魅惑のサヴァラン

 ふわり、漂う香ばしい匂いに、カシャ、という乾いた音が弾ける。
「よし」
 携帯を宙に掲げていた私は、画面に映し出された写真にひとりでに大きくうなずいて、淀みない手つきでそれを操作し始めた。
 白い丸皿に載ったモンスターボールほどの焼き菓子。鮮やかなロコン色にクリーム色のアーモンドの花が咲く。
「あっ、アマンディーヌだ」
 カウンターでひとり撮影会を開催していた私に、ふらり匂いにつられて店長がオフィスから顔を出した。
「そうです、よくわかりましたね」
「カロスへ修業に行ったとき、よく食べてさぁ。僕これ大好きなんだよね」
 そう、これは製菓の都カロス発祥のアマンディーヌというお菓子だ。タルト生地にアーモンドクリームをたっぷりと詰めて焼いたもので、起源はおよそ三百年以上まえに遡るカロス伝統の味だという。
 いい匂い、と息を吸い込む店長に思わず私も頬を緩める。
「じゃあ店長、味見お願いします」
「え、いいの? これ、だれかにプレゼントするんじゃなくて?」
 とは言いつつ、眼鏡の奥で丸い目がらんらんと輝いている店長である。
「今日オーブンを借りたお礼です」
 どうぞ! 携帯をテーブルに置いてアマンディーヌの載った皿を差し出すと、すぐさま手が伸びてきた。
「うれしいなあ。じゃあ、遠慮なくいただくよ」
「はい、もちろん」
 つやつや、表面に塗られたラムの実のジャムがブラッスリーの淡い黄色の光につやめく。うん、やっぱり見た目はばっちり。あとは、肝心の味だ。
 店長が口へ運ぶのをどきどきしながら見守る。サクッ、タルト生地が軽やかに鳴り、大きな瞳がかすかに細まる。もぐ、もぐ、咀しゃくに合わせて頬が揺れ、やがて喉がごくんと大きく上下すると、強面の顔がとろけたバターのようにだらしなく崩れた。
「くぅ、やっぱりたまらないね、この味!」
 上品な甘みとさっぱりとした酸味! 最高! とさらにひと口かぶりつく店長に、私はホッと胸を撫で下ろした。
「よかった、アマンディーヌ好きにそう言ってもらえるとうれしいです」
「あまひゃおはんみのばらんしゅあ」
「なにを言ってるのか、全然わからないですよ」
 こうして見ると、本当にお茶目な人だ。まったく、頬張ったまましゃべるなんて。店長にくすりと眉を下げると、店長は、「失礼」と断りを入れる。そうして、じっくり味わってから言い直した。
「甘さと酸味のバランスがすっごくいい。タルト生地もアーモンドクリームの味を邪魔せず、じっくり噛むとほのかに苦味がにじむのもすばらしい」
 改良に改良を重ねたかいがあった。気を遣っていた部分を意図せず褒められるというのは、なんとも気持ちがいい。
 卵をいくつか泡立てて、泡にそそぐはとびきりのセドラの滴――。
 そんな詩が脳裡で旋律を伴う。こそばゆさにちょこんと肩をすくめるも、緩んだ頬はもとに戻りそうになかった。

「お、来たな」
 よっ、と煉瓦造りの壁に凭れていた背が動き、輝かんばかりの笑みが視線を奪った。
 あいかわらず、モデルみたいな人だ。思わずその整いすぎた顔に直面するのが怖くなリ、前髪をサッと手ぐしで整えてからへにゃりと笑みを返す。
 そう、今日はキバナさんとワイルドエリアに行く約束をしていた。
「すみません、お待たせしちゃいましたか」
 久しぶりのキバナさんだ。静かに暴れだす心臓をごまかそうと、心ばかりの駆け足をして歩み寄る。彼は涼やかにパーカーのポケットへ手を突っ込んで私を待ちうけた。
「ん。今、来たばかりだぜ」
 さわやかな昼下がりの陽射しを浴びてキバナさんは微笑する。よかった、震える手で胸を撫で下ろそうとしたところで、「うそだロト!」と気の抜けた声が落ちてきた。
「キバナ、三十分まえから待ってたロト!」
 ふよふよ、彼の頭上を飛び回るロトムである。
「オマエなぁ!」慌てて、ドラゴンのうめき声がおしゃべりなスマホを黙らせようとするも、時すでに遅し。
「三十分まえって、本当ですか」
 ロトムの言葉にぎょっとして体を小さくする私に、キバナさんは、はあ、と額へ手を当てた。
「たまたま、仕事が早く終わっただけだ。気にしないでくれ」
「でも、お忙しいのに」
「ああもう! オレさまがいいって言ってんだから、いいんだよ!」
 大きな手が伸びてきて、とっさに目を瞑る。わしゃわしゃ、さきほど直したばかりの前髪が掻き混ぜられた。その額を覆ってしまうほどの逞しさと触れた瞬間の温度に、体が言うことを聞かなくなる。
 すっかり言葉を失った私に、キバナさんは、ったく、と声をもらした。
「ほら、行くぞ」
 背の高い彼を見上げると視線が絡み合った。空と同じ鮮やかな碧なのに、遠くの海のように、果てしなく深い。なんだか、そのままさらわれていってしまいそうになる。あれだけ整えたはずなのに、乱されたのは前髪だけではなかったみたいだ。
 ……ううん、気のせいよ。ぜんぶぜんぶ、気のせい。
 必死にまばたきでごまかして、私はキバナさんにうなずいてみせる。頭上では、砂塵から吹き上げられた砂埃が、小さく渦を巻いていた。

「これくらいかなあ」
 ナックル丘陵から巨人の腰掛け、さらにはストーンズ原野、ワイルドエリア中を渡り、あらゆる木を揺らし続けること小一時間。手にしていた袋は、色とりどりのきのみでいっぱいになっていた。
 ワイルドエリアはまさに宝庫である。たっぷり詰まったきのみ袋に、フライゴンが、ふりゃあ、と甘い鳴き声を上げる。その美しい首すじを撫でてから、立派な木の幹にけたぐりを繰り出していたギガイアスにも声をかけた。
「ありがとうね」
 足をちょこんと上げた彼に、キバナさんから教えてもらった好物のきのみを差し出す。ギガイアスは弾んだ様子でこちらへ寄ってきた。この様子をキバナさんはジュラルドンとサダイジャとともに見守っている。その足もとにはヌメヌメと陽気なヌメイルの姿。これも久々だが、あいかわらず愛らしい光景である。
「キバナさんも、いろいろなところに連れていってくださり、ありがとうございます」
 ギガイアスとフライゴンとともにキバナさんのもとへと戻る。
「おう。いいきのみは見つかったか?」
 彼はニッと八重歯をのぞかせた。
「はい。ちょうどほしかったカシブの実とハバンの実を見つけました」
 両者ともお菓子づくりによく用いられるきのみだ。カシブはピンク色でほうき型をしている。それと、ザロクに似たハバンの実を袋の中から探し出してみせると、キバナさんは感心したようにあごに手を当てた。
「へえ。名前は聞いたことがあったが、こんな形なのか」
「カシブなんて、こんな見た目ですけどアイスにしたりするとおいしいんですよ」
 まったり、濃厚なその味を思い浮かべて自然と頬がほころぶ。聞いていたのか、スイーツホリックのフライゴンが大きく羽ばたいた。
「食ってみてもいいか?」キバナさんは言う。
「もちろんです」
 どうぞ、と手のひらを伸べると、逞しい指がカシブではない赤い実を捕らえる。
「さんきゅ」
 あ、と思ったが、止めるまえにそのハバンの実が口へ放り込まれた。
「っ、にっが!」
 キバナさんの叫びがワイルドエリアに響く。
「す、すみません。実は、ハバンの実は生食に向いていなくて」
 口を押さえてくしゃっと顔を歪めた彼に、慌てて口直しのモモンの実を探し出す私であった。

 それからひと休みをしに、巨人の鏡池のほとりでキャンプをすることになった。キバナさんやジュラルドンたちがテント張りをしているあいだ、ヌメイルと私は池のまわりで食材探しをする。
 水面が燦々ときらめきを放っていた。砂塵のすなあらしがうそみたいに青空が広がり、やわく私たちの視線を奪っていく。気温は少々高いが、ストーンズ原野からの冷気が火照った首すじを冷やして心地がいい。
 正直、こうして彼らと過ごすのは、とても勇気のいることだった。一流トレーナーとそのポケモンたち、対して自分はしがないフリーター。正直に言って、月とカジリガメみたいなものだ。しかし、実際に顔を合わせてしまえば、胸を覆うどんよりとしたもやは、すうっと薄れていく。不思議なものだ。それこそ、分厚く重い緞帳をキバナさんの大きな手が引き上げていくように。
 水辺にはさまざまなハーブが生えていた。青々とした匂いを嗅ぎながら、水浴びをするヌメイルと一緒になって裸足で池に飛び込み、あれこれと採取する。「おーい」と呼ばれたころには、野草が腕に抱えきれないほどになっていて、それを見たキバナさんは、「大量だな」と笑った。
「これだけでしあわせ、だなぁ」
 簡易椅子に座ってひと息。ふとつぶやいた拍子に、キバナさんと目が合う。
「なんだよいきなり」
 また、やってしまった。「いえ、なんでもありません」と、曖昧に笑みを返すが、キバナさんはもの言いたげにこちらを見ている。
 気を抜くと、つい感傷的になってしまう癖がついた。ふとした瞬間、あのドラゴンの勇ましい姿が脳裡をよぎって、私の心を遠くへ連れ去っていく。自分の手の届かない、果てしないところまで。そして、私を荒野へ放り出すのだ。途方に暮れ、私はうずくまるほかない。
 ふうん、とつぶやきながら、指先を重ね合わせ、トン、トン、とそれを打ち合わせるキバナさんに、「そういえば」と私は落ち着きなく背を向ける。
「なんだ?」キバナさんはおもむろに小首をかしげている。
 背凭れに掛けていたリュックを前に抱え中をあさると、壊さぬよう丁寧に荷物をよけながらクラフトの紙袋を取り出した。
「これ、よければ召し上がってください」
 紙袋の中には白いケーキ箱が入っていた。その蓋を開けて、キバナさんに差し出す。
「これ」訝るように緩慢とまばたきを繰り返していた瞳が小さく見開く。
 ブラッスリーで拵えた、アマンディーヌが入っていた。
「ちょうど、作ったので」
「そうか、さんきゅ」
 箱を受け取り、彼は中を確認するやスンと鼻を鳴らして甘い香りを堪能する。
「うまそうだ」
 垂れたまなじりにたっぷりしわが刻まれた。
「アマンディーヌって言うんです、カロスのお菓子なんですよ」
「へえ、なんだか芸術的だな」
 アーモンドスライスで模った花びらを一枚ずつなぞるようにキバナさんはまじまじと見つめている。その横顔にみぞおちのあたりがやけに疼くが、知らぬふりをしてアマンディーヌの説明を加えた。
 途中、やけに視線を感じてちらりと背後を確認してみると、フライゴンたちが、「ぼくのは」「わたしのは」とばかりにこちらを見つめていた。
「もちろん、あなたたちのぶんもあるよ」
 安心させるように微笑んで、リュックからさらにもうひとつ紙袋を取り出す。
 キバナさんに渡したものよりもふた回りほど小さい、ひと口サイズのアマンディーヌが入っていた。
「ったく、と言いたいところだが、この瞬間を待ってたもんなあ、オマエら」
 ふりゃりゃぁやらメェラッやら、さまざまな声が外野から沸いて、キバナさんはお菓子片手に肩をすくめる。ただ、その顔はとてもやさしいものだった。
「結構、待たせちゃいましたもんね」
「そ。もちろん、オレさまもだぜ」
 オレさまも、って、心臓が大きく跳ねる。なんですかそれ、とおどけて眉を下げると、「信じてないだろ」とキバナさんは唇を尖らせた。
 それもそうだ。だってキバナさんが待っていてくれたとしたら、いろんな意味で死んでしまう。だが、ふと初めてスタジアムへ訪れたときのことを思い出して、自然と頬が緩む。オレさまのないのかよ――と頭を抱えた彼の姿だ。
 今日も、きちんとポケモンと彼のぶんを作ってきてよかった。私は心の中でホッと息をつく。その横で、まあいいけどよ、とアマンディーヌを口に含むキバナさんだった。
 がぶり、ドラゴンが花を食らうその姿に、思わずごくりと固唾をのむ。
「うまい」
 おなじみの「う」と「ま」のあいだに「ン」が入る言い方で、顔はふにゃふにゃとホウエン地方のお餅のように弛んでいる。
 ふふ、と思わず声をもらすと、不意に足もとがひんやりした。
「あ……。そうだね、あなたたちもほしいね」
 今か今かと、ヌメイルが目をきゅるんと輝かせて私を見上げている。それだけではない。ヌメッと上がった声に次いで、ふりゃぁやらゴォやら。
「ごめんね、お待たせ」謝りながらポケモンたちにもアマンディーヌを渡していく。
 もしゃもしゃ、口を閉じて行儀よく咀しゃくするトレーナーとそのポケモンたち。その姿はあまりにも穏やかで。
 ――ああ、なんだか、やっぱり。胸が満たされていく。その感情をなんと喩えようか。喉まで出かかって、ぐっと唇を噛み締める。
「本当、いつ食べてもうまいなぁ」
 ぽろりとこぼれた賛辞に、泣きたいやら踊りだしたいやら複雑な笑みを向けて、髪を耳にかけ直す。
「生地にノメルの実の果汁と皮を混ぜ込んでみたんです。お口に合ってよかった」
「だからか。甘すぎず、後味がさわやかだと思って」
「そうなんです。キバナさんのはちょっぴり大人のテイストにしました」
 ポケモンたちには多少ノメルの果汁を減らしてある。アーモンドクリームもシュカの実を炒ってすり潰し、ペースト状にしたものを使った。人間用とポケモン用、きのみの効用と味も考えて分けるのが、このごろのこだわりだ。
 そろそろ、ポケモン栄養学の本でも借りようかしら、そんなことを考えていると、キバナさんがじいっとアマンディーヌを眺めているのに気がついた。
「どうかしました?」
 もしかして、異物でも入っていただろうか。内心ドギマギしながらキバナさんの顔をのぞく。「いや」キバナさんはかぶりを振った。
「これ作んのに、どれだけ時間費やしたんだろうな、って思ってよ」
「え?」思いがけず、瞠目する。
「だって、いつもオレさまやあいつらのことを考えて、いろいろアレンジしてくれてるだろ」
 じっくり、碧い宝石がアマンディーヌのつややかな表面をなぞっては、ふっとまなじりが弛み、唇が弧を描く。
「ホント、これで素人だっていうんだから不思議だよなあ」
 スン、と息を吸い込むと、青い匂いがした。水と泥の混じった、湿った匂い。
「……このくらい、たくさんいますから」
 へにゃり眉を下げて、笑ってみせる。
「そうかねぇ」
 釈然としない顔を浮かべて、キバナさんは残りのアマンディーヌを口の中に入れた。押し込むのでも、投げ入れるのでもなく、最後まで指先を離さずにそうっと舌の上に置いて。なんだか、もったいぶるみたい。
 ぷっくり、なだらかな頬にあどけない膨らみができて、やがて動きだす。
「うめぇ」
 そうしてくにゃっと崩れた目もとは、私のみぞおちをどうしようもなくくすぐった。
 飽きもせず、また手は箱の中へ伸びていく。まるで絵画を眺めるように花びらを眺めては、歌を口ずさむ軽やかさで彼はタルトを手に取る。
「あ」
「あ?」
 こてん、首をかしげると、碧い瞳と目が合った。
「写真、撮ろうぜ」
 すっとそれが細まって、つやつやのアマンディーヌを片手に、ヘイロトム、とキバナさんが声をかける。どこからともなく赤いスマホが飛んできて、私たちの目の前でふよふよと舞を披露し始めた。
 写真といえば、アマンディーヌの写真をポケスタにあげそびれていた。だが、今はそれどころではない。ヌッと近寄ってきた大きな影にハッとする。
 そうだ、この人は無類の自撮り好きなのだ。と、いうことは……。
 ふわりと鼻を掠めた彼の匂いにめまいを覚える。しかし、どうにか正気を保って反射的に距離をとった。拳、ふたつぶん。だが、あっけなくそれは拒否された。
「なんだよ。もっとこっち来ないと入んないぜ」
 捕まれた腕がそうっと引かれる。そのやさしさと手のぬくもりと、それだけで心臓が痛いのに。近寄った拍子に肩が触れあい、もはや思考回路はショート寸前であった。

 そんな調子で、キバナさんとの関係は続いていた。空を見渡せるほどの高いジェットコースターから落ちることも、ぐるぐると目を回すコーヒーカップに乗ることもない。言うなれば、鈍行列車にのんびり揺られている、そんな関係。ときおり小さな爆弾を落とされる気がするが、それはきっと気のせいだ。
 どこまで線路が続くかはわからない。はたして、終点があるのかどうかも。だが、いつでも降りれるように私は準備していた。
「私の、好きなもの?」
 水辺のキャンプから数日。彼から届いた連絡に私はつい情けない声をもらしていた。
『おまえの好きなお菓子を食べたい』
 珍しく、作ってほしいもののリクエストがあったと思えば、これだ。
「好きなお菓子……」
 と、言われると、人間実際には困ってしまうものである。シンプルなクッキーも好きだし、生チョコやババロアも好きだ。苺の載ったヴィクトリアケーキに、モーモーミルクのジェラート、それから、アップルパイ――挙げだしたらきりがない。
 人影のない昼どきのブラッスリー。軽快なビートを耳の裏で流しながら、モップ片手に携帯をにらみつける。
「ただいま」
 そこへ、買い出しに出ていた店長が帰ってきた。
「あ、おかえりなさい。って、大丈夫ですか」
 腕には大きなダンボール箱。蓋はしまっておらず、食材が山積みになって今にもこぼれ落ちそうだ。
「いやぁ、買いすぎちゃってさ」
「もう、いつもそうなんですから」
 月に一度、ナックルシティで開かれる定期市の日だった。骨董などの掘り出し物はもちろん、ガラルの名産品や新鮮な野菜などが手に入ることもあり、この日は店を半日休みにして買い出しに行く。毎月恒例、店長の楽しみのひとつでもあった。
 ごめん、ごめん、と苦笑する店長に駆け寄ってドアを押さえておく。だが、その拍子にバランスを崩して山の一角が崩れた。「あぶない!」と、間一髪のところで、ダンボールから落ちそうになった食材をキャッチする。
「ありがとう、助かったよ」
 ふう、と息をついて店長は笑った。
「あ、この茶葉、手に入ったんですね」
 どうにかふたりで力を合わせ、箱をカウンターに置いたあと、調達した食材の選別を始める。その中に銀色の真空パックを見つけて私はパアッと顔を明るくした。
「そうそう。今日、仕入れるってうわさを聞いてたからさ、早く店を出て正解だったよ」
 真空パックには見慣れない極東の文字が印字されている。初めて見たらなんなのかはわかりにくいが、これはれっきとした紅茶だ。それも、紅茶文化のあるガラルでは知る人ぞ知る高級茶葉である。
 抽出した水は見事なまでのオレンジ色であり、まるで夕焼けを宿した海のように美しい。その見た目どおりあっさりとした軽いテイストだが、奥深い香りがあとに残るのが特徴だ。食後のひと息にもいいが、どちらかというとアフタヌーンティーにスコーンとともに食べるのがちょうどいい。いや、スティッキー・トフィー・プディングでもいいかもしれない。甘々なプディングをさわやかな紅茶の香りが包む……。うん、それだ。
 店に並ぶか、それとも店長と私の特別なまかないのお供になるか。それはわからないが、やりましたね、と頬を緩めてラベルを眺める。つい癖で鼻を寄せると、華やかな茶葉の香りがした。
「でも、目当てのブランデーがなくてさぁ」
 次々と食材を箱から出しながら店長はぼやく。
「ブランデー?」
「そうそう、ブランデー。なんでもカロスの有名なブランデーが並ぶ、って、うちの商工会で騒いでてさ。楽しみにしてたんだよ」
 なのにさあ、と残念そうに手を動かす店長の横で、私は茶葉片手につぶやく。
「ブランデー……」
 それは、甘く芳醇な味わいの蒸留酒。この店では夜になるとよく出る酒のひとつだ。アルコール度数が高いのと、カルーアやラムなどのリキュールよりも癖があるから、個人としては飲むことは少ない。だが――。
「そうだ、ブランデーだ」
 ぽん、と手を打った私に店長は首をかしげた。
「うん? どうかした?」
 私はニッと破顔する。
「サヴァランです。サヴァラン!」
「サヴァラン、って、あの?」
 それがなにかと言わんばかりに、店長はレンズの奥で目をぱちぱちと瞬かせる。そんなマメパト店長をおいて、私はエプロンのポケットに忍ばせていたレシピ帳を取り出した。ザッと勢いよくページをめくって、まっさらなページにペンを走らせる。

 サヴァラン――それは、カロス発祥の焼き菓子であり、紅茶シロップに浸したブリオッシュへクレーム・シャンティを詰め、仕上げに洋酒をかけたなんとも甘美なケーキである。ここガラルでは他のカロス地方のケーキと比べるとあまり有名ではないが、口に入れた瞬間、じゅわっと広がる洋酒の深い香りと、クレーム・シャンティのまったりとした甘みのマリアージュは、なんとも言えないおいしさだ。
 小さいころは食べたくても食べられない代物だったが、いつも母が食べるのをじいっと眺めていた。つやつやした金色のブリオッシュに、純白のクレーム・シャンティ。ふわり甘いブランデーの香りが掠め、この世のものとは思えないほど魅力的だった。
 初めて食べたのは、スクールの高学年になってからだっただろうか。サヴァランを食べたってお外で話しちゃダメよ、そんな小言を受けながら私は夢中で銀のスプーンをケーキへ刺した。あの大人の味わいは、幼い私にかなりの衝撃を与えたものだ。
 そうだ。ブランデーを使って、サヴァランを作ろう。
 通常はラムやキルシュなどのリキュールを使うというが、ちょうどとっておきの茶葉も手に入ったのだ。この機会に店長の言うブランデーを使って作ってみたい。それに、記憶のサヴァランはいつもブランデーだった。
 甘みのあるコニャック・ブランデーと、とびきり風味豊かな茶葉。なんてすてきなマリアージュ! これなら、最高のサヴァランができそうだ。
 そうとなれば、善は急げである。まずは、紅茶を味わうことから始めなくては。
「そうだ、店長。おつかれでしょうし、紅茶、淹れますね!」
 銀色の希少な茶葉をちゃっかり胸に抱き込んだ私に、「え、あ、うん?」などとうつけ声を返す店長であった。

 そういうわけで、次のお菓子を決めた私だったが、サヴァランづくりを始めるまえにひとつ依頼を受けることとなった。その依頼とは、店長の友人のお子さんに誕生日ケーキを作ること。紅茶をゆずってもらう代わりにひと仕事任されたのだ。
 相手は十五歳の女の子。店長から事前にリクエストがあるかどうか先方に確認してもらったところ、キャラクターものやポケモンを模したものはダメだと注文を受けた。なんでも、小さいころからウールーが好きでウールーケーキを例年頼んでいたようだったが、昨年、ついに、「もう子どもじゃない」宣言をされてしまったらしい。
 たしかに、十五歳といえば、いわゆるお年頃。私たち大人からすれば、なんだまだまだ子どもじゃないかとつい言いたくなってしまうものだが、十歳でポケモントレーナーとして旅に出る子もいるのだ。子どもとひと括りするのは軽率かもしれない。ならば、どうしようか。
 一方ではブランデーの芳醇な香りを想像しながら、また一方では家じゅうのレシピ本とそれからネットを駆使し、デコレーションケーキのデザインと格闘する。しばらくそんな忙しい日々が続いた。
「今日は生クリームですか」
 デコレーションケーキを届ける当日。カシャカシャ、と銀色のボウルの中でクリームを泡立てる私にネズさんは言った。午後の仕込みの時間、店内に客は彼ひとり。カウンターで頬杖をついてこちらを眺める姿は、すっかり馴染みの光景である。
「はい、店長からお友達の娘さんの誕生日ケーキを任されて」
 すみませんお騒がせして、と必死に腕を動かしながら眉を下げると、「かまわねぇですよ」とネズさんは自家製レモンスカッシュに口をつけた。ちなみに、甘いものが好きなネズさん用にはちみつを少しだけ足した特別バージョンである。
「しかし、よく腕が疲れませんね」
 手もとを見つめる双眸に、私は肩をすくめる。
「慣れ、ですね。正直いつも攣りそうになってますけど」
「文明の利器を使わないのには、それほど思い入れでも?」
 ご名答である。ネズさんの言葉に自然と頬が緩んだ。
「母が、そうだったんです。生クリームは繊細なのよ、表面がつややかに輝く瞬間を見逃しちゃダメ! なんて、いつも口すっぱく言われて」
 今はもう、どんな声だったか鮮明には思い出せない。それでも、母がいつも私に言い聞かせていた口ぶりを真似してみる。途端に懐かしさが全身に広がって、不思議なほど腕の重みを感じなくなった。
 ゆるいとだらしがない、かたすぎるとボソボソと舌ざわりが悪くなる。一瞬の輝きを逃さないよう、手の感覚と目を研ぎ澄まさなければならない。ゆえに、どんなに腕が筋肉痛になろうと、手作業を心がけてきた。
 単純に感じるホイップづくりも、その実とても奥が深いのだ。ツノが立つまで泡立てたあとも、必要以上にゴムベラでこねくり回さず、最低限の動きでペストリーバッグに入れなくてはならない。最後まで気を抜けないその繊細さを、母は女の子の肌に喩えることもあった。
「いい音ですね」
 いつの間にか、きれいなまつ毛が伏せられ、きらきらと細やかなラメがまぶたの上で瞬いている。とん、とん、マニキュアの塗られた細い指先が、カシャカシャという金属の擦れる音に合わせてカウンターテーブルを静かに打ちつける。
 そうだ、お父さんもそんなふうに言っていた。たまの休み、帰省した父のために母と私がクレーム・シャンティを泡立てていると、決まってダイニングテーブルで目を閉じ、しばらくじいっと耳を澄ましていた。そして――。
「まるで、美しい鈴の音だ」
 かちり、頭の中でパズルのピースがはまった。
「どうしたんです」
 不意に手を止めた私に、目の前のアーティストはうっすらとまぶたをもたげた。
「父も……父も、同じことを言っていたんです」
 まるで幸福の鈴が鳴っているみたいだ、と。
 なるほど、ネズさんは薄い唇を歪める。それはどこかやさしげにも、そして、得意げにも見えた。
「ネズさんってば、エスパーみたい」
 ふふ、と笑みをこぼす。「ですから、おれはあくタイプですよ」と、決まり文句が返ってきた。

 それからしばらく腕を酷使して、クリームをペストリーバッグに詰めたところで、買い出しに出ていた店長が店へ戻ってきた。
「店番ありがとう、って、ネズくんじゃないの」
「お邪魔してます」
 ぺこり、ジグザグマの尻尾が揺れる。店長はこれでもかと顔をほころばせて、ぴょこぴょこスキップをする勢いでこちらへやってきた。その手には白いビニール袋のほかに、なにやら細長い黒い紙袋が提げられていた。
「あれ、店長、それは?」
「あ、これ?」
 ひょいとそれを持ち上げて、店長はしたり顔をした。
「なんだと思う?」
「その形だと、ワインですか?」
 答える私に、ふふふん、と店長は鼻を鳴らす。
「実はさ、特別なブランデーを仕入れることができてね」
「まさか……」両手で口を覆う。
「まさかのまさか! あの茶葉にも合うだろう、カロス産十年もののコニャックさ!」
 そう、まさにサヴァランに使用したいと思っていた、あのブランデーだった。事前に、あっさりとした紅茶に合う銘柄にいくつか目星をつけていたのだが、なかなかぴったりと当てはまるものが手に入らず、結局、顔も見聞もガラル内外問わずすこぶる広い店長に協力してもらっていたのである。
「店長、さすがです!」
「さすがでしょ。もっと褒めて、褒めて」
 紙袋から上等な琥珀色の瓶が姿を現して――しかも二本! ちゃっかりもうひとつ紙袋が隠れていた。どうやら自分用にも仕入れていたらしい――テンションが一気に高まる。あまりの興奮にクレーム・シャンティを絞り出しそうになるが、どうにかこらえて、「よっガラルいちぃ!」などとよくわからぬ賛辞を贈った。
「ブランデーがお好きなんですか」
 一方で、置いてけぼりのネズさんである。ぐるりと黒いストローで氷をひと回しした彼は、カウンターテーブルに置かれた瓶を一瞥して言った。
「実は、普段はあまり飲まないんですけど、サヴァランづくりに使おうかと思いまして」
「サヴァラン?」
「はい、紅茶と洋酒を使ったカロスのケーキなんです」
 それだけ聞いても想像しがたいのだろう、そうですか、とネズさんは長いまつ毛をゆったりと揺らす。
「お酒を使っているからとっても大人の味なんですけど、私、昔から大好きで。できあがったらネズさんにもお届けしますね」
 胸にあふれる高揚を抑えきれず早口で捲し立てると、ネズさんは呆れを頬ににじませたが、すぐに、「楽しみにしてます」と目を閉じた。
 クリームがだれてしまってはいけないからと、店長が食材を片すあいだにデコレーション作業へと移る。ネズさんはエプロンの腰紐を結び直した私を見てか、気を遣って話しかけてくることはなくなった。ただ、ときおり視線だけは感じて、それがかえって心地のよい緊張感をもたらした。
 しっとりと焼き上げたスポンジ生地の上に、まずは土台用のクリームを塗って薄切りにした苺を並べる。それからまたクリームを塗り、スポンジを重ね、もう一回それを繰り返す。黄色と白の三段ケーキタワーができあがったら、今度は表面に白いドレスを着せる作業だ。繊細なレースを撫でるような手つきだが、あまりやりすぎてはならない。パレットナイフをうまく立てたり、均したり。そうしてまずは上面から。次に側面、そして、また上面を整える。
 きれいにナッペが完了したところで、いよいよメインのデコレーションだ。
 十五歳の誕生日――その子のことを思い浮かべながら絞り器を握る。大人の階段をのぼる、ひとりの女の子。髪は長く、ゆるくウェーブをしていて、最近ではお化粧も覚えたらしく、まつ毛は長くくるんと上を向き、唇は流行りのリップを塗っているのだという。しかし頬はチークなどいらないくらい血色がよく、ほんのりピンクに色づいた頬は、ふっくらあどけない可愛らしさを残している。
 どんなものが好きだろう。どんなふうに大人になりたいのだろう。考えながらクリームを絞り出していく。ひとつの絞り器だけでなく異なる口金も使って、側面には細身の植物の蔦を。上面には、星口金で可憐な花を。 頭の中に思い描いてきたデザインを形にするのは、なによりも楽しい。
 ふう、とひと息ついて、クリームを置く。だが、まだ気は抜けない。今度は彩りを加えなくては。
 苺やラズベリー、それからブルーベリーを使って、純白のドレスを飾る。
 つらいこともあるかもしれない、うまくいかなくて泣くこともあるかもしれない、だが、きっと希望に満ちあふれている。たくさんの笑顔を咲かせて、すてきな一年になるように。写真で見た彼女の笑みを思い浮かべて、鮮やかな色彩のエディブルフラワーを置く。そして、最後にナパージュをかけて――。
「完成、っと」
 屈めていた上体を起こし、手の甲で額を拭う。すると、小さく拍手が聞こえてきた。
「おつかれさま」店長だ。
「店長。すみません、長らくキッチンを占拠してしまって」
「いいの、いいの。頼んだのは僕だしね。むしろ、いいもの見せてもらったよ」
 ね、ネズくん、と横へ話題を振って、店長は朗らかに笑う。首を回すと、ネズさんと目が合った。
「そうですね。正直、ここまでとは思いませんでした」
「ネズさんも、すみません集中してしまって。せっかく来ていただいたのに」
「気にするもんじゃありません。それより、またついていますよ」
「え?」と目を瞬かせた私に、ネズさんは、ここ、と鼻を示してくる。半ば脱力した腕を持ち上げておもむろにそこを確かめると、指先に白いクリームがついた。
 またしても。まったく、やんなっちゃう。恥ずかしくなってごしごしと鼻をこする私を見て、店長はワハハと体を揺らし、ネズさんは小さく息をついた。
「しかたないですね。こっち来やがりなさい」
「え、あ、はい……」
 言われて、おずおずとネズさんの前へ歩み寄る。彼はあっと言う間もなくカウンターに身を乗り出し、手を伸ばしてきた。とっさに目を閉じてギュッと体を小さくする。だが、訪れたのはひやりとした感触だった。おそるおそる目を開けると、ネズさんがおしぼりで私の鼻先を拭ってくれていた。
「あの、ネズさん……?」
「ずいぶんと夢中になっていたようで」
「すみません、じ、自分で……」
 やります、と手を伸ばそうとするも、「手、邪魔です」とあっけなく遮られてしまう。そう言われては、なすすべもなく。熱の集まる顔で、しゅん、と反射的に手を引っ込める私であった。
「店で出す気はねぇんですか」
 まるで小さな子どもにでもなったみたい。そんなふうに思いながらネズさんの手を受け容れていると、心地よいジャズの奏が耳を撫でた。
「はい?」訊き返すと、ネズさんは鼻先に向けていた視線を、ふ、ともたげる。
「だから、おまえのケーキです」
 エメラルドの瞳は吸い込まれそうなほど美しい。
 どくり、うねりを上げた心臓に、唇を舐める。
「そんな、好きで作っているだけですし。お金を払ってまで食べたいと思うひとが、いるかどうか」
 へらり曖昧に笑った私に、一瞬ネズさんの纏う空気が変わった。ぎゅっと濃縮された、そんな、張りつめた感じ。だが、じいっと私を捉えるまなざしはそのままに、なにもかもを見透かす不思議な光が奥に揺らめいていた。不快じゃないのはネズさんの瞳があまりにもきれいだからかもしれない。あるいは、やさしく鼻すじを撫でる手のおかげか。
「少なくとも、おれは食いたいと思いますがね」
 なにごともなかったように、はい、いいですよ、と額からぬくもりが離れる。迫り立てる鼓動に耐えきれず、熱の残る鼻先を手のひらで撫でつける。クリームの酸化した、なんとも言えない匂いがした。
「ええと、ありがとう、ございます」
 なにに対しての礼だったのかはいまいち自分でもよくわからなかった。ただ、頬を染めてもごもごと口ごもる私とはうらはらに、いいえ、と澄まし顔でスツールに戻る彼に、どこまでも救われる思いだった。
「これは新展開」
 ひとり、この光景を見守っていた店長がつぶやく。
「なにがですかもう」
 突っ込みを入れて、私は新しいおしぼりを取ろうとふたりに背を向けた。

 シュコン、軽やかな音を立てて、ロード画面から鮮やかなホーム画面に変わる。ちょうど、ポケスタに自分の投稿が表示されたところだった。
 キャプションにはなにも書かれていない。ただ、白いクリームでデコレーションされたケーキの写真があげられている。タグもなにもかもつかぬそれは、だれかとちがい、瞬時にいいねを押す人もいない。
 名前をタップしてプロフィール画面に移ると、似たような投稿がずらりと並んでいた。お菓子の記録用に数年まえから続けているポケスタのアカウント。だれも知らない。だれも気づくはずのない、まるで幽霊のアカウントだ。
「このあいだの飾り、うまくできてよかったな」
 ごろんとベッドに転がりながら、トップに並んだガトーフレーズの写真を眺めて自画自賛する。真っ白なクレーム・シャンティはドレス、色とりどりのベリーやエディブルフラワーはレースにあしらわれた宝石のようで、我ながらとてもいい出来映えだった。もちろん、味にも自信あり。スポンジは、しゅわっと口どけのよさを際立たせ、クリームは甘さ控えめに、いくらでも食べたくなるケーキを目指した。今回の主役であったお嬢さんにも好評で、来年もお願いしたいと嬉しい声が舞い込んできたところだ。
 やはり、甘いものは人を幸せにする。こそばゆさに頬を緩めながら画面をスクロールする。アマンディーヌ、プロフィットロール、ポルボロン。ほかにも、たくさん。
「お店で、出さないのか、か」
 ネズさんに言われたそれは、こんな趣味の延長で作っている女には、もったいない言葉だった。途端に胸がきゅっと締めつけられ、画面を滑るスピードが速くなる。どこまで続くのだろう。一回、二回、三回、そして、指を離した。
「……もう、三年」
 長いスクロールの果てにたどり着いたのは、小さなお菓子の写真だ。白い皿の上に飾られている焼き菓子たち。クッキーに、フィナンシェに、ガレット、それから、リーフパイ。見事に、茶色のものばかり。
 初めて、ポケスタをやり始めた日。そして、〝ここ〟へ逃げてきた日。
 ずっとずっと、パティシエになりたかった。だが、それは過去のこと。だというのに、こうしてお菓子づくりに縋りついているのは、未練があるということなのか。
 重力に逆らうように、ずしんと重量を増した胸が苦しい。残っていた空気が幽かなため息となって静かな室内に消える。だが、すぐさまかぶりを振って、ポケスタを閉じた。
 とにかく、デコレーションケーキのミッションを終えた今は、サヴァランづくりだ。せっかく、希少な紅茶とブランデーがあるのだから!
 よし、と頬を叩くと、私はベッドから飛び起きた。
 店長が用意してくれたブランデーは、それは芳醇な香りのする品のいいお酒だった。それまで飲んできたブランデーがなんだったのだろうと思うほどに、フルーティーで奥深い味わい。正直に言うと、生クリームにかけるだけでこのうえないデザートに変化させる力があった。それをお菓子づくりに使用するなど、ブランデー好きからしたら外道だと言われてしまうかもしれない。私もそう思う。しかし、これを使ったサヴァランを作ってみたいという欲には勝てなかった。
 だって、紅茶とブランデーのよさを最大限に引き出したケーキができたら最高だ!

「ごめん、お待たせ」
 カフェ・テラスでレシピノートとにらめっこをしていると、ワンパチを連れたソニアがやってきた。イヌヌワン! と飛びついてくるワンパチを抱きとめて、熱烈なほっぺすりすり攻撃に、ひゃあ、と悶絶する。ソニアはトレンチコートを脱ぎながら、「なにその声」と苦笑して席についた。
 エンジンシティで運命的な再会を遂げたあと、意気投合して連絡をとるようになった私たちである。食べ物の趣味が似ている人とは話が合う、とはよく言ったものだが、まさにそれが的中するとは。
 今日は、そんな彼女と約束したアフタヌーンティーの日。初めてナックルシティのブティックで出会ったときには、お洒落で堂々としていて私と正反対だと思ったが、今となってはそれも懐かしい。
「なにこれ」
 私がワンパチとじゃれ合っているあいだ、ソニアはウェイターからもらったおしぼりで丁寧に手を拭うと、テーブルの上に広げっぱなしのノートをのぞき込んだ。
「お菓子のレシピ?」
「そう。よく好きで作ってて」
 よしよし、とワンパチを宥めて、テーブルの下に降ろす。ソニアは長いまつ毛をぱちりぱちりと揺らして、ノートに釘付けになっていた。
「すっごいね、これ。論文みたい」
「論文? まさか!」ソニアの言葉に驚く。
 ノートには走り書きの文字がびっしりと詰まっている。主に、ブランデーの風味や紅茶の香りについての考察だ。今まではパズルのピースをところどころ組み替えるように、既存のレシピを改良することでお菓子を作ってきたが、今回はそのパズルを一度バラバラにして考えている。それゆえ、いつもより字面が散らかっているのだ。
 たしかに、さまざまな側面から材料を見つめなおしているので、なにかの実験をしていると思えば、ソニアの言葉もあながち間違いではないかもしれない。それでもギリギリ自分で読める程度の字が恥ずかしくなって、「読めないでしょ」と頬を掻くと、ソニアは、「学者は大体こんな感じだよ」と苦笑した。
 ブラックのサロンを巻いたウェイターがやってきて、私たちはドリンクを頼んだ。ソニアはブレンド、私は先日手に入れた茶葉と同じものを。それからティータイムにぴったりなお茶菓子をいくつかチョイスした。
 エンジンシティのこのカフェは、紅茶好きであるソニアいち押しの店だ。テラスの庇はウェイターのサロンと同じ黒で揃えてあり、アーマーガアの翼のようにシックでスタイリッシュな印象だ。内装も、ダークグレーのソファやブラックのスチールチェアに木目調のテーブル。店のデザインだけなら、イッシュ地方のセレブ御用達といった謳い文句が似合うだろう。テラスなんて、エスプレッソを飲む人々の姿がなんとも様になりそうだ。しかしながら、紅茶専門店でありガラルの紅茶協会認定の店だというのだから、あなどれない。なにごとも見た目に囚われすぎてはならないとは、このことだ。
「見ていい?」
 ウェイターが去ったあと、ソニアがノートを指さして言った。
「もちろん」私はうなずいて、くるりと向きを変えてノートを差し出す。
 ぱらり、ぱらり、ページをめくる指はきれいな色のマニキュアで彩られていた。伏せたまつ毛もつるりと長く、あいかわらず、ずっと眺めていたくなるほどお洒落で女性美にあふれている。そのうえ、頭もいいのだから、もうお手上げだ。
 そんなふうに、控えめに彼女を盗み見ていると、不意に視線が重なった。
「どうかした?」
 ぐっと眉根を寄せたソニアに訊ねる。
「もう、やばいよ!」
「やばい?」首をかしげる。うん、とソニアは大きくうなずいた。
「これ、レシピっていうより、秘伝の専門書じゃん!」
 こことか、こことか、と興奮した様子でソニアは走り書きの文字を指さしていく。レシピの端には作っていて感じたことをとにかく記してあった。はたから見れば、暗号を解かねばならないような読みにくいノートだが、そのぶんそこに込められている想いは強い。昔、母のレシピ帳を見たときにも、「秘伝の書だ」と思ったが、まさかそれを今ここでソニアに言ってもらえるとは。
「それに、どれもおいしそうなんだけど!」
 もうやだおなか空く、とページを行ったり来たり。顔をふやけさせる彼女に、さきほどまでの羨望はあたたかな感情へ変化を遂げた。
「そんなに?」
 こそばゆさに私は髪を何度も耳にかけ直す。
「そんなに! とくに、このヌメラのねがいぼし!」
 どれも愛着のあるレシピだが、ポルボロンは特に思い入れのあるお菓子のひとつだ。満天の星の下、さわやかな香りに包まれて小さな星に願いを込めたあの日の思い出がよみがえる。今度ソニアにも作るね、と言うと、「いいの?」とソニアはワンパチのごとく顔を輝かせた。
「あと、わたし、サヴァランって大好きなんだよ」
 ソニアはページをめくって言う。
「私も。ジュワッと溶け出す洋酒と、クリームの甘さがなんとも言えなくて、魅惑の食べ物だよね」
 ジャムを塗ったブリオッシュがつやつやと照明に煌めく姿は、まさにお菓子の女神さまだ。その甘美さに、つい夢中になって、はぁ、と感嘆のため息をもらすと、からからと笑い声が聞こえてきた。
「このあいだも思ったけど、ほんっと、スイーツ好きだよね」
 シュークリームもこうやって眺めてたしさ、と手を宙に掲げて真似をするソニアに顔が熱くなる。「すき、だけど」思わず口ごもると、うぅ、とソニアが悶えた。
「ほんともうそういうとこ、すっごい、くすぐられるんですけど!」
「なにが! もうやめてよお」
 手のひらで壁を作って、ニヤニヤこちらをうかがい見てくるソニアから必死で隠れる私であった。
 そのあと、頼んでいた紅茶と焼き菓子がやってくると、ふたりのテンションは最高潮を迎えた。とはいえ、お洒落なカフェの店先なので声のトーンは控えめだ。もうやばい、すごい、などと語彙力の溶けた感想とともに、カシャ、カシャと軽快な音が交差する。
「こんなにいい香りなんだ」
 ひとしきり撮影会を楽しんで、胸いっぱいに紅茶の香りを吸い込むと、ソニアは得意げに唇を薄くした。
「そうなんだよ。紅茶は淹れ方もそうだし、使用するカップひとつでグッと香りが変わるの。それはもともと香りが華やかだけど、たぶんここで飲むのが一番おいしいはず」
 ソニアの紅茶好きは伊達ではないようだ。ふむふむ感心しながら、ティーポットから紅茶をそそぐ。頼んだ紅茶がちがうため、カップもそれぞれ形の異なるものを使用していた。ソニアのカップはモントローズシェイプ、私のはピオニーシェイプというらしく、まさに花になぞらえた形をしている。いずれもシェイプ部分のアンティーク柄が美しく、見ているだけで王室にいるような優雅な気持ちになった。
 白いカップの内側を彩る澄んだオレンジ色、そして、ふわっと立ち込める茶葉のなんとも豊かで優雅な華やかさ。彼女の言うとおり、これまで試しに飲んできたどの紅茶よりも香り高い。どうやったらこんなふうになるのだろう。探究心をくすぐられながら、いただきます、とカップに口をつける。
 とくとく、鼓動が耳の裏で弾み、緊張の一瞬だ。
「おいしい……」
「ほんと、それ」
 もはやそれ以上の言葉などいらない。ほう、ともれる吐息がおいしさの証拠だ。火傷をしないよう気をつけながら、カップに口をつけては舌で紅茶を転がし、香りを楽しむ。
 大げさだが、ソニアに出会えてよかった、と四肢を投げ出したくなるほどの感動だった。添えられたひと口サイズのクッキーが、またなんとも紅茶と合う。これだから、アフタヌーンティーは、やめられない。
 ガラルって最高、と青空を仰いでいると、ソニアが不意に話を切り出した。
「でも、そんなコアな紅茶知ってるなんて、すごいじゃん?」
「ちょうど、バイト先の店長が仕入れてくれて。どうしてもサヴァランに使いたくていただいたの」
 いただいた、などと丁寧な言葉を使ったら怒られるかもしれない、ちゃっかり懐にしまい込んだようなものだ。
「サヴァランに?」ソニアは目を丸くした。
「そう、サヴァランに」
「ぜいたくぅ」
 口笛を鳴らすソニアに、だよね、と私も笑う。
「でも、せっかく作るなら特別なサヴァランにしたくて」
 そう、ひと口食べたら、時が止まるような。そして、その止まった時の中で、あらゆる空間を旅するような。うまく言えないが、そんなすてきな瞬間を届けたい。
 贅沢な欲を抱いてしまうのは、あまりにサヴァランが魅力的だからか。カップのはらを撫でて、参っちゃうよねと肩をすくめる。ソニアは目配せをしてウェイターを呼んだ。
「すみません、この紅茶って」きょとんとしているうちに、やってきたウェイターとソニアが話しだす。なにやら紅茶について訊ねていたようだが、ワンパチとともに見守っていた。
「どうしたの?」
 去って行くウェイターの背を見送って、彼女に訊ねる。
「その紅茶のいい淹れ方、あとで教えてくれるってさ」
 まさか。本当? と驚き半分喜び半分、大きく目を剥く私に、ソニアは、「やったね」といたずらっ子の顔で笑った。
 しばらく紅茶に舌つづみを打ったあと、話題はお菓子づくりに戻った。
「そういえば、そのサヴァランだれにあげるの?」
 言って、静かにカップを置いたソニアに、思わず顔を上げる。
 彼女は不思議そうにまつ毛を揺らした。
「だって、それだけ、気合い入れて作るんでしょ?」
 とっさにあの人の顔が浮かんで、心臓が早鐘を打つ。きらりと光瞬く瞳、スッと指を滑らせてみたくなるような秀でた鼻梁。それから、日に焼けた健康的な肌と無邪気にのぞく白い犬歯。ふわり、紅茶の甘い風が頬を撫で、脳裡の彼が大胆に顔を崩す。彼の相棒たちみたいに、今にも溶けてしまいそうなあどけない顔。
「わかった、そういうことね」
 ハハーン、とあごへ手を当てる彼女はまさに名探偵だ。意味深な笑みにハッとして、「そんなんじゃないから」と、慌てて訂正を入れようとする私をソニアは遮る。
「いいって、いいって、遠慮しないで。で、どんな人? ソニアさんに教えてみなよぉ」
 目の前で、つぶらな瞳がきらきらダイヤの輝きを纏う。
「ちが、その、ポケモンが私のお菓子を気に入っちゃって、きのみ採りに付き合ってもらうお礼に渡してるの。それで、作ってほしいって言われて」
 あたふた手を振る私に、ソニアは怪訝そうな顔をする。
「あやしい」
「あやしくない、あやしくない! その、ほんと、雲の上の存在だから。そんなことを思うのも、おこがましいっていうか」
 ふうん、と紅茶に口をつけてソニアは言う。
「でも、その人は作ってきてほしがってるんでしょ?」
「それは……」思わず、ソニアの言葉に閉口した。
 たしかに、「私の好きなものを食べたい」と彼は言った。私が作りたいならそうすればいい、と。親切に受け容れてくれた反面、初めて食べたいものを教えてくれたのだ。
「脈アリじゃないの?」
 ソニアはカップを持ち上げながら、もう片方の手でオレンジ色の髪の毛を愉しげに指へ巻きつけている。その言葉を鵜呑みにしてしまいたい。だが、非常にも脳裡をよぎったのは厳しい現実だ。
「もう、ちがうってば」
 本当に、そんなんじゃないのだ。まったく、だれに向かって言い聞かせているんだか。情けなく笑って、カップに再び口をつける。冷めた紅茶はひどく苦い。
 このままで、しあわせだ。これ以上は望まない。ただ、私はできる限りのおいしいものを作って、食べてもらうだけ。
 とはいえ、ソニアに妙な炎を宿してしまった私は、アフタヌーンティーを堪能したのち、「自分、磨いちゃお?」と、ブティックやコスメショップを何軒もハシゴするはめになったのは言うまでもない。

「買っちゃったなぁ……」
 瀟洒なスボミーインの前を、駅へ向けて通り過ぎる私の手には、大きなショップバックがいくつも提げられている。財布が火を噴くというのは実に言い得て妙で、「ひのこ」どころか「かえんほうしゃ」並みに散財してしまった。
 このまえも洋服を買ったばかりだというのに、しかも、このごろは材料代でかなり出費がかさんでいる。だが、チェリーレッドの新色リップを見ていたら、我慢できずにいつのまにかレジに向かっていて、それを皮切りに次々とカードを切ってしまった。
「ほんと、やっちゃったなあ」
 そんなため息が茜空に溶けていく。しかし、可愛かったのだからしかたがない。ソニアに見立ててもらった洋服と、盛れると評判のマスカラやカバー力の高い化粧下地など。それだけ揃えたとなると財布事情はすっかりさびしいものだが、心はたっぷり満たされた気分であった。ただ、今月はもう節約しなくてはならないという酷な現実は、夕暮れとともにすぐそこへ迫っているのだが。
 明日からさっそくつけよう。提げたショップバッグを眺めながら、ぷるんとみずみずしく熟れたチェリー色のリップに想いを馳せる。
 駅につくと、列車は十分後に発車するようだった。ちょうどよかった、息をつきながら切符を買おうとカバンを開ける。しかし、財布を取り出した拍子に、革のカバーをかけたノートが落ちてしまった。
 ぱさ、と乾いた音を立て、それが地面に腕を広げる。
 いけない、拾わなきゃ。そう思い、紙袋をよけて体を屈めた。
「サヴァランか、おいしそうだね」
 シルバーのリングをつけた白い手が先にノートをさらう。呆然と視線をもたげる間に、目の前の男性も上体を起こした。
 つややかなジャケットに赤いアスコットタイ、光をたっぷり集めた銀色の髪。ほぼ、その造形の美しさに見惚れていた。まばたきをするのも憚られる、まさに、そんな状態。
 髪と同じ深いシルバーブルーの瞳が私を射貫く。こんな瞳の色は初めてかもしれない。鼻すじは通り、さほど高くはないがそれがかえって顔全体のパーツと調和している。肌は陶器みたいにきめ細やか、薄い唇は上品で、エキゾチックな雰囲気が――って、まじまじと見すぎ!
