きらり、きらり、水面が輝いている。
ガラル随一の都会、シュートシティ。ピー、ピー、とキャモメが鳴くのを耳に流しながら、私は運河沿いを歩いていた。しばらく優雅な散歩を満喫したところで、ヴーとお尻に振動が伝わる。取り出した携帯には一通のメッセージが届いていた。
『うまかった。さんきゅ』
短いながらもあたたかみのこもったその文面に、思わず口もとが緩む。
ナックルスタジアムに訪れた日、キバナさんと連絡先を交換した。人気者の彼とそんなことをして、ファンから石でも投げられないかと正直不安だったが、「次、会うとき助かるだろ?」という言葉とともに断る隙もなく押し切られてしまったのだ。
そのときのキバナさんのスマホロトムの俊敏さといったら、フライゴン並みだったことは記憶に新しい。そして、「次」があるという驚きと、なんともいえない喉のむずがゆさを抱いたことを、このメールの送り主は知る由もない。
「本当、マメだなぁ」
送られてきたメールには、プレゼントしたお菓子をフライゴンが狙っている写真が添付されている。SNSを定期的に更新していることからもわかっていたが、キバナさんはざっくばらんな第一印象とはうらはらに、実際はかなり律儀な性格だ。
お菓子の感想を写真つきで教えてくれるのも、これが初めてではない。紅茶と皿に盛られたフィナンシェを前にキメ顔をする写真、これのお陰で死なずに済んだぜ、と忍び寄るジュラルドンを手でガードしてケーク・サレにかぶりつく姿。そのまえは、ヌメラとクッキーを仲良く半分こしていた。
九割がた、キバナさんの顔が映っていることには笑ってしまうが、きちんと食べてくれている様子に顔がほころんでしまう。ちなみに、なんだかんだ保存しているのはここだけの話だ。
はたして、フライゴンからお菓子を死守できたかどうかはわからないが、お口に合ってよかったです、と急いで指先を動かす。返事はすぐに返ってきた。
「ええ、結局、奪われたんだ」
アイツ全部食いやがった、という内容に、私はひとりでにくすくすと笑う。
「今度は、もっとたくさん作ってあげなくちゃね」
ポケモンたちのきらきらした瞳と、溶けたキバナさんの笑顔が脳裡に掠める。
自分のお菓子でだれかが喜んでくれるのは、やはり幸せだ。今度という言葉が自分の口から自然と飛び出したこそばゆさには、つい口もとがもぞもぞしたが、すっかり次の機会を楽しみにしている私がいた。
「っと、いけない。そろそろ市場に行かなきゃ」
店長に頼まれていた買い物を済ませないと、シュートシティまで来た意味がない。携帯をしまい、私は顔を上げて再び脚を動かし始めた。
市場までは、ここから二ブロックほど歩けば着く。川沿いをしばらく進んで、それから道路を横切って駅方面に向かえばいいだろう。頭の中で地図を描いていく。
市場から近い繁華街には、確か製菓専門店があったような。おつかいが終わったらその足で立ち寄ろうか。そんなことを考えていると、香ばしい匂いが漂ってきた。
「あ、スコーン」
すぐにピンときた。視線の先、対岸の遊歩道に青色の可愛らしいスコーンスタンドがある。店の前にはイートインスペースが用意され、見る限りすべて埋まっているようだ。
せっかくだから、食べてみようかしら。魅惑的な香りについつい足を速めて、ちらりと店をのぞこうとする。だが、橋を渡り、街路樹のそよぐ遊歩道へと下りようとしたところで私は足を止めた。
スコーンスタンドからはせいぜい十メートルほどしか離れていないだろうか、階段のすぐ傍にひとつの空きテナントが建っていた。レンガ造りの壁と大きなガラス窓。中にはまえのテナントのなごりだろう、壊れたショーケースが置かれている。
料理の道で生きていくのは、かなり厳しい。それも、製菓業となればなおさらだ。流行の発信地とされるシュートシティでは、常に最先端が求められ、かつ、いかに伝統を受け継いでいけるかが重要となる。おいしいお菓子だけではやっていけない。
テナント募集のチラシがガラス窓の中途半端な位置で風に揺れている。きちんと貼られていないのか、今にも飛んでいってしまいそうだ。
たしかに、私も自分の店を持つのが夢だった。お母さんは、私が夢を叶えるのを信じてくれていた。お父さんは、私が世界で一番の作り手だと誇りに思っていてくれた。
それが、今では――。
「行かなくちゃ」
大きく息を吸い込んで、遊歩道へ背を向ける。
吹きつける風は、ほのかに潮の香りがした。
「ええ、今日お店休みにしたんですか?」
店長の遣いでシュートシティを訪れてから数日。さっぱりと洗われた朝の光を浴びながら、今日も一日がんばるか、とあくびを拵えていた私の目に飛び込んだのは、「本日臨時休業」の紙をドアへ貼り付ける店長の姿だった。
「そうそう、悪いね。さっき連絡したんだけど、さすがにもう出ちゃってたかぁ」
手書きで書かれたそれは、下手すぎず、上手すぎず。いわゆる、どこか味があるというやつだ。だが、問題はそこではない。
「どうしたんですか? まさか、体調が悪いとか?」
それにしては、顔色は悪くない。むしろなんだか生き生きしていて、頬など血色がいいくらいだ。眉をひそめると、眼鏡の奥でくりっとした目もとにしわが刻まれる。
「ちがうちがう。このとおり僕は元気だよ」
「じゃあ、息子さんが帰ってこられるとか? あ、わかった。孫の発表会ですね」
次々と予想をぶつける私に、店長はチッチッチと顔の前で指を振る。
「ダンデくんの出るイベントのチケット発売日なんだよ」
そういうわけで、海外の有名選手を招待した特別試合の観戦チケットを、なにがなんでも手に入れたい店長によって、私の一日の予定は消失したわけである。
「本当、自由なんだから」
耳に残った店長の愉快な鼻歌にやれやれと肩をすくめながら、ルートナイントンネルを抜けてナックルシティへ向かう。家に帰っても待ち受けるのはベッドのみと考えた私は、ワイルドエリアへきのみを探しにいくことにしたのだ。
そう頻繁に臨時休業があるわけではないが、チェーン店ではないため、店の休業日に関しては比較的ゆるやかだ。毎週の定休日と年数回の休業日。だが、思い返せば、去年もこの時期にこんなことがあったような気がしなくもない。もしかすると、あれもイベントのためだったのか。
しばらく歩くと、ナックルシティ駅が見えてきた。ガラル指折りの大都市とはいえ、メインストリートはまだ朝早いからか人通りも少なく、いつもの埃っぽい空気も今はどこか澄んでいる。
「なんだか、観光日和。って、ポケモンセンター以外、どこもまだやっていないけど」
視線の先、唯一シャッターの上がっている店から、まさにトレーナーがひとり出てきたのを見て小さくつぶやく。ひときわ目立つジムスタジアムも、先日の熱気はどこへやら。今はまだ静けさに包まれていた。
あてもなく散歩やウインドウショッピングをするのもいいかと思ったが、これはきのみ採取に直行するほかなさそうだ。
ふう、とひとりでに息をついて、街の正面まで向かう。
今日はどうかキテルグマに会いませんように。切実に願いながらドラゴンの顔を模した正門までたどり着くと、階段の先に広がる明るい世界に深呼吸をひとつ。それから、ぽん、と頬を叩いて、いざワイルドエリアへ踏み出そうとした。
「ちょっと、待った」
だが、そんな声とともに遥かな大地を踏みしめようとした足は宙を舞う。えっ、と思った次の瞬間、とてつもない引力に襲われ、ぐえっと変な声を上げて後ろへ倒れ込んだ。
「どこに行こうとしてんだ、おまえは」
あわや転倒、と思わず目を瞑った私だったが、訪れたのは、ぽすん、という弾力のある感触だった。なんだか、ガッシリしたクッションだ。おそるおそる目を開けて、天を仰ぐ。褐色の健康的な肌、薄い唇にすっと通った鼻すじ、それから、海を詰め込んだ宝石の瞳。
「キバナさん」
そう、この城を守る男が目映い太陽を背負っていた。
「あの、どうしたんですか」
「どうした、は、こっちのセリフだ。やけに軽装な女がワイルドエリアに行こうとしているなって思ったら、まさかのおまえだったから飛んできたんだよ!」
ふわり、さわやかな香りが鼻を掠め心臓が大きく波打つ。そこで思考がはっきりした。
どうしよう。どうやら私はキバナさんの胸に頭を預けているみたいだ。まさか、あのクッションが厚い胸板だとは思わず、呼吸が乱れる。だが、まったく懲りないやつめ、と目を細めるキバナさんに、その動揺を語られまいと笑ってごまかした。
「お菓子を作るのに、どうしてもきのみがほしくて」
これは、うそじゃない。連日の試作によって、保存していたきのみが底を尽きたのだ。中には市場で手に入りづらいものもあり、私にとっては死活問題だった。
「だからって、ポケモンなしでワイルドエリアに突っ込むのは命とりだろうが」
だが、彼にとってはまた別問題らしい。はあ、と大げさにため息をつきながら、キバナさんは私の体を起こす。肩に触れた手の大きさにまたしても心臓がうるさく跳ねるが、すみません、と私は体を小さくした。
「近くのきのみを摘むぶんには大丈夫かなあと思ったんですけど……。それに今日は、むしよけスプレーも一応持ってきましたし……」
ほら、とカバンからスプレーを取り出して、おずおずキバナさんの顔を見上げる。彼は、だめだこりゃ、とばかりに額に手を当てた。
「だめでしたかね」
キバナさんはひとりでにため息をつく。
「まあ、もとを正せば、ほぼオレさまのせいか」
「そんなこと」
ありませんよ、と否定しようとしたものの、その私の言葉は遮られた。
「次から、絶対オレさまに連絡しろよ」
「え?」私は思わず目を瞬いた。
「ワイルドエリアは危険なんだ。当日は無理かもしれないが、まえもって言ってくれりゃ時間はつくる」
まさかと思い、おそるおそる訊ねてみる。
「それって、キバナさんが一緒に来てくださるってことですか?」
いやいや、そんなことあるわけない、勘違いよね。ひとり完結させようとする私をよそに、キバナさんは腕を組んでさも当然と答える。
「なんだよ、不満でもあるのか?」
開いた口が塞がらない、とはこのことだろう。ただただ彼を見上げる私に、鮮やかなヘアバンドの下で眉が跳ね上がった。
「めっそうもない。ただ、お忙しいのに手をわずらわせるのはどうかな、と思って」
先日の一件もあったので、ワイルドエリアがどんな場所かは身をもって痛感している。しかし、だからといって、ほとんどスケジュールに空きがないキバナさんを、私のしょうもない予定に付き合わせるのは、いかがなものか。
だんだんと下がっていく情けない眉に、にゅっと手が伸びてきて思いきり額を掴む。
「キバナさん?」
これこそ、まさかだ。頭を包み込むほどの大きな手。ざらりとしたグローブの感触と、柔らかい指先。突如覆われた視界に五感が冴えわたり、私は内心動揺する。キバナさんの手は、思っていたよりあたたかい。
だが、それもつかの間、次の瞬間にはわしゃわしゃと前髪を掻き乱されていた。
「はいはい。キテルグマに襲われかけたやつは黙っとけ」
「ちょっ……」
なんですか、と抵抗するも、大男の力に敵うはずもなく。ブローしたはずの髪は、あえなくモダンアートの傑作とばかりにあちこちへ散らばった。
「行くぞ」
ああもう、と懸命に乱れ髪を撫でつける私を置いて、キバナさんはポケットに手を突っ込んでさっさと歩きだす。
「えっ、ま、待ってください!」
情けない声を上げながら、数歩遅れて私はそのあとを追いかけた。
「そうそう、いい感じ!」
生い茂った枝葉をフライゴンが揺らし、勢いよく降りだしたきのみシャワーに声を弾ませる。気分をよくしたのか、ふりゃぁ、と喉を鳴らしながら青空に八の字を描くその竜の姿は、なんだかドラゴンというより下界に逃げ出した神さまの子どもみたいだ。
私たちがいるのは、ナックル丘陵を越えた先、ハシノマ原っぱ周辺である。私ひとりならば近場で済ませるところだったが、わざわざキバナさんが同行してくれるとあって、少し遠くまで足を伸ばしてみたのだ。
「ありがとう、フライゴン。とっても助かったわ」
空を舞う美しい存在にうっとり微笑み、地面に落ちたきのみをひとつ、ふたつ、と拾って袋に入れていく。肝心のキバナさんは、後方で腕を組みこの光景を見守っていた。
「オレさまが指示しなくても動くとは、なんだか複雑だ」
すっかり、懐いているフライゴンである。私が語りかければ、簡単なことなら指示を聞いてくれるようになった。あくまで、バトル外でのことだが。
キバナさんの言葉に苦笑しつつ、手伝いのご褒美に甘いモモンの実を手のひらに載せる。ふりゃぁ、という鳴き声とともにフライゴンは降りてきてやさしくそれを咥えた。
「本当、とってもいいこですよね、フライゴン」
美しい見た目もさることながら、柔和で頼りがいがあって。それでいて、昔、家で飼っていたワンパチ以上に喜んで頬をすり寄せてくれる姿は、思わず、ぎゅうっと抱きしめたくなるほど愛くるしい。あの子は全然私に懐いてくれなかったのでなおさらだ。
ふりゃあと甘く鳴る喉を撫でれば、若葉色の肌はしっとり暖かい。ドラゴンタイプはたいてい体温が高いそうだ。
「ま、オレさまの相棒だからな。ちなみに、そいつ、モモンじゃなくてこっちのほうが好きだぜ」
こっち、と手渡されたのは、黄色いきのみだ。
「オボンの実、ですか」
表皮にうっすら赤い斑点があり、どことなく洋梨に近いそれは、市場でもよく見かける。まじまじと見つめる私にキバナさんはうなずいた。
「そ。疲れているときなんかは、滋養にいいからぴったりなんだぜ。こいつらにはよく食べさせてる」
へえ、と感心してそのオボンの実を差し出すと、フライゴンは、「いいのがきた!」とばかりに勢いよく食いついた。
「本当だ、なんだか嬉しそう」
だろ? とキバナさんは誇らしげに笑う。
「人間と一緒で、ポケモンそれぞれに好みがある。それに、ひとつひとつ効能もちがうんだ。きのみっておもしろいよなあ」
長い体躯を折り曲げて、大きな手が転がっているオボンの実を拾い上げる。ひとつ、私に手渡してから、もうひとつは自分でかぶりついた。
「まっず」
喜んで空を舞うフライゴンの横で、キバナさんの顔が思いきり歪んだ。
きのみ狩りを終えると、キバナさんは珍しいハーブが採れるという水辺に連れていってくれた。当然ながらその途中、野生のポケモンと遭遇してバトルをしたり、ヌメラの特訓のために比較的倒しやすいというジグザグマを探したり、キバナさんの敏腕トレーナーっぷりを実際に目の当たりにしたのだが、さすがというか、ポケモンバトルをよく知らない私が見ても慣れた戦い方だというのはよくわかった。
こんなにバトルを間近で見たことは久々だと感動する私に、「今までどうやって生きてきたんだ?」と、キバナさんは眉をひそめていた。
「よし、とりあえずここで休むとするか」
水辺にやってきたところで、キバナさんはテントを張った。
ポケモンたちと一緒になってセットしたあと、彼らは自由に遊びだす。どこかへ行ってしまわないかとひやひやしたが、ガラルのポケモントレーナーはこうしてキャンプをし、ポケモンを休ませたり、親睦を深めたりするのが一般的らしい。
フライゴンがジュラルドンと追いかけっこをしているあいだ、私はというと、地面をのろのろと這うヌメラを観察していた。ぬめっとした丸いフォルムに、ちょんと浮かんだつぶらな瞳。懸命に歩いているようだが、全く進まないのがなお愛しい。
どうしてこんなにかわいいのか。もし私がトレーナーだったら、ヌメラをゲットしたいかもしれない。ただ、育てきる自信はないので、やはりやめておくべきかも。
「癒される……こんなのずっと見ていたい……」
夢見心地で唱える私に、「だってよ、ヌメラ」とキバナさんはボールを差し出す。ヌメラはくんくんとそのおもちゃの匂いを嗅いで、自分の主人を見上げた。
投げてとでも言っているのだろうか。もちろんキバナさんは言いたいことをきちんと理解しているようで、ニッと口もとを緩めると近くへボールを放った。
「あぁ、もう。どうしてそんなにかわいいの」
「そりゃオレさまのヌメラだからだろ」
のろ、のろ、ボールを追いかけるヌメラに悶える私の横で、キバナさんは得意げだ。
「そういや、あまり警戒されなくなったみたいだな」
ヌメラが拾ってきたボールをキバナさんは受け取る。
「そうですかね」
「ああ。まえは一目散に隠れていたくせに、ほら、今は平気だろ」
そういえば、そうかもしれない。私が半径三メートル以内にいるというのに、ヌメラは警戒する気配を見せない。私に気づいていないのだろうか。いや、キバナさんの言うとおり、少しは懐いてくれたのだろうか。ヌメラ……と感動する私にキバナさんはポケじゃらしを渡してくる。やってみろ、と彼はあごをしゃくった。
そうっと小さなドラゴンタイプに歩み寄り、棒の先についた羽を振ってみる。
「ヌメラ、あそぼう」
比較的やさしく、怖がらせないようにトーンを落としたつもりだった。だが、ヌメラは私を認識すると、キテルグマに遭遇したかのごとく、またしても勢いよくキバナさんの後ろへ姿を隠してしまった。
「いけず……」
「よしよし、そんなにオレさまがいいか。オマエはかわいいやつだなぁ」
がっくりうなだれる私の隣で、キバナさんはかなりの上機嫌だった。
しばらく遊ばせると、ジュラルドンがおなかを空かせたというので、カレーを作ることになった。こんなところでカレーを? とは思ったものの、「キャンプといったらカレーだろ」と一蹴された。どうやら、ポケモントレーナーはカレーを作って自分の手持ちと一緒に食べるのがガラルのならわしらしい。なるほど、どうりで店長のカレーが売れないわけだ。
「手伝いますね」
「たすかる」
焚き木を燃やすキバナさんの隣で私は野菜を切る。にんじんとじゃがいもと、それからナックル丘陵で手に入れた長ネギ。味の決め手にはハシノマ原っぱで摘みとったりんごをすりおろして器によけておく。
火が完了すると、肉と野菜を炒め、すりおろしりんごを投入した。りんごの酸味が飛ぶまでぐつぐつ炒め煮る。まさか、こんなところで有名ジムリーダーと協働で料理をすることになるとは。今朝の私はまったく予想していなかった。
「隠し味は、これだな」
水を投入したあと、キバナさんはきのみ袋の中から数粒取り出した。
「あ、クラボの実」
真っ赤な実を見てつぶやく。そう、と彼も口もとを緩めた。
「こいつを入れると辛味が増すんだ。きのみによっては状態異常を治すカレーが作れるんだぜ」
今のアイツらには必要なさそうだが、と言い添えて、種を取り除いて鍋に落とす。
「スパイスがわりってことですね」
「ま、そんな感じだな」
なんだかトレーナーってすごいんだな。椅子に座り長い足に頬杖をつきながら、ぐるり鍋をかき混ぜるキバナさんの横顔をしみじみ眺める。指導者であり、友人であり、家族であり、はたまた医者や物語に登場する錬金術師のようでもある。視線に気がつくと、彼はまなじりにやさしくしわを刻んだ。
完成したアップルカレーは、ほんのり辛口。だが、とてもおいしかった。
「次、どんなお菓子がいいですか?」
腹ごなしが済んで、再び元気にじゃれるポケモンたちを眺めながら私は言った。
「ん? べつにムリしなくていいぞ。このあいだ、大量に作ってくれたしな」
「でも、きのみ採取にお付き合いいただいたわけだし、お礼がしたいんです」
今朝の口ぶりだと、これからきのみを採りに行くには、キバナさんに付き合ってもらわなくてはならないのだろう。毎回、世話になってばかりなのは気が引ける。
それに――ちらり、横目でモンスターボールを投げてはキャッチする彼を盗み見る。
「なんだよ」
「いえ。その、ヌメラに喜んでもらいたいですし?」
口をついて出た言葉に、キバナさんは大胆に目を回した。
「そっちかよ。アイツまでおまえに懐いたら、オレさま、泣くわ」
最後に投げたボールは、ひときわ高く空に上がった。
「ま、どうしてもっていうなら、このキバナさまが食べてやらないでもないな」
グローブに吸い込まれるように、ボールが手に収まる。にやり、好戦的に八重歯を見せた顔は、またしても新しい表情だ。お願いします、私はへにゃりとだらしなく笑った。
「そういえば、フライゴンたちの味の好みって、わかりますか」
そうと決まればリサーチだ、とカバンからメモ帳を取り出して訊ねる。ちなみに「ヒミツの」レシピ帳ではなく、新調した革張りのノートだ。いつアイデアが浮かぶかわからないので、常に持ち歩くようにしていた。
そうだな、とあごに手を当てて、キバナさんは自分のポケモンたちの好みを教えてくれた。サダイジャはセシナの実、ギガイアスはモモン。初めは悩むような仕草をしていたのに、すらすらと薄い唇から紡がれていくのには、正直、びっくりした。まさかそこまで自分のポケモンのことを理解しているとは。
「それから、とにかくフライゴンは手作り菓子に目がない」
「ああ、奪われちゃいましたもんね」
「そうなんだよ」と、キバナさんはやれやれと肩をすくめた。
「あとは、ヌメラはスコーンよりクッキーのほうが気に入ってたみたいだ」
キバナさんは続ける。「ヌメラが?」ちらり地面を這う丸いフォルムを見た。
「ああ。まあ、固いものが食べられないから、手で砕いて一緒に食べたんだけどな」
なるほど。ヌメラとクッキーをシェアしている写真がすぐさま脳裏に浮かぶ。
ヌメラにはクッキー。それから、固いものはバツ。メモを取る手は止まらなかった。
「ちなみに、オレさまは苦手なものナシ」
懸命にペンを走らせていると、キバナさんが言った。
思わず視線を上げた私に、「これも大事だろ?」と不適な笑みを見せてくる。まったく、ふいうちを食らった気分だ。
「たしかに、そうですけど……。じゃあ、なにかリクエストありますか?」
このひと、自分の見た目のよさを理解しているのかしら。心の中でひとりごちながら訊ねてみる。しかし、彼の答えは、「任せる」のひと言だった。
「ええ、そんなあ」と、唇をむっと結んだ私に、キバナさんはしたり顔をした。
「だって、初めからなにをもらえるかわかってるなんて、つまんねぇだろ」
「それはそうですけど」
「ああいうのは、箱を開くときの高揚感が大事なんだよ」
彼の言うことも、わからなくはない。クリスマスや誕生日、いつだってプレゼントの封を切るときが一番ワクワクする。
「でも、なんだか意外です。キバナさんがそこにこだわるなんて」
「意外ってなんだよ」彼は眉をひそめた。「なんだかんだ、みんなそうだろ? なにが入っているか、はたして欲しかったやつなのか、それとも予想だにしないすごいやつなのか。オレさま、開けるまえにも楽しみたいわけよ」
列挙する彼に、「それって、もしかしてハードル、上げてます?」と頬を引きつらせる。「さあな」キバナさんは軽やかに白い歯を見せた。
すっかり、太陽は真上から下り始めていた。まだまだ日暮れにはほど遠いが、確実にその準備を重ねているのだろう。強く西陽が射し、辺りは目映く金色に染まっている。キバナさんといると、時間が過ぎるのはあっという間だ。
数メートル先で、ヌメラが草むらの近くを這っている。そんな姿でさえ、かわいいなんて。懲りずに観察していると、草むらが揺れて黒い影が飛び出してきた。
「あ、キバナさん」
私の声に、ジュラルドンとボール遊びをしていたキバナさんがこちらを向く。
「どうした」
「大変です。ヌメラのところに、ココガラが」
慌ててその草むらを指さす。だが、キバナさんは自分のポケモンが野生ポケモンと対峙しているのを見ると、至って冷静に、「お、頑張れヌメラ」と口にした。
「え、行かなくて、いいんですか?」
近くで指示出しをしたほうがいいのでは、とキバナさんを見やる。
「たまにはああいうのも大事だろ」
「でも、もし怪我しちゃったら」
「まあ、見とけって」
不安でたまらない私とは対照的に、彼は楽しみで仕方がないといった顔だ。
ヌメラのもとにココガラがじりじりと近づいていく。体はヌメラの方が大きいだろうか、だが、ココガラはいかにも俊敏な動きをしている。午前中の特訓では、傷だらけになりながらもジグザグマを倒していたが、本当に大丈夫だろうか。庇護欲をそそられるぬるっとした背中に、思わず手のひらを握る。
「アイツはな、最弱のドラゴンタイプって言われてんだ」
ヌメラを見つめたまま、キバナさんは言う。
「最弱……。けど、強くなれるんですよね?」
「まあな。だが、それを生かすも殺すも、オレさまとアイツ次第」
口もとは愉しげにつり上げられているが、キバナさんのヌメラを見つめる目は真剣だ。厳しくて、鋭くて、それでいて自分のポケモンを心底信頼している、そんなまなざし。
ココガラがすぐそばまで近づいてきても、ヌメラは逃げようとしなかった。むしろ、自分の主人から命令がないというのに、相手をどうやって追い払おうかと機を狙っているようだった。
私にあんなにも怯えていた姿が、うそみたいだ。どんな顔をしているのだろう。あのつぶらな瞳は今なにを映しているのだろう。だが、ふり返ることのない背中は、あの子自身が「強くなりたい」と望んでいるようにも見えた。
キバナさんと一緒に固唾をのんでヌメラを見守る。といっても、キバナさんは私とちがって何倍もリラックスした様子だったが。周りのポケモンたちも、わかっているのか決して彼らを邪魔することはない。
様子をうかがっていたヌメラが、やがて動きだした。丸いぬめっとした体を、勢いよくココガラへとぶつける。――やった!
「いいぞ、その調子だ。落ち着いていけよ、相手の動きを読むんだ」
キバナさんも、こらえきれないのか小さくつぶやいていた。
たいあたりを食らったココガラが体勢を立て直すあいだ、ヌメラはなお戦闘の構えを崩さず、連続攻撃を狙おうとしている。
がんばって、ヌメラ。握りしめた拳をもう片方の手のひらで包み込む。
だが、ここにきて、ココガラが反撃をしかけてきた。キッと鋭いまなざしを向けて、にらみつける。ヌメラの体がびくんと震え上がった。
「あっ」と声をもらした次の瞬間、さきほどまでの勇敢な背中は一変。小さなドラゴンは、かつてない速さでビューッと主人のもとへと戻ってきた。
「ったく、しかたないやつだな」
すべらかな頬が金色に染まっている。まるで、コンポートの中に浸かっているみたいだった。弱火でじっくり煮込んだ、やさしく、とろっとしていてほのかに甘い。
よっこらせ、と、おいおい泣きすがるヌメラを抱き上げたキバナさんに、私は目を細めた。
騒がしいランチタイムを終えて、やっとのことスパイクタウンのブラッスリーはいつもの穏やかさを取り戻す。
「最近、本当忙しいね」
カウンターでまかないを食べ終え、携帯をいじっていた私に店長が声をかけた。
「ですねえ。まえはオーダーをさばききれないことなんて、なかったんですけど」
「さすがの名コンビもお手上げだね」
名コンビ、私と店長のタイミングバッチリなやりとりに常連さんがつけた名前である。画面から視線を外し、頬杖をついたままスキンヘッドの店長を見仰いだ。
「でも、まんざらでもないって顔ですね、店長」
レンズの下で、目尻にたっぷりしわが刻まれている。そう? と、とぼけた声を上げつつ、緩みきった顔を隠しきれていない彼につられて私も笑った。
キバナさんが訪れて以来、うちの店の売り上げは右肩上がりだ。さすがはフォロワー何万人という芸能人並みのポケモントレーナーと言えようか。若い女の子中心に、男の子も、それから優雅なマダムも、これまで馴染みのなかったお客さんがブラッスリーへ来てくれるようになった。
店長の気持ちと同じく、店が栄えるのは、やはりありがたい。しとしとと雨の降る中、異国の音楽を耳に流しながら、なかなか来ない客を待ちわびていたのもいい思い出だが、商売をしている限り人が来てくれなければやっていけないというