっていうより、オレさまがフライゴンにやってるのを見て無理やり話させたんだろうが」
「ああ、リザードンもとても気に入っていたぞ」
なにから話せばいいのかわからず。ただふたりのやりとりを眺めるばかり。このときすでに、それまでどんよりと憑いていたゴーストは、突如訪れた展開にどこかへ押しやられていた。
「って、大丈夫か?」
キバナさんが気遣って、おーい、と目の前で手を振ってくる。ハッと我にかえってこくこくうなずくと、彼はじいと私を見つめてきた。気まずくて、チャンピオンに視線を逃す。とにもかくにも、この状況、エキシビションマッチでモニターに映っていた人物が目の前にいるのである。
「あの、チャンピオン」
ごくり、固唾をのんで話しかける。「なんだ?」と豪快に唇を頬へ食い込ませる彼に私は続けた。
「その、厚かましいとは存じますが、サインをいただくことって、できますか。じつは、知り合いが熱烈なファンでして」
言わずもがな、我がブラッスリーの店長だ。こんなガラル随一の有名人、きっと二度と会う機会はないだろうと決死のお願いであった。
「しかたねぇな、オレさまもしてやろう」
キバナさんが隣でやれやれと油性ペンを取り出す。
「あ、キバナさんのはべつに……」
さりげなく断る私に、「なんでだよ!」とペンを投げ捨てるキバナさんであった。
結局、ふたりのサインをもらえることになり、チャンピオン過激派の店長にとびきりのお土産を用意できた私は、「ダンデ」と書かれたレアリーグカードを眺めていた。
力強いその字面は、キバナさんのものとは両極端だ。キバナさんのサインはドラゴンの顔と翼が描かれ、精密に考え込まれ整然としたイメージがある。反対に、ダンデさんはそのあふれでる勇ましさと勢いを、そのままペンに託した豪快さがあった。
もちろん、リーグカードのデザインもそうだと言える。でもどちらもきらきらとホログラムがかかっていて、つい照明にかざしてみたくなった。
「いいだろ」
あまりに真剣に眺めていたのかもしれない。キバナさんがすぐそばへ来ていることに気がつかなかった。
「あ、と、はい、リーグカードって、持っていないので」
突如耳もとに落ちてきた声に思わずたどたどしく答える。もはや私がリーグ関連に疎いことには慣れたのか、キバナさんは驚かない。それどころか器用に唇を片頬へ食い込ませると、パーカーのポケットへ手を突っ込んだ。
「んじゃ、これはおまえのな」
大きな手が、さらに一枚のカードを差し出してくる。
「い、いただけません!」
見るからに高そうなホログラムラメがかかったそれは、店長用にもらったものとデザインが異なっていた。どうやら新しく撮った未発表カードらしく、慌ててかぶりを振るも、キバナさんは、「遠慮すんなよ」とペンの蓋を口に咥えてサインを書き込んだ。
「もらっておくといいぜ。トップジムリーダーのカードは、なにかあったときに小遣い稼ぎになると聞いたことがある」
チャンピオンが腕組みをして無垢な顔で言う。
「おい、ダンデ。オレさまのカードを転売させようとすんなよ」
頑なに受け取らない姿勢を示していた私だったが、ほら、と再度差し出され、おずおずとそれを受け取った。
「トクベツ、な」
吸い込まれるような目の色だった。こんなに深い色合いだったっけ、そう思うほど。まるで崖の上から海を見下ろすように、どこまでも飲み込まれてしまいそうな色だった。歯がカチリと鳴って、目の奥が熱くなる。ふっと唇を歪めるような不敵な笑い方が、さらにちくりと胸を刺す。だが、きっと彼は知らない。
そんなふうに他愛もない話が繰り広げられたあと、やっとのこと本題に入った。
「それで、キバナさん、ご用事って」
もぐもぐ、黄色いケーキを頬張るキバナさんに切り出すと、彼は、ああ、と残りのそれを大きな口に放り込んだ。カードのお礼と言ってはなんだが、ポケモン用に作ってきたカシブクッキーと一緒に、ホウエン地方のカステラを模したケーキをお茶請けがわりに渡したのだ。ちなみに先日、ソニアに頼まれて作ったおばあさまの思い出のケーキでもある。
身構える私とはうらはらに、キバナさんはごくんとケーキを飲み下してから言った。
「ダンデがお礼を言いたいっていうからな」
「……それだけ?」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
「そうだよな」キバナさんはダンデさんに投げかける。
リザードンにクッキーをあげていたダンデさんは、きょとんと目を丸くしたようだったが、すぐに、ああ、とうなずいた。
「さっきも言ったが、先日、キバナが食べさせていたブリオッシュをリザードンがえらく気に入ってな。バトルのあとに食べさせると疲労にとてもいいようなんだ」
なぁ、と豪快に笑ってリザードンの首すじを撫でるダンデさんに、はあ、とうつけた相づちを返す。
「オレもできれば君のお菓子を買わせてもらいたいと思ったんだが、キバナが売り物じゃないと怒るんで、せめてお礼だけでもしたいと話していたんだ」
「まあ、そういうことだ」
キバナさんはあっけらかんと言った。
「急に呼び出して悪かったな」
パーカーのポケットに手を突っ込んで、もう片方の手で首すじを掻いている。ダンデさんまでもがああ言っているのだ。本当に、それだけだったのか。急に気持ちが窄んで、隠れていたゴーストが戻ってきたようだった。
「こちらこそ、お忙しいのにわざわざすみません」
曖昧に笑みを浮かべて、その場にしゃがみ込む。キバナさんのまわりをぬめぬめと這っていたヌメイルにむけて手を差し出した。
「このカステラもそうだが、本当によくできている。キバナだけが食べるなんてもったいないくらいだ」
「どういうことだよ。でも、まあそうだな。ポケモンの好みに合わせてきのみを掛け合わせたり、材料を変えてみたり、いろいろ工夫してくれるんだぜ」
「それはすばらしいな」
甘い香りにつられて、メラメラァとヌメイルが寄ってくる。しかし、手のひらのクッキーをさらうと、そそくさと離れていってしまった。
ヌメイルが這ったあとには、彼女の粘液が残っている。先日、訪れた宝物庫の貴賓室のように、ふかふかな絨毯だったならば掃除が大変だったことだろう。今日案内された部屋は会議室のひとつなのか、やけに無機質な印象だ。窓もなく、あるのは折りたたみ式の長テーブルやデスクチェア。初めて来たときと似ているが、少しちがう。
「本当に、店で出してもおかしくないレベルだ」
ダンデさんの声が響いている。冷たい床を眺めていると、くうん、と小さく喉を鳴らしてフライゴンが寄ってきてくれた。大丈夫だよ、その喉を撫で、丸く型抜きをしたクッキーをあげる。手のひらに触れた口はなんともやさしい。
「そういや、その道に入るって気はなかったのか」
キバナさんの声が方向を変えて落ちてきた。どくん、と心臓がうねりを上げたのを皮切りに、勢いよく全身を血潮が駆け巡る。
「なくは、なかったですけど……」
喉が苦しい。腹から胃液が迫り上げてくる。ぐっと親指を握ってそれらをこらえるが、少しでも触れたら激しく噴き出してしまいそうだった。
「諦めちまったのか、なんだかそれももったいないな」
キバナさんは言う。
「そうだな。実にすばらしい才能だからな」
「ああ。ダンデもそう思うだろ? ただうまいものを作るのは、ほかの人間でもできることだが、その域を越してる」
「キミが他人をそこまで評価するのもめずらしいな」
「本当のことだろ。今からでも遅くないとオレさまは思うんだけどなあ」
ふたりはなにを話しているの? どうして、そんな話をしているの? ぐるぐる、渦を巻いた彼らの声がスナヘビの尾のように私の首を絞めつける。
苦しい。たすけて。うまく息ができない。――なのに、声は止まない。
心配そうに見上げてくるフライゴンの顔も、もはや気になどしていられなかった。目の奥が、喉が、胸が、ジンと灼けつくように熱くなっていく。
「関係、ないですよね」
気がつけば、私はそんなことを口にしていた。
水を打ったように、しん、と静まりかえる。静寂に取り残されたのは、ひゅう、と空気のもれる情けない音だった。無機質な床にうずくまり俯いた私に、いくつもの視線が降りそそいでいる。冷ややかな空気が、凍てつく刃となって喉に痞えた。
「すみません、用事を思い出したので、帰ります」
フライゴンの首をひと撫でし、テーブルに置いていた荷物を掴んで駆け出す。
「おい!」声が聞こえたが、無視をしてひたすら走った。自分が城のどのあたりにいるかもわからず、どこに行けばいいのか、どうすればいいのかも、なにひとつわからずに。それでも、ただがむしゃらに迷路の出口を探し求めた。
ふたりがどんな顔をしていたのかも、知らずに。
「待て」
気がつけば、野ざらしとなった石の階段を駆け下りていた。飛んできた怒声すらいとわず、すべての階段を下りきる。そして、広大な大地に飛び出そうとした私の手をだれかが掴んだ。
「また、勝手に出ようとしたな」
雨が降りだしていた。ぽつり、ぽつり、小さな雨粒が頬を打ちつける。
「すみません。ワイルドエリアには行かないので離していただけませんか」
ふり返らずに、私は言った。「いやだ」厳しい声がする。乾いた地面にできたシミは、一向にとどまることを知らない。
「チャンピオンがお待ちですよね。戻ってください」
「いやだって言ってんだろ」
どんどん地面が色濃く染まっていく。いつしか、もう逃げ場などなくなってしまうように。どうにか逃れようと腕を引いた私を大きな手が強く掴んで離さない。
「なにか、気に障ることを言ったのなら謝る。オレさまも、ダンデも、悪気があったわけじゃないんだ」
打ちつける雨粒が冷たく頬を濡らしていく。まばたきのたび、雫が目に入って痛い。広大なワイルドエリアは雨にかすみ、地面には小さく水たまりができはじめていた。
「なんでも、ないんです」
声を絞り出す。
「うそだ」
「うそじゃありません。すみませんでした、声を荒らげたりして」
「ならどうして……。お願いだ。なにがいやだったか、ちゃんと教えてくれ」
なあ、と引っ張られた腕を、私は反射的に振り払っていた。
「――だから、あなたに関係ないって言ってるじゃないですか!」
自分にそんな力があるとは、思いもよらなかった。大きな手が宙をさまよい、私は震える腕を抱き込む。心臓が勢いよく動きすぎて痛かった。目も鼻も、耳も、頭も、すべて鋭いフォークでぐちゃぐちゃに引っ掻き回されたようだった。
「そうかよ」
噛み締めすぎた唇は血の味がする。そこへ容赦なく雨粒が吹きつけ、あごを滴り落ちていく。
「オレには、関係ないのかよ」
雨足は次第に強くなっていた。
「ごめんなさい」
そのひと言だけ告げて、私は彼の横をすり抜けていった。
お菓子を作ることが好きだった。私にとってお菓子づくりは世界そのものだった。
銀色に輝くボウルや泡立て器、なにもかもを包み込んでくれるような白いクレーム・シャンティに、やさしい小麦粉たち。ほかの子がモンスターボールを手にし、いつしかシュートシティの大きなスタジアムを夢見るのと同じで、私は母から受け継いだ製菓道具を片手に、淡い金色の光を灯すオーブンにたくさんの夢を見た。それが、私の世界だった。
いつも、いつも、お菓子に対する情熱を大事に宝箱へしまおうとするのに、結局は知らぬうちにあふれてしまう。しあわせな、世界だった。だが、それが崩れ去るのは、ずいぶん呆気なかったように思う。
物心がついたころから母とともにオーブンにへばりついて育った私が、自分の店を持つという夢を抱いたのはさも自然なことだった。スクールに上がるまえ、自分の欲望や願望をきちんと言葉にできるようになったときにはすでに漠然と将来を思い描いていて、パティスリーに行くたび、自分のガラスケースにはなにを並べるかをよく夢みたものだ。
初めてその想いをきちんと口にしたのは、確かスクールの低学年のとき。ぐっと目の前のスポンジにバラの花を描くような顔で打ち明けた私に、両親は喜び、堂々と小さな背中を押してくれたのを覚えている。たっぷりと目尻にしわを刻んで、ゆらゆら瞳を揺らしながら、「がんばりなさい」と彼らは微笑んでいた。ただ、幼いながらに夢を抱くだけではいけないと理解していた私は、その夢を目標へと変えた。スクールを卒業したら、シュートシティの製菓学校に通う。そうして技術や知識を身につけ、やがては製菓の本場であるカロスで経験を積み、ガラルへ戻ってくる。完璧な計画にも思えた。
だが、神さまは残酷だった。ポケモン研究員であった父が、赴任先の研究所で不慮の爆発事故に巻き込まれたのだ。原因は制御装置の誤作動。その機械の操作を担当していた父は、爆発のあと丸焦げになり床に倒れているのを発見された。父のデスクには、私の作ったケーキを囲む家族の写真が飾られていた。
そうして女手ひとつで私を育てることとなった母だったが、父の死が遺した傷は当然ながら大きく、仕事と家庭とを両立するうちに体を壊してしまった。そんな母に無理をさせるわけにもいかず、スクールを卒業する年、私は進学せずに働くことにした。
ただ、それでも、夢を諦めたわけではなかった。母の医療費と自分の生活費を賄うことは決して簡単なことではなかったが、いつかはお金を貯めて、自分で製菓学校へ通おうと考えていた。
そして、あるとき、ひとりの男と出会った。運命みたいな出会いだった。目と目が合い、互いの持っているモモンの実がぶつかって弾けたような、淡くも強い衝動。ひと目でピンときた。この人とはなにかある、と。その感覚どおり、一緒に食事をして何回かデートを重ねて、料理を作って、食べてもらって。くだらないことで笑い合う、そんな関係になるのに時間はかからなかった。
彼との日々は、暗澹と闇にのまれつつある世界に淡いひとすじの光が射したような、幸福な日々だった。間もなく、闘病の末に母が亡くなり、色の欠如した世界へと再び埋もれていく私を救い出してくれたのも、彼だった。涙に暮れる私の背を撫で、ただそばにいてくれた。やがて私たちは寝食をともにするようになり、私は毎日、彼に料理やお菓子をふるまった。そして、あるとき彼が言ったのだ。
そうだ、きみの店をだそう――と。
彼は知っていた。父や母からの遺産が私に下りたことを。そして、私が店を持ちたがっていたことを。きみならできるから。きみのお菓子は、世界で一番おいしいんだから。そう強く説得してくる彼に、私は一切の猜疑心を抱くことなく、胸を膨らませてうなずいた。だが、気がつけば彼も居なくなっていた。
彼の面影を残したまま、用意していたはずの開業資金がふたりで暮らしていたフラットから消え、店が入るはずのテナントもいつのまにかブティックへと姿を変えていた。
ああ、私はだまされたんだ。そう思った。父と母が遺してくれた大切なお金で、自分の欲を満たそうとしたから、バチが当たったんだ、と。
鮮やかな風景に、黒い絵の具が撒き散らされた。
その日以来、私は大好きだった世界で生きる道を絶った。
「あの」
ルートナイントンネルへと駆け抜けていた私は、途中で女の子ふたり組に捕まった。可愛らしい洋服を着て、巻いた髪を濡らさぬように小花柄の傘を差した、いかにも今風の子たちだった。
「キバナさまと、以前、お話しされていた方ですよね」
一方で、雨の中を走ってきた私は当然びしょ濡れだ。はたから見れば、さぞおかしな光景だったことだろう。最悪なタイミングだった。
はいともいいえとも言わずふたりを茫然と眺める私に、彼女たちはどこか虚ろで、熱っぽい表情を抱いている。それを私はよく知っているような気がした。
「おふたりは、どういうご関係なんですか」
花がほころぶような声が、鋭利な刃となって私の胸を貫く。
「どういう、関係?」
「仲良く、ワイルドエリアに入られるのを見たことがあるんです。だから、もしかして付き合ってるのかな、って思って……」
胃が押し潰され、なにかが喉もとに迫り上げては、とてつもない勢いで喉を灼く。気持ちが悪い。苦しい。いまにも、吐いてしまいそうだ。
「まさか」降りしきる雨は、あいかわらず頰を殴りつけている。
「ただ、親切にしてくださっただけです」
それ以上でも、以下でもない。キバナさんにとって、私なんて。
「やっぱり、よかったあ」
「だから言ったじゃん」
安堵したように胸を押さえる少女たちを置いて、雨にくゆる城下町へ背を向ける。
スパイクタウンに向かう景色はもはやその輪郭を失っていた。いくつもの亡霊が浮かび上がり私を喚び込む。喉が引き裂かれ、頭はかあっと熱く、それだのに体は冷たい。心臓はまるでギュッと握り潰されたように、いつまでも、いつまでも、はげしい痛みを体に刻み込む……。
しばらく雨は降り続いた。空が気まぐれなガラル地方にとって、長くひとつの天気が続くのは稀なことである。窓に打ちつける滴がやがて飛沫となり、地面へ何度もすべり落ちていく。白く煙った外の景色は、まるで幾重にも広がるカーテンのようだった。
人々が長らく下りたままのカーテンに肩を落とす一方で、連日の慈雨にポケモンたちは喜び、はたまた、ブラッスリーのかばかりの庇の下には雨宿りをしにくるモルペコたちの姿が見られた。
しとしとと雨音の響く世界は、静かに、そして、無情にも穏やかに廻り続けていた。
それからしばらく、どんよりとした雲の合間に幽かな太陽が射しはじめたころ、私はソニアとバウタウンのシーフードレストランに訪れた。
「あのさ、ちょっと言いにくいんだけど」
その声にハッと我にかえる。目の前には、愛らしいハートがいくつもあしらわれた目映いオレンジ。ころころと表情を変える瞳が、怪訝そうに私の手もとを見つめていた。
「それ、かけすぎじゃない?」
視線に倣って私も自分の手を確認する。白磁の皿によそられたヘイガニのクリームパスタは、見るも無惨な姿になっていた。
「あ……」
「そのデスソース、かなり辛いやつだよ」
手に握っていたのは、赤と黄色のいかにも危険さを具現化したようなデザインの調味料ボトルだ。やってしまった、と思うも、こぼしたミルクはもとには戻らないとはよく言ったものだ。
真っ赤に染まったパスタは見るからに辛そうだ。さきほどまで、顔をほころばせながらシーフードパスタを器用にフォークへ巻きつけていたソニアも、うげ、とあからさまに顔をしかめている。なにをしてるんだか。小瓶を置いて、ため息をつく。
「パスタソースの追加でも頼んでみる?」
すかさずソニアが訊ねてきた。
「ううん、大丈夫。まあ、たまにはこういうのもいいよね」
「いや、そういうレベルじゃないけどね」
ソニアが心配しているのは、きっとパスタだけではない。スペシャルトッピングのデスソースを一瞥したあと、彼女は眉根を寄せて私の顔をそっとのぞき込む。それに曖昧に笑みを返して、私は真っ赤な山へフォークを刺した。
くるくる、渦を巻くように絡め取って、どんな味かなぁ、と戯けながら、ひと口。
「……大丈夫?」
パスタを詰め込んだまま反応を示さない私に、ソニアはおそるおそる訊ねてくる。口の中に広がるのは、突き抜けるような辛味でも、ヘイガニの濃厚な香りでもない。
「案外いけるとか言わないでよ」
顔をひきつらせるソニアの前で、もぐもぐとそれを咀しゃくする。
「いけなくも、ないかも。ソニアも食べてみる?」
「いや、わたしは遠慮しとく……」
まるで、ゴムを詰め込んだみたいだった。ぐにゃぐにゃとした歯触り、舌に残る妙なざらつき。ごくり、口内をのさばるパスタをなんとか飲み込むと、陽光を浴びて細かな傷が浮かんだグラスにそっと口をつけた。
思っているよりも、自分が酷い状態だということには、気がついていた。平然と廻りゆく日常に心と体がついていけていないことも、そして、それを受け容れている自分がいることにも。
あの日以来、キバナさんから届くメールに、私は返事を返せていない。会いたい、ちゃんと話がしたい、顔が見たい。本当だったら、胸が弾んでしかたがないはずなのに、それらはもはや呪いのようにそこを締めつけるだけで、指先が震えてまともに文字も打てなかった。何回か着信もあったが、すべて、気づかぬふりをした。
降り続いた雨は、とっくに上がっている。だというのに、まるで、私は雨上がりのぬかるみに足を取られてしまったクスネだ。
どろどろに汚れ、うずくまり、そこから這い出ることを諦めている。そして、いつかそのまま朽ちるのだろう。
カランカラン、と来客を告げる呼び鈴が鳴り、私はグラスに落としていた顔を上げた。
「ネズさん。こんにちは」
白と黒のタチフサグマのような髪に、眠たげにも気だるげにも見える陰影の濃い顔。首のアクセサリーをいじる指先までもが青白く、かえって神秘的なほどだった。
「ひとりですか」
ゆらり、猫背を揺らしながらネズさんは店の中へ踏み込んでくる。はい、と私はうなずいた。
「店長はちょうど休憩に入られたところで」
「都合が悪ければ、出直しますが」
ネズさんはかすかに首をひねる。
「いえ、大丈夫です。ただ、簡単なものしかお出しできませんけど、それでもいいですか?」
クロスとグラスを置きながら言うと、ネズさんは、「お願いします」と髪を揺らしていつもの席に着いた。
グラタン皿に白米をよそい、昨晩から仕込んであった店長特製のカレーをかける。そこへチーズと生卵を載せてオーブンへ。普段、客からのオーダーを私が用意することはないが、長く働いていると、自然と体が手順を覚えているものだ。
「飲みものは、いつもので?」
店長の代わりにまかないを用意するときのようにカウンターの中でくるくると動き回りながら訊ねると、こっくりうなずきが返ってくる。レモンのほかにラムの絞り汁も使用したレモンスカッシュが、ネズさんのお気に入りだった。
ドリンクグラスに氷を落とし、クーラーからシロップを取り出す。大きな瓶の中で揺れる琥珀色のそれを専用のレードルですくうと、あふれたシロップがとろりと滴った。はちみつよりも淡く、まるでシトリンのような透明感。何日もかけて生み出した特製シロップだ。
それをグラスへ垂らし冷えた炭酸水をゆっくりとそそげば、美しいグラデーションができあがる。ネズさんには、おまけにはちみつをひと垂らし。ここに、店長がはるばるホウエンで手に入れたガラス細工のマドラーをさせば――。頭の中で思い描きながらレードル片手に、さらに自分用のグラスを用意する。
手を動かしていれば、気が楽だった。こうして、キッチンに立って、調理器具に触っていれば……。
――だれも、お前の作ったものなんて、食べたいと思わねぇよ
どうして。ふと脳裡をよぎった声に体が硬直する。
どうして、私はこんなところに立っているのだろう。なにもかも、あの日に捨てるって決めたのに。どうして、なにもかもが揃ったこんな場所にまだいるのだろう。
結局、なにひとつ、捨てられていないじゃないか。お菓子をつくることも、キッチンに立つことも、だれかに自分が手をかけたものを差し出すことも、なにひとつ。私はまだ、必死で縋りついているじゃないか。
「どうやら、寝られてないようで」
しっとりと陽気な空気の上を、低い声がたゆたい我にかえる。顔を上げると、ネズさんがじいっと私を見つめていた。
「え?」
「ひどい顔色ですよ」
それはこっちのセリフです、そんな言葉が口から飛び出すことはなく、代わりに、背中をゆっくりと撫でるような翡翠のまなざしとテノールの声に、ふっと糸が途切れてしまった。
手のひらから、なにもかもがすり抜ける。重力に逆らうグラス、とっぷりとシロップの海に舞い戻るレードル。すべてがスローモーションのように、はっきりと目に灼きつく。グラスの泡が天にのぼるのも、ふちからレモンスカッシュがこぼれるのも、そして、ネズさんの長いまつ毛がひとつ揺らぐのも。陽気なブラッスリーの音楽が遠くに聞こえる。ただ、つ、と頬を伝った涙の感触だけは、ひどく生々しかった。
――パリン、すべり落ちたグラスが床にぶつかって弾けた。
「っ、すみません!」
慌ててしゃがみ込み、割れたグラスをかき集める。だが、突如指先に走ったのは、鋭い痛みだった。
「いっ……」
裂けた肉のあいだから、じわじわとあふれる生の証に、出かかった悲鳴をのみこむ。どうやら深く切ってしまったようだった。
「怪我はねえですか」
カタン、物音がして、すぐに白い指先が視界に映り込む。
「だいじょうぶです」とっさに涙を拭い、私は指先を隠した。
「隠すんじゃありません」
しかし、腕をやわく掴まれ、それはかなわなかった。ネズさんの前に差し出させられた指先には、ぷっくりとした赤い珠が浮き上がっている。
ブラッスリーの照明に照らされたそれは宝石のようにつやめき、不意に喉の奥をくすぐった。どこかで、見たことがある。丸く、つやつやした、背徳的な赤――。
そうだ――グロゼイユだ。
純白のクリームを彩る、真珠のような小さな小さな深紅の果実。
「血が出ていますね」
ネズさんはうろたえるそぶりも見せず淡々と告げる。優美なグローブの手が、ぷくりと指先に実る背徳の果実を落とさぬように、そっと私の手を包んでいた。
「こんな傷、舐めておけば治りますから」
じん、じん、と裂けた肉が悲鳴を上げる。だが、ただの切り傷だ。へらりと笑って見せると、ネズさんはうわ言のように私の言葉を繰り返した。
「そうですね、舐めておけば」
あいかわらず、視線はそこに注がれている。やけに含みのある物言いだった。だが、そう思った瞬間、あろうことに彼はぷっくりと真っ赤な真珠が浮かび上がる指先を口へと含んだ。ぬるりとした舌が爪をなぞり、裂けた部分を包んで、ちぅ、と吸血をする。
なにが起きているのか、正直、よくわからなかった。ズキン、と駆け抜けた痛みに、ン、と声が洩れる。甘い吐息に似たそれは、まるで自分の声でないみたいだった。
ネズさんの長いまつ毛がおもむろに揺れ、美しく儚い虹彩が私の瞳を貫く。いつもは憂いをにじませた瞳も、今だけはじっとりとマシュマロを炙るように、重なった視線に熱をもたらしていた。あえかな光が、隙あらば私を溶かそうとゆらめいている。そのエメラルドの芯がじんわりと赤く染まっているように見えるのは、ブラッスリーの照明のせいか、それとも――。
私の指を咥えたまま、ネズさんは悠揚にまばたきを繰り返した。一回、二回、バタフリーの羽ばたきほどに婀娜っぽく、ぬるり、指先をなぞる淫靡な感覚を色濃く刻み込む。喉の奥がきゅうと狭まる。
「ネズさ――」
赦しを求めて喘ごうとしたところで、濃密な静寂が破られた。
「すごい音したけど、大丈夫?」
裏から、店長が顔を出したのだ。刹那、ネズさんは私の指を離し、銀糸が私たちのあいだをつなぐ。なまめかしい行為を象徴するかのようなそれを、薄く形の整った唇の合間から赤い舌が絡めとる。
「マスター。すみませんが、救急箱とかありますかね」
いったいなにが起きていたのだろう。バタフリーのしびれごなのせいか陶然と彼を見つめる私をよそに、ネズさんは色っぽく唇を舐めて立ち上がる。
「あるよ。ちょっと待ってて」
「ありがとうございます」
そう口にするネズさんの背は、すでに柔い弧を描いていた。
その日は夜の部を待たずにブラッスリーをあとにした。よれたシャツに黒いスキニーパンツ姿の女の隣を歩くのはネズさんで。様子のおかしい私を、どうせ常連ばかりだから、と屈託なく笑い、彼に託して店長は送り出してくれた。
そんな店長と、こうしてなにも訊かずに家までついてきてくれるネズさんのやさしさに、指先の傷がどこまでも痛む。
「マリィが、会いたがっていました」
黙り込んだまま、ぎゅ、と指先を握りしめる私に、ネズさんは言った。
「マリィちゃんが」
「はい。今度はマリィがカレーをふるまうんだと、はりきっていやがりましたよ」
「カレー……」
余った袖をぎゅっと掴み、はにかむ姿が脳裡に浮かぶ。どこまでも愛らしく、ひたむきで、やわらかい。そのあどけなさと甘さに少しだけ泣きたくなる。
思わず声を潤ませると、ネズさんは気づいているのかいないのか、ええ、と落ち着いた声で返した。
「うちはあまり広くはねぇですが」
「ネズさんのおうちで、ですか」
「マリィはそのつもりのようですよ。まあ、おれも、とくに異論はありませんがね」
淡々としているようで、なめらかに歌うような言葉だった。
「でも、いいんでしょうか」
そのハーモニーに不協和音を散らす私を、ネズさんが一瞥する。そうして、ふ、と唇を歪めた。
「ひとりよりふたり、ふたりより三人。そのほうが、ノイジーでいいでしょう」
婀娜っぽさを幽かに残した、包み込むような微笑み。独り、ぬかるみに足をとられたまま動けないでいる私には、あまりにもやさしすぎる。
すんと鼻をすすった私に、ネズさんはやはり気づかないふりをして、フラットへと歩みを進めた。
ゆっくり、半歩前を。私を置いていかないような、おだやかな速さで。
わかっていた。私が逃げているだけだということも、キバナさんに対して、どうしようもない八つ当たりをしたことも。キバナさんは悪くない。ただ、悪いのは、ぬかるみでうずくまったままの私なのだ。しかし、私にはそれしかなかった。
フラットへ着くと、私は食事もとらずにベッドへ入った。とにかく体がだるくて、なにもやる気になれず、横になっているのが精一杯だった。それでも、目の奥がしびれ、気を抜けばいつでも涙があふれてしまいそうになる。シーツの中で膝を抱き寄せて、小さくうずくまる。泣かなくても済むように、もうなにも見なくても考えなくても済むように、固く目を閉ざす。
まだ真夜中でもないのに、あらゆるシャッターが下りたように静かだった。どくりどくりとうねりを上げる心臓の音が、やけにうるさく響いていた。
襲いかかる孤独に身を落としていると、インターホンが鳴った。
「こんなときに……」
居留守を使うつもりで、いっそう膝を抱え込む。だが、私の名を呼ぶ声に、思考は無理やりシーツの海から引きずり出された。
「いるんだったら、返事だけでもしてくれ」
低く、耳の奥をなぞるような声がする。忘れもしない、あの人だ。
唇が震え出す。目の奥がじんわりと熱を取り戻して、耳鳴りがした。私は嗚咽をこらえるので必死になった。
「なあ、お願いだ」
懇願する声が胸を突く。涙でぐしゃぐしゃになった顔をどうにか手で拭って、私はベッドを抜け出した。
「かえってください」
ドアの前で、キバナさんに言う。すぐに、声が返ってきた。
「……連絡、ないから心配した」
「すみませんでした。でも、大丈夫ですから」
なにに対する大丈夫だったか、自分でもよくわからない。しかし、そうでも言わないと、築いた要塞がすべて崩れてしまう気がしたのだ。一枚隔てた壁の向こうで、彼はどんな顔をしているのだろう。私には、それを確かめる勇気も、資格もない。
「大丈夫なわけ、ないだろ」
ドア越しに届く声は震えていた。それが怒っているのか悲しんでいるのか、それとも呆れているのか、私にはなにひとつ判断できず、ただ、ひび割れた唇を噛み締める。
「話がしたい」キバナさんは言う。
「ごめんなさい。話すことはありません」
「そんなことない」
不意に、ガチャ、とノブが回った。わずかに開いたドアからあの特徴的なパーカーの袖が見えて、私は慌ててドアを閉めようとする。だが、男の人を前に力で敵うはずもなく、彼のスニーカーが勢いよく隙間へと捻じ込まれた。
「私に、もう、関わらないでください」
強くノブを引きながら、半ば私は叫んでいた。
「いやだ」
目の奥が痛い。じくじくとただれ、なにもかもをだめにしていく。
どうして、そっとしておいてくれないのだろう。どうして、この人は出会ったときから、私の中に入り込んで離れてくれないのだろう。
こらえきれずに唇から嗚咽がもれた。その瞬間、力強くドアが引かれ、気がつけば私はキバナさんの胸の中にいた。
「少しまえに、あるSNSのアカウントを見つけたんだ」
どくり、心臓が弾ける。
「そいつは、オレさまのフォロワーの中にいて、フォロワーもフォローも全然いない、アカウント名ももとから変えていないような、よくわからないヤツだった。だけど、そこに載せられている写真で、そいつがどんなヤツかすぐにわかった」
彼がなにを話しているのか理解したくなくて、私は必死に逞しい胸を押し返す。想像よりもすぐに体は離れた。しかし、残ったぬくもりに、ひどく頭が痛んだ。
「それが、なんだっていうんですか」
キバナさんをにらみつける。
「おまえだろ」
キバナさんは、私から一瞬も目をそらさずに言った。
スコーンに、クッキーやチョコケーキ、ポルボロンやアマンディーヌ、それからサヴァラン。そこまで上げておいて、なぜ、私は彼が私のポケスタのアカウントを見つけると思わなかったのだろう。いや、本当ならば、見つけるはずなんてなかったのだ。
じっと私を射貫く碧い瞳は、なにもかもを見透かすような鋭い光を宿している。
「……だったら、なんなんですか」
唇が震える。指先がチリチリし、喉がカラカラする。
「やりたくてたまらないって顔しているくせに、どうしてあんなうそをつくんだよ」
すべてが走馬灯のように駆け抜けていく。
キッチンに立つ母の背中、カシャカシャと響く幸福の鈴、泡立て器を握る私の手を支える大きな手のぬくもり、幸せそうに微笑む声、誇らしげに私を抱きしめる父の匂い。
「うまい」と大胆に細められた碧い瞳。そして――。
――だれが、あんな女
――才能があるとでも思ってたのかよ
――お前の作ったものなんて
なにもかも、黒く塗り潰される。
「だから、あなたに関係ないですよね」
ぐっと涙が浮かぶのを必死でこらえ、キバナさんに冷ややかな言葉を浴びせる。ひどく、醜い顔をしていたことだろう。
「あるって言ったら?」
キバナさんはそれでも食らいついてくる。
「おまえに、心から笑ってほしいって言ったら?」
「……せに」
目の前がチカチカした。喉が灼けるように熱くて、じゅうぶんに呼吸を繰り返すことすらできない。
「なんだよ」
「――キスまで、したくせに!」
碧い光が大きく揺らいだ。
「それなのに、なんにも言わないで、いまさら、笑ってほしいなんて……っ」
自分でも、止めることができなかった。積もりに積もった感情が爆弾のように弾けていく。もはやここがフラットの玄関先で、すぐ隣には人が住んでいるということも忘れていた。目の前にいるのが焦がれてやまなかった人だということも、自分がなにを言うべきだったのかも、すべて、すべて。
――だが、荒らいだ私の声をキバナさんが奪う。
「んっ……」
まるで、ドラゴンのようだと思った。互いの呼吸を味わう間もなく、噛みつくように舌を絡め、口の中をはげしく蹂躙する。はじめて彼の唇を知ったときとは、全然ちがう。
なんでこうなったのだろう。どうして、また、キスなんてしているんだろう。わけがわからなかった。それなのに、私はこの瞬間、彼を受け容れていた。
ずっとずっと、欲しくてたまらなかった。
ずっと、こうしたいと思っていた。
与えられる熱に、奪われる呼吸に、繰り返される愛撫に、ただただ、意識が飛びそうになる。それでも私は、彼の胸を強く押し返した。
「かえってください」
世界は歪んでいた。橙と碧とが、ゆらり、ゆらり亡霊のように揺らいでいる。それが自分の涙のせいだと気がつくのは、少しあとのことだ。
「来月、ナックルシティでマクロコスモス主催のイベントがある。そこで、もう一度作ってくれないか」
はぁ、はぁ、と肩を激しく上下して嗚咽をこらえる私に、キバナさんは言った。
「……できません」
かぶりを振る。それでもキバナさんは諦めてくれなかった。
「いや、おまえならできる」
これほど、この人の瞳を恐ろしいと思ったことはない。碧く瞬く、深い、深い、海の色。もうこれ以上ここにいたら、息ができなくなってしまう。
「詳しくはまた話す」
しゃべり続けるキバナさんから逃れるように、私は無理やりドアを閉じた。
静寂が訪れる。
ぽたり、ぽたり、堰を切った涙が頬を伝って乾いたラグの上に落ちていく。背中に感じる扉がやけに冷たく、重く、心にのしかかる。足音が遠くなるまえに私はそこから離れた。
いまさら、ベッドに戻る気になれるはずもない。涙で頬を濡らしたまま私はキッチンに立った。体はだるく、頭もひどく重たい。静寂が心臓に刃を突き立てる。だが、そうでもしないと、もはや自分を保っていられる自信がなかった。
しかし、皮肉なことに冷蔵庫を開けても特別な材料があるわけではない。がらんと空いた空間に、唯一目に入ったのは牛乳と卵だ。だが、それだけあれば、お菓子は作れる。あの子と作った本格的なものではないが、お気に入りのマグカップで、ひとりぶん。
そう、プディング。プディングを作ろう。昔、母と一緒になって何度も何度もつくった、カラメル・プディング。頭で考えなくとも、体が覚えている。
しかし、世界は無情にも牙を剥く。
「……もう、やだ」
震える手のひらの先、白いミルクパンの底にこびりつくのはいっそう黒く染まったカラメル。その匂いすらもわからずに、私はただ、幸せだった日のことを思い返していた。
