きしかいせいのタルトレット

 夜明けまえの、しん、と濃密な空気が辺りを包んでいる。布団に潜らなければ、きっと凍えきってしまう。それなのに、ベッドの中にはあらゆるものが落ちていて、どこにも私の居場所はないようにも思えた。悲しみ、怒り、絶望、孤独、それから、彼のあのマシュマロを溶かしたようなあどけない笑み。
「むりだよ」
 本当は、私にそれを見る資格などない。なのに、どうして、そっとしておいてくれないのだろう。放っておいて、くれないのだろう。
 キバナさんは、私に来月のイベントでお菓子を作ってほしいと言った。
 マクロコスモスと共同で行うガラルを上げての大規模なイベントで、ナックルジム特設のブースに小さな休憩所を開くから、そこで私の作ったものを出さないか、と。
 ジムスタジアムを開放してエキシビジョンマッチを行い、未来のポケモントレーナーたちへの体験講座を開く、また、スタジアムだけでなく、駅から宝物庫方面まで出店も並び、街全体で次年度のガラルリーグを待ちわびる、そんな大事なイベントで。ましてや、ナックルシティの看板を背負うような重大な役目を担うなど、考えるだけで、震えが止まらない。だというのに、キバナさんは言うのだ。
 私のお菓子をたくさんの人に届けたい――と。
 体が氷のように冷たかった。指先も、足も、唇も、そして頭も。
 起きぬけの体を引きずって、どうにかベッドから抜け出す。亡霊のような足取りでキッチンに立ち、ヤカンに水をそそいでからコンロのツマミをひねる。チチッ、軽やかに爆ぜる音がして、ガスの噴き出し口にマッチを擦った。
 ジュッと音を立てて、真っ赤な火が灯る。月明かりも宿らぬ、ひどく暗い部屋にあえかな炎が揺らめく。
 ――おまえならできる
 ゆらりゆらり、音のない声がたゆたう。
「……できないよ」
 音を遮るように、ヤカンを火の上に置いた。それでも、彼の声が脳裏に反芻するのはどうしてか。
 ――うまい
 ――オレさまのは?
 ――ちなみにオレさまは苦手なものナシ
 ――うっま……一瞬で溶けてなくなった
 ――おまえは、どうしたい?
 ――なら、そうしろよ
 ――これが、おまえの好きなケーキ?
 ――うまそうだな
 ――続けて
 そして、おまえならできる――と。
 できるわけがない。逃げているだけなのはわかっている。しかし、これ以上きらびやかな思い出を、しあわせなあの日々を、黒く塗り潰したくないのだ。私はもう、なにも望まないから。
 ジジジ、ヤカンの底が爆ぜる。
 夜明けまえの世界は、ひときわ暗い。


 隠れ家と言う名のついたブラッスリーは、今日も陽気なシャンソンが流れていた。弾けるようなドラムスに、クイックステップでも踊りだしたくなるような楽しいリズム。ダンスなどという気分ではないが、湿っぽい曲を聴いているよりかはマジだろう。
「そろそろ、ネズくん、来るころかな」
 店長がそう朗らかにつぶやいて、休憩の合図を出してくれる。エプロンをとって、のろのろと客席まで降りると、ちょうどそこで来客を報せるベルが鳴った。
「おっ、うわさをすればなんとやら」
 銀ぶち眼鏡の奥でつぶらな瞳をきゅっと細め、いらっしゃい、と店長はドア口へ微笑む。白と黒のジグザグの髪を携え、ネズさんが首もとのアクセサリーに指を絡めて立っていた。
「どうも」慣れた足取りでネズさんはカウンターへ歩み寄る。
 曲がった背中に、宵を孕んだアンニュイな瞳。いつもどおりの姿だった。
「こんにちは」
 口もとを引き上げて、さっそくキッチンに戻り彼のドリンクを用意する。グラスに氷を数粒と、特製のレモンシロップ。それから、彼の瞳をもっと濃くしたような色の瓶入り炭酸水。はちみつを垂らして、そこへガラス製のマドラーをさしたらレモンスカッシュの完成だ。
「そういえば、ネズくんジンジャーエール苦手なの?」
 ブラッスリーの淡い光を集め、金色に輝くグラスを見て店長は言う。ネズさんはちらりと店長を一瞥した。
「どうしてです」
「いやあね、あまり飲んでるところ見ないからさ。一応あれ、ウチの人気メニューだし」
 それに、僕も頑張って開発したんだよ、と店長はちゃっかり宣伝をして、ね? と、私と目を見合わせる。
「店長、ネズさんに飲んでほしいんですね」
「そりゃあ、そうさ。僕の渾身のジンジャーシロップだもの」
「ですって、ネズさん」
 肩をすくめて、できあがったドリンクをネズさんの前に置く。ネズさんは目だけで私を見上げたあと、ありがとうございます、と律儀にも礼を述べて手を伸ばした。
「べつに、嫌いじゃねぇですよ」
「それなら、レモンスカッシュがお好きってことなんですね」
 ふ、と頬をほころばせて横からネズさんの顔をのぞき込む。長いまつ毛がアーマーガアの羽ばたきのようにゆうるりと揺れた。
「まあ、そうですね」とそのまま伏せた目もとが美しい。なんてたおやかな動作だろう。
 不覚にも見入っていると、そんな私の前で、「くやしいけど、すごくおいしいもんねえ」と店長がふむふむうなずいた。
「ラムの実の果汁が隠し味だっけ」
 まかないを作る手を止めずに、店長は訊ねてくる。私はまだ陶然とネズさんを見つめていたが、一瞬エメラルドの瞳と視線が絡んで、すぐにはっと我にかえった。
「ええと、そうです。なので、疲れた体にはぴったりなんですよ」
「体の異変にはラムの実って言うしね。僕も、もらっていいかい」
 ジュウ、ジュウ、豊かな音を奏でるフライパンを豪快に片手で揺する店長に、よろこんで、と私はキッチンへと舞い戻った。
「ネズくんは来月のナックルシティのイベント、顔を出すの?」
 エキシビションマッチとかやるんでしょ、と店長がネズさんに話しかけている。
 まさか、こんなところでその話を聞くことになるとは。彼らに背を向けながら、どきり、心臓が早鐘を打ち始める。
「いえ。とくにそのつもりはありませんね」
 ネズさんはキッパリと言う。ええ、と店長が声を上げた。
「ほかのジムリーダーも参加予定って書いてあったけど、いいの?」
「まあ、いいんじゃねぇですかね。おれがいなくとも、じゅうぶん盛り上がりますから」
 またまた、と苦笑いを浮かべて、店長はオーブンに掛けていたグリル皿を取り出す。それからフライパンで炒めていた麺と餡を器用によそい分けた。
「さ、できたよ。渾身の力作!」
 もくもく、じゅうじゅう、グリル皿から湯気が立つ。私は止めていた手を再び動かすと、重たい思考をなんとか押しやって、わあ、と顔をほころばせた。
 グリル皿の上でじゅわっと音を立てるたっぷり野菜あんかけと太めの麺。今日のまかないは、来月新メニューで提供予定の「ホウエン地方風チャンポン焼きそば」だった。
「どう?」店長は眼鏡を曇らせたまま訊ねる。
 パスタともラーメンともちがうが、その色合いとバランスはいかにもおいしそうだ。
「いいですね。どことなくエキゾチックなのに、ガラルっぽさもあって、なんだか興味をそそられます」
「でしょでしょ。これはかつてないほど自信作」
 スンと匂いを嗅ぐが、やってくるはずの魚介の濃厚な香りは訪れない。それでも破顔する店長を悲しませるわけにはいかないと、目を細めて、「いいにおい」とつぶやいた。
「あたたかいうちに、いただきましょうか」
 店長のレモンスカッシュを用意し、そそくさとカウンターテーブルへ戻ってネズさんへ箸を渡す。じいっとその動きを見られていたようだったが、「もしかして、フォークがよかったですか」と笑うと、彼はふっと瞳を伏せて、「いえ、それで」と箸を受け取った。
「あいかわらず、ひどい顔していやがりますね」
 夕暮れのスパイクタウン。夜の営業まであとわずかというところ、街はずれの空き地で木箱に座っていた私を見つけたのはネズさんだった。
「そう、ですかね」
 へらりと笑った私に、彼は表情をぴくりともさせず、すぐそばまでやってくる。
「ええ、相当ですよ。見ているだけで痛々しい」
「ちょっと、疲れちゃったんですかね。最近、忙しかったから」
 ネズさんは小さく、だがゆっくりと息を吐いたようだった。
「おれは、あなたの人生なら、どんなものでもエールを送れる自信がありましたが、今だけは、そうはいかないようです」
 なにをそんなこと、言おうとしてハッと口をつぐむ。じっと見下ろす瞳が、いつもの怜悧さの奥に静かな怒りを携えていた。妖艶なまつ毛さえ、今はかえって彼の気迫をただ強める。まっすぐに下りてくるまなざしが苦しい。心臓が迫り立てられ、胃の中ではなにかがぐるぐるとうごめくような変な感覚を覚える。
 どうにかそれを押しとどめるが、視線は自然と下へ落ちた。ぎゅ、と唇を結び、地面に降りかかる影を見つめる。影が動き、やがて、隣におさまった。
「いつからですか」
 私はおそるおそる顔を上げた。
「味、わからねぇんでしょう」
 その瞬間、ゆっくりと視線が絡み合い、不意に目の奥がツンと痛む。もはや逃げる余地もない。なんで、どうして、頭の中でそんな言葉が飛び交うが、なにひとつとして声にならなかった。
「指を切った日からですか。それとも、そのまえからですか」
 浅く呼吸を繰り返す私に、ネズさんはやさしく、だが確かな声色で捲し立てる。閉じかけた指先の傷が、ぴり、と疼いた。
 言うべきか、言わないべきか、その指先をこすり合わせ、じっと唇を噛む。どうしたらいいかわからなかった。もはや、なにかを自分で判断することすら、苦しくてつらくてままならない。
 なにも言わない私を、ただひたすらネズさんは待っているようだった。
「……まえから、です」
 絞り出した声はほぼ吐息に近かった。掠れ、ささやかな衣擦れにも消えてしまいそうなそれに、ネズさんは骨張った手を額に当てて目もとを覆い隠した。
「気づいてやれなくて、すみませんでした」
「そんなこと……」
 ネズさんが謝ることではない。だれにも言わないできたのは私であり、この先も言うつもりがなかったのだ。だが、ネズさんは、「いえ」とキッパリ言い切ると、珍しく、掻き乱すように荒々しい手で自らの額にかかる髪をよけた。
「ずっと、おまえは独りで抱え込んでいたんでしょう」
 ああ、だめだ。そう思ったときには、目の奥が熱く溶け出していた。
 つう、と頬を伝う涙を見て、ネズさんはかすかに目を丸くする。しかしすぐに、苦虫を噛みつぶしたようにきつく顔を歪めた。
「すみません、あの、すぐに止まりますから」
 この人の前で泣いてしまうのは、何度目だろう。ゴシゴシ、目もとを指で拭うが、あふれる涙は一向に止まる気配がない。「あれ、おかしいな」泣き笑いを浮かべると、ネズさんはその手をやわく掴んだ。
「こするもんじゃありません」
 ぽろぽろとドロップが落ちるみたいに頬を伝い、白いシャツに染みを作っていく。嵌めていたグローブを唇で挟み、手を抜き去ってその重く塩からいドロップをすくう。
「……わたし」
 ひゅう、と喉が鳴った。
「ずっと、自分の過去から逃げているんです。このままがいい、このままでいるべきだ、そう思う反面、今のままじゃどうにもならないことも、心のどこかでわかってる。でも、ずっと、ずうっと、逃げてきたから、もう、どうすればいいかもわからなくて……」
 こんなこと、ネズさんに言ったってしかたがないのに。涙と一緒になってこぼれた言葉が、しんとした空き地に消えていく。感情の結晶をすくう指先は冷たく、火照った頬にすっと溶けていく。
「わたしには……」
 目の奥が痛い。頭も、鼻も、耳も頬も、口も喉も、それから心も、すべてが痛い。
「わたしには、だれかをよろこばせる力なんて、ないんです」
 言い切った途端、なにかが弾けた。鮮やかに彩られた宝石箱の中身だったかもしれない。あるいは、大切に、大切に、とっておいた宝物の箱だろうか。あっけなくばらばらに飛び散り、ぶつかり、粉々に砕けていく。
 胃の中で渦を巻いていた黒いもやが込み上げる。喉をつき、目を刺し、私の体を瞬く間に支配していく。もはや、息を吸うのもままならない。
「わたしのつくるもので、幸せになってもらう資格なんて、ない」
 ずっと、目を背けていた。理解しているつもりで、ずっと、ずっと、理解するのを拒んでいた。生きていくために自分の中に築いてきた要塞があっけなく崩れていく。
 なんと情けなく、愚かで、救いのない人間なんだろう。いつまでもぬかるみに足をとられ、そこから動けないでいる。
「ないんです……」
 深閑としたスパイクタウンに、似つかわしくない悲惨な嗚咽が響く。
「おれは」
 静謐な声が落とされた。
「おれは、数年まえのよく晴れた日、ある一軒の店にふらりと立ち寄りました」
 この世のすべての不協和音をそっと包むような、低くふしぎとやわらかな音色だった。
「バトルやらライブやら、忙しい時期でした。それに加え、ジムの移転問題なんかが取り沙汰され、ひどくノイジーな日が続き、なにもかもがわずらわしく、見るもの聞くものすべてが呪いのように思えた。正直、あらゆるものに対して、くたばっちまえとさえ思っていました」
 冷えた指先が、頬骨をやさしくたどる。
「店に入ると、ひとりの店員がおれにレモンスカッシュを出してきました。頼んでもいねぇのに、ジムリーダーだからと余計なお節介を焼かれたのかと心底苛々しました」
 でも――ネズさんは続ける。
「口をつけたらさやかな甘みが広がって、いろいろなことがその瞬間、どうでもよくなりました。鼻へ抜けるレモンの酸味、痛んだ喉へまとわりつくとろりとした甘さ。淀んだ頭を弾けさせる爽快な泡。なにもかもがすっと体に染み込み、ひどく心地がよかった」
 そして、呆然とする彼を見て、その店員は能天気にへらりと笑った。
 今日は暑いですから、とびきりおいしいでしょう? と。
「今でも覚えています、おれの過剰な自意識を切り裂きながら、おまえが幸福の鐘を奏でたのを」
 涙は、いつのまにか止まっていた。
「おまえはどうしたいんです」
 光と闇とをかき混ぜた、思慮深いエメラルドがまっすぐにわたしを見据えている。
「わたしは……」
 喉が掠れて、うまく声が出せない。ひゅう、ひゅう、と懸命に呼吸を繰り返す私を、ネズさんはじっと待っていてくれている。
「わたしは、まだ、やりなおせますか」
 ネズさんの骨張った、繊細な手のひらが濡れた頬を包む。
「おまえの人生ですよ。好きにしたらいいんです」
 マリィちゃんにするようなやさしい仕草にも、今にも落ちてしまいそうな花びらをそっとすくうような、そんな仕草にも思えた。たおやかで、丁寧で、婀娜っぽくて、どこかやわらかい。
 やがて、親指が下まぶたをなぞると、こめかみに落ちた髪を耳にかけなおした。
「いくら傲慢に生きたって、だれにも文句を言う筋合いはありません。ノイジーなやつらは放っておけばいい。ですが、もし、怖いのなら……」
 ――むりせんで、いいと。
 丸みを帯びた語尾に、全身に滾っていた血潮がスッと引いていく。熱を帯びた指先が耳を掠め、肩に背中に下りては、とん、とん、と穏やかなリズムを刻む。
「ただ、おれは、おまえが笑っていれば――いえ」
 ネズさんは静かに言い直す。
「おまえは、独りじゃありません」
 スパイクタウンが好きだ。この街が、どうしようもなく好きだ。
 世間では廃れているだ寂れているだ、ジムバトルが地味だなんだと悪い評判がつきまとっていたとしても、ここは、決して私の腕を無理に引っ張ろうとしない。そして、背中を叩くことも、押すことも。
 なにもかもに嫌気がさした私を受け容れてくれたあの日のように、ただそっとそばに寄り添って、背中を撫でてくれる。

 抱えていた荷を下ろすには、きっと時間がかかる。小さなころから大切にしてきた宝の箱をもう一度取り出すのにも、ぐしゃぐしゃに散らかり、パンパンに膨れ上がったカバンの中身を片づけるのにも。一度に広げて、すべて振り落として軽くできたらいいのだが、それでは大事なものまで失くしてしまう。だからきっと、どんなに時間がかかっても、ひとつずつ丁寧に取りのぞいていかなければならないのだ。
 前に、前に、一歩ずつ、確実に進むためにも。
 ネズさんに話を聞いてもらった翌日、店長は私に休みをくれた。「息子が久々に帰ってくるから、臨時休業にしようと思って」と言っていたが、きっと私のことを案じてくれたのだろう。強面な見た目とはうらはらに、彼は繊細で思慮深い心の持ち主だ。深く詮索せずとも、そうしてずっと店長は私を見守っていてくれている。ブラッスリーで働き始めたころから、ずっと。
 なんだか独り立ちのできない子どもみたいで情けなくもなる。しかしそれ以上に、「娘みたいなものだから」と眼鏡の奥でまなじりにしわをたっぷりと刻んで笑う店長の姿が思い浮かび、胸が熱くなって仕方がなかった。
 同時に目の奥もじわっと溶け出しそうになったが、もう泣くもんか、とこらえて、私はキッチンに立つ。早くに目覚めてしまったからか、まだ辺りは薄暗い。ブラックコーヒーにほんのりとミルクを垂らしたような、そんな明るさだ。
 冷蔵庫を開けると、小麦粉とバター、それから牛乳を取り出す。あいかわらずがらんとした庫内だったが、これだけあれば立派に作れるものがある。寒さからか、それとも恐怖からか、手が震えそうになる。それでも必死に全身の神経を奮い立たせ、キッチン棚から銀のボウルを取り出す。母から受け継いだ、大切なボウルだった。
 日が昇り、焼き上がったスコーンを持って外に出た。朝の引き締まった空気に包まれたスパイクタウンは、とても静かだった。きっと、この時間に起きている人間のほうが少ないだろう。ネオンが消えて薄暗いアーケードを、唯一店開きをしているポケモンセンターを目指して歩いていく。しばらくして、空き地へと小道を曲がった。
 スパイクタウンのはずれの空き地には、思ったとおりだれもいなかった。ただ、地面に転がった木箱のすぐそばに並んだ靴底の跡が昨日のなごりを感じさせる。
 どうするのか、まだ決心がつきかねていた。心の重たさに従うように木箱へ座って、持ってきたスコーンにかぶりつく。クロデットクリームもジャムも塗っていない、ただのプレーンスコーン。何度も何度も練り加減や焼き加減を研究したからか、上に高くふくらみ、ぱっくりと割れたはらは我ながら美しいと思う。
 スコーンは、各家庭にそれぞれのレシピがあるというガラルの母の味のひとつだ。うちのは、卵を使わないシンプルな作り方だった。そのかわり、新鮮なバターやミルクをたっぷり使う。
 熱いうちはパンに似ているから、紅茶とともに食べるといい。冷めてビスケットみたいになったものには、クロデットクリームとジャムを。本当はカロリーを気にするべきなのだが、このときばかりはそんなものを忘れて、遠慮なくたっぷりと載せてしまうのがいい。そうすれば、シンプルな焼き菓子がこのうえなく特別なご馳走になる。
 いやなことがあっても、どんなに疲れていても、母の作るスコーンとともにアフタヌーンティーを楽しめば、「おいしい」と頬をとろとろに溶かして笑うことができた。
 お菓子にはそんな力がある。
 そう、たとえ一瞬だとしても、人々に最高の夢と幸せを贈ることができる――。
「ぼそぼそ……」
 バターと小麦粉の風味の消えたスコーンは、なんと言ったらいいのだろう、スポンジを小さくちぎって、口に詰めたのと似ているだろうか。それでも懲りずに咀しゃくを繰り返し、なんとか飲み込む。
 こんな状態で、だれかの口に入るものを作れるわけがなかった。塊となったスコーンが喉を押し広げていく感覚はひどく不愉快で苦しい。だが、私は穏やかに目を閉じる。
 やり直せるのなら、私は……。この街のやさしい空気で胸を満たす。そのとき、ブイッと甲高い声が聞こえてきた。
「え……。これは、イーブイ?」
 草むらから勢いよく足もとにじゃれついて来たのは、このあたりでは見かけないはずのポケモンだった。きゅるきゅるとつぶらな瞳に、ピンッと伸びた耳、それからもふもふ触りたくなるような飾り毛のなんと愛らしいこと。
「迷子になったの?」
 ブイブイッ、と鳴く姿は、まるで、「ちがう」と言っているようにも聞こえる。その怯えていない様子からすると、その感覚はあながち間違いでもないのかもしれない。ただ、野生にしてはやけに人馴れしている。
 答えを探しながら、前足でふくらはぎをチョンと掻かれ、くすりと笑う。
「くすぐったいよ」
 味をしめたのか、イーブイは何回も私の脚を攻撃してきた。ひっかくなんて強いものではない。まるでおもちゃのボールをえいっと転がすような甘さだ。
 ひとしきり掻き遊んだあとは、ピョン、ピョン、と私の脚を軸に左右に飛んではすり寄ってを繰り返す。なんだかダンスを踊っているみたいだった。かわいい、そんな言葉が自然とこぼれ、ふわふわとふくらはぎに触れる胸の飾り毛へ手を伸ばすと、イーブイはくんと匂いを嗅いできた。
「もしかして、スコーンがほしかったの?」
 ぴくん、と耳が立って、イーブイが大きくひと跳ねする。ポケモンとはやはり頭のいい生き物なのだろう。言葉を理解しているその姿に笑いが止まらなくなる。
「いいよ、あげる。あなたのトレーナーには内緒ね」
 紙袋の中から余りのスコーンを取り出して小さく割る。手のひらに載せてイーブイに差し出すと、あろうことに「とっしん」の勢いで食いついてきた。
「こら、まだあるからそんなに急がないの。喉につまっちゃうよ」
 はたから見たら独り言の多い女だろう。でも、ポケモン相手だとついこうなってしまう。たぶんこれは、私だけじゃなくみんなそうだろう。
 ひとかけらをぺろりとたいらげたイーブイは、ブブイ、とおかわりを催促する。
 まったく、嬉しいわがままだ。頬をほころばせながらもうひとつスコーンを手に載せると、ぴょんぴょんと小さな舞を披露してくれた。
「そんなによろこんでくれるなら、作ったかいがあるよ」
 はむはむ、むしゃむしゃ、手のひらにあたる感触がくすぐったい。ときおり左右に揺れるしっぽがなんとも微笑ましく、ついふやけた顔が戻らなくなる。
「あなたがここに住んでいるなら、また作ってきてあげる」
 言って、ハッとした。
「……わたし」
 ――また作ってきて、あげる?
「ぜんぜん、諦められてない」
 力がない、権利がない、そんなふうに泣いたくせに。目の前のこの子が喜んでくれる姿に、どうしようもなく心が満たされている。あんなにも怖くて、恐ろしくて、悲しくて、もう二度とあの苦渋と絶望を味わうのはごめんだと思っていたのに。
 結局、私はお菓子を作ることから離れられていない。
 ああもう――おかしくて、笑えてくる。
「だって、大好きなんだもん。私には、これしか、ないんだもん」
 泣かないって決めたはずだった。しかし、頭の中で父や母の笑う顔が次々によみがえってくる。両親だけじゃない。スクールの友達、先生、店長、お客さん、ソニア、マグノリア博士、マリィちゃん、ネズさん、それから、キバナさんやフライゴン、ヌメイルやジュラルドンたち。みんなが幸せそうに笑っていて、それを見た私もどうしようもないほど顔をくしゃくしゃにしている。
 残念ながら、どんなに大きく息を吸っても、あのスパイクタウンの埃っぽい青臭さやスコーンの香ばしい匂いはしてこない。それでも、体が覚えているような気がする。
 ――おまえはどうしたいんです。ネズさんの声がする。
「やりたい、やりたいよ……」
 ブイ? と見上げてくるイーブイの顔が、ゆらゆらとにじんでいる。涙の海を決壊させぬよう、ぐっと唇を噛み締めながら、私は笑ってスコーンまみれのあごを撫でた。
「あなたに、もっとおいしいものをたくさん、食べさせてあげたいよ」
 手のひらに宿る熱はとてもやさしく、そして、あたたかだった。

 会って話をしたい、というキバナさんからの連絡に、私はようやく答えを出した。
『どこにいる?』
 何日もまえのメールだというのに返事はすぐ届いた。心臓がけたたましく鳴り出し、指先が震えた。だが、どうにかスパイクタウンと打つと、『今すぐ向かう』とまたしても瞬く間に反応が返ってきた。
 泣いたのがバレないように、下まぶたをぐっと押さえて空を仰ぐ。わたあめのような雲がひとつ、ふたつ。それでも、青く広く澄み渡っていた。
「逃げなかったな」
 やがて、ザッと風が吹き、フライゴンとともにキバナさんが空から降り立った。
「逃げません」
 よく日に焼けた肌に、彼の人柄を表すような明るいヘアバンド、それから、深く澄んだ碧い瞳。その眩しさに目を伏せそうになるが、せめてもの抵抗とばかりに唇をムッと結んで彼を見上げる。足もとからも、ブイ! と勇ましい声がしてきた。
「イーブイ?」
 キバナさんが目を瞠る。
「あ、この子は、今日出会った子で……」
 マシュマロのような毛を膨らましながら、キバナさんを威嚇しているのはさきほどのイーブイだ。トレーナーのもとへおかえり、と草むらに送り出したはずだったが、どうやら戻ってきてしまったらしい。
 キバナさんの隣に立つフライゴンが、ぎゅう、と怪訝そうに喉を鳴らす。
「男の嫉妬はみっともないぜ、フライゴン」
 小さな挑戦者に羽を震わせたフライゴンだったが、キバナさんに制されてふわりとじゃれつくように舞った。
「わかってる。オマエも、会いたかったんだもんな」
 まろやかな声に、どくりと心臓がうねる。唇をぐっと噛み締めていると、フライゴンと目が合った。じいっと見つめられて、固唾をのむ。
「いってこい」やれやれとまなじりを細めながら、キバナさんが小さくささやいた。
 フライゴンがすばやくこちらへ飛んでくる。
「わ……」
 とっしん並みのその勢いに驚きながら、私は彼を受け止める。なめらかな首すじに整った毛並み。大きな瞳には太陽の光が瞬いて、小さな子どものような無垢さに胸の奥がキュッとなる。しかし、フライゴンと久方ぶりの逢瀬を楽しんでいると、またしても足もとで声が上がった。ブイブイ主張する声に、しかたないな、としゃがみ込んで、小さくも勇ましい騎士を抱き込む。右腕にはフライゴン、左腕にはイーブイ、両手に花だ。
「悪かった」
 ポケモンたちに埋もれていると、不意に声が落ちてきた。
「おまえの気持ちも、なにも考えず押しつけて」
 この子たちがいてくれて、よかったかもしれない、ふとそう思った。フライゴンの首すじに額を押しつけていれば、彼がどんな顔をしているのか、私がどんな顔をしているのか、確かめなくて済む。
「私も」ゆっくり呼吸を整える。
「ひどいことを言って、ごめんなさい」
 きゅうと喉を鳴らすフライゴンの体を撫でる。その手はかすかに震えていた。
「いや、言われて当然だった」キバナさんは言う。
「恥ずかしいことに、あれから頭を冷やしてやっと、いかに自分が傲慢で、無神経で、愚かで浅ましかったのかわかったんだ。本当に、情けねえよ」
 しなやかな緑羽の向こうに大きな影が映る。逞しく立派で、凛とした竜の姿だ。
「でも、オレの気持ちは変わらない」
 はばたく羽越しに、目の前に立っていた彼と目が合う。この距離でもはっきりとわかる碧色の瞳。はじめてその目を見たときのようにハッと息をのんだ。繊細で、神秘的で、このうえなく複雑な美しい虹彩。遙か遠くの豊かな海原のごとく透きとおり、その奥に確かな光を宿している。きれいだった。そして、そこに浮かぶひとりの情けのない女の姿に、気がつかないはずがなかった。
 みぞおちのあたりが疼く。指先がちりちりする。喉が灼け、まるで熱湯を飲み込んだようにひどく熱い。ごくり、つばを飲み下し、私は視線を逸らす。
 しかし、そんな私の指先をイーブイが舐めた。大きなふたつの瞳が私を見上げている。こんなときはどうするんだっけ、そう先を促すかのように。
 打ち明けなくちゃ、ふとそう思った。関係ない、そう言ってこの人を遠ざけてきたが、前に進むと決めた今、きちんと受け容れなくてはならないのだ。彼も、自分も。
「私、いちど、失敗しているんです」
 小さく切り出した私に、キバナさんはなにも言わずただこちらを見つめていた。
「数年まえ、お店を持とうとしたんです。それまで貯めたお金や、両親からのお金を使って、シュートシティのある通りに。でも、お店の場所も決まっていざ動き出すってなったら、お金もお店も、なにもかもなくなってしまって」
 情けないことに、指先も唇も、信じられないほど大きく震えていた。それでも続けなくちゃ、と、指先を握り、唇を舐める。
「騙されちゃったんです」
 ぺろ、ぺろ、イーブイが握り拳を舐める。ザラついた舌がくすぐったい。反対では、私に体を預けたままのフライゴンの尾がさみしげに揺れている。
「私はお菓子づくりの才能があるんだ、この世界で生きるんだ、私なら絶対できるんだ、なんて、がむしゃらになっていた当然の結末なんですけど」
 言葉にすると、なおのこと虚しくなる。ハハ、と乾いた笑いを散らすと、怒りがにじみピンと張り詰めた声が落ちてきた。
「失敗、してないだろ」
 少しでも触れたら、きっと切れてしまう。私は思わず顔を上げた。
「だから、おまえは失敗してないんだよ」
 垂れたやさしい瞳が、フィールドに立つ竜のように鋭く私を射貫いていた。唇を噛みただまばたきを繰り返す私に、キバナさんは、くそっ、とひとりでに悪態をつく。
「悪い、すぐ、キツくなっちまって」
 ぐっとヘアバンドを押し下げて目もとを覆うと、まったくだとばかりに腕の中から声がしてきた。ブーイ、ブブーイ! 勇ましいそれに、ああくそ、と再びつぶやいて、キバナさんは乱暴に目もとを撫でつける。わかったって、返事をするとキバナさんは手首でバンドを押し上げた。
「……話してくれて、ありがとな」
 まみえた瞳は、やさしく凪いでいた。
「やっぱり、オレはおまえにもっと菓子を作ってほしい。いろんな人がおまえの作ったものを食べて、その味を知るべきだって思うんだ。人だけじゃない、ポケモンも」
 ブイ! 腕の中でイーブイが誇らしげに耳を揺らす。
「そうだろ?」キバナさんはイーブイに笑いかけた。
「それだけの価値があるんだ。もっと自信を持っていい」
 風が吹く。ふわり、さらわれた髪が視界を掠める。
「わたし」
 喉につかえる想いを一度ごくりとのみくだして、しっかりとキバナさんを見据えた。
「やります」
 そのひと言に瞳が大きく見開かれた。
「本当か」
 こんなに驚く姿は初めてかもしれない。髪の毛も直さずに、私はこっくりうなずき立ち上がる。しばらくしゃがみ込んでいたからか、ぐらりと足もとがふらついた。だが、すぐさまフライゴンが私を支えてくれた。「ありがとう」その首すじを撫でて微笑むと、彼は得意げにひと鳴きして、主人のもとに意気揚々とはばたいていく。
 不安は山ほどある。むしろ、不安しかない。味覚も嗅覚もどこかに置いてきたままの今、人に提供できるようなものが作れるかも危うい。それだのに前に進むなど、無謀すぎる。それでも、もう自分にうそはつけなかった。
 腕の中に残ったイーブイをゆっくりと地面に下ろし、不思議そうに私を見上げるその頭を撫でてからキバナさんに向き直る。
「私に、作らせてください」
 ――特別で、とびきりのお菓子を。
 よくぞ言ってくれた、大きな手が伸びてくる。私の頭をすっぽりと覆ってしまうほどの、逞しく、凜と強かな手。ぐしゃぐしゃ、ワンパチを撫で回すように前髪を掻き乱され、「ああもうやめてください」と抵抗する私を彼は逃さない。
 その手が、そのぬくもりが、抉れた胸を少しずつ癒やしていく。私は身を委ねて目を閉じた。ふわふわ、遙か遠くを旅するような感覚だった。金色に染まるキッチン、橙の光を宿したオーブン、幸福の音色がそこかしこで鳴り、笑みにあふれていた。
 ――よく、お父さんもこうして、撫でてくれていたっけな。
 背負っていた重荷を少しずつほどいていく。まだまだ先は長い。それでも、先月より、先週より、そして昨日より軽い。やおら目を開いて、まばたきを二回。
「やるからには、ちゃんとやりますからね」
 調理場は? おおよその必要数は? 衛生管理は? 聞きたいことも、それからやらなければならないことも山積みだ。私の言いたいことがわかったのか、キバナさんはかかってこいと勝気な笑みを頬に載せる。
「ナックルシティジムリーダー、キバナの名にかけて最大限のサポートを提供する」
 頭を撫でる手のひらに、すう、と大きく息を吸って、私は背すじを伸ばしてしゃんと立つ。震えてしまわないように、逃げ出してしまわないように。
 やがて手が離れ、キバナさんは碧い海で私を包んだ。
「さあ勝負はこれからだぜ。オレさまは、なにをしたらいい?」
 ひとりじゃない。もう、ひとりじゃ、ないんだ。
 目の奥がじん、と溶け出すのをこらえて、私は、ぐっと指先を握りしめた。

 その日から、怒涛の毎日が始まった。イベントまではあと一か月。マクロコスモスとの細かいやりとりはキバナさんたちナックルジムが請け負ってくれたが、ガラル有数の名門ジムのエントランスで、簡易的とはいえカフェブースを開くのは、そう容易なことではなかった。販売許可申請や衛生管理局への問い合わせはもちろん、なによりマクロコスモスの企画担当たちを納得させなければならない。普通ならば許可が下りるまで一か月は有することを、一週間ないし二週間でいわば強行突破するつもりなのだ。
 そのうえ、許可の申請にはカフェのコンセプトや内装、販売形式、またメニューの一覧から材料、作り方までをレポートにまとめて提出する必要がある。申請に関わる形式的かつ事務的なことは任せることができるが、これらに関しては、私が決めなくてはならないことだった。
 一か月。メニューの試作から完成、それから材料調達と当日提供するメニューの製作、それらの過程を逆算すると本当に時間がない。イベント全体で食品を扱うところが多いからか、そこまで審査は厳しくない、とキバナさんは言うが、ナックルシティという重たい看板を背負うのだ。手を抜くわけにはいかなかった。
「コンセプトについては、ジム側の要望があればそれに従います」
 真昼のナックルシティ。街の中央にそびえるジムスタジアムの一室で私とキバナさんは顔を突き合わせていた。手もとにはイベントの要項。非常に分厚い冊子だ。出店はあくまでガラルリーグを盛り上げる活動の一環として行われるらしい。
「ウチとしては、おまえの要望を汲むつもりでいた」
 キバナさんは言う。
「でも、ガラルリーグをよく知らない私が、イベント主催側の意図を満たせるとは思えないんです」
「そうか? オレさまはおまえなら大丈夫だと思ってたが」
 なにを根拠にしているのか、けろっと言ってのけるキバナさんに思わずボールペンをぎゅっと握りしめる。
「オレさまは、おまえが作りたいものを作ればいいと思うぜ」
 口もとをもぞつかせていると、キバナさんは言った。
「だから、それじゃあ、ナックルシティの名前に泥を塗ってしまうかもしれないじゃないですか」
「そうかあ?」
 あくまでマイペースなキバナさんに、しびれを切らして、「だから」と顔を上げる。
「やっとこっち見たな」
 キバナさんが、ニイ、と無邪気に笑った。
「あの、ですねえ」
 難しい顔をすると、彼は得意げに片眉を上げて続ける。
「ガラルリーグはただ強さを示すものじゃない。まあ、一般的にはそう思われているが。でも、ポケモンとの関わり合いは、バトルだけじゃないだろ?」
「それは、そうかもしれませんけど」私は言葉を詰まらせる。
「だろ? それに、いつも、おまえがフライゴンやヌメラたちのことを考えて菓子を作ってくれていたのを、オレさまは知ってる。たくさんの時間を費やして、オレさまとポケモンたちのためにいろんなものを作ってたのも」
 だって――私は奥歯を噛む。
「それは、少しでもおいしいお菓子で幸せになってほしかったから」
 キバナさんは笑みを深めた。
「オレさまはそれだけでじゅうぶんだと思うぜ」
 どういうこと? 眉根を寄せた私の前から、キバナさんは冊子を奪う。
「あっ……」
「トレーナーとポケモン、種族を超えた絆を深めるには、おまえの菓子はうってつけだからな」
 要綱を一瞥したあと、「こんなもんいらねえな」とキバナさんはそれを放り出す。
「ちょっと、コンセプトとメニュー、決めるのに」
「大丈夫。もう決まってる」
「決まってません」
 こんなに破天荒な人だったっけ。喉にむずがゆさを抱きながらキバナさんを見つめる。
「さあ、おまえのつくりたいものはなんだ」
 そんな心情などつゆ知らず、彼は腕を組んで首をかすかにひねる。
「それで決められたら、苦労しません」
 むっと唇を尖らせるとキバナさんは、ぷは、と吹き出した。なんなんですか、と悔しくなってじっとりと視線を送る私に、いや、と口もとを撫でつける。
「マジメだな、と思って」
「まじめにもなりますよ、こんな大きなイベント! もっと準備期間があればゆっくり考えられたけど、時間がないからそうもいかないし、私、焦ってるんです!」
「悪い、悪い」キバナさんはあいかわらず愉しげだ。
「本当に悪いと思ってますか」
「ああ、あたりまえだろ」
 目の前の破天荒の塊に、ため息をもらさずにはいられなかった。
 彼はまだ知らないが、味も匂いもわからない状態が続いている。それを告げることは今のところ考えていないが、いずれにせよこのままでは作れるものも作れない。だれか味見を頼める人を探さなくてはならなかった。そうなると、本当に時間がないのだ。
「おまえの作りたいものを、おまえがみんなに食べてほしいものを、おまえが思うように作ればいいんだ」
 それなのに、どうしてこうもキバナさんは悠長にしていられるのだろう。言葉を失くしていると、キバナさんが頬杖をついて、な? とやさしく見つめてくる。
 つくりたいもの。食べてほしいもの。ぐしゃぐしゃになったままのカバンの中を探し出す。まったりと陽のそそぐパティスリー、ガラスケースの中にはきらきらと輝く宝石のようなケーキたち。それを見た人びとの顔は自然とほころんで、どれにしようと目を輝かせる。難しい顔をしたお兄さんも、悲しく瞳を伏せたお姉さんも、真面目そうな学生も、泣きじゃくってお母さんを困らせていた子どもも、それから、彼らの足もとや肩、それから腕の中にいるポケモンたちも。ただひたすら、目の前のガラスケースに目を奪われる。店の一角に設えたイートインスペースからは言葉にならない感嘆の声が上がったりして。一瞬でもいい。ほんのひと時でいい。見た瞬間、食べた瞬間、なにもかもを忘れ、うっとりしてしまうような。そんな、幸せになれる――。
「ポケモンも人も、しあわせになれるお菓子をつくります」
 ぽつりこぼすと、キバナさんは目を細めた。
「一緒に食べられる、一緒においしいって笑いあえるメニューをたくさん作りたいです」
「オレさまも、おまえのいろんな菓子が食べてえな」
 ああもう。キバナさんがそんなことを言うから、肝心のメニューが決められそうにない。それでも、考えなくては。イベントの内容に沿った、できれば華やかなものがいいのだろうか。ナックルジムのイメージもあるから、それも取り入れないとならない。メインをひとつ、ふたつ決めて、それから……。
「なにも、全部初めから考えなくていいぜ」
 うんうんと黙りこくって考えていると、くつり、喉で笑う音がしてそちらを向く。
「今まで、作ってきたものがあるだろ」
 碧い海が光の綾を弛ませる。
「そっか。スコーンとか、ヌメラのねがいぼしとかも、出したらいいんですね」
「そうそう。フライゴンたちお墨つきだからな」
 それなら、少し安心かもしれない。ふむ、とうなずきながら、レシピノートを取り出してメモをとる。しかし、そのラインナップでは、茶色い焼き菓子ばかりになってしまうのが難点だった。
「でも、これじゃ、映えないかもしれませんね」
 きらきらの宝石箱のようなガラスケース、本当はそれをつくりたい。だが、この短期間で見映えするほどの数のケーキを作るのは難しい。欲張ってはいけない。しかし、やはりこれだけでは納得がいかない。華やかさに欠けるのだ。
 スコーン、ポルボロン、シュークリーム、サヴァラン……とペン先でお菓子をたどる。そして、アマンディーヌまできて閃いた。
「そっか」
 前述したように、ここから新たに何種類もケーキ考案し実際にそれを作るのは難しい。しかし、そのケーキがもとは一種類だったら? そうだ、ひとつの土台をもとに、味を展開させたとすれば――アマンディーヌにぐるりと丸をつけてペンを置く。
「いくつか、新しく考えます。必ず、間に合わせますから」
 レシピノートを閉じながら言うと、キバナさんは八重歯をのぞかせて、「わかった」とうなずいてくれた。
 それから数日。ランチタイムの忙しい時間を終えてブラッスリーに穏やかさが戻ってくるころ、厨房はいつにない熱気に包まれていた。
 ヴゥンと音を立ててオーブンが回っている。
「いやあ、やっぱり焼き始めると暑いね」
 店長が汗を拭いながら言う。
「すみません、休憩中なのにお借りして」
 イベントに向けて動き出した今、できるだけ多くの時間をレシピ改良に費やすため、店の空き時間を使ってお菓子を作っていた。もとよりその予定ではなかったのだが、店長に相談すると、使いなよ、と快くオーブンを貸してくれたのである。さらには、オーブンを貸してくれるだけでなく、こうしてメニューの考案にも立ち会ってくれるのだから、本当に頭が上がらない。基本的にはレシピ改良も試作も私がすべて自分の手で行うが、味だけは店長が確かめてくれている。
 暑そうに手で顔を扇いでいる店長に眉を下げると、彼はからりと笑った。
「いいの、いいの。僕はお菓子づくりが専門じゃないから、いい勉強だよ」
「でも、店長は自分でパンも焼かれますし、知識の幅が広いですよね」
「まあ、だてに長いあいだ生きていないしね。それに、いろんな地方を旅して修行に明け暮れたおかげかな」
 その昔、ポケモントレーナーとして現役で旅をしていたころ、店長はガラルを飛び出してカロスやイッシュ、シンオウ、それからホウエン、とさまざまな地方を自分の足で歩き回ったという。旅に出た当初はさほど料理に興味はなかったが、それぞれの食文化のちがいに気がついてからは、まるで取り憑かれたようにその土地の郷土料理などを学んで回った。ときにはお気に入りの定食屋に弟子入りを直談判したり、伝説の食材を求めて数か月山に篭ったり、はたまた、料理コンテストに飛び入り参加してみたり。店長の生み出す豊かな味わいには、血のにじむような努力があるのだ。
 そんな店長がいてくれるだけで、なんだか強くなれた気がする。と、言うと、彼は、「やめてよ」などと照れて眼鏡を曇らせてしまうのだが。
 オーブンの回る店内はやはり熱が篭っていた。気温の高さにシャツの袖を捲る。洗ったばかりの黒いサロンは、すでに小麦粉でところどころ白くなっていた。
 焼き時間的に、そろそろ香ばしい匂いがしてくるころだろう。しかし、スンと鼻を鳴らしてみても、やはりなにも感じない。無味無臭、まるでプラスティックケースの中に閉じ込められたようだ。そのケースの中からお菓子の様子を見つつ、適当な頃合いを見てオーブンを開ける。あいかわらず匂いはわからないが、火傷をしないようミトンをつけて熱々の天板を取り出してみると、直径五センチほどのタルト台がロコン色に焼けていた。
「いいにおいだ」
 店長が大きく息を吸い込んだのを見て、私は微笑む。アーモンドとそれからバターの香ばしい匂いだろうか。なんとなく、想像できた。
 調理台に焼けたものを移して天板を空にする。それからオーブンを余熱設定して第二陣の準備だ。店長はひと足先にホールへ戻った。
 天板を冷却するあいだ、冷蔵庫から生地を取り出してしっかり伸ばす。薄すぎず、厚すぎず、五ミリぐらいの厚さがちょうどいいだろうか。それを直径五センチの丸型よりも二センチほど大きく円を切りとってバターを塗り込んだ型に載せる。隙間が生まれないようぴったりくっつけながら、型より約五ミリ高さを出して余分な部分を切り取る。それを何回か繰り返し、フォークで生地の底に穴を開けたら完了だ。
 あとは天板が冷めるまで再び冷蔵庫に戻し、オーブンの余熱後、アルミホイルを敷いて粒重石を置いたら焼き始める。
 ひと仕事を終え厨房からホールへ戻ると、新聞を読む店長の隣にすっかり見慣れた姿があった。
「ネズさん!」
 どうも、と頭をかすかに揺らすネズさんに破顔する。
「いらしてたんですね」
「ええ、ついさきほど」
 そこで店長が新聞から顔を上げた。
「そうそう、ネズくん今日なに食べる? いつもまかないじゃ悪いから、好きなのつくるよ。カレーとかカレーとかカレーとか」
 店長に言われてネズさんは、そうですね、とアクセサリーをいじりながらメニューを眺めた。
「では、特製焼きカレーをお願いしますかね」
「はいよ、ちょっと待っててね」
 ほぼ誘導尋問だったな、と忍び笑いを浮かべていると、ネズさんがメニューを戻してこちらに視線を寄越してきた。
「今日はずいぶんいい匂いがするようで」
 ほんのり眉を下げながら肩をすくめる。
「はい、今、オーブンをフル稼働させていて。暑いでしょう?」
「そういえば、そうですね」
 とは言いつつ、彼はいつもの澄まし顔だ。すみません、すぐにドリンク用意しますね、と流しでサッと手を洗うと、私はさっそくキッチンに立った。
 ネズさんの思い出のレモンスカッシュ――それを思うとなんだかみぞおちのあたりがこそばゆくなるが、同時に、くしゃくしゃに笑いたくなってしまう。とはいえ、いきなりひとりで笑いだすのも不自然だ。どうにかそれをこらえていると、「なにニヤけてやがるんです」と冷静な突っ込みが飛んできた。
「ちょっと、うれしいことを思い出して」
「……顔色がだいぶよくなりましたね」
 ネズさんは呆れたように目を回して、ぼそっと言葉を返す。首もとのアクセサリーを落ち着きなく指に絡める仕草は、どこか照れを隠しているようにも見える。
「ネズさんのおかげです」
 ふふ、とはにかんでグラスを用意した。きれいに磨き上げられたストレートのドリンクグラス。氷をひとつ、ふたつと丁寧に落として、そこへレモンシロップをそそぐ。それからできるだけ炭酸を逃がさないようにソーダ水を入れ、はちみつをとろりと垂らしたら美しいガラス細工のマドラーを。
「実は、来月ナックルシティのイベントにでることになって」
 ネズさんは頬杖をついたまま、そうですか、とやおらまつ毛を揺らした。
「ネズさんがいてくれたから。正直、まだ怖いですけど、でもあなたが独りじゃないって言ってくれたから」
 その先は告げず、カウンター越しにグラスを差し出す。
 完成したレモンスカッシュは、まるでグラデーションのかかった朝焼けのような色だった。金色に染まる地平線。だんだんと白み、やがて真っ青に染まっていくのだろう。かつてない、いい出来映えだった。
「今日は暑いので、とびきりおいしいですよ」
 ニッと笑ってみせると、「まったく、おまえってひとは」とため息をつきながら額を抱えるネズさんであった。
 そこで、カランカラン、静閑なブラッスリーのベルが鳴る。
「すみません、今は支度中で……」
 店長がカウンターから声を飛ばすと、そこにはだれもいなかった。
「え? 怪奇現象?」
 うわやめてよ、と顔を青くしたのは言わずもがな店長だ。ゴーストタイプを手懐けられそうな見た目に反して意外にも臆病な彼に、私とネズさんは目を見合わせる。一緒になってもう一度入り口へ視線を戻すと、ブイッ、という愛らしい声が飛んできた。
「あっ、あなた、また戻ってきたの」
 チョコホイップみたいにピンと伸びたしっぽにふわふわマシュマロの胸の飾り毛。まあるい飴細工のような瞳がみずみずしい。そう、空き地で出会ったイーブイだ。
 どうやら持ち前のたいあたりで扉を押し開けたらしい。ブブイ! と私に応える姿はどことなく誇らしげだ。
「ようやくゲットしたんですか」ネズさんが言う。
「いえ、たまたま出会った子なんです。迷子かなと思ったんですけど、スコーンをあげたらどうも懐かれちゃって」
 カウンターから降りてイーブイのもとへと向かうと、毛先だけ色のちがう尾を振って、イーブイはその場でくるりと回った。
「ああ、これはもう相当懐いてるね」
 ふむと感心している店長に、「ですよねぇ」と私も苦笑する。
 つい、その愛らしさに頬がほころんでしまうのだが、何度、野生に帰してもこうして戻ってきてしまうのは困りものだった。本当に野生のポケモンならいいのだが、もしもだれかが探しているとしたら、一刻も早くその人のもとに戻してあげたい。
「なにか食べる?」
 小さなあごを撫でながら訪ねると、イーブイは嬉しそうにひと鳴きした。
「そうやって餌付けるせいで、なんでもかんでもついてきちまうんですよ」
 ネズさんはやれやれといった調子でぼやく。
「たしかに。言えてますね」
 思わず感心すると、ネズさんはあからさまにため息をついた。
 自慢の焼きカレーを拵えた店長が私を呼ぶ。はあい、と返事をしたあと、イーブイに待つように伝えてから私はカウンターへ戻った。
「お待たせいたしました。店長特製焼きカレーです」
 今日もとびきりおいしいですよ、と、熱々のカレーをネズさんに給仕する。
「戻ったんですか」
 店長がイーブイにポケフーズをあげにカウンターから離れた折を見て、ネズさんが小声で言った。気を利かせてくれたのだろう。なにをと訊くまでもなく私は力なく笑みを浮かべてかぶりを振る。そうですか、それだけ口にして、ネズさんはスプーンを手に中央を陣取る卵の黄身をよけて端からカレーをすくう。
「イベントまでのあいだ、なにか力になれることは?」
 ごくりと喉仏を動かしたあと、ネズさんは淡々とした口調で言った。あいかわらず、そんなささいな仕草さえ気だるくも洗練されている。
「そんな、ネズさんにはたくさん力になっていただきましたし」
 彼にはこれまでもたくさん迷惑をかけたのだ。ジムリーダーにアーティストに、忙しいその身を考えると、なにもないと言いたいところだった。しかし、そうはいかないのが現実だ。言葉を詰まらせると、「遠慮するんじゃねえですよ」と、視線を寄越すこともなく淡々とカレーを食しながらネズさんは言った。
「じゃあ、ときどき、味見を頼んでもいいですか」
 胸の奥が熱くなりながらそれでも申し訳なくおずおずと頼む私に、ネズさんは泰然とした様子で、「かまわないです」と返す。
「おまえの頼みですからね」
「本当、もうなんとお礼を申し上げたらいいか」
 いつも、いつも、彼には甘えっぱなしだ。情けなく声を上擦らせる。
「そうですね」
 こちらを一瞥したあと、ネズさんは瞳を伏せた。
「今度おれの好きなものを作ってください。おれのためだけに」
 どうです、そう言って、スプーンでカレーをすくう。
「そんなの、いくらでも作ります。ネズさんのためなら、もう食べられないってなるくらい作りますから!」
「いい心意気ですね」
 ニヤリ、ネズさんはいたずらに口もとを歪めた。
 そんな彼に、さきほど焼いたものを食べてもらおうとさっそく厨房へと戻る。
 アーモンドプードルをたっぷり使ったタルトレット。今日は土台――パート・シュクレを焼いただけなので、まだ完成どころかスタートラインについた段階だが、それでも、ここからこのタルトがさまざまに変化していくのが楽しみで仕方がなかった。
 どんなものを加えていこうか、どんなふうに工夫していこうか。胸を膨らませて、いざ仕上げにとりかかる。まずは用意していたカスタード液をパート・シュクレにそそぎ、さらに上からナツメグをおろす。それから、第二弾の生地が焼き上がったオーブンへ。
「どうする、イーブイ。どっちを応援する? 僕としては、そうだなあ……え? 本当むずかしい問題だって? ウン、わかる。すごくわかるよそれ」
 モルペコも逃げ出す印象的な見た目のおじさんが、膝を抱えて小さな小さなポケモンにそんなふうに語りかけていたとは、つゆ知らず。

 それからはほぼ毎日、店長やネズさんの協力を仰ぎながらレシピの改良を重ねる日が続いた。ポケモンと一緒に食べられるというのが謳い文句とあり、空き時間があればポケモン栄養学の本を読み、きのみの効能をチェックしたり――文字だけでは想像しきれないことも多いので、そんなときにはポケモンに人一倍詳しく、勉強家なソニアに力を貸してもらったのだが――あるいは、ポケモントレーナーとしてどんなお菓子を望むのかをお客さんに訊ねてみたり、一分一秒が惜しいほど、本当に忙しい毎日だった。
 ただ、自分の味覚や嗅覚に頼ることができないのは本当に厳しいことで、思うようにメニューづくりが進まないのも事実だった。
「スコーン、ポルボロン、サヴァラン、アマンディーヌは今までのままでいくからいいとして……」
 いつもならば、常連客で賑わう昼下がりのブラッスリー。だがこの日は、フロア中のイスがテーブルの上に上げられたまま、陽気なシャンソンも流れてはいなかった。
「どうするかなあ」
 クローズドの札がかけられた薄暗い店内で、ひとりレシピの整理をする。
 定期的にキバナさんとは連絡をとりあい、コンセプトの詳細や内装デザインを煮詰めたり、衛生管理やアレルギー表示について話を進めたりしている。しかし、メニューに関してだけは正直納得のいくものが提案できずにいた。
 アーモンドクリームとともに焼いたラムの実のタルトや、カスタードを敷いたモモンクラフティ、それから、ノメルの果汁を絞ったレアチーズタルトや生チョコタルト。新しく増えたラインナップは我ながらいいアイデアだが、どれもインパクトに欠ける。
「甘いものばかりだし、いっそのことタルト・サレを作ってもいいかもしれない。でも、もう少しガラルの郷土的要素を入れるべきか」
 カウンターに並べたタルトレットを前に、ああもうと頭を掻き乱していると、来客を報せるベルが鳴った。カランカランという音に、足もとのイーブイがピンと耳を立てる。すっかり、ブラッスリーに居ついている彼である。
「あれ、マリィちゃん?」
 ふり返った私の目に入ったのは、モルペコを連れた少女の姿だった。ジャケットの袖から指先だけをちょこんと出して、「遊びにきたと」と頬を掻いた。
「わぁ、ごめんね。今日お店、お休みなんだ」
「知ってる。マスターにそこで会って聞いたから」
「え、じゃあ、どうして?」
 タルトづくりでバターまみれになった手を拭い、マリィちゃんのもとへと歩み寄る。
「……べつに。会いたくなって来ちゃ、だめと?」
 もじもじ、うっすら頬を染めながら口もとを隠すマリィちゃんに、思わず心臓が締めつけられる。これがいわゆる萌えというやつか、そんなことを思いながら、「ぜ、ぜんぜん! 私も会いたかった!」とあまりの興奮に声を裏返す私だった。
「お店の外までいい匂いしてたんは、これだったんやね」
 ひと休みにアイスティーを飲みつつ、まじまじタルトを眺めてマリィちゃんは言った。
「朝から焼いてたんだ。そんなに匂いしてたかな」
「すごく。もしかしてこれ、ナックルシティのやつ?」
「そうそう。今、メニューづくりに必死で」
 イベントまでは実質あと三週間を切っている。材料を揃え、実際に作る時間を考えると、もはやほとんど悩む時間がない。
「顔、すごく疲れとおね」
 ため息をついたのがばれたのか、マリィちゃんはじっと目をのぞいてくる。兄妹そろって、そういうところに目敏いようだ。
「納得のいくタルトができなくて」私は肩をすくめて手元の紅茶を掻き混ぜた。
 それもこれも、結局は味がわからないせいかもしれない。ここまでピンとくるような新しいレシピが思い浮かばないのは、珍しいことだった。だが、それだけではなくコンセプトや開催地を考えるあまり、特異なアイデアを出すわけにはいかない、と脳に制御がかかってしまっているようでもあった。
「どれもおいしそうだけど」
「そう? なんだか自分だと華やかさに欠けてるような気がしちゃって。ほら、特別感というかなんというか」
 無垢な瞳に倣って、全体的に暖色のタルトたちを眺めてストローを咥える。
「まあ、そうやね」と正直につぶやいてくれたマリィちゃんに、でしょう? と小さく肩を落とした。
「ガラスケースの中でパッと目をひくものが作りたいんだけど、なんだかよくわからなくなってきちゃった」
 足もとではイーブイとモルペコがポケフーズをもしゃもしゃと食べている。とても愛らしい光景だが、この子たちと一緒に楽しめるものを、と考えると、どうしても食べやすくてシンプルなものに手を伸ばしてしまう。
「フルーツのがないんやね」
 マリィちゃんがぽつりとこぼした。
「フルーツ?」
「うん、フルーツ」
 一応、モモンとかラムは使ってるけど……、私は言う。
「そういうのじゃなくて、もっと宝石みたいなやつ」
 ぱちり、目を瞬いた。
「生のフルーツを使った、ってこと?」
「うん。山になってて、つやつや光ってるやつ。たぶん、女の子は好きだと思う」
 山になっていて、つやつやに光っているやつ。生カスタードの上にフルーツをこんもり載せてナパージュをかけたとびきりのフルーツタルトだろう。マリィちゃんの言うとおり、そういうの私も好きだ。
「でも、食べにくくないかな?」
 ぽろりとフルーツが転がるのを想像して言うと、マリィちゃんは上目遣いで私を見た。
「食べにくくちゃ、だめなん」
 思いがけずどきりとする。
「ポケモンも食べるなら、食べやすいほうがいいかな、って思ってたんだけど……」
「ふうん」
 一見、関心を失ったようにひとりでにうなずいて、彼女はアイスティーを飲む。
「マリィは、そういうの食べたいって思うけんね」
 むずかしいんやね、小さくつぶやいたその横顔にまぶたの裏で稲妻が走った。
 そっか。そうだ。みんながみんな、ポケモントレーナーとして、私のお菓子を食べるわけじゃないんだ。
 ぱちり、弾けた電流が全身に駆け巡る。ただつかの間の休憩にスタジアムに入る人もいるし、まだポケモンを持っていない小さな子だっているかもしれない。バトルが好きな人も、嫌いな人も、私みたいにポケモンではなく、他のことに夢中になっている人も。
 ふと、キバナさんが、頑なに私の作りたいものを作れと言っていた理由がわかった気がした。そうだ、私は決してポケモントレーナーだけにお菓子を作りたかったわけではない。ガラルリーグのためじゃないのだ。
 ああもう、基本中の基本を忘れてしまうなんて。急に顔を覆い、天を仰いだ私に、愛らしい救世主は、「どうしたと」と心配して声をかけてくる。
「ううん。マリィちゃん、本当、今日会えてよかったよ」
 きょとん、としていたマリィちゃんだったが、やがて、ちょっぴりマセた顔をして、「マリィも」と笑ってくれた。

 そういうわけで、これまで考案したメニューはそのままに、新しくタルトを増やすことにした。ひとつは、ナックルシティがまだ城としてその機能を果たしていたころから残っている、伝統的なベイクウェルタルトである。パート・シュクレの上にラズベリーのジャムを塗って、アーモンドクリームを載せて焼く、いたってシンプルなものだ。アマンディーヌと非常によく似ているが、こちらはジャムをラズベリーからゴスの実に変更して上にアイシングをかける。ただ、それだけではつまらないので、マクロコスモスのイメージフラワーでもあるバラの花びらに見立てて、ゴスの実のフリーズドライをあしらった。
 そして、もうひとつはターフタウン産の新鮮なベリーを使ったミックスベリータルトだ。パート・シュクレにアーモンドクリームを入れて焼き、そこに生カスタードをしぼって、いちごやブルーベリー、ラズベリーやブラックベリーなどのベリーを載せる。素材が豊富なぶん、こちらは小細工をしない。フルーツの酸味を殺さないクレーム・シャンティとカスタードの塩梅、それが勝負どころだ。しかし、色味が映えるように上からナパージュをかけるのを忘れてはならない。
 それらを作り終えたころには、すっかり夜が明けていた。
「さすがに、疲れたかも」
 はあ、と無意識にため息がこぼれる。あまり根を詰めすぎないようにとネズさんや店長に言われていたというのに、うっかり徹夜をしてしまったわけである。バレたら合わせる顔がないが、ひとまずは凝り固まった体をほぐすことにした。
 すみれ色に明るくなった外の世界に伸びをして、肩や首を回しながら新鮮な空気を吸いに出る。
「……もしかして、ずっとここにいたのか」
 だが、すぐに硬直する運びとなった。
「キ、キバナさん……」
 ああ清々しい朝だ、と両手を広げて深呼吸をしていた私は、その声の主にギギギと首を回す。どうしてこんなところに。もしや夢だろうか。冴えない頭のまま、忽然と現れた竜の化身に見入ってしまう。
「キャンプ帰りにこのへんを飛んでいたら、明かりがついているのが見えたんだよ」
 その人はザッと足音を鳴らして大股で歩み寄ってきた。
「明かり?」視線の先をふり返る。
「あ……」
 ブラッスリーのネオンが瞬いていた。昨晩の営業が終わったあと、店長にしまっておきますと言っておきがらそのままにしてしまったようだ。
 のろのろとその電源を抜いて、夜を明かした目には毒のそれを消す。
「まったく」
 ため息をこぼすキバナさんに私はへらりと笑う。
「とりあえず、コーヒーでも飲みます、か?」
 掴んだドアノブは朝の空気にすっかり冷たくなっていた。

 もはや私物化していたブラッスリーを片づけながら、急いでやかんで湯を沸かす。
 こぽこぽ、底が爆ぜる音が静かに響く中、キバナさんはなにも言わずにカウンターに座っていた。背が大きいためか、テーブルとスツールの高さが絶妙に合っていない。いつも営業中に見る風景とはまるきりちがうそれに、疲れて弛んでいた細胞がこれでもかと張りつめる。
「どうぞ」
 店長がアローラから取り寄せたローストコーヒーを出すと、ありがとう、と丁寧に受け取ってキバナさんはゆっくり口をつけた。
「実は、メニューの試作品が完成したんです」
 その様子を眺めながら、私は切り出した。言うやいなや、彼はなんだか難しい顔をカップの向こうで携えたが、やがて参ったとばかりにまなじりへしわを刻んだ。
「本当に、そのひたむきさには感服させられるわ」
 ああもう、と首すじを掻くキバナさんに、ハの字眉で苦笑いを返す。
「よくスクールの先生たちには、猪突猛進のウリムーと言われました」
「まあ、そうとも言うな」
 やれやれと表情を変えるキバナさんに、少しだけ待っていてほしいと告げて、私は厨房へ向かった。徹夜に付き合ってくれたイーブイは、店長が用意してくれたクッションの上で丸まってぐっすり寝息を立てている。この子はどうやって野生で生き延びてきたのだろう。不思議に思ったが、そっとそれを目で撫でてから、銀色の調理台に置かれたタルトをいくつか皿に載せてまたホールへと戻った。
「味見、お願いします」
 そっと彼の前に皿を差し出す。
「これ、ユニフォームの色か」
 陶然とつぶやかれた言葉に、胸が躍った。キバナさんの視線の先には、ナパージュをかけて美しくつやめく宝石のようなタルトが鎮座している。白いアイシングに赤い花が散るベイクウェルタルトのとなり、赤と紫紺の色鮮やかなベリータルトだ。
「さすが、キバナさんですね」
 そう、一見なんでもないどこにでもあるようなフルーツタルトだが、それぞれの配色バランスを考えてナックルジムのイメージカラーに近づけた。いわば、特別なベリータルトだ。
「どうしても、これを作りたかったんです」
 その結果、夢中になるあまり、寝るのすら忘れすっかり朝を迎えてしまったわけであるが。まだ、だれにも食べてもらっていないので、味はわからない。それでも、遠い日の母のフルーツタルトを思い出して、記憶と勘を頼りに作り上げた。
 キバナさんがグローブを外して、やおら手を伸ばす。緊張の一瞬だ。ごくり、固唾をのんで彼の動作を見守る。彼の手には五センチほどのそれがやけに小さく見えた。
「うまい」
 ゆっくりと口の中に消えて、キバナさんはつぶやくように言った。
「ほんとう、ですか」
「ああ、めちゃくちゃうまいぜ」
 ありえないくらいだ、ほぼ陶然とうなずくキバナさんに私はその場にへたり込む。
「よかった……」
「おい、大丈夫か」
 キバナさんの慌てる声が落ちてきた。
「すみません、なんだか、力が抜けちゃいました」
 あはは、と顔をしわくしゃにして笑う私に、マジかよ、とキバナさんは目を回す。
 疲れていたのもあるかもしれない。キバナさんの反応を見たら、緊張の糸がふっと途切れて、体が風船みたいに軽くなった。そうしたら、立っていられなくなり、おなかから笑いが込み上げてきた。
「ったく、徹夜なんてすっからだ」
 呆れつつも、逞しい肩を貸してくれる。
「ごめんなさい、ほんとうご迷惑おかけして」
「謝るなら、もう無理すんなよ。……と、言いたいところだが、今回ばかりはオレさまのせいだな」
 彼らしくない弱った声色で、テーブルに上げていた椅子をひとつ下ろしそこへ座らせてくれる。まだ力がうまく入らなかったが、「そんなにしおらしいなんてめずらしいです」と素直に口にすると、無言で私の前髪をわしゃわしゃ掻き回した。
「言うようになったな、おまえも」
「だから、いつもそうやって……」
 イヌヌワンなんて鳴きませんからね、などと減らず口を叩こうとした唇に、ひやりとした感触が訪れる。
「食ってみろよ」
 唇へ押し当てられたのは、全身全霊を尽くして作ったベリータルトだった。赤と黒のそれを認めてからキバナさんを見上げる。
「ほら」
 ごくり、つばを飲み下す。自分の作ったものを見るのも、食べるのも好きだ。いつもいつも、お菓子を作ったときにはまず自分の舌で味を確かめていた。しかし、今はちがう。食べたところで意味がないのだ。おいしいかも、まずいかも、まったく感じられない。わからないって、キバナさんに知られてしまう。だが、彼は再度、「ほら」と促してくる。
 私は観念してそれにかじりついた。刹那、口の中で酸味が弾けた。
 ラズベリー、ブルーベリー、それからいちごにブラックベリー。鼻腔に鮮やかな風が吹き抜ける。まばたきを一回。そして、まったりとしたクリームの海に包まれた。
「どうだ?」
 ごくん、喉を上下させた私にキバナさんは言う。
「ちょっと、すっぱい、ですね」
 ――戻ってきた。
 口の中に残るブラックベリーの果肉を潰してくしゃっと顔を歪める。
 キバナさんは、「そうか?」とけろっとした様子で、残りのタルトを自らの口へ放り込んだ。

 こうして無事メニューが決まり――おそらく、当日まで微調整が続くことは予測されるが――なんとか、主催であるマクロコスモスへ提出するレポートを仕上げることができた。コンセプトや内装デザインはもちろん、原材料の詳細と製作手順、それから提供方法。ショーケースの中に並べたお菓子を選び、席でオーダーする、よくあるパティスリーのイートインスタイルで行うことにした。生ものを扱うことから、食中毒のおそれを考慮し、基本的にテイクアウトはなしでイートインのみ。ただ、それだと混雑する可能性があるので、スタジアム内での飲食ならば許してもいいのではないか、という結果にも至った。
 メニューが決まれば、提供数から大まかな材料数を出せることもあり、イベントまであと二週間を切ったところで、やっと使用する食材の発注を済ますことができた。土壇場での大量発注に、正直、断られるどころか出禁になるのではと肝を冷やしたものだが、どこにも拒否されることがなかったのは、ブラッスリーやナックルジムの伝手をたどったおかげだった。
 そして、休む間もなく、いよいよ前哨戦が幕を開けた。
 週末に控えたイベントへ向けて、ナックルスタジアムの厨房を借りて製菓準備にとりかかる。大手のパティスリーとはちがい、作る数はその手の一般的総数と比べるとそう多くはないものの、準備から完成までひとりですべてをまかなわなければならない。本当ならば、当日の朝にすべてを用意できるとより新鮮なものを出せるのだが、どうしても分日して作らないと手が回らないのだ。ニャースの手でも借りたいどころか、カイリキーの手を借りたいくらいの勢いである。
 保存がきかないベリータルトやシュークリーム、サヴァランは当日の朝に完成させるとして、そのほかは日持ちする順にどんどん作っていく必要があった。
「これは、気が遠くなるなあ」
 これまで多くの人々に手伝ってきてもらったが、ここからはひとりで頑張らなくてはならない。この城の主、キバナさんも今ごろイベントの準備に追われているころだろう。仕事だって店長にわがままを言って休ませてもらったのだ――店長は全然わがままなんて思っていないようだったけれど。
「ここからが勝負だ」
 一流ホテルのような広く銀色の鮮やかな厨房にくらりとめまいを覚える。瞑目し深呼吸をひとつ。やがてゆっくりと目を開くと、よし、と頬を叩いてサロンの紐をきゅっときつく結び直した。
 まずは、サヴァランのブリオッシュからとりかかる。強力粉にドライイースト、グラニュー糖、塩、それから無塩バターに牛乳――しかし、いつもの手順で材料を用意し始めたところで、厨房のドアが勢いよく開いた。
「失礼します。キバナから頼まれておりました、ポケジョブのポケモンたちをお連れしました」
 きりりと眼鏡のブリッジを上げて入ってきたのは、ジムトレーナーのレナさんだ。
 ポケジョブ? と瞠目する私をよそに、彼女の後ろからピンクや白のほわほわしたポケモンたちが飛び出してくる。
「ペロリームに、マホイップ……?」
「それから、マホミルもおります」
 ぽやぽやと眠そうに宙をさまようマホミルを捕まえて、レナさんは言った。しんと静まりかえっていた厨房が一気ににぎやかになる。
「こんな、いいんですか?」
 動揺する私にレナさんは凛と胸を張り、唇を頬へ食い込ませた。
「熟練された子たちなので、助けになると保証しますよ」
 緩みそうになる涙腺をなんとか引き締めて、ありがとうございます、と私は高らかに声を響かせた。
 ポケモンたちと製菓作業をするのは初めてだった。しかし、レナさんの言うとおり彼らは熟達したプロのパティシエポケモンたちで――そんな種類のポケモンはいないとだれかに笑われてしまいそうだが、カロスではペロリームを、ガラルではマホミルとマホイップを相棒にしている製菓職人は多い――材料の仕分けから計量、そして調合まで手際よく力を貸してくれた。
 ただ、生まれもった鋭い嗅覚や味覚、それから材料を混ぜる手の熟練度に深く驚かされる一方で、彼らの力ばかり頼るわけにもいかないのも確かだった。日によって温度も湿度も変化するうえ、自然の食材を使用するから味のばらつきだってある。それから、オーブンだっていつもとちがうのだ。絶妙な調味料の加減や焼き時間の調整は、人間の手で行わなければならなかった。当然ながら、飾りつけも。
 一瞬たりとも気は抜けなかった。それでも、彼らに囲まれて、大事な思い出の器具を使ってなにかを作るのは幸せだった。
 必要数のブリオッシュやパート・シュクレを焼き終えたころには、ほぼ満身創痍に近かった。身なりはボロボロ、集中しすぎてアドレナリンが出ている状態で、ポケモンバトルをしていたらきっとこのくらいなのだろうという感じであった――といっても、そんなことを考える余裕もなかったのだが。
 スコーンやポルボロンの型抜きをするときにはその果てしない作業に本当に終えられるのかと不安にもなった。いつまで続くのだろうと途方にも暮れた。しかし、幸せになりたい人たちがいるかもしれない、おいしいものを食べてなにもかもを忘れたい人たちがいるかもしれない、そう思うと、手を止めるわけにはいかなかった。
 きらきら煌びやかな宝石に胸を躍らせるように。いや、道端に咲いた一輪の花を見つけたささやかなときめきでもいい。疲労や絶望をクリームや砂糖で包んで、すてきな夢を見られるように。あるいは、幸せの花をほころばせられるように。そこに、ポケモンや人間の分け隔てはない。
 かつて、母が私や父のためにたくさんのお菓子を作ってくれたのと同じで、「おいしい」と、目を細めて頬を緩める、そんな笑顔のためなら、そして私を支えてくれたひとたちのためなら、私はいくらでも頑張れる。

「こんなところにいていいの?」
 怒涛の厨房戦争を終えて、当日。日が昇ると同時にタルトやサヴァランなどの飾りつけを完了させた私は、晴れやかなイッシュポップスが流れるブラッスリーでレモネードを飲んでいた。
 イベント、もう始まるよ? と心配そうな店長の問い掛けに、いいんです、とストローを咥えたままぼんやりと答える。
「提供はもともとスタッフの方に任せる予定だったので」
 達成感もあるが、連日の酷使で体はぐったりである。ラムの実の力を借りなければ起きていられないくらいだった。
「まあ、このところずっと目まぐるしい忙しさだったもんね。ちょっとは休まないとか」
 お昼ごろに顔を出したらいいんじゃない、と店長は苦笑いを浮かべながら、我が物顔でカウンターの下に居座るイーブイにポケフーズを出してくれる。
 開店直後のブラッスリーはのどかだ。カスティール・ゴールドの照明にアコースティックギターが踊り、焙煎されたコーヒーのいい香りが漂っている。ぼんやりとカウンターの向こうに並べられたリキュール瓶を眺めながら、店長にはバレないようひとりでに息をついた。
 本当は、今ごろスタジアムで待機している予定だった。開催セレモニーが執りなされたあと、キバナさんと来場者の反応を見ようと約束していたのだ。だが、朝の仕上げ作業を終え、カフェブースの内装ができあがるのを見届けると、私はスパイクタウンへと帰ってきてしまった。一応、レナさんには休憩をしたいからと言伝を残してきたが、その休憩から帰れる自信はなかった。
 お菓子を作るのは好きだ。しかし、作ったお菓子を不特定多数の「お客さん」に食べてもらうのは初めてだ。それゆえ、あのままスタジアムにひとりでいるのが怖かった。ポケジョブを終えたポケモンたちはそそくさと帰ってしまったし、わいわいと活気に満ちていくナックルシティは、やはりどこか居場所がないように感じた。
 ブブイ、足もとから声がする。
「うん? なあに、もう食べたの?」
 ひょいと下をのぞく私に店長がふり返る。
「甘い匂いがするんじゃないの」
「えぇ、一応家に帰って、シャワーは浴びたんですけどねえ」
 手首をすんと嗅ぐが、自分の匂いはよくわからないものだ。せっけんの香りに首をかしげたあと、レモネードをカウンターテーブルの奥に置いて、かりかりと靴を掻くイーブイを抱き上げる。
「そういえば、その子もそろそろお風呂に入れてあげないとね」
 カウンターの向こうから店長がグラスを磨きながら言う。
「そっか、ポケモンもお風呂に入るんですね」
「ポケモンによるけど、毎日水浴びやブラッシングとかの手入れを怠らないトレーナーもいるね」
「なるほど。ちょっとほつれてきてるから、ブラッシングしないとかな」
 ふわふわと高級綿のような飾り毛に指を通す。ごろごろと心地よさそうに喉を鳴らす様は、イーブイというより飼い慣らされたチョロネコみたいかもしれない。
 疲れた体にポケモンってちょっといいかも、ひたすらイーブイを愛でながらそんなことを思う私だった。
「って、この子、まだ私のポケモンじゃありませんよ」
 ハッとする私に店長は悠揚に目を瞬いた。
「あれ、そうだっけ」
「そうなんです、すっかり馴染んでますけど」
 毎朝仕込み開始とともにベルを鳴らし、そして閉店とともにスパイクタウンへ消えていくものだから、つい私もその気になっていた。
「それにしたらすごい懐きようだね」
 店長が朗らかに笑う。
「ですよねえ、迷子だったらトレーナーに届けてあげなくちゃなんですけど」
「ポケモンセンターに連れていってみたら?」
「あ、そっか。その手がありましたね」
 あとで連れていってあげる、と頭を撫でると、イーブイはつぶらな瞳で私を見上げてくる。本当に連れていくの、という感じだろうか。あるいは、なあに、だろうか。
 その表情を読みとろうと四苦八苦していると、ヴー、ヴー、とズボンのポケットが振動した。いつもの癖で早く出なくてはと慌てて携帯を取り出す。だが、イーブイを落とさぬようしっかり抱きなおして、その発信者を見るやすぐに後悔することとなった。
「……キバナさん」
 画面に映し出された名に、体がそわそわしだす。やはり、ばれてしまったのか。
 時計を見るとセレモニーが終わった時間だった。とはいえ、まだ体は重く、迷う間もなくため息が唇からこぼれる。その着信に気づかぬふりをして、携帯をポケットに戻すことにした。
「いいの、出なくて」
 父親のようなやさしいまなざしの店長にただ肩をすくめる。子どもみたいなことをして、本当はだめなのだが、もう少しだけ。
 そこに、カランカラン! といつもより激しいベルの音がした。
「いらっしゃ――」
 店長はすぐさまにこやかに迎える。が、言葉半ば、目を見開いて固まった。
 え? と、私も入り口をふり返る。
「チャ、チャンピオン……?」
 そこには、店長の最推しであるガラルリーグの頂点、チャンピオン、ダンデが赤いマントをなびかせ立っていた。
「すまないが、彼女を借りても?」
「どっ、どうぞ! うちの子でよければなんなりと!」
 さきほどまでやさしく緩んでいた顔もどこへやら。突然の推しの登場に、沸騰したヤカンのようにみなぎった顔で店長はカウンターからホールへ降りてくる。
「ほら、チャンピオンが呼んでるよ!」
「ま、待ってください店長!」
「本当ならカレーをご馳走したいくらいだけど、なんだか入り用っぽいからね。また来るよう、約束、とりつけてきてね!」
「そんな気軽にお願いできる仲じゃないんですけど!」
 と、いうより、まずどうして彼がここにいるのか疑問に思わないのだろうか。そんな言葉は、当然ながらイーブイのふわふわなホイップヘアへ吸い込まれていった。
 とんちんかんなやりとりを知ってか知らでか、チャンピオンは威風堂々とした佇まいでこちらまで歩んでくる。
「キバナが手を離せないんで、君を迎えに来た」
 げぇっ、とダイオウドウに踏まれたガマゲロゲみたいな声が出そうになって、とっさに口を押さえる。
「あの、それは、どういう」
「さあ。オレにしか頼めないって言われてな」
 わざわざ自分と忙しさを競うような人物を寄越すなんて。脳内でキバナさんのしたり顔が思い浮かぶ。絶対、ぜったい、ゼッタイ! チャンピオン相手なら店長が断らないってわかっていたにちがいない!
 まったくキバナさんめ。ここにはいない依頼主を恨めしく思う私とはうらはらに、「途中迷いそうになったがリザードンに連れてきてもらったんだぜ!」と彼は豪快に笑っている。店長も店長で、「いやあ、リザードンに感謝しなければなりませんね! ぜひまた遊びにきてください! 歓迎しますから!」などと、店の名刺を渡してちゃっかりモーションをかける始末であった。
「よし、キバナを待たせているから行こう」
 店長に帽子のツバを下げて丁寧に挨拶をし、ダンデさんは私の肩に手を置く。ブイ、とイーブイもなぜだかその気だ。
「あの、拒否権は」
「ないな!」
「やっぱりぃぃ」
 これがうわさのチャンピオンタイムか。強い力で私をドアへと歩かせるダンデさんの顔は、凛々しくも、おもしろいおもちゃを見つけたいたずら少年のようであった。
「写真! 店の前で写真だけでも!」
 どこからか一眼レフを取り出した店長に呼び止められ、陽光がうっすら射すブラッスリーの店先で記念写真を一枚撮る。
「うちの子をよろしくお願いします」
 撮れた写真の確認をしたあと、そんなことを述べる店長に、「ああ、もちろん!」とダンデさんは手を差し出した。思いがけない握手に、店長の顔はこれでもかというほど緩んでいた。
 ダンデさんもダンデさんだ。よろしくと言われて、とっさに「もちろん」と答えるその明朗さが恨めしくなる。
「では、行こうか」
 モンスターボールからリザードンが出てくる。もはや逃げる余地はないらしい。
「いってらっしゃい」
 手を振る雇い主に、「店長のいけず」とイーブイをきつく抱きしめて唇をとがらせる。店長は困ったなとでもいうふうに頬を掻いたあと、目を細めて笑った。
「きちんと、自分の作ったものがどうお客さんに届くか、その目で確かめるのもプロの仕事だよ」
 行っておいで。やさしく背中を押され、私はダンデさんとともに飛び発った。

 イベントは大盛況のようであった。風情ある城塞の街並みはガラルリーグに属するジムやスポンサーのロゴ旗で彩られ、乾いた音の心地よい石畳が多くの人やポケモンで埋め尽くされている。
 街中に降り立つスペースはないため、ナックルスタジアムの屋上にリザードンを着地させると、エレベーターを使って階下に下りた。スタジアムからはマクロコスモスのローズ代表の声が聞こえていた。
「お、きたな」
 ダンデさんに連れられるがままエントランスまでやってきた私を出迎えたのは、キバナさんだ。いつものパーカー姿ではなく、エキシビションマッチで見た由緒正しいドラゴンユニフォーム姿である。
「助かったぜ、ダンデ」
「いや、オレもいい運動になったさ」
 エントランスはふたりの登場に騒めきたっていた。それもそうだ、ガラル二大ビッグスターが目の前に現れたのだから。そんなふたりを前に平静を保っていられるのは、ローズ代表とその秘書である女性くらいだろう。
 そんなふうに思いながら、そっとふたりから距離をとろうとする私をキバナさんが目敏く見つける。だが、気まずそうな様子に気づいたのか、長い腕を伸ばして腕の中のイーブイをひと撫ですると、「行こうぜ」とあごをしゃくった。
 高い天井に石づくりの壁、いつもは荘厳なエントランスの一角。シミひとつない白いシャツに黒のロングサロンを着けた男女が、オーク材の丸いテーブルのあいだをくるくると動き回っている。その手には器用にトレイを載せ、白い丸皿に赤と黒のコントラストの美しいベリータルトを。もう一方のウェイターは、サヴァランとヌメラのねがいぼしをテーブルへ届けている。
「どうだ、おまえの店は」
 十席にも満たない小さなカフェブースだが、すべてが埋まっていた。
 丸テーブルに着き、白い皿を前にカメラを構える人、その横でスコーンへかぶりつくホルビー。銀のスプーンを口に運んでぎゅっと目を瞑ったり、ポルボロンをホシガリスに奪われて頬を膨らませたり、ヤンチャムと子どもがシュークリームに飛びついて口の周りにそっくりな乳黄色のひげを作っていたり。それから、笑いながらベリータルトにかじりつく女性ふたり。周りの騒めきに埋もれてはっきりとした声までは聞こえてこない。だが、豊かな音がした。
「すごい」
「ああ、すごいな」
 陶然とつぶやいた私の横で、ダンデさんが力強く繰り返す。
 イートインスペースの奥には、あまり大きくはないが立派なガラスケースとキャッシャーがあった。その前では、今まさにひとりの男性がお菓子を選んでいる。短く当てられたパーマにサングラス、一見強面だが、相棒のバチュルとともに食い入るように宝石箱を眺めている。
「すごい……」
 目の前に広がる光景に、もはやそれしか言葉が出ない。胸が熱く、心臓が強く大きく弾んでいる。騒めきが遙か遠く、だが少しずつ、彼らの声が流れてくる。
 おいしいね。かわいい。おまえもう三個も食っただろ! ねえママ、もっと食べたい! チャム! 混んでるね。早く食べたいなぁ。どうしよう、まじで決めらんねぇよ、なぁバチュル。
「すごいだろ」キバナさんが言う。
「すごいんだよ、ここのパティシエは」
 ぶわっと心の奥底で眠っていた種が芽吹き、いつのまにか大きく花が咲く。豊かな音に満ち、明るい光が燦々と降りそそいでいる。目映い光の海の中で美しい鐘の音がたゆたう。
 ――これが、私の描いていた、世界。
「すごい」
 声を潤ませ手の甲で唇を覆う私に、キバナさんが喉を鳴らして笑う。
「記念に写真でも撮っとくか」
 スマホロトムを取り出して、キバナさんがカフェブースを背景にインカメラを構える。ダンデさんはいつのまにか居なくなっていた。
「大盛況っと」
 SNS用に自撮りを撮ってから、それをすぐさま投稿する。その手さばきは友人にメールを打つような手慣れたもので、なんだかいじらしさがあった。
 じわじわと潤んだ目もとを拭ってそれを見守る。くすりと笑っていたのがバレたのか、キバナさんは、「なんだよ」と唇をとがらせた。
 なんでもないです、とイーブイの後頭部に口もとを埋める。
「よし、ここのパティシエさまとも撮んなくちゃな」
 キバナさんはニッと八重歯をのぞかせるやいなや、私に向けて手招きをした。
「あの、私はいいです」
「記念だ、記念」
「炎上はいやです!」
 ブイ! ブブイ! 腕の中からも援護の声が飛ぶ。なんだよ、とまたしても腑に落ちない顔をするキバナさんだったが、しばらくして諦めたのか、「じゃあ、そこに立て」と言ってきた。
「このキバナさまがカメラマンになってやろう」
 どちらにせよ炎上案件だ。頑なに首を横に振る私である。
「無理です」「なんでだよ」「考えてください」「ハァ?」「ブーイ!」などと応酬を繰り広げていると、後ろから声がかかった。
「あの、もしかして、このタルトってお姉さんが?」
 さきほど、席でベリータルトを頬張っていたふたり組だった。スタジアムで食べるようにか、ちゃっかりバラの花びらがあしらわれたベイクウェルタルトを手に握っている。
 あ……と言葉に詰まりぎゅうとイーブイを抱き込む私をよそに、キバナさんは迷うことなく答えた。
「そうだぜ。どうだった?」
「すっごく、おいしかったです! クリームの甘さとベリーの酸味がちょうどいいし、生地のサクサク感が残っているのも最高で」
「それに、食べるのがもったいないくらい芸術的な見た目なのに、でもおいしいから食べる手が止まらなくて、もう大変で」
 飛び交う言葉を追いかけるのが精一杯だった。
 だろ? キバナさんは屈託なく笑っている。
「タルト以外にもヌメラのねがいぼしとサヴァランも食べたんですけど、ふたつとも初めて食べるお菓子で、なんていうか、もう言葉にできないくらいで」
「そう! こんなお菓子があったんだ、って感動しちゃいました! また明日から仕事かあ、なんて愚痴が吹き飛ぶくらい、ほんとう、夢見てるみたいだったんです!」
 興奮気味に続ける彼女たちにキバナさんは眉を上げてこちらを見やる。
「だってよ、パティシエさん」
 その視線にハッとした。
「あっ、あの、ありがとう、ございます」
 顔が熱い。いや、顔だけではない。手も足も体もとにかく全部が熱くて、細胞ひとつひとつが弾け、ダンスでも踊っているみたいだった。
「写真、いいですか?」
「いいぜ」
 携帯を取り出した女性にキバナさんが快諾する。
「じゃあ、キバナさま、カメラお願いします」
「そっちかよ」
 携帯を差し出され、キバナさんは突っ込んだ。
 そんな彼らのやりとりを眺めていると、ふわり華やかな香りが鼻をくすぐる。私は女性ふたりに挟まれていた。
「イーブイだぁ」
「ほんと、ちっちゃい」
 かわいいねと若い子ふたりに撫でられ、満更でもなさそうに彼は耳をぴくぴくと動かしている。
「お店、あるなら教えてくださいね。絶対に行きますから」
 もうひとりの女性もウンウンと力強くうなずいてくれる。あまりの勢いに私は眉を下げて笑うばかり。しかし、決していやではなかった。むしろ――。
「撮るぞ」
 キバナさんが手を上げて、はい、と三人で返事をする。どんな顔をすればいいのか正直よくわからなかったが、考えるよりも先に体が動いていた。自然と頬がほころび、携帯を構えるキバナさんを私は見つめていた。
「なかなかの勢いだったな」
 写真を撮り終え、人ごみに消えていくふたりの背を眺めながらキバナさんはあごを撫でる。そうですね、と、いまだ陶酔と混乱の境界をふらつきながら返事をした。
「でも、よく覚えておけよ、あれを」
 キバナさんの顔を見上げる。示し合わせたかのように目が合って、ふっと微笑する彼に私も彼女たちの背中を見送った。
 媚びるわけでもない、胸から湧き上がった感情をぶわっと言葉に表した彼女たちのたねマシンガン並のトーク。それを思い返すと、なんだか気持ちがふわふわした。あの熱にあてられたように、いまだに体が熱かった。
「さて、オレさまたちも食ってくか」
 腕組みをしてキバナさんが言う。こそばゆいが、あの空間で自分も食事をしたい気持ちがあった。賛成、とうなずきかけたところで、時計を見やる。
「お時間、大丈夫ですか。結構混雑してますけど」
 キバナさんは目の前の行列を見て、むっと難しい顔をした。
「だなぁ。でもダンデたちに頼まれてんだよなあ、いくつかキープしといてくれって」
 自分たちで行けよなぁったく、と頭を掻いてぼやくキバナさんに笑いながら、私はもう一度彼女たちが去って行ったほうへと視線を戻した。
 人々が行き交う荘厳かつ瀟洒なエントランス。明るく陽射しが射し込み、そこかしこに笑い声があふれている。ナックルスタジアムの新たな一面を見たようだった。だが、その中にある姿を見つけてしまった。
 まさか。くしゃくしゃの黒髪に、陽に当たったのか赤くなった鼻先や薄い唇。前髪の下からは榛色の涼やかな瞳がのぞく。
 どくん――強く脈が打ち、世界が止まった。
「どうした?」
 唐突に後ずさる私に、キバナさんが眉根を寄せる。
 ――食べたいと思わねぇよ
「そんな……まさか……」
 頑張るって決めたのに。もう一度、前を向くって決めたのに。それまで飛び交っていた音がすべて遠ざかる。笑い声も、歓声も、それから感嘆のため息も。指先がチリチリし、背中がやけに寒い。
「大丈夫か」
 キバナさんが私の顔をのぞき込んでくるが、もはや、かなしばりに遭ったように身動きひとつできなかった。
 なにもかもが彼方へ消え、残ったのは確かな苦しみだ。やがて、おしゃべりをしていた切れ長の瞳が私を射貫き、やおら目が見開かれる。無残にもひゅうと喉が鳴った。目の奥がチクチクする。指先が寒い。今にも腰が抜けてしまう。ここから逃げ出したくてたまらない。駆け出してしまいたい。だが、足は床に張りついて離れない。
 彼が、ゆっくりと歩んでくる。
「――キバナさま! こんなところに」
「ヒトミか、なんだ?」
「実は……」
 一歩、二歩――おいしい。マジで天才だよ。本当、君のご飯を食べると幸せになる。大丈夫、俺がそばにいるから。そうだ君の店を出そう。そういや別れたのか? まあ、な。仲良かったのに、料理もうまいんだろもったいない。いや、あんな女、別れてせいせいするよ。ぜんぶ、うそだったの。才能なんてあると思ってたのかよ。
「――だれも、お前の作ったものなんて、食べたいと思わねぇよ」
 頭の中にさまざまな声が流れ込んでくる。
 だめだ。やっぱり、私には無理なのだ。私じゃ、私なんかじゃ――。
 喉が締めつけられ、息ができなくなる。苦しい、だれか。助けを求めようとするが、体が少しも動かない。黒いなにかが追いかけてくる。遠くから、すぐそばから、私の体の中から。すべてをのみこもうとしている。
 だれか、おねがい……。だれか……。
 たすけて……。
 おかあさん、おとうさ――。
「キバナさま、こちらへ」
「ああ」
 暗澹とした海の中で、私の腕をだれかが引っ張った。

「しっかりしろ」
 肩を強い力で揺さぶられ、ハッと意識を取り戻した。顔を上げるとのぞき込んでくるキバナさんと目が合った。
「わ、たし……」
 彼の向こうに、堅牢な石造りの壁と絢爛な赤い絨毯が見える。光の燦々とそそぐエントランスとはちがい、より厳かな雰囲気が漂っていた。しん、と重たい空気の先に、幽かに人びとの騒めきが聞こえる。
 そうだ、私――刹那、さきほどの光景が脳裡に駆け抜け、体が震え出した。
「すみませ……わたし……やっぱり、むり……」
 空気が塊となって喉に痞え、言葉がうまく紡げない。
「いいから吐け」
 キバナさんは肩を掴んだまま、私の目をじっと見つめてくる。
「息を、吐くんだ」
 なんて、弱い人間なんだろう。浅く繰り返される呼吸をなんとか鎮めようとするのにうまくいかない。
「ゆっくり、吐くことに集中すればいい、大丈夫だ」
 目の奥がチリチリする。頭は重く、ジン、となにかで殴られたように痛む。脈は強く波打ち、今にも血管が弾けてしまいそうだ。
「わたし、やっぱり、まちがってました」
 すぐに、ここから逃げ出してたまらない。それなのに、逃げらない。濃密な空気が重石となって頭にのしかかる。それでも、逃げ出さなくちゃと脳が悲鳴を上げていた。
「うまくいかない、たぶん、ぜんぶ、壊れちゃう。いやだ、いやなんです。わたし、もうこれ以上、なにも、真っ黒に塗りつぶしたくないんです」
 大切な思い出を、大事なものを。
 ひゅう、ひゅう、と喉を鳴らして、必死に酸素を求める。苦しかった。呼吸のしかたがわからず、ただひたすら死への絶望と恐怖に耐えていた。
「オレを見ろ」
 掴んだ肩を揺らし、キバナさんが強引に目をのぞき込んでくる。
「もう、忘れちまったのかよ。さっきの光景を、言葉を」
 震える体を押さえ込むように、掴まれた肩が痛い。
「おまえの見た人間の顔は、ポケモンたちの姿は、すべて偽物だったか」
 淡い光が射し込んでいる。きらびやかなガラスケースに、朗らかな笑い声の聞こえるカフェ。頬が赤らみ、目がきゅっと細まる。
「でも、わたし」
 俯く私を、キバナさんは逃さない。
「おまえに自信がないのなら、つけるしかない。けど、過去の一度のつまずきに、いつまでも、いつまでも、めそめそしてるだけなら、さっさと忘れろ」
「そんなこと……そんなこと、言ったって、キバナさんに私のなにがわかるんですか」
「わかるから言ってんだよ!」
 しん、とした廊下にキバナさんの声が響く。
「おまえは知っているはずだ。ダンデに勝てない万年ジムリーダーのオレさまが、世間からなんて言われているか」
 そんなの、言葉を紡ごうとして閉口する。SNSの彼の投稿、ポケモンたちと自撮りをする写真についた罵詈雑言。どうにか視界から追い出そうとしても、自然と目についてしまった。
 黙り込んだ私に、キバナさんの顔が歪む。しかし、まなざしは恐ろしいほどにまっすぐだった。
「オレは、何度も、何度も、フライゴンが倒れる姿をこの目で見続けてきた。いくら努力を重ねたって、いい試合をしたって、この世界じゃ、負けたら同じなんだ。恐ろしいさ、悔しいさ。ああ、死ぬほど悔しいんだよ!」
 広いスタジアムに立つキバナさんは、とても大きく立派に見えた。竜の咆哮を上げ、自分よりもはるかに巨大なポケモンを携える。堂々としていて、凛々しくて、なにより、だれよりも息をのむほどの迫力があった。
「スタジアムに立つのが恐ろしい日だってある。すべてを投げ捨てたいときだってある。でも、オレは諦めない」
 ――絶対に。キバナさんの声が静かにこだまする。
「どうして」
 震える唇を、かろうじて動かすのが精一杯だった。
「どうして、そんなふうにいられるんですか」
 どうして、そんなに強くあれるのだろう。恐ろしくて、怖くて、だったら、投げ出してしまえば楽なのに。
「無駄にしたくないからだ」
 キバナさんは言った。
「自分が頑張ってきたことを、共に頑張ってきたあいつらの想いを、オレの想いを、大事にしたいからだよ」
 いつのまにか腕から離れていたイーブイが、キバナさんの足もとから飛び出してくる。私の脚を掻き、鼻をすり寄せ、洋服の裾を噛んで引っ張ってくる。
「おまえも、おまえの気持ちを、思い出を、両親との宝を! もっと大事にしてやれよ! 大事なんだろ、だったら、大切にしろよ!」
 震えている。キバナさんの声が、指先が、碧い瞳が震えている。やさしき竜の咆哮が響き、しんと空気が静まりかえる。目の奥が痛いほどに熱く、喉が疼き、胸は今にもはり裂けそうだった。
 ぐっとなにかをのみくだして呼吸を整えると、彼は一度瞳を伏せ、深呼吸をしてから顔を上げた。
「おまえをオレは信じてる」
 力強い、言葉だった。
「オレたちは、信じてる」
 絨毯の上で小さく縮こまった私の肩を、ヒトミさんがキバナさんの手ごとブランケットで包んでくれる。
「だから、おまえも信じてやれ」
 冷えた体に、それはとてもあたたかかった。肩を掴む力がいっそう強くなる。これ以上強くなったら、いっそ取れてしまうのではないかというほど。
 碧い瞳が私を貫いている。一瞬たりとも逸らさずに、私の中の小さな迷子の女の子に手を差し伸べている。震える脚をやわらかな飾り毛が撫でる。丸まった背をあたたかなコットンが包む。溺れる瞳を、厚い胸板がすくい上げる。
 堅牢な壁の向こうでは、幸せそうな笑い声が高らかに響き渡っていた。