ふぞろいなプロフィットロール

 静まり返ったスタジアムの一室で独り、佇んでいる。
 いつもはポケモンたちでにぎやかなそこも、今日だけはまるでリーグ戦が終わったあとのように冷ややかな空気で耳を塞いでは、妙に心臓を迫り立てている。
 静寂と高揚、これまで幾度となく味わった感覚だ。ただひとつちがうのは、いま彼の指のあいだに小さな星があることだろうか。
 白く、やわらかく、加減を間違えたら瞬く間に壊れてしまう。星降る夜に空から落ちてきた、ひとつ星。どんな夜空の星よりも目映い光を放ち、やさしく、そして激しく、視線を奪っていく。
 その星をこの身にうずめるよう、ゆっくり口に含む。ほろり、願いを込めるあいだもなく舌の上で崩れ、なんとも言いがたい甘さが口内に広がった。
 あわく、それでいて、背すじを震わせるほどの確かな甘み。じわり、そこから全身へ伝い、みぞおちのあたりをひどく疼かせる。喉もとが熱く、口の中が渇き、目の奥がジン、といまにも灼けただれてしまいそうになる。
 こんなはずじゃ、なかった。
 そう、こんなはずでは……。
 勢いよく椅子から立ち上がると、キバナは外の空気を吸いにその場をあとにした。

§

「どうしよう」
 スパイクタウンの西、ルートナイントンネルを抜けた先にあるナックルシティ。その中世の趣が残る街のとある店で、私は頭を抱えていた。
 目の前に広がるのはきらびやかな世界。とろりとした質感のブラウスやサテンのワンピース、それからラメの織り込まれたニットやシルクのスカーフ。ここに来るまえに見た自分の家のクローゼットとは大違いの光景だ。
「フェミニンなワンピースにするか、それとも、デキる女の休日コーデにするか」
 そう、私がいるのはこの街随一のブティック。ナックルシティはシュート、エンジンに次ぐ大都市ということもあり、ブティックやテーラー、それからバーバーなどの店が揃っている。とくにブティックは洗練された雰囲気があると評判で、今、私のいる店もまさにその多分にもれずというところであった。
 幅広い品揃えの中から、サテンのワンピースとラベンダー色のフレアスカートを手に取って、交互に自分の体へ当ててみる。
「やっぱり、いまいちピンとこないかな」
 ひと目見たときには、なめらかな質感や色彩の鮮やかさが目についたものの、いざ鏡の中で自分の顔に合わせてみると、どうにもパッとしない。よくあることだ。
 かわいいけど、と落胆しながら泣く泣く洋服を戻し、再び物色に戻る。
 そもそも、なぜこんな性に合わぬことをしているかというと、店長のあるひと言が始まりだった。
「このあいだ、言っていたダンデくんのイベント、よかったら見にいかないかい?」
 開店まえの準備が終わって、嵐のまえの静けさを堪能していたときのことである。店長はカウンターで悠々と新聞を読みながら、レジ前の陶器の置物を丁寧に並べなおしてきた私にそう切り出した。
「私が、ですか」
「そうそう。もし興味があればなんだけど」
 イベントというのは、先日、店長がわざわざ店を休みにしてまでチケットを取りに行ったというやつである。どうやら、一緒に行く予定の友人が急な仕事で行けなくなってしまったらしく、それで、知らない人にチケットを売るくらいならと私に声をかけてくれたようだった。
「でも……」言葉を詰まらせる私に、店長は新聞から顔を上げる。
「あ、なにか予定ある?」
「予定はないですけど……。でも、私、ポケモンバトルのこと全然知らないですし、いいんでしょうか」
 きっと、もっとポケモンバトルに詳しいひとや、現役トレーナーと行ったほうが盛り上がるにちがいない。せっかくの楽しみにしていたイベントで、私みたいな素人のせいで不完全燃焼となったら申し訳が立たない。
 そう思いおずおずとスキンヘッドの店長の顔をうかがうと、彼は任せろとばかりに胸を叩いた。
「それは大丈夫。解説者もいるし、もちろん僕だって解説するし。それに……」
「それに?」
 店長は新聞をふたつ折りにして、一面をこちらへ突き出した。
「キバナくんも出るし、見ないなんてもったいない!」
 ほら、と見せられたそこには、チャンピオンとジムリーダーたちの中で闘志を燃やすキバナさんの姿があった。
 そういうわけで、このひと言で、私は慌てて自分のクローゼットの中をひっくり返すことになったのである。
「うぅ、どれにしよう」
 ただ、クローゼットを確かめたところで、イベントに着て行くような服があるはずもなく。こうして、今、ブティックで新たなコーディネートを揃えている始末だ。
「あまりエレガントすぎるのはダメだし、気合いが入りすぎていてもなぁ」
 新作、と札のつけられた棚の前で理想の服を探す。ぶつぶつつぶやきながら物色する姿は、はたから見れば完全に怪しい人間だろう。平日の昼間ともあり、客が少ないのが救いかもしれない。
「どうしよぉ……」
 そもそも、イベントといってもポケモンバトルがメインだ。それならば、普段着でも構わないはずであり、じゅうぶん今まで持っていた服でことが足りる。しかし、同時に心の中で女の私が抵抗する。
「キバナさんが出るんだもんね……って、ちがうちがう、そんなんじゃない!」
 思いがけず口をついて出た言葉に、ハッとして勢いよくかぶりを振る私であった。
「ちょっと、そこいいかな」
 ホント、なに考えてるの? とひとり押し問答を繰り広げていると、はきはきとした声が飛んできた。「はい!」と、慌てて横に飛びのく。刹那、視界に明るいオレンジが入り込んで、思わず目を瞬いた。さわやかな果実に似た、とてもおいしそうな色。ところどころハートの髪飾りがちりばめられ、そして額にはサングラス。
「おしゃれ……」
 まるで、映画でも見ているかのような輝き。
「ん?」みずみずしい瞳がこちらを向いた。
「あっ……」
 心の中でつぶやいたつもりが、うっかり声に出てしまっていた。慌てて口を塞ぎ、愛想笑いを浮かべてごまかす。長いまつ毛が、ぱち、ぱち、と素早く揺れた。
「あー、ありがとう。うれしい」
 つり目がちな瞳はすっきりとしていて、それを縁どるまつげはつやつやふさふさで。頬がほんのり染まる姿に、私も照れくさくなる。彼女は私の見ていた棚から服を二、三着手に取ると、鏡の前でサッと体に当ててレジへと向かった。
 ショート丈のトレンチコートに鮮やかなエメラルドグリーンのトップスと白いスキニーパンツ、足もとは歩きやすそうなワークブーツ。自然体なのに、どこか目を引く。色使いか、それとも小物の合わせ方か。
「あんなふうになれたら、なあ」
 羨望のまなざしでその背を見つめていた私に、「なにかお探しでしょうか」と店員がここぞとばかりに話しかけてきたのは言うまでもない。

 なんとか店員の力を借りながら勝負しない勝負服を手に入れたあと、今度はお菓子づくりのヒントを探して街を歩いた。
 先日、「ヌメラのねがいぼし」を完成させたばかりだというのに、人間、悩みは尽きないものである。正確には、なにかを考えていないと、余計なことに思いを巡らせてしまいそうだったから、というのもあるが。
 前回はクッキーだったし、今度はケーキにしてみようか。それとも、タルト?
 色とりどりのお菓子たちを考えながら、街をぐるぐる散策する。しばらくそうして、一軒のカロス風のカフェを見つけたところで、ひと休みすることにした。
 ちょっとしたスイーツと飲み物を頼み、しばらく携帯をいじっていると、店の外に人だかりができていることに気がついた。
「あれ、キバナさん?」
 中心に立つ、ひときわ背の高い男性。健康的な肌に映える橙のヘアバンド、甘くタレた瞳に、整った面立ち。見間違えるはずがない。
 ナックルシティはいわば彼のテリトリーではあるが、まさかこんなふうに運よくその姿が拝めてしまうとは。どきどき、鼓動が速くなる。
「やっぱり、人気なんだなぁ」
 ガラスを一枚隔てた先のキバナさんは、どうやら歩いていたところをファンに声をかけられたようだった。
 気前よく握手に応じる彼の姿は、至極堂々としていて、すらりと伸びた背すじが竜みたいに美しい。それに、にこにこと柔和な笑みを浮かべているというのに、だれよりも大きな背中はまさにナックルシティの城壁だ。がっしりとしていて、堅牢で、ちょっぴり頬を寄せてその温度を確かめてみたくなる。あの夜のパーカーのように、あたたかいのだろうか――って、なに、考えているんだか。
 流星群を見て以来、ずっとこうだ。気がつけば彼の声を思い出し、香りを、ぬくもりを、そしてふっとやさしく笑う顔を必死で頭の中で追いかけている。今だって、窓のポスターを眺めるふりをして、キバナさんから目が離せない。こっちに気づくかな、などと、淡い期待さえ抱いている。
 わざわざ彼の街で買い物をして、彼の姿を陰から見つめて。こういうのをなんて言うんだか、ひそかに自嘲したがそれはそっと胸の奥にしまいこんだ。
 窓の向こうのキバナさんは、いかにも洗練されたジムリーダーだ。女の子の扱い方をそれなりに知っていて、SNSに写真を上げれば数えきれないほどの反応をもらうインフルエンサーという肩書きを背負っている。
 私なんかに気づくはずがない。わかってる。そう、わかっている。なのに、どうにかして気がついてほしくなってしまう。
 隔てられたガラスがもどかしい。たった一枚。その一枚が、ひどく分厚く感じる。
 キバナさんは女の子たちひとりひとりに丁寧な対応をしているようだった。握手をしたり、ハグをしたり、ポケスタでよくやっているうわさの「ガオーポーズ」をして写真を撮ったり。サービス精神旺盛な姿は、彼の実直な性格をとてもよく表していた。
「キバナさんは、どうして、私なんかにかまってくれるんだろう」
 ずっと、疑問に思っていた。だが、きっと流星群に誘ってくれたのも、ワイルドエリアに付き合ってくれたのも、お菓子を食べてふやけた顔して笑ってくれるのも。そもそも、律儀にもブラッスリーに食べに来てくれたのだって、それは、彼がやさしくて真面目な人だからだ。
 汗をかいたグラスから、水滴がすべり落ちていく。勘違いしそうになっていた頭を、目映い陽射しを浴びる透明な壁がどんどん冷やしていく。それなのに、喉のあたりがひどく苦しくて、なにかを吐き出してしまいたくなるのはなぜだろうか。
「もう、やめた、やめた!」
 こんなことで一喜一憂するなんて、馬鹿みたいだ。
 むしゃくしゃして、ジュッとストローを勢いよく吸った私に、デザートを運んできたお姉さんが、ギョッと肩を揺らした。
 そのとき、ひとつの視線がこちらを向いていたことなど、つゆ知らず。

 カフェを出たあとは、スパイクタウンに帰ろうと東のポケモンセンターを目指して歩いた。真っ青に晴れた上空では、砂塵からの砂が風に乗って小さな渦を巻いている。初めて見た人間はきっと驚くが、ナックルシティではよくあることだ。ときおり砂が目に入って視界がかすむが、それも珍しくはない。
「あ、ここ」
 ふらふら歩いていると、以前来たときには建設中だったテナントがなんと新たなパティスリーに変わっているのを発見した。白い外壁にオーク調の木枠とドア。それから赤やピンクなど、色とりどりの花の咲いた植木鉢。ナックルシティというよりかは、シュートシティにでもありそうな外観の店だ。
「すてき……」思わず感嘆のため息がもれた。
 まだ新しいであろうその壁の白さから、木材のしっとりとした色合い、また、小さく灯った洋燈など、どれもこれも乙女心をくすぐってやまない。
 ガラス窓から中をこっそりのぞくと、たくさんのケーキが詰まったショーケースや、焼き菓子がこぼれるようにたっぷり並べられたアンティークテーブルが目に入った。
 真っ赤な苺の載ったショートケーキに、つややかなガナッシュチョコを纏ったオペラ、すべてがおいしそうにきらびやかな光を放っている。まさに、宝石だ。ショーケースが宝石箱なら、アンティークテーブルは淑女の化粧箱だろうか。とにかく、喉から手が出そうになるほど、美しかった。
 どんな匂いがするのだろう。どんな音がするのだろう。きっと、甘くてほのかに香ばしくて、それからしあわせな匂い。じゃあ、音は? パティシエを何人か雇っているなら、カシャカシャと泡立て器の鳴る音、ヴーンとオーブンの回る音。BGMはかかっているかしら。それから、そう、お客さんの弾んだ声。
 白いコックコートを纏った男の人が、ショーケース越しにお客さんと笑い合っているのが見える。
「いいなあ……」
 ぽつり、言葉がこぼれる。
「入ってみりゃいいじゃんか」
 と、それを拾ったのは、思わぬ人物だった。
「き、キバナさん!」
 あんな独り言を、まさかだれかが聞いていたとは。思いがけずびっくりして大きくふり返った私に、その人物はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、「よっ」と気さくに笑みを浮かべた。
「どうして、こんなところに」
 とは言うが、心の中は、すでにワルツでも踊りだしそうなくらいに弾んでいた。
 なんとかそれを悟られないように、何度も目を瞬かせて背の高い彼を見上げる。
「どうして、って、ねえ」
 キバナさんは頬を掻いた。
「なんか、見慣れた背中が歩いてるな、と思って追いかけてきたのよ」
「えっ、お忙しいのに……! 今日はワイルドエリアに行きませんから大丈夫ですよ!」
 大きなショップバッグを鳴らしながら慌てて手を顔の前でブンブンと振ると、「わかってるって」とキバナさんは目を細めて言った。
「それなら、いいんですけど」
 恥ずかしくなって、いそいそと髪を耳にかけ直す私だった。
「ここ、新しくできたところで、結構人気なんだぜ。オレさまも差し入れでもらったけど、まあまあうまかったな」
 窓の外から中を観察するキバナさんと一緒になって、へえ、とのぞき込む。アレとアレだな、と長い指が向かう先には、ガラルでよく食べられているプディングやバノフィーパイがあった。どちらもたしかにおいしそうだ。
 穴が空くほどそれを見つめていると、ちょうどお客さんが中から出てきた。カラン、と心地のよいベルが鳴り響いて、「ありがとうございます」という声が飛んでくる。
「入るか?」キバナさんが親指をクイ、とドアのほうに向けた。
 だが、私はゆっくりかぶりを振った。
「今日は、ケーキ、食べてきちゃったので。また今度にします」
 それは本当のこと。だが、本当であって、本当ではない。
 キバナさんはしばし腑に落ちないような顔をしていたが、やがて、そうか、とつぶやくとポケットから手を出して頭の後ろで組んだ。
「あの、すみません」
 なにを話そうか、指先をひそかにすり合わせながら言葉を探しているところへ、後ろから可愛らしい声が聞こえてきた。
 ふたりしてゆっくりふり返る。そこには、スクールの制服であろうえんじ色のブレザーを着た女の子たちが数人、それぞれ携帯を手に目を輝かせて立っていた。
「キバナさま、ですよね?」
「おお、そうだぜ。オレさまがキバナさまだ」
 さま付けで実際に呼ばれていることにも正直驚きだが――とはいえ、その気持ちはわからなくもない――彼女たちに慄くこともなく、キラリとした笑みを返すキバナさんはさすがだ。「やった!」「やっぱり!」「どうしよう!」と華やぐ彼女たちに、私はとっさに彼から数歩距離をとって場所をゆずる。
 ――炎上するの、いやだろ。ファンの子たちのお願いに快く応える彼の横顔に、掠めたのはジムスタジアムへ初めて訪れたときの彼の言葉だ。
 どこを歩いていても、彼がすばらしいジムリーダーという事実は変わらない。私にとって彼がそうであるかなどおかまいなしに、さまざまな視線が彼を射止めている。もしかすると、外で気軽に話さないほうがいいのかもしれない。というより、そうしなければならないだろう。今までが、例外だったのだ。
「すごいなぁ」
 羨望のほかに、少しの、いやかなり大きな負の感情を抱いて、視線を下のほうへ泳がせる。ああ、勝手に期待して、落ち込んで、やんなっちゃう。
 と、褐色の引き締まった指先が視界の中で泳ぐのが見えた。トントン、人差し指がなにかを指している。――こっち? その先を追いかける。
「携帯?」
 たどり着いたのは、ポケットからのぞくキバナさんのスマホロトムだった。それがどうかしたのだろうか。不思議に思い、顔を上げる。ファンサービスのあいだ、ちらりとこちらを向いたキバナさんがなにやら口を動かした。
「み、ろ……?」
 おそらく、そう言っていた。慌てて携帯を取り出すと、なんてことのない待ち受け画像の上に、ひとつのメッセージが浮かび上がっていた。
『スタジアム集合。受付で名前を言ったら入れるようにしておく。ヌメラがヌメイルに進化したんだ』
 いつの間に。再び、顔を上げる。目が合うと、彼はふっと唇を緩めた。
 きゃあきゃあ、女の子たちはキバナさんに興奮している。壁が分厚いことには変わりない。だが、その壁のこちら側で、私は携帯をぎゅうっと抱きしめて、情けない顔を精一杯動かして笑った。

 スタジアムに着くと、本当にキバナさんは言伝をしておいてくれたのか、名前を告げただけで中へ通してもらえた。ブティックでの買い物袋を持つ女が入っていくには、ひどく不釣り合いな場所だったが、それは今のところ考えないでおくことにした。
 通されたのは、先日とは異なる部屋だ。ふかふかのソファとローテーブル、それからドラゴン模様の絨毯。応接間というのがふさわしいそこに、自然とそわそわしてしまう。すると、それに気がついたのか、スタッフの人がハーブティーを淹れてくれた。
「おいしい」
 じんわり、喉を潤す豊かな香りに緊張がほぐれる。なんだか、一気に張り詰めた糸が緩んだようだった。上質なソファの感触や、瀟洒ながらしかしちょうどよく落ち着いた空気に、一日中回転し続けた頭の疲れが溶けていく。
「ちょっとだけ、いいかな」
 ヌメラの進化した姿やフライゴンたち、それから、キバナさんの微笑みに想いを馳せて、少しだけ目を閉じることにした。 

§

 次から次へとファンに囲まれ、ようやくその輪を抜け出したころには、彼女を見送ってから時計の針がぐるりと一周するかというところだった。
 スタジアムに着くと、すでにスタッフは言伝のとおり彼女を通してくれていたらしく、それを聞いたキバナはすぐさまそちらへ向かった。トレーニング室でも控え室でもない、また別の場所。委員長であるローズやリーグ幹部の人間が来たときに何度か使ったことがある来客用の一室だ。
 そんなところに案内してくれるとは、さすがオレさまのジムスタッフだな、などと自画自賛しながらキバナはドアをノックする。しかし、返事はない。もう一度、控えめに叩いてみて、キバナは、入るぞ、とひと声かけて真鍮のノブをひねり押し開けた。
 まさか。キバナは息をのむ。そこにあったのは、ソファにとっぷりと身を預けて目を閉じた彼女の姿だった。
 ローテーブルには飲みかけの紅茶。おそらく、スタッフが今はまっているというリラックス効果のあるやつだろう。がっくり首を垂らした姿に肝が冷えたが、肩が静かに上下している。
 マジか。急に全身の力が抜けたような気がして、キバナはガシガシと頭を掻いた。
「ったく、こんなところで寝やがって」
 足音を盗んでそばに寄る。穏やかな寝息が聞こえて、ひとつため息がもれた。
 よほど疲れていたのだろうか。だらん、とソファへ落ちた手、内を向いた膝とそれとは反対に投げ出された脚。
「ずいぶんと無防備なこと」
 ソファの後ろから彼女の顔をのぞき込む。すう、すう、と整った呼吸に合わせて、小さな体がかすかに揺れている。さらり、落ちたひと束の髪をキバナは慎重によけた。
 閉じられた瞳、ほのかに色づいた頬、真っ白なホイップクリームの上に載った、熟れた苺のような唇――ああ、こちらのほうがはるかに。静かに、あるいは厳かに、彼は唾を飲む。
 ポケモンも持っていない、ナックルシティのキバナのことも知らない、バカ丁寧で、いい大人なくせして警戒心が薄くて。なのに――。
 ふっくらとした、なめらかな頬に手を伸ばす。まるでマシュマロだな、とキバナは思った。そして、こんなはずじゃなかった、とも。
 ああ、そうだ。こんなはずじゃなかった。こんなはずでは、なかったのだ。
 ――そうだろ、キバナ。
 親指、人差し指、それから中指。触れた箇所から伝わる熱が、ひどく心地よい。だが、同時に心臓の奥を疼かせる。
 熱い。目の奥が、喉が、体じゅうが。どうしようもなく、熱い。
 ああ、くそ。喰っちまいたい――なんて。
 まるで吸い寄せられるように、大きな影が自身をとっぷりと飲み込んだことを、彼女は知らない。

§

  金色に染まった窓辺のキッチンに、エプロン姿の女性が立っている。トン、トン、まな板は均一なリズムを刻み、じゅうじゅう、グリルの上で油が踊る。
「おかえり」
 懐かしい夢だった。リビングに放ったカバンから荷物が散るのもかまわず、ふり返った母の腰に飛びついて、今日はなにを作るのかとしきりに訊ねる。
「今日はお父さんが帰ってくるからケーキを焼いたの。飾りつけ、手伝ってくれる?」
 本当はスポンジから一緒に作りたかったけれど、私が帰ってからじゃ間に合わないから、と宥められ、小さな私は渋々うなずく。
 頭を撫でる手が気持ちよくて、早く手を洗ってきなさい、という声が心地よくて。豊かな音がする。豊かな匂いがする。私は、これが大好きだった。
「世界一、おいしいお菓子をつくる娘がいて父さんはうれしいぞ」
 お菓子をつくると、いつも父は喜んでくれた。
「そうそう、上手。もうお母さんなんていらないくらいね」
 できることが増えるたび、母は頭を撫でてくれた。
「うまい、やっぱりこれを食べなきゃ、生きた気がしないな」
 ケーキを食べるたび、父は目尻をしわくちゃにして笑ってくれた。
「あなたなら、きっとやり遂げられるわ」
 パティシエになりたい、そう口にした私を母は抱きしめてくれた。
 だが、世界が崩れるのは一瞬だ。
「――だれも、お前の作ったものなんて、食べたいと思わねぇよ」
 ゆっくりと、堕ちる。堕ちる、堕ちる、堕ちる。ひやりとした暗い水底へ。なにも見えない暗闇へ。ゆっくりと、じっくりと。体に力は入らず、もがくこともできない。
 ごぽり、唇から大きな泡がこぼれる。
 刹那――あたたかななにかが、私を包み込んだ。

「お。起きたか」
 目が覚めると、目の前には碧が広がっていた。
「へ……?」
「よっぽど疲れていたみたいだな」
 きれいなその碧色は、やさしく凪いでいる。まるで、太陽の光が燦々とそそぐ海原をそこに閉じこめたかのようだった。ぱち、ぱち、まだ重みの残るまぶたを懸命に瞬くと、やっとのこと思考がはっきりしてきた。
「え……? えええ?」
 碧い海の正体は、そう、キバナさんだ。近距離に整った顔がまみえて、勢いよく背凭れから身を起こした私に、「っぶね」と言いながら、その碧い瞳の持ち主はのけぞる。
「す、すみません。私、なんだか気持ちよくなって」
「ん、よく寝てたな」
 やっぱり。少しだけのはずが、かなり意識を失っていたみたいだ。あたふた、手を動かしたり視線を泳がしたり、それから顔を赤くしたり、忙しい私にキバナさんはからりと笑う。それがまた、なにごともなかったかのような余裕のある大人の顔で、どうにも居たたまらなくなる。あまり年齢は変わらないはずなのに、なぜこんなにもちがうのか。
「ま、オレさまも待たせちまったわけだし、気にするなよ」
 と、キバナさんは言うが、気にしないでいられる人間がはたしているのだろうか。前髪を何度も撫でつけるが鼓動は激しいままだ。
「すみません、本当、お見苦しいものを」
「いやあ、なかなかイイもの見れたぜ」
 な、と声をかけてくる主人の周りを、スマホロトムがバタフリーのごとく飛び回っている。やはり、気にしないなんて無理だ。見ていた夢のことなどすっかり忘れて、目を開けて寝ていなかったかを祈るばかりだった。
「そういえば、ヌメラ、進化したんですね」
 なんとか心拍数を正常値に戻したあと、私は切り出した。
「そうそう、そうなんだよ。丸っこかったのが、今じゃすっかり大きくなったぜ」
 ソファの対面に座ったキバナさんは、思い出したように腰のホルダーからモンスターボールを手に取る。出てこいヌメイル、と床にボールを放つと、閃光とともに見慣れないシルエットが現れた。
「本当だ、丸くない」
 膝丈くらいだろうか。球体に近かった体に首がにゅっと伸びている。
「あのフォルムからすると、大進化だよな」
 キバナさんがそう表現するように、ボールから出てきたヌメイルは、小さかったころの面影を少しだけ残し、ベビーからキッズにすっかり成長した子どものようでもあった。それでも、なめらかな曲線は変わらない。くりくりの瞳はどこに行ったかぱっと見ではわからないが――いや、緑色の丸いのが目みたいだ――ほっぺたがぷるんとしていて愛らしい。ヌメェ、とひと鳴きして、ヌメイルはゆっくりとこちらへ寄ってくる。
「声はそのままだね、ヌメイル」
 間延びしたような、気の抜けるような。メェッと元気よく体を揺らして返事をする姿も、ヌメラのときと変わらない。
「今度もかわいいよ、ちょっとお姉さんになったんだね」
 微笑ましくなってヌメイルの前にしゃがんで頭を撫でる。うるおいボディのせいか、ねっとりとその肌が手に吸いついた。あとで手を洗わねぇとな、と腕を組むキバナさんに苦笑する。ちなみに、体を覆う粘液とは別に、口からも獲物を溶かす液を出せるようになったらしい。著しい成長だ。
 すりすり、手のひらにすり寄ってくるヌメイルは大きくなってもやはりかわいい。くすぐったいよ、とそのあごを撫でると、ヌメェ、となにかを要求するように鳴いた。
「もしかして」
「もしかしなくとも、アレだな」
 目を見合わせて、キバナさんはこくりとうなずいた。
 まさか、ここまでポルボロンを気に入ってくれていたとは。
「お菓子ね、今日は持ってないんだよ」
 メェラッと鳴く様は、先日のようにおねだりモードだ。しかし、まさか会えると思っていなかったために、お菓子の持ち合わせがない。甘くすり寄るのがなんともかわいいのに、その熱心なおねだりをかわさなければならないのが悔やまれる。
「ごめんね、また今度ね」
 頭を撫でると、ヌメイルは言葉がはっきりわかるのか、ぴょん、と飛び跳ねて私の膝へとのしかかってこようとした。間一髪、避けるも、ヌメラのころの警戒心はどこへやら、お菓子ほしさになおもヌメヌメと迫ってくる。
「か、かわいい」と、そんなふうに悶える横で、主人であるキバナさんは、「ったく」と自分のポケモンの行動に額へ手を当てていた。
 なんとかヌメイルのおねだり攻撃を宥めて、キバナさんはボールの中で震えていたフライゴンを放った。出るやいなや一目散にこちらへと飛んでくる彼を受け止めると、「すてみタックルなんて覚えてたか?」とまたもや主人は呆れ顔だ。知ってか知らでか、フライゴンはあどけなく、ふりゃぁ、と鳴いた。
「なんだか、いいですねポケモンって」
 大きな体をぎゅうと抱きしめながら言う。キバナさんはニッと八重歯を光らせた。
「ついにわかったのか。このよさが」
「今まで、そこまでそんなふうに考えたことなかったんですけど。キバナさんたちを見ていたら、なんだか本当に家族みたいなんですもん」
 さきほどまで、渾身の「のしかかり」を仕掛けてこようとしていたヌメイルは、ヌメヌメとマイペースにキバナさんの足もとを回っている。彼女もフライゴンも、目に入れても痛くないのはもちろんだが、なんといってもトレーナーであるキバナさんのことを信頼していて、キバナさんもまた信頼しているというところが、見ていてときおり羨ましくなる。ギガイアスやサダイジャ、それからジュラルドンも、正直最初は怖かったが、今ではキバナさんを慕うかわいい子どもたちだ。
 なんだか、彼らと一緒にいると、自然と幸せになれる。
 ――幸せ?
 自問して顔に熱が集まる。急いでかぶりを振るとフライゴンが首をかしげた。
「これを機に、ポケモン、捕まえてみるか」
 名案だとばかりにキバナさんはあごを撫でる。
「でも、育てられる自信ないですし、なにを捕まえたらいいのかもわからないし」
「んなの、このキバナがついてんだ。心配、いらないぜ」
 どうやら、私の最初のポケモンはドラゴンタイプになりそうだ。得意げな主人の横で、フライゴンもふわりと美しく羽ばたいた。
 また次の機会にお菓子を作ることを約束して、その日はヌメイルとフライゴンに別れを告げた。スタジアムに行くまであんなにも気分が沈んでいたというのに、帰るときにはスキップでスパイクタウンへ向かっている私がいて、自分という人間の単純さを実感したものである。
 当然、寝ているあいだになにが起きていたかなど、知る由もなかった。

「うぅん、イマイチ、ぱっとしないな」
 それからまた、しばらくはなにを作るのか考える日々が続いた。1LDKというひとり暮らしにじゅうぶんな間取りの自宅は、キッチン周りが広々としていて気に入っている。そのキッチンの一角に折りたたみ式のスツールを用意して、いつものようにレシピとにらめっこをしていた。
 スコーンにポルボロンときたので、そろそろマフィンだろうか。だが、シンオウ地方にポフィンというお菓子があるため、結局候補からは外れた。ポフィンはポケモンたちが大好きなので、ついその味にあやかりたい気もするが、全く同じはなんだか許せない。ちっぽけなプライドだ。それに、私がポケモンたちへの貢ぎものを思案するあいだ、キバナさんは私の最初のパートナー探しをしてくれているという。
「なおさら、変なもの渡せないよねぇ」
 ため息をつきながらレシピノートを閉じて、オーブンの隣の棚へ戻す。
 キバナさんはすてきなトレーナーなんですね、という話で終えるつもりだったのに、まさか、実際に行動に移してくれてしまうとは。思いもよらぬ展開に、どこか落ち着かない気持ちを抱き続ける結果となった。
 二、三日過ぎて、ブラッスリーのカウンターでメロンソーダを飲みながら情報収集に雑誌をパラパラとめくっていると、「まだやっていますか」と不意に声が飛んできた。やけに粒の揃った、美しい声だった。
「ネズくん、いらっしゃい」
 先に反応したのは、まかないの焼きカレーを拵えていた店長だ。
 ふり返るとドア口にはネズさんの姿があった。いつものようにバッチリと髪を整え、目映いほどの白いジャケットを羽織っている。眼窩はとても深く、かなり疲れているようにも見えるが、もしかするとメイクのせいかもしれない。目が合って、微笑みながらちょこんと首を横へ倒すと、薄い唇がかすかに歪み半月を描いた。
「のぞいたら客がいやがらなかったので、大丈夫ですか」
「もちろんです」私は答える。
「ちょうどお店が落ち着いたので、先に休憩に入らせてもらっただけなんですよ」
「そうそう、看板もまだオープンのままだったでしょ」
 久々に姿を見せた常連客に、どうやら店長はご機嫌なようだ。弾んだ調子で、「入りなよ」とネズさんを促した。
「テーブルにします? それとも、こちらでいいですか?」
 ゆらゆらと気だるげに歩いてくるネズさんに、私はスツールから飛び降りる。ネズさんはやおら私を見据えたが、「そっちでいいですよ」とカウンターまで進路を変えずまっすぐ歩いてきた。すぐ隣は失礼かなと思い、ふたつ先、店長の前のスツールを引こうとする。「ここでかまいません」と、私の手を止めてネズさんは自ら隣に腰掛けた。
 客と店員という関係柄、普段は同じ方角を向いて座ることはない。ましてや、隣り合わせに座るなど。
「なんです」
 あまりに呆けていたのか、長いまつ毛を伏せたままネズさんが流し目を送ってきた。
「いえ、あの、なんか新鮮だなと思って」
 音も立てず、きれいな所作でスツールへ乗った姿に見惚れていたなど、言えるはずもない。不意に視線が絡んでハッと我にかえるが、それすらも大人の色香たっぷりで、今の私にはダメージが大きかった。
「あ、お水! 用意しますね!」
 そうだ、と手を叩いていそいそとキッチンへ入ると、彼は少しも表情を動かさずに、「お願いします」と首もとのアクセサリーをひと撫でした。
「お店に来るのは、ほんとう、久々ですね」
 ついこのあいだ家まで送ってもらったばかりだが、ブラッスリーに彼の姿があるのはいつぶりだろう。冷えたグラスを差し出すと、どうも、といつもの調子でネズさんは受け取った。
「親善試合の会議だなんだで忙しくしていたので。まあ、それももう終わりますけど」
「もしかして、来週のですか?」
 店長から誘ってもらったイベントもちょうど来週末にあたる。チャンピオンとジムリーダーが、確かカントーやホウエン、イッシュなどの有名なトレーナーたちとエキシビションマッチをするのだ。
「めずらしいこともあるもんですね」
 反応を示した私に、ネズさんはかすかに眉を上げた。
「実は店長から誘っていただいて、一緒に観に行くんです」
 ね、店長、とピッチャーを戻しながらカウンターの向こうへ視線を送ると、店長は強面な見た目でポップにウインクを返してきた。あいかわらず、やることが若い。
「なるほど。では初スタジアムですか」
 その星が飛んできそうなウインクはスルーして、グラスに口をつけながらネズさんは言う。私がポケモンバトルに疎いことは、店では周知の事実だ。ジムリーダーが常連にいながら、とんだ不束者である。「お恥ずかしながら」と肩をすくめると、ネズさんは表情も変えずにカウンターに頬杖をついた。
「まあ、べつにいいんじゃねぇんですか。興味を持つ持たないは自由ですから」
「そうおっしゃっていただけると、救われるというか……。あ、ネズさんはバトルされるんですか?」
 あとの仕事は店長に任せ私もスツールに舞い戻る。ネズさんの横顔をのぞき込むと、長いまつ毛がゆるりと揺れた。
「残念ながら。その日はチャンピオンとドラゴンストームがメインですからね」
 そっかあ、と私はがっくり肩を落とした。
「残念。せっかくなら、ネズさんの試合もスタジアムで観戦してみたかったです」
 当然ながら、と言うのもおかしいが、自分の街のジムリーダーの試合ですら私はこの目で観たことがない。そろそろ、エール団の皆さんにジグザグマの奇襲を仕掛けられてしまうだろうか。頬杖をつくジムリーダーの隣で、地面に届かぬ足をぶらりと放り出して、メロンソーダをかき混ぜる。
「次はいつになるんでしょうか」
「順にいくとすれば、次のチャレンジリーグでしょうね」
「来年、ですかあ」
 もう少し早く興味を持てばよかった。唇を尖らせると、まあまあ、と前から焼きカレーがふたつ出てきた。
「これを機に、ポケモンに興味を持てばいいじゃない。今からでも遅くないよ。ねえ、ネズくん」
「そうですね」とネズさんはカレーを受け取る。常の調子につい笑ってしまいながら、私もやけどしないように木製のプレートを持ってカウンターに置いた。
 じゅうじゅう、チーズが音を立てる。ふわり、香ばしさとまったりとした匂いのマリアージュが鼻を掠め、胸がいっぱいになる。
「じゃあ店長、そのときはまた一緒に行ってくださいね」
 おいしそうなカレーを前に、いつもの癖でネズさんと自分のカトラリーを用意しながら私は言う。「えぇ」と店長は半ば呆れ声を上げた。
「そのときには彼氏とか作っていきなよ」
「冷たい! 私にそういう浮いた話がないって知っておきながら、店長はそんなことをおっしゃるんですね」
「いやいや、人生、どうなるかわからないでしょ?」
 いつもの調子でやり取りを繰り広げていると、すぐ隣から、カチャ、と皿とカトラリーの喧嘩する音が響いてきた。
「エール団に混じればいいんじゃねぇですか」
 あ、と、私は手を打つ。
「そうですよ、ネズさんの応援なんですから、エール団のみなさんと観たら絶対に楽しいですよね」
 一瞬急いたような声を出したネズさんだったが、すでにもうきれいな仕草で焼きカレーを口に運んでいる。ありがとうございます、と微笑むと、彼はカレーを味わったあと、マリィにも会わせてやりますよ、とまたとない誘いを返してくれた。
「なんだか、楽しみが増えてうれしいです」
 緩んだ頬が戻らない。その楽しみがおれの試合まで残っていればいいですがね、というネズさんの皮肉にも、なにがなんでも残します、と笑ってスプーンを握った。
 一件落着、というわけで、意気揚々とカレーをすくう。はふはふ、焼きカレーを頬張る私は、初めてのポケモンバトルにたぶん浮かれていたのだろう。ポケモンバトルがどんなものかも、ジムリーダーのキバナという人間が、どういう人間かも知らずに。
 そういえば、キバナさんには観にいくことを伝え忘れていたな。そんなのんきなことを考えて口の中でカレーを転がした。

「これでよし」
 鏡の前で、自分の姿を確認する。いつものロングシャツにスキニーパンツなどのシンプルな服装とちがって、今日はれっきとしたガラル淑女だ。
 いよいよ、エキシビションマッチの日がやってきた。どれほどこの日を楽しみにしていたか、私の顔を見ればわかることだろう。先日ナックルシティで見立ててもらった洋服に身を包んだのみならず、メイクも髪型も平時より念入りに施してある。
 同行するのがスキンヘッドのおじさんだということはこの際気にしてはならない。とにかく、この歳になって新しいことに挑戦するのが楽しみで仕方がなかった。
「髪の毛オッケー、メイクもオッケー、服も、だいじょうぶ」
 くるりと体を反転させ、服をなびかせる。洗練されたカジュアルな装いがさらに気持ちを高揚させた。
「いい感じ、かな」
 サッと髪を整えて、仕上げに愛用しているコロンをふりかける。準備は万端だ。
 店長とはナックルシティ駅で待ち合わせ、そこから試合が行われるシュートシティへと一緒に向かった。
 現地にたどり着くと、もうすでに街はイベントムード一色だった。わかってはいたが、かなり大きな催しのようである。そこかしこにイベントのポスターやマクロコスモスの社旗、または各地方の横断幕が掲げられており、道ゆく人々も各々応援するトレーナーのユニフォームやタオルなどを手にしている。
 はやる気持ちを抑えながら、モノレールを使ってスタジアムを目指す。シュートシティはかなり広いので、そうでもしないと会場へたどり着くまえに日が暮れてしまうのだ。スタジアムに着いてからは、長蛇の列に苦戦しながら店長と手分けして特別出店の限定カレーやアローラ地方のマラサダを購入した。両手いっぱいに食べ物や飲み物を手に入れたあとは、いざエキシビションマッチだ!
 スタジアムに入ると、かなりの熱気に満ちていた。膨大な数の座席を誇るシュートスタジアムがほぼ埋まっている。これほどの人に囲まれるのは初めてで、思いがけずきょろきょろと挙動不審になってしまうと、店長はそんな私に、始まったらもっとすごいよ、と笑った。
 いよいよ開幕時間となり、会場全体の照明が落ちる。一瞬の静寂に包まれたのもつかの間、マクロコスモスのローズ社長が目映い光とともに現れると、店長の言葉どおり、割れんばかりの歓声が轟いた。
「こんなふうにポケモンバトルが盛り上がるのは、ガラルのいいところだね」
 拍手を捧げながら店長が叫ぶ。
「ほかの地方はちがうんですか?」私も精一杯声を大きくして返した。
「リーグ自体は盛り上がるけど、ポケモンバトルが一種の興行としてここまで成り立っているのは、ガラルくらいじゃないかな」
「へえ、それならこんな空気が味わえるのもガラルだけなんですね!」
 隣り合わせで座っているはずなのに、しゃべるのもひと苦労だ。
 あれこれと店長の解説を聞きながら、試合が始まればさらに会場が熱狂的になるというので、私はひと足先にマラサダにかぶりついた。
「さ、いよいよキバナくんだよ」
 開幕の言葉やらスポンサーの紹介が終わり、いよいよエキシビションマッチ開始だ。式次第がすでに頭に入っているのか、店長はパンフレットも見ずに興奮から顔を紅潮させている。ついに。息をのんだ瞬間、激しい光の矢が空を舞った。
 あちらこちらを目映く照らし、薄明の空を切り裂いていく。勇ましいBGMが闘志をくすぐり、スクリーンには彼の名と、そして、大きく顔が映し出された。
 刹那、ワアアアアア、と絶叫が弾ける。
「キバナさぁああん!」
「絶対負けんなよぉおお!」
「あいしてる――!」
 選手入場口からオレンジ色のヘアバンドがまみえる。かなりの良席とはいえ、観客席からフィールドはかなりの距離だ。その立ち姿からキバナさんが入ってきたことがわかるが、もちろん表情まではうかがえない。しかし、ドラゴンを模したパーカーに、ユニフォームの半ズボン、もはやトレードマークのその格好でフィールド中央まで歩く様は、あいかわらず威風堂々としている。
 鷹揚な足取りで進みながら、キバナさんは観客に向けてグローブの手を振った。
「こっち! こっち振ったよ! ねえ! 見た?」
「み、見ました!」
 十代には負けないぞ、と言わんばかりの店長のテンションにのまれながら、私も大きく手を振る。
 スクリーンには、碧い瞳をこれでもかと細めて、さわやかな笑みを浮かべたキバナさんが映っていた。あちこちへ手を振り、おまけにスマホロトムで自撮りをする。彼のモーションひとつひとつに対してさらに歓声が上がり、なんだか本当に芸能人を見ているみたいだった。
「相手は、他地方の前チャンピオン、か」
「チャンピオン? じゃあ、つよいってことですか?」
 叫び合いながら、後から入場してくるトレーナーへと視線を転じる。いつもどおりラフなキバナさんに比べて、その人はなんだか貫禄がある佇まいだ。ガラルにもファンは多いのか、彼の名を叫ぶひとも多かった。
「まあそうだけど」と店長は言う。
「でも、キバナくんの相手だとしたら〝前〟じゃ物足りないかもな」
「え、それ、どういうことですか」
 店長はニッと得意げに笑った。
「キバナくん、他地方だったらチャンピオンになれるほどの実力なんだよ」
 まさか。私は慌ててゲストトレーナーとキバナさんのふたりを見比べる。前チャンピオンとジムリーダー。ここから見る限り、まったくもって実力の差はわからない。
「ま、本人はダンデくんにしか目がないみたいだけど」
 言って、店長は周りと一緒になり声を荒らげながら拳を天に突き上げる。
「知らなかった……」
 ぽつり、つぶやいた言葉は歓声にかき消された。
 ローズ委員長のアナウンスが鳴り響き、いよいよバトル開始だ。会場のボルテージはこれでもかというほどに上がっている。当然ながら、私の全身にも血潮が勢いよく駆け巡り、フィールドに存在する闘志剥き出しのキバナさんから一切目が離せずにいた。低く腰を落とし、ゆらりゆらりと体を揺らす様は、まさに獲物を狙う獰猛な竜。スクリーンに映った顔には、いつもの柔和な表情など一切残っていなかった。
 すなあらしを起こしながら、キバナさんの指示を受けてフライゴンが相手の懐に飛び込んでいく。愛らしく鳴く姿がまるでうそみたいだ。
「すごい……。こんな、なんだ」
 隣で店長が興奮して叫ぶ。
「キバナくん、すごいだろう! でも、まだまだだ!」
 烈しいまでの熱気が、あるいは高揚が、スタジアム中に渦巻いている。その中心にいるのは、まぎれもないキバナさんだ。
「キバナさん! がんばれ!」
 気がつけば、私も声を張り上げていた。なにがなんだかよくわからなかったが、とにかくすごくかった。あっという間にその渦にのみこまれていた。
 フライゴンの猛攻に耐えきれず、相手のポケモンが倒れたところでキバナさんも相棒をボールへ戻す。強さは互角、いや、キバナさんが押しているようにも思えた。
「よし、いいぞ! ここからだ!」
 何度かの好戦が続き、店長が興奮気味に眼鏡を曇らせながら叫んだ。
「見てなよ、ダイマックスするぞ!」
「ダイマックス!」
 もはや渦の中で、私は揉まれるしかない。「そうだよ!」と店長も声を枯らす。
「向こうも今日に合わせてダイマックスの特訓をしてきたっていうし、ああもう、最高じゃないか!」
 まだガラルチャンピオンの試合があるというのに、ボルテージは最高潮だった。いや、まだこれからかなり上がるのかもしれないが、とにかく開始まえとは桁ちがいの熱気と興奮が会場を包んでいた。
 キバナさんが腕を振りかぶり、投げたボールからジュラルドンが飛び出す。目映い照明に、あの子のつややかなボディが閃光を放ち、ごくり、私はつばを飲み下した。膝の上できつく握りしめた拳には、汗がにじんでいた。
「荒れ狂えよ、オレのパートナー! スタジアムごとヤツを吹き飛ばせ!」
 竜の咆哮が響き渡る。全身に血潮が滾り、背すじは震え、目の奥がチカチカする。指先は痺れ、心臓がバクバクと苦しいほどに弾ける。
「これが、キバナさん……」
 獰猛な竜のうしろ、大きなボールに戻ったジュラルドンが、再び姿を現わした。

 エキシビションマッチはボルテージ最高潮のまま終わりを遂げた。ガラルのトレーナー陣は好成績を収め、観客に次期リーグ戦へのさらなる期待を抱かせる結果となった。
 トレーナー時代の友人とスタジアムで再会した店長とはシュートシティで別れ、私はひとり帰路についた。偶然、しかも何十年ぶりに会ったとあれば、積もる話もあるだろう。おそらく朝まで飲み明かすにちがいない。大丈夫かな、と心配にもなったが、幸い明日は休業日にしてある。さすがは店長だ。もしかすると、もとよりこれを見越していたのかもしれないが。ともかく、興奮の渦にのみこまれたまま私も列車に乗った。
 コンパートメントのひとつに陣取ると、勢いでお疲れ様メールを送る。
『お疲れ様でした! すごかったです!』そんな、なんてことのないメッセージだ。だが、指先が惑えば、きっとゴミ箱行きになっていただろう。そのあとはポケスタもいじらず、ただ昏れなずむ風景を眺めていた。
 ナックルシティに着いたころには日がとっぷりと落ちていた。駅を出ると、人の流れに逆らい東へ向かう。辺りは暗く、ルートナイントンネルに向かう人影も少ない。タクシーに乗るという手もあったが、どうにもあのスタジアムの空気から抜け出せず、夜風に当たりたい気分であった。
 闇のヴェールを広げた街並みを歩く。目映いポケモンセンターを過ぎ、それから鬱蒼としたルートナイントンネルを抜けると、少しずつ見慣れた街の灯りが見えてきた。
 黄色や白、はたまたピンク、極彩色のネオンがチカチカと不規則に点滅している。湿っぽく、埃っぽい空気が火照った頬をなぞっては宵闇にほどける。今日という日の終わりを静かに告げていた。
「ほんと、すごかったな……」
 初めて見た、本気のポケモンバトル。そして、初めてにして、見事に私の中の常識を覆した、すさまじいバトルでもあった。
 スタジアム中に轟く声援、烈しいポケモンたちのぶつかりあい、それから、息をのむような心理戦。なにより、キバナさんの勇ましい姿から一秒たりとも目が離せなかった。いつもは八重歯をのぞかせて無邪気に笑っているのに、フィールドに立つ彼はまったくの別人だった。まなじりはつり上がり、烈しい構えで鋭く敵を射貫く。かと思えば、好戦的な笑みを浮かべて、愉しげにポケモンに指示を出す。気がついたらスタジアムの空気にのみこまれ、一緒になって手に汗を握り、声を枯らしていた。
 ポケモンバトルって、こんなにすごいんだ。こんなに興奮するものなんだ。その高揚はいままで一切感じたことのないものだった。――それなのに。
「あれ、なにこれ、おかしいな」
 スパイクタウンの燈火がにじむ。ゆらりゆらり、暗闇に溶け出した輪郭が亡霊のごとく浮き上がりうごめいている。
「なんで、止まらないんだろ」
 堰を切ったように、ぽろり、ぽろり、容赦なく大きな雫が双眸からこぼれ、頬を濡らしていく。――うねりを上げる歓声。烈しく空を切る光の矢、頭が狂いそうなほどの熱気。視線の先には、雄叫びを上げる竜の姿。
「すごく、楽しかったじゃん、興奮したじゃん、なのに……っ」
 胸が軋み、目の奥が熱く、頭がジンジンする。きつく、拳を握りしめて涙を拭う。
「なに、泣いてんの」
 ハハッ、おもしろくもないのに、なぜだか笑えてくる。頭も、顔も、すべてぐちゃぐちゃだ。懸命に目をこするが、あふれる勢いは増していくばかり。もう目の前はスパイクタウンで、街に入るまえにこの状態をどうにかしなくてはならないのに。
 静かな空き地、皮肉にも澄み渡った空には月の船が浮かんでいる。
「そんなところでなにしてやがるんです」
 不意に、夜風のバラッドが冷えた頬を撫ぜた。
「まったく懲りないヤツですね」歌は続く。
「襲われても知りま……」
 呆然と顔を上げた私に、その人は声を失った。
「だれです」
 むっつり黙り込んだまま足早に近寄ってきたその人が、思いきり私の右肩を掴む。すごい力だった。肩に指が食い込み、その拍子に目に溜まった水がまたしても頬をすべり落ちる。
「おまえを泣かせたのはだれかと言っているんです」
 ネズさんは凄むように瞳をのぞき込んできた。いつもの滔々とした声とはちがう、地響きに似たうなり。あの、これは、と必死で弁解しようとするが、すでに遅かった。
「言いやがりなさい」
 捕まれた肩が痛い。
「ネズさん」
 どうにか声を絞り出して彼を呼ぶ。濡れた頬がジリジリと灼けるようだった。
「今すぐ、いますぐに」
「ネズさ――」
「おれが、代わりに殺してやりますから」
 いつもの彼の姿はそこになく、眉はつり上がり、瞳孔が大きく開いていた。
「おまえが言わねぇんでしたら、こちらで勝手に」
「――ネズさん!」
 叫んだ私に、彼は息をのんだ。
 ちがうんです、力なくかぶりを振る。
「今日の試合が、すごすぎて。なんだか、あまりに住む世界がちがくて」
 びっくり、しただけなんです。へらり、しまりのない笑みを浮かべて、止まることのない涙を懸命に手首で拭う。相当、情けない顔をしていただろう。情けないどころか、おそらく、とてつもなくひどい顔だった。
 ネズさんはなにか言いたげにしていたが、やがて肩を離すと、グローブを外した指先で私の涙をすくう。
「夜道は危ないです、家まで送ります」
 ぽん、とやさしい熱が頭に宿る。
 妹にするようなその仕草が、今だけはすごくありがたかった。

「まぶし……」
 幽玄とした夜は過ぎ去り、燦々と陽光がカーテン越しにそそいでいた。とっぷりとミルクに浸した部屋で重たいまぶたを押し上げた私は、ベッドの中でごろんと窓から背を向けて寝返りを打つ。
「今日、休みかぁ」
 少しの疲労感は残るが、こんな日にはかえって体を動かしていたほうが楽だろう。さわやかな朝日とはうらはらに穴に潜んでじいっとしていたいような気持ちに、はぁ、と盛大なため息をついて布団に潜り込む。だが、一分も経たないうちに全身がむずむずしだし、お気に入りの羽毛布団のあなぐらから飛び起きた。
 思い立ってやってきたのは、エンジンシティだ。キルクスとどちらにするかで迷ったが、寒いと余計に気分が下がってしまうだろうとナックルシティから列車に乗った。本当は、ナックルシティに行くのも気が引けたがタクシーを使うには少し遠すぎた。
 駅を出たあと、スボミーインを抜けてジムスタジアムまで歩く。その前に昇降機があるのでそれを使って下へ降りると、目前に繁華街が広がった。もくもく、蒸気がくゆる。シュートシティに次ぐ大都市だというのに、その様子はなんだか新鮮でおもしろい。煉瓦造りの美しい街並みに白いもやが溶けていくのを漫然と眺めながら、なにをしようかと私は考えた。とりあえず、往来を気ままに散策することにした。
 花屋、古本屋、それから、レコードショップ。普段はなかなか足を運ばない場所にふらり立ち寄って、花を一輪買ってみたり、古びた郷土料理本に手を伸ばしてみたり、お気に入りのジャケットを見つけようとレコードをあさってみたり、自分の習慣から離れるのはどこか気分が晴れる。だが、それもつかの間のこと。レコードショップを出て、ガラスに映った自分の姿を確認すると、雲行きは一気に怪しくなった。
「ひっどい、顔」
 どうにかメイクをしたが、それでも目もとは腫れぼったい。修復不可の顔を見て、ひとつ息をつく。すぐに目を温めなさい、とネズさんは私を送り届けてくれたが、なにもかもが億劫になりすぐにベッドに飛び込んでしまった顛末だ。寝るまえの日課になっているSNSチェックも、通知がいくつか来ていたメールも電話も、すべてなかったことにして眠りについてしまった。
 あーあ、ひとりでに息をついて下まぶたを押さえる。突然号泣してしまったこと、ネズさんに心配をかけてしまったこと、それから……思い返してどんどん気分が沈んでいく。落ち着いたと思っていたのに、なんというざまだ。大きく腫れた血豆から、血を抜いて楽になるのと一緒で、鋭い痛みとともに胸のつっかかりがとれたような気がしていたのに、結局はそのあとも痛みがとれない。
「おかあさん、ぼく、カムカメにみずでっぽうおぼえさせたんだよ!」
 後ろをひと組の親子が通り過ぎる。ぴょんぴょん飛び跳ねる男の子に母親はやさしい笑みを浮かべて、そうなのすごいわね、と小さな頭を撫でる。
「とにかく、今日は楽しまなきゃ」
 目頭がツンと痛むのに気づかないふりをして。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、なにかを期待してしまっていた自分とはもう訣別だ。ぽん、と頬を叩くと、ピンク色の花を見つめて笑みを作ってみせた。
 ぶらぶらとウィンドゥショッピングを楽しんだあとは、ひと休みでもしようと街の西側へ向かった。きらり、きらり、街を流れる水路の水面が輝いている。水車がくるりと回り、穏やかな奏を聞きながら老夫婦やカップルが広場で憩いを楽しんでいた。私も、空いているベンチに腰を下ろすことにした。
 花を折らないよう慎重に立て掛け、手に入れたレコードのジャケットを眺める。蓄音機なんてうちにはないのに、なんだかインテリアにしたくてつい買ってしまった。部屋のどこに飾ろうか、考えて頬を緩める。
「こら、待てってば、ワンパチ!」
 どこからか声がしてきた。なんだろうと顔を上げたところで、イヌヌワン! という特徴的な鳴き声とともに、突如なにかがとっしんを仕掛けてきた。
「あっ」驚いて手からレコードが飛び出す。流線を描き、やがて地面へ落ちていく。と、その前にべろりと頬を舐められた。
「わ、ちょっ、くすぐったい!」
 ぺろぺろ、アイスキャンディーを食べるように私の顔じゅうを舐める。笑いながら、突如出現した大きなもふもふを腕に抱くと、イヌヌワン! ともうひとつ鳴き声を上げた。
白と茶色の毛並みに黄色いくりくりの瞳。そう、ワンパチだ。
「あっ! もう、なにしてんの! こら! すみません!」
 熱烈攻撃のあいだ、トレーナーの声が次いで飛んでくる。なんだか聞いたことがある声だなと思い、ほっぺすりすりをよけて顔を上げると、予期せぬ人物が立っていた。
「あ、あのときの」
 オレンジ色の明るい髪に、額に上げられたサングラス。以前ナックルシティのブティックで見かけた女の人だ。つり目がちな瞳が大きく瞬く。イヌヌワン! 主人の登場にワンパチが腕の中から飛び出して、彼女のもとへと戻っていった。
「もう、本っ当にごめんなさい。急に飛び出して行っちゃって」
 すまなそうに眉を下げる彼女に、いえ、と微笑む。
「びっくりしましたけど、大丈夫ですよ」
「本当? この子のとっしん、すごかったんじゃない?」
 彼女はいまだにはっはと楽しげに揺れる小さな鼻に、もうダメでしょ! と人差し指を当てる。鮮やかな髪色が彼女の表情に合わせてきらきらと太陽の光を反射し、なんだか夢でも見ているみたいだった。
「平気です。昔うちにいたワンパチにくらべたら、かわいいくらい」
 安心させるように笑って、彼女の胸もとで舌を出したワンパチの頭を撫でる。
「でも、それ、汚しちゃったかもしれないし」
 それ? 彼女の視線を追いかけて、地面に落ちたレコードを見つける。運悪く、中身が飛び出してしまっていたようだ。
「傷ついてなきゃいいんだけど……」
「もとからインテリアにする予定だったから。あまり、気にしないで」
 ベンチから立ち上がり、レコードを拾い上げる。細かな傷はわからないが、見る限りなんともなさそうだった。
 ね? とジャケットと中身が無事なことを示して笑うと、それでも女の人はすまなそうに口もとをもぞつかせていた。
「そうだ!」彼女は軽快に指を鳴らす。
「甘いもの、好きだったりしない?」
「甘いもの? 好き、ですけど」
 それが、どうしたのだろう。小首をかしげる私に、女の人はワンパチをモンスターボールへしまって、手にしていたショップバッグからひとつ箱を取り出した。上部に取っ手がついており、色は純白の両手に収まるほどのケーキボックス。なんと、彼女はそれをハイと差し出してきた。
「これ、よかったら食べて。そこで買ったシュークリームなんだけど」
 お詫びに、とハの字眉で笑う彼女に、私は慌てて顔の前で手を振る。
「い、いただけません!」
 たしかにレコードは宙を舞ったが、ワンパチが甘えてとっしんしてきたくらいでは怪我をすることもない。むしろ、癒されたぶん、お詫びをもらったところでおつりを返してもいいくらいだ。それに、きっと彼女が好きで買ったものなのだ、もらうのも忍びない。本当に大丈夫ですから、と箱を押し返そうとすると、彼女は、「いいの、いいの」と肩をすくめた。
「また買えるし。おどろかせちゃったから」
 そこまで言われては断るすべもない。おずおずと箱を受け取ると、ふわりと甘い香りが鼻を掠めた。
「それ、すっごくおいしいの。外はさっくりしてるのに、中のクリームがとろっとして、なんていうかこうほっぺが落ちるっていうか」
「じゃあ、一緒に食べませんか?」
 頬をほんのり桃色に染めてシュークリームの魅力を熱弁する彼女に、思わずそんな言葉が口をついて出た。
「え?」彼女はきょとんとする。
「よかったらでいいんですけど……」
 彼女はネイルの塗られた指で頬を掻いた。
「たしかに、ふたつ買ってあるんだけどさ。それじゃ、お詫びにならなくない?」
「でも、おいしいものなら、ひとりで食べるよりもだれかと一緒に食べたほうが、よりおいしいかな、って」
 すみません厚かましくて、へにゃりとだらしなく笑う。ぱちりぱちり長く豊かなまつ毛が羽ばたき、やがて、ふっと大きく羽を広げた。
「じゃ、お邪魔しちゃおうかな」
 彼女の返事に私は嬉しくなってベンチの上を跳んで移動する。横に置いていた花を潰さぬようよけて、彼女が座れるスペースを確保すると、彼女はそこへ腰を下ろした。
「本当、私もいただいてしまって、すみません」
「いいの、いいの。って、それこっちのセリフね」
 軽い自己紹介を終えたあと、私たちは肩を並べて白い箱に夢中になる。なんだか、こんなふうに女の子と一緒になってお菓子の箱を開くのは久しぶりだ。
 中になにが入っているのだろう。シュークリームとわかってはいるが、やはり、この純白の、中身をいかようにも想像できるケーキボックスを手にすると胸が弾む。
 カバンからウエットティッシュで手を拭いて、いざ!
「わ……」
 箱を開けると、白化粧を纏ったロコン色のクッキーシューが目に飛び込んできた。ぱっくりと斜めに開いた口からは、つやがかったカスタードクリームがのぞいている。シンプルなのにその絶妙なバランスが美しい。これはもう、絶対においしいやつだ。
 ごくり喉を鳴らすと、横でも同じく、「最高……」という甘美な声がこぼれた。
「こんなシュークリーム、エンジンシティにあるなんて知らなかった」
「でしょ? お店は路地裏にあるからあまり目立たないんだけど、おばあさまが昔から好きなパティスリーでね。これは特に絶品!」
 待ちきれないと頬に喜びを浮かび上がらせる彼女――ソニアに微笑んで、壊さぬように慎重にシュークリームを取り出す。こんがり焼けたシューの香りと、まったりとしたクリームのやさしい香り。うん、これだけでもおいしい。
 ソニアのぶんを手渡して、それから自分のを手のひらに載せる。ころんと丸いフォルムを空にかざすと、なんだか小さな王様を見ているかのようだった。クリームに載ったクッキーシューの蓋が王冠。伝統と尊厳を示しつつ、時代に取り残されることなく、今日まで歩んできたようだ。
「そんなに真剣にシュークリームを見るひと、初めて見た」
 ソニアの言葉に、あまりに自分が夢中になっていたのを知った。
「なんだか、このデコレーションのしかた、いいなって思って」
 つい出てしまった癖に気恥ずかしくなって手を下ろす。ソニアは物言いたげに眉を上げたが、すぐにふっと口もとを緩めて、「さっ、食べよ」と軽やかに笑った。
 いただきます、と、声を合わせてシュークリームにかぶりつく。サクッとしたシュー生地にほのかな香ばしさを包み込む、舌ざわりのなめらかなクリーム。あっさりしすぎず、こってりしすぎず、舌に上品な甘みだけを残す絶妙な濃厚さだ。
「おいしい」
 食べた瞬間、金色の風が全身に吹き抜けたようだった。これまで食べてきたシュークリームの味がすべて覆される、まさに革新的なおいしさ。なんということだろう。口の中にじんわりと広がったバニラの風味、舌に残るクリームの感触、ああもう、自然と頬がほころんでしまう。こんなシュークリーム、はじめてだ!
「でしょ! やっぱりシュークリームはここのが一番!」
 最高、と目もとを弛ませて、ソニアはもうひと口、ふた口、とシュークリームを口にする。その姿に、見ているこっちが嬉しくなってしまう。
 ――キバナさんが食べたらどんな顔をするのだろう。
 気がつけば、そんなことを思っていた。
「ばかだな、私……」
 上着のポケットに眠らせていた携帯をそっと上からなぞる。
 ん? とまつ毛を揺らすソニアの横で、なんでもない、と笑ってシュークリームにかぶりついた。口内にほどけるクリームの甘さが目の奥をツンと刺激する。ゆっくりとその豊かな甘みを味わいながら、私は遠く空を仰ぐ。
 もくもく、目映い陽射しを遮るように白い蒸気が天にかかっていた。

「うぅん、やっぱりちょっと膨らみが甘いなぁ」
 非日常から舞い戻り、再びいつもどおりの日常が帰ってきた。このごろはすっかりブラッスリーも落ち着いて――と言っても、ありがたいことに昼どきには席がほぼ埋まるのだが――忙しなくテーブルのあいだでワルツを踊ることも少なくなっている。一時期はワルツどころか、タンゴの気迫でオーダーをさばいていることもあったので、さびしさはあるものの、正直、内心ではホッとしていた。
 そんなブラッスリーの穏やかな昼下がりのこと。
「あ、本当だ」
 オーブンの前でぼやいている私に、店長が背後からガラス戸をのぞき込んで言った。
「シュー生地って、むずかしいんですよね」
「そうそう。慣れるまでコツがいるんだよね。お菓子づくりの中でも、かなり繊細なほうっていうか」
 暗くなったオーブンには、しなびたキャベツのような残念なシュー生地が眠っている。それを見て、私はつい、うぅん、とうなりながらあごに手を当てた。
 このところ、バイトを終えてからではあまり時間が取れないこともあり、店長の厚意で午後の仕込みの時間にオーブンを使わせてもらっている。この日もちょうどまかないを作り終えたところで奥の厨房を借りた。
 卵にバター、オリーブオイルと水、それから小麦粉……と頭の中で使用した材料を復唱する。研究しているのは、言わずもがなシュークリームだ。先日ソニアからもらったあのクッキーシューがおいしすぎて、自分でも作ってみたくなったのである。
「材料は大丈夫。卵は常温に戻したし、生地もよく練った」
 ただ、店長も言ったとおり、シュー生地というのはお菓子づくりの中でもかなり難易度が高い。小さなころ、母と作った記憶を頼りにレシピとにらめっこをしながら挑戦してみたものの、完成してみればこのザマだ。
 一般的な作り方としては、水にオリーブオイルとバターを入れて火にかけ、沸騰したら火を止めて小麦粉を混ぜる。生地がひとかたまりになったらまた温めながら練り、頃合いを見て卵を加え入れ、なめらかでつやのある状態にする。言葉にすると単純な作業に思えるが、実際には根気と細心の注意が必要だ。
「もうちょっと、生地の温度を上げてみたほうがいいんでしょうか」
「うぅん。見ているかぎりでは問題なさそうだったけど。あ、オーブンで焼くまえに、生地に水をかけてみたら?」
「水?」店長の言葉に目を瞬く。
「うん。一時期パンづくりにハマってさ、ハード系のパンを作るときには焼くまえに必ず霧吹きをするんだ。表面の乾燥を防げるから膨らみやすくなるんだよ」
 一緒になってオーブンをのぞき込む店長の容姿はあいかわらず強面だが、レンズの奥で瞳がきらきらしている。このひとも本当に料理をするのが好きな人だ。
 霧吹きとは、なるほど。表面の乾燥まではちっとも考えていなかった。あごに手を当てたまま、うんうんとひとりでにうなずく。
「ちょっとやってみます」
 そうと決まれば、善は急げ、だ。ありがとうございます! と元気よく声を上げて、さっそく、緩みかけていたエプロンの紐を結び直す。
「がんばれ」店長はまなじりにたっぷりしわを刻んだ。

 お菓子づくりで悩むのは楽だ。もちろん、一グラムが味や舌ざわりを決める繊細な世界のため、納得のいくものを作ろうとすると、頭も体もそれから根気も必要となる。ひとつのレシピを完成させるには多大なる知恵と時間を費やさなくてはならず、食べるのはあっという間なのに、だれかの口に入るまでの道のりはとてつもなく長い。それはお菓子づくりのみならず、どんな料理においても同じこと。
 だが、その道のりが好きだった。これは舌に残る甘さが強いからグラニュー糖を少し減らして代わりにバターで風味を加えてみよう、だとか、しっとり感を出すために粉の量を調節してみよう、だとか。計りとにらめっこをしながら、何度も何度も同じ工程を繰り返し、自分の中のイメージへ近づけていく。気が遠くなるような作業も多く、気がつけば朝だったということも少なくない。なにかを作り上げるということは非常に大変なことだ。
 それでも、そうして多くの悩みを抱えるのが心地よかった。ボウルに材料を投入していきながら、自分の中にもあれこれと不安や高揚、思い出や新たなアイデアなどといった要素をそそぎ込んで、撹拌していく。
 私にとってお菓子をつくる道のりは精神統一にも似ていた。
 どんなにつらいことがあっても、苦しいことがあっても、泡立て器片手にキッチンに立ってしまえば乗り越えることができる。
「ん、やっぱりカスタードオンリーより、生クリームを混ぜたほうが生地の味を際立たせられるかな」
 何度目かのシュー生地づくりをどうにか終え、中に入れるクリームを混ぜ合わせていたところ、ふと視線を上げた先に見知った姿が横切った。
「あ、ネズさん」
 店の窓ガラスの向こう、ゆらりゆらりと歩く姿はいかにも気だるそうで、風が吹いたら大きくかしいでしまうだろう。そのいつもの彼につい頬を緩めると、私は慌てて泡立て器を置いてサッと手を洗いタオルで拭いながらドアまで駆けて行く。
「ネズさん!」
 カランカラン、とドアベルが大きく鳴って、店を過ぎて通りへと向かおうとしていた背中がふり返った。
「そんなに急いでどうかしましたか」
 ほんの短距離だったというのに肩で息をする私をよそに、ネズさんは常と変わらぬ澄まし顔だ。
「すみません、突然引きとめて。あの、お昼はお済みですか」
「昼? まあ、食いましたけど、それがどうかしましたか」
 重たそうな髪を優雅に揺らして、ネズさんはかすかに頭をかしげる。
「実は、先日のお礼になにかご馳走させてほしくて」
 そう、エキシビションマッチの日、独りスパイクタウンのはずれで泣いていた私をネズさんは家まで送り届けてくれた。深入りすることもなく、かといって、突き放すこともせず。彼は私の隣をゆったりと歩調を合わせて歩いてくれた。あのとき礼は述べたものの、きちんと恩を返せていなかった。
 でもそっか、と肩を落とす私に、眠たげにも見える、とろんとした瞳が向けられる。
「あいかわらず、ずいぶんと律儀なひとですね」
「律儀なんて。あの日はすごく心配をかけてしまいましたし、それに、ネズさんには日ごろからお世話になりっぱなしなので」
 あれほど情けない姿を見せたお詫びともいう。癖で眉をハの字にすると、ネズさんは飄々として首もとのアクセサリーをいじった。
「気にすることはねぇですよ。おれが好きでしていることですから」
「でも……。あっ!」
 突然手を打った私に、ネズさんは長いまつ毛を瞬かせる。
「どうかしやがりましたか」
 怪訝な顔つきのネズさんに、私は、ずいと迫る。
「あの。甘いものって、お好き、ですか?」
 そういうわけで、ネズさんを店内に招くと、オフィスでコーヒーを飲んでいた店長が嬉々として顔を出した。
「ネズくん、いらっしゃい!」
「すみませんね。休憩中のところ」ネズさんは言う。
「いいの、いいの! ネズくんならいつでも大歓迎!」
 ねっ、と頭の上に後光が差した輝かしい天使の笑みを向けられて、私も、「はい」と勢いよくうなずく。スパイクタウンの人間ならだれもが同じ答えを出すであろう。それほどこの街で彼の存在はカリスマ的であり、なくてはならないものなのである。
 ネズさんはまんざらでもない様子で――といってもかすかに口もとがもごついたくらいだが――それはどうも、と頭を揺らした。
「お飲み物はどうされますか? コーヒー? 紅茶? それとも、炭酸?」
 店の特等席でもあるカウンターの真ん中へと案内したあと、軽やかなステップで向かい側へと移る。ネズさんは、「では、炭酸で」とそのリズムを数えるように指先でテーブルを打った。
 細身のグラスに氷を数粒落とし、自家製のレモンシロップを入れる。緑色の瓶を開け、プシュッと軽快な音をさせると、そのまま泡立たせぬようグラスにそそいだ。
「特製レモンスカッシュです」
 店長がアローラ地方で見つけてきた七色のガラス細工のマドラーと、黒いストローを差して完成である。
「てっきり、ガス入りの水かと」
「つい、気合いが入ってしまいました」
 へへ、と笑うとネズさんは呆れながらもやさしく口もとを歪めた。
「僕も、僕も」と言われて店長のぶんとそれから自分のも作る。メニューにも載っているレモンスカッシュは、店でもジンジャーエールに次ぐ人気ドリンクのひとつだ。使用しているレモンシロップは、ほどよい甘さとレモンの酸味、それからラムのぴりっとした刺激が特徴的。私の力作である。
 そうして店長にもグラスを用意すると、私はボウル片手に厨房へと姿を消した。いわずもがな、シュークリームを完成させるためであった。
「よし」
 さきほど焼いて冷ましておいたシュー生地の上部を丁寧にカットして、家から持ってきたペストリーバッグに生カスタードをセットする。あとは、絞るのみだ。
 深呼吸をして、バッグを手にする。こくり、ひとりでにうなずくと、私は体を屈めた。最初はくるくる円を描くようにクリームを絞り出し、頃合いを見計らって中央で口金を切る。それを何度か繰り返し、シューの蓋を載せて粉糖をふるうと完成だ。
「できた」
 見た目は悪くない。白い雪化粧に、生カスタードの薄いクチナシ色と、つぶつぶとしたバニラビーンズがよく映える。崩さぬよう慎重に皿へ載せて、私はホールに戻った。
「あれ、店長は」
「若者を邪魔するわけにはいかない、とかなんとか、ずいぶんノイジーなことを言いながら裏に行きましたよ」
 なんとも店長が言いそうなセリフである。せっかく用意したんだけどな、と皿を両手に肩をすくめるも、すぐにあとででいいかと気を取り直してカウンターから下りる。
「お待たせしました」
 ネズさんの前にひとつ、シュークリームを置く。ぱっくりきれいに空いた口を正面にすると、へえ、とジャズの低く美しい奏が聞こえてきた。
「試作段階で申し訳ないんですが、よければ召し上がってください」
「まったく、こんな特技があったとは」
 現れたシュークリームを、まるで楽器でも見定めるようにじいっと観察するネズさんに眉を下げる。
「特技っていうか、趣味なんですけどね」
「それでも、この出来映えはすごいですけどね。売っていてもおかしくはないんじゃないですか」
 お世辞だとしてもそう言ってもらえると嬉しい。ありがとうございます、と頬を緩めると、ネズさんは目を細めておもむろにグローブを外した。
 長い指先を手のひらほどのシュークリームへと伸ばす姿は、ピアノを弾くように繊細で、思わずごくりと息をのみたくなる。
「そんなに見るもんじゃねぇです」と、言われて、私は慌てて前髪を撫でつけた。
 とはいえ、自分のお菓子を食べてもらう瞬間は緊張するものだ。店長のぶんの皿を傍へよけて、隣に座ってレモンスカッシュを手のひらでぎゅうと握って待つ。
「いい味ですね」
 ごくん、骨ばった喉が動いて、発せられた言葉に私は視線を上げた。
「ほ、本当ですか」
「うそをつく必要がどこにあるんです」
 言いながら、ネズさんは瞳を閉じてまたひと口シュークリームにかぶりつく。嬉しさからか、思わず唇を噛みしめずにはいられなかった。
「卵の味が強いかな、とか、バニラビーンズを足した方がいいのかな、とか迷ってたんですけど、お口に合ったのなら、よかったです」
 安心したからか、のどが渇いて勢いよくストローに口をつける。
「これを食べられるおれは、しあわせですね」
 しゅわっと炭酸がやさしく弾け、喉を潤した。
「しあわせ?」
 きょとんと呆けてストローを離す私に、指先につまんだシュークリームを目の高さに掲げてまじまじと眺めていたネズさんは、瞳を伏せ、そうです、と相づちを打つ。
「あまり食に詳しくねぇおれでも、どれほどの時間と労力を費やしたかはわかります」
「そんな……、そんなふうにおっしゃっていただいて、なんと言ったらいいか」
 失礼を承知で試作段階のものを出したというのに。これ以上にないもったいない言葉に声を震わせる。エメラルドグリーンの宝石がゆっくりこちらを向いた。
「ついてますよ、白いの」
 ここ、空いた指で頬を示され、私はハッとして手でこする。手のひらを見ると、粉砂糖がたっぷりついていた。ああもう、こんな状態でネズさんに、どうぞ! とお菓子を差し出していたとは。恥ずかしくなって、顔中を紙ナプキンで拭う。ネズさんはというと視線を戻して再びシュークリームを味わいなおしていた。
 ひと口、ふた口、ぺろりと完食だ。
「うまか」
 ぽそり、つぶやかれた言葉に私は目を瞬かせる。だが、ネズさんはなにごともなかったかのように、指についた粉砂糖を舐めとった。
「おいしかったです。ただ、おれはもう少し甘めのほうがいいですがね」
 みぞおちのあたりに、なんだかジグザグマの尻尾で撫でられたこそばゆさを感じる。
「ネズさんにはまた今度、甘々なやつ作らせてくださいね」
 私は笑った。

 幸せになれるお菓子をつくりたい。クリスマスではないが、箱を開けるときからワクワクして中身が待ち遠しくなる。蓋を開けたら、目をキラキラさせて、ひと口食べたらへにゃりと締まりのない笑みを浮かべたくなる。そう、そんなお菓子をずっと、ずっと、自分の手で作りたかった。
 ネズさんに嬉しい言葉をもらった日から、私はまたお菓子づくりに没頭した。
 先日エンジンシティで食べたような二番煎じのシュークリームではなく、カロス地方でよく食べられるという、小さなシューで山を描いたプロフィットロール。箱を開けたらワッと驚く、宝のようなシュークリームの山だ。クリームやチョコレートで色鮮やかに積み上げられたそれは、幸せを象徴するものでもある。
 そう、そんな、目にした瞬間から幸せが胸に溶けだすようなシュークリームをキバナさんやフライゴンたちに届けたい。ただ、笑ってほしい、喜んでほしい、それだけの想いでひたすら改良を重ねていた。
 プルルル、と聞き慣れた電子音がキッチンに響く。ペストリーバッグを手にしていた私は、なんの気なしにテーブルに置かれた携帯の画面を小指で押して電話に出た。
「よ、生きてるか」
 声を聞いて、すぐさま私は飛び上がった。その声を耳にして、初めて相手がだれかを理解したのだ。
「キバナさん!」
 声を荒らげた拍子に口金からシュー生地が飛び出す。それまで同じサイズになるよう慎重にしぼり出してきたのに、気を抜いたのが仇となった。あたふた慌てる私に気づいてか、キバナさんは電話口の向こうでくつくつ笑っている。
「いきなり悪かったな。いま、大丈夫か?」
「あ、はい。あっ、ちょっ、ちょっと待っていてくださいね」
 ひとつくらいなら仕方ない、と大サービスしてしまったものはそのままに、天板の上に次々と生地をしぼり出す。時間が経つと膨らまない原因になってしまうので、生地だけはとにかく焼いてしまおうという作戦だ。だが、突然の出来事に動揺してしまったせいか、大なり小なり、崩れた丸が並んでしまった。
 これはまた店長とお菓子パーティーするやつだな。そんなことを思いながら霧吹きで水をかけて予熱を済ませたオーブンへ入れる。
「すみません、キバナさん。お待たせしました」
 手を拭って通話に戻ると、ん、と短い返事が返ってきた。
「なにしてたんだ?」
「いま、お菓子を作っていたところで」
「お、マジか。久々に食いてぇなあ」
 キバナさんのなにげない言葉に胸が高鳴る。
だが、同時にちくりと痛みが走った。
「すみません、なかなかお渡しできなくて」
「いいっていいって。そっちの都合もあるだろうしな」
 久々に聞くキバナさんの声は、張り詰めたものでも、あのドラゴンの雄叫びでもなく、軽やかにホップするような明るいものだった。
 実をいうと、エキシビションマッチ以来、なんだか気まずくてまともに連絡を取っていなかった。ましてや、会うことも電話をすることもなかったので、その響きを味わいつつ、私はいちいち次の言葉を探してしまう。
 キバナさんは、今、九番道路にいるらしい。なぜそんな寒いところにと訊ねると、どうやらドラゴンタイプはこおりに弱いからと特訓をしているそうだった。
「来るか?」と、訊かれて、私はオーブンに目を向ける。不恰好なシュー生地が橙の光の中で、少しずつ膨らみ始めている。
「すみません。しばらく、家を離れられそうにないので」
 自然と、視線が降下した。
「そうか。フライゴンがおまえに会いたがってたんだけどなぁ」
 電話の向こうで、ふりゃあ、と鳴く声がする。寒いからかそれともさびしさを表現してくれているからか、その声はいつもよりか細く感じた。
「こらこら、そんなにオレさまにじゃれついたって、お菓子は出てこねぇっつの。おい、ヌメイルも足もとぬめぬめにするなって、あっ、と、ジュラルドン!」
 ふりゃりゃ、という鳴声のほかに、ヌメェと間の抜けた声が聞こえてくる。なんだか、彼らの様子が手に取るように想像できた。
「できあがったら……」
 ――できあがったら?
 ふとある言葉が口をついて出そうになり、慌ててむっと唇を結ぶ。
「どうした?」
「いえ」唇が震えた。
 キバナさんは、ガラル屈指のジムリーダーで、みんなが憧れるようなすばらしいポケモントレーナーで。お届けしましょうか、など、どうして気安く言えるだろうか。
「私、お菓子を作っていていいんでしょうか」
 うってかわって、唇からこぼれたのは弱々しい声だった。ぐっと親指を握りしめて、オーブンを眺めるとガラスに大きな影が映る。昔も、背伸びをしてこんなふうに懸命にターンテーブルがぐるりと回るのを見つめていた。もう背伸びは必要ない。それなのに、不自然に丸まった背中はなんと情けないのだろう。
「なんだよいきなり」
「急に、ごめんなさい。でも、私なんかが作ったものをキバナさんにお渡ししてもいいのかなって」
 ヴーン、というお菓子の焼ける音がキッチンを支配する。口の中はカラカラで、気を抜けば声が掠れてしまいそうだった。
「おまえは」
 しん、と空気を震わせたのはキバナさんだった。琴線を撫でるその低い声に、ひゅ、と喘ぐように小さく息をのむ。
「おまえは、どうしたい」
 目の前には、幸せのやわらかな燈火。その光の中で、少しずつ小さなシューができあがってきていた。大きかったり、小さかったり、ふぞろいで不恰好な丸がいくつも並んでいる。それに、あの勢いよくしぼり出した生地だけは今にもほかの生地とくっついてしまいそうだ。本当は、今すぐにでも扉を開いてしまいたい。だが、ここで開けたらすべてが台無しだ。
「わたし、は……」言葉を詰まらせる。
 お菓子づくりは好きだ。自分が作ったものを幸せそうに食べてもらうのが、好きだ。
 きつく、きつく拳を握りしめて、おもむろに息を吸う。
「キバナさんがよければ、作っていたいです」
 苦しくて、張り裂けそうな胸には蓋をして。痛みも、苦しみも、ぬくもりも、慈しみも、なにも知らないのんきな女の仮面を被っていよう。
「なら、そうしろよ」
 やさしすぎる低音が背すじを撫でる。私は潤んだ声が出ないように、必死で手の甲で唇を押さえながら、はい、と返事をした。 

§

 通話を切ってしばらく、立ち尽くしていた男のもとに相棒であるフライゴンが、すり寄ってきた。
「なあ、フライゴン」
 きゅうん、と甘く鳴る喉が、どうかしたのかと訊ねているようにも聞こえる。
「オマエの主人は、どうしようもないヤツだな」
 いつにない、芯のなくなった弱々しい声だった。こてん、首が倒れる。スッとその首すじを撫でると、心地好さそうに彼は頭を預けてきた。
 ――キバナさんがよければ、作っていたいです
「……ああ、くそ。こびりついて離れねぇや」
 さきほどまで耳を撫でていた声が、ふうわり花がそよぐようにほころぶ顔が。何度も何度も反芻し、どうしようもなく胸の奥をギュッと締めつけていく。
 ――なら、そうしろよ
「ホント、かっこつけやがって」
 やりきれなくなって、ヘアバンドを目もとまで下ろす。
 どくん、どくん、静かにうねる鼓動は、確実に彼をのみこもうとしていた。