「す、すみません!」
 我にかえり、勢いよく頭を下げる。しかし、肝心なことを忘れていた。
 バサバサバサ、なにやら騒々しい音がする。カバンを開けっぱなしだったのだ。
「あっ、ああぁ……」
 床に広がった化粧ポーチやステイショナリー、それから、ハンカチ、リップ、コロン。どんなドジっ子よ、うなだれてしゃがみ込む。まさに、穴があったら入りたいとはこのことだろう。本当ありえない、私のばか。心の中で自分を叱咤しながら散らばった荷物を回収する。すさまじい勢いで拾い集めていると、くくっと忍び笑いが落ちてきた。
「いや、失礼。こんな漫画みたいな展開が現実に起こるとは思わなくてね」
「お恥ずかしいかぎりです……」
 まったく、そのとおりだ。顔が熱くてたまらない。どうにか手で目もとを覆うと、そんな私に気を遣ってか、男性はそれ以上笑うことはせず、「ボクも手伝うよ」と一緒になってカバンの中身を拾ってくれた。
 ひとつ、ふたつ、と集め終え、最後にレシピノートを受け取る。
「ありがとうございます」
 丁寧に礼を言う私に、彼は優雅に上体を起こして微笑した。
「ほかに足りないものは?」
「あとは大丈夫だと――」
 言葉半ば、カバンの中を確かめていると足もとから、ドラァ、と高い鳴き声がした。
「あ、家の鍵!」
 鉄仮面をかぶったような小さいポケモンが、キーホルダーのついた鍵を咥えている。
「ココドラ、よくやった」
 彼のポケモンなのだろう。その子の頭を撫でて、男性は鍵を受け取る。
「はい、これ」そのまま、彼は私の手にそれを載せてくれた。
「ありがとうございます。これがないと家に入れないところでした」
「いや、失くさないでなによりだよ」
 ふっとまなじりを緩めてしとやかに笑みを浮かべる彼に、うっかりまた見惚れてしまいそうになる。「本当ですね」私はごまかすように肩をすくめて膝を折った。
「あなたも、ありがとうね」
 ココドラと呼ばれたその子と目を合わせると、ドララッ、と誇らしげにひと鳴きした。その顔がなんとも可愛らしく、思わずキュンとしたことは言うまでもない。
 じゃあ、僕たちはこれで、と微笑をたたえたまま去っていく男の人に、もう一度礼を告げてその背を見送る。
「……あんな人、現実にいるんだ」
 まさに、美の前にひれ伏すちっぽけな人間であった。優雅な背が駅舎から消えたあと、陶然とつぶやいた私の頭上に、列車の発着を報せるアナウンスが鳴り響いた。

 そんな思わぬ出来事もあっという間に過ぎ、サヴァランづくりは佳境に入った。
 好きなものを作るというのは、なによりも幸せな時間だ。昔、母が食べていたあの煌びやかなケーキを、ずっと憧れていたケーキの女神をこの手で作る。それだけでなにもかもを忘れることができた。
 パート・オ・サヴァランと呼ばれるブリオッシュ部分は、イーストを使ってしっかりと膨らませ、生クリームはシロップとブランデーの味を引き立たせるため甘さを控えめにする。そのぶん、紅茶とブランデーは出し惜しみをせず、たっぷりと。かといってシロップの割合が多すぎてしまうとしつこいから、塩梅に気をつけなくてはならない。
 ひと口、口にしたらじゅわっと舌に広がる香りの向こうに、母のまなじりへ刻まれたやさしいしわが浮かぶ。大好きだった。好きで、好きで、好きで。大好きで、たまらなかった。そして、今も。
 まるで自分の欲をすべて昇華させるように、あらゆる情熱をサヴァランにそそぎ込む。あのエンジンシティのカフェでウェイターとソニアから伝授してもらった紅茶の知識もしっかりと生かし、サヴァランづくりはほぼ完成に近づいていった。
 だが、ひとつ、忘れてはならない大切なものがあった。
「これは?」
 昼下がりのブラッスリー。カウンターの上に開かれたノートを見つけ、ネズさんが声を上げた。「あっ」キッチンでドリンクを用意していた私は、思わず小さく声をこぼす。
「すみません、さっきまでサヴァランの飾りつけを考えていて」
 すっかり、そのままにしていたことを忘れていた。自家製のレモンシロップを炭酸で割って、はちみつをひと垂らししてからガラスのマドラーと黒いストローをさす。そのグラスを手にカウンターから急いで下りた。
 ちなみに自分用にはメロンソーダを。考えごとをしていたので、店長から許可をもらって店のバニラアイスとシロップ漬けのチェリーをおまけにつけた。これで脳の栄養はばっちりだ。
「今日も、レモンスカッシュでよろしかったですか?」
 言って、グラスを差し出すと、ネズさんはほんのり口もとを緩めた。あいかわらず気だるげな佇まいだが、ふとした動作に艶があるのは生まれもってのものだろうか。
 彼は白く筋張った指先をそっとグラスに添える。不意に先日の出来事がよみがえり、顔に熱がこもる。スツールに座って頬杖をつく手の流線だとか、ゆるりと揺れる豊かな髪だとか、もしかすると、私よりはるかに美しいかもしれない。
「どうしたんです」ぼう、とその美しさにひれ伏していると、怪訝な顔がこちらを向いた。「なんでもありません」私は慌ててかぶりを振ってごまかした。
「しかし、本当に熱心ですね」
 ネズさんはストローでぐるりとレモンスカッシュをかきまぜて言った。
「あ、これですか?」
 隣のスツールによじ登って、見開きのページに描かれた絵を指さす。ネズさんはこっくりうなずいた。
 丸々としたブリオッシュに、なめらかな円を描くクレーム・シャンティ。その上にはくりぬいたブリオッシュの冠を。もちろん下には銀色のホイル。お世辞にも芸術的とは言えないが、なんとかこれがケーキだとはわかるだろう。
「ケーキって、結局は見た目が大事なので」
 もちろん勝負すべきは味だとわかっている。ただ、いくら味がよくても、見た目が粗末ではそのおいしさは半減してしまう。自分が食べるものならあまり気にしないが、やはり、だれかの口に入るのならば、もっとおいしく食べてもらえるように、もっと味わい深いケーキになるように、というのが作り手の願いだ。
「サヴァランって基本的にシンプルなんですけど、でもシンプルなりに、ひと目見て、わあって思えるようなものにしたくて」
 むずかしいんですよね、と頬をかく。ネズさんは、ふむ、とも、へぇ、とも言わず、頬杖をついたままそのラフスケッチを見つめていた。
「実物は?」
「昨日、試作したものなら」
 携帯を取り出して、試作したサヴァランの写真を見せる。
「たしかに、少しもの足りねぇ感じがしますね」
「ですよね。なにかアクセントがほしいんですけど、なかなか思いつかなくて」
 画面に映し出される黄金のブリオッシュには純白のクレーム・シャンティと冠があしらわれている。スケッチどおりの飾りつけだ。
「アクセント、ねえ」
 ネズさんは写真から視線を外して、やおら店を見渡す。と、私のメロンソーダの前で目が止まった。なるほど。ネズさんの視線の先を捕らえるように、緑色の炭酸に添えられた真っ赤な果実をはしたなくも手で摘まむ。
「チェリー、いいかもしれないですね」
「赤は背徳的ですからね。このサヴァランにはぴったりなんじゃねぇですか」
 さすがはネズさんだ。頭上で流れるシャンソンに合わせて、ふふんと軽く鼻歌を歌いながら、こうでもないああでもないと絵の上で手を泳がせる。まさにメロンソーダの海で泳いでいるかのような爽快さだ。なんだか最高のケーキになりそうな予感!
「そういえば、同じ色ですね」
 ここらへんかな、とある程度目星をつけたところで、声をかけられて横を向く。
 はっと息をのむような艶美な顔がすぐ近くにあった。まつ毛の一本一本までも数えることができてしまう。「それ」と、哀愁に満ちた瞳がある一点を見つめていた。
「あ、リップですか?」
「ええ」ネズさんはまばたきもせずにうなずく。
「実は、これ好きなブランドの新色なんです。そういえばチェリーレッドですね」
 まさか気にかけてくれる人がいるとは。こういうところ、ネズさんは女心をわかっているというか、女のこだわりに理解があるというか。
「いい色でしょう?」
 つけてきてよかった。嬉しくなって微笑みながらチェリーを口に含む。まあるい果実を噛むと、口の中でシロップのなんとも言えない甘みと果実の酸味が広がった。
「そうですね」ネズさんはたおやかにまつ毛を揺らす。
「熟したチェリーみたいで、うまそうですよ」
 一瞬、呼吸が止まった。なんだかシャンデラの燈のような、婀娜っぽくて、美しくて、ふしぎと魅入ってしまう瞬き。そしていつのまにか、魂を奪われてしまう。
 思わず、ごくん、と生唾を飲む。だが、飲んだのはつばだけではなかったようだ。
 喉を押し広げるような異物感に、慌てて喉を押さえる。
「あっ、タネ! 種、飲み込んじゃった!」
 突如騒ぎ出した私に、「なにやってんですか」と肩をすくめて、ネズさんはレモンスカッシュに口をつけた。
 あいかわらず、店内には陽気なシャンソンが流れていた。

 そうして、なんとか飾りつけも決まって、ついにキバナさんに会う日がやってきてしまった。ソニアとともに購入した洋服と、それからコスメもばっちり身に纏ってナックルシティに降り立つ。手には黒いシックな紙袋。もちろん、中にはサヴァランと、ポケモンたちへのお菓子が入っている。さすがにお酒を摂取させるわけにはいかないので、フライゴンたちにはハバンのジャム入りブリオッシュを用意した。
「……平常心」
 とくり、とくり、次第に強くなりつつある鼓動の波を落ち着けるよう深呼吸をする。
 ただ、作ったケーキを食べてもらうだけ。そう、いつもみたいにポケモンたちとたわむれ、ケーキを食べる。ただ、それだけのこと。だが、なかなか治まらないのはどうしてだろう。わたしの、ばか。期待しない、変な感情は抱かない、そう決めたはずなのに。
 はぁ、と息を大きく吐き出して、空を仰ぐ。
「大丈夫。ただ、緊張するだけよね」
 あいかわらず、青空には空高く砂埃が渦を巻いている。カァ、だか、キェー、だか、よくわからないポケモンのさえずりが聞こえて、私は、よし、と拳を握った。
「キバナさんと約束をしているのですが」
 スタジアムへたどり着き受付スタッフにそう告げる。反応したのは白いマクロコスモスの制服を着た女性ではなく、キバナさんと同じ紺色のユニフォームを着た男性だった。
「キバナは今、宝物庫に出向いております」
「宝物庫、ですか」
 びっちりと撫でつけられた髪と黒ぶちの眼鏡は、なんとも誠実な印象を受ける。さらにはその口から出た言葉に身を固くせずにはいられない。
 歴史的遺産が保管されていることから、宝物庫へ一般人はなかなか入ることができないと有名だ。キバナさんはそこの管理を任されている人だから、きっと、緊急な仕事でそちらに向かったのだろう。
 それならまた日を改めるか。いや、ケーキだけでも届けてもらおうか。どうしようか迷っていると、私の手もとを一瞥した男性が眼鏡をクイと指で押し上げた。
「よければご案内いたします」
「でも、重大な用事でもないですし、もしできるのなら、これさえ渡していただければ」
 男性はかぶりを振る。
「いえ、そのまま帰したとあらば、どうなるかわかりませんので」
 どうなるかわからない? 眉根を寄せた私だったが、そこまで言うならと彼の厚意に甘えることにした。
 宝物庫に着くとすぐに応接間へ通された。スタジアムの応接間もなかなか立派だったが、こちらはまた宝物庫という名にふさわしい壮麗なつくりであった。壁には歴史の教科書で見たことがあるような肖像画と、棚にはトロフィーや賞状が並び、足もとに広がるふかふかの真っ赤な絨毯にはところどころ金の刺繍が施されている。もはや、歩くのすら緊張してしまう。さらに頭上には見事なシャンデリア。なんということだろう。
 中央の重厚感のあるソファに案内されると、しばらくしてノック音が響いた。
「はい」と答え、居住まいを正す。
 ドアの向こうから顔を出したのは、キバナさんだった。
「悪い、いろいろ仕事が舞い込んじまって」
「キバナさん、こちらこそお忙しいときにすみません」
 部屋の雰囲気にのまれてとっさに立ち上がると、キバナさんは疲れをにじませた瞳をきょとんと丸くして笑った。
「なんだよ、約束したのはオレさまだろ」
「でも、大変なときに押しかけてしまったので。本当はケーキだけ届けていただこうとしたんですけど」
 厚意に甘えたことを伝えると、キバナさんは、「リョウタか」とどこか困ったように首すじを掻いた。その様子に心が痛んで、反射的にすみませんと謝る。
「気にすんなよ。とにかく座ろうぜ」
 ニッと笑ったキバナさんに、私はどこか安心して、はい、とうなずいた。
「……あの」
 しかし、座ったいいものの、なぜか、ふたつあるうちのひとつのソファに私たちは並んでいる。
「どうかしたか」
 キバナさんの顔が、近い。ふたり並んでも余裕はあるだろう大きさのソファだというのに、かなり狭く感じるのはキバナさんが大きいせいか、それともまた別の理由か。少しでも身じろぎすれば、肩が触れ合ってしまいそうな距離に、心臓が情けなく悲鳴を上げる。ただ、この状況でどうして前に座らないのかと言えるはずもなく、私はなにもないとブンブンかぶりを振った。
「ええと、ケーキ、食べますか?」
 平常心、平常心。心の中でおまじないのように唱えながら紙袋を差し出す。キバナさんは、おう、と八重歯をのぞかせた。
 無邪気な顔はソニアのワンパチにも似ているが、とはいえやはり平常心を保つのは難しい。震える指先でなんとか平静を装い、ケーキ箱を取り出す。
「これは?」
 蓋を開けると、キバナさんはゆるりと目を大きくした。
「サヴァランです」
「サヴァラン、か」キバナさんはつぶやく。
「洋酒を効かせたお菓子なんですが、大丈夫でしたか?」
「ん。ちょっとくらい、いいだろ」
 さすがのリョータでも、このくらいならわかんないだろうしな、といたずらに笑うキバナさんに思わず頬が緩む。普段は比較的、厳しく勤務態度を見張られているのだろうか。なんだかその光景も目に浮かぶ。
「これが、おまえの好きなケーキ?」
 ゆっくりと、サヴァランを崩さぬよう箱から取り出すのを、キバナさんはつぶさに見つめていた。
 金色のプラ皿に、銀色のホイル。ジャムを薄くあしらったブリオッシュはつやつやと目映いシャンデリアに煌めいている。その上には純白のクレーム・シャンティと金色の冠。そして、真っ赤なチェリー。
「はい」私はうなずく。「これが、私の大好きなケーキです」
 ふわっと香ったブランデーのかおりで胸を満たして頬に笑みを浮かべた。
「そうか、うまそうだな」
 キバナさんは陶然とつぶやく。その言葉だけで、魔法がかけられた心地だった。
 はやる気持ちを抑えきれず、私はさっそくスプーンを用意する。キバナさんの前にひとつ、そして、自分の前にひとつ、美しいサヴァランを並べる。
 テラテラとつやめくブリオッシュは、まるで女神の周囲を舞う天使の頬だ。なんと甘美で、繊細で、愛おしいことだろう。
「小さいころ、母がよく食べていたんです。つやつやしていて、いい香りで、子どもにとっては、なんだかすごく魅力的で。何度も何度も、ちょうだいってせがんでいました。でも、洋酒が入っているからって、なかなか許してくれなくて」
 こんなことをキバナさんに話すのははじめてだ。思い出話なんて、と心のどこかで遠慮する気持ちとはうらはらに、唇からはするすると言葉がこぼれてしまう。やはり、サヴァランは私にとって特別だ。
「はじめて食べたときの感動は、今でも忘れません。しゅわっと広がる洋酒の香りが、尖った気持ちを丸く包んでくれるクリームの甘みが、ふと、時間の感覚を曖昧にする。まるで天国にいるような、そんな心地でした」
 しかし、そこまで話してハッとする。
「すみません、しゃべりすぎましたね」
 お菓子のことになると、つい止まらなくなってしまうのは悪い癖だ。食べたいですよね、肩をすくめて謝ると、キバナさんは黙ったままだった。
「キバナさん?」
 不思議に思い、顔を上げる。かちり、視線がぶつかった。
「続けて」
 碧い瞳は宇宙のようだった。どこまでも、どこまでも、吸い込まれていってしまいそうな深い宇宙。震えそうになるのをこらえ、「はい」とどうにか声をしぼり出してサヴァランへ視線を逃す。
「ええと、だから、そんなサヴァランをキバナさんにも食べてほしくて」
 溶けてしまいそうなほどの熱と疼きを感じながら、やけどしそうなほどの強い熱視線に気づかないふりをする。
 唇が熱い。背すじがジンジンする。指先が、痺れる。
 なにもない、なにも、ないから。
「本当はラム酒を使うんですけど、せっかくキバナさんにお渡しするからと思って、今回はとっておきのブランデーを……」
 ――なのに。
 ふわり、さわやかな香りが掠めて。気がつけば、すぐそばに彼の整った顔があった。
 そして、あたたかななにかが、唇にふれていた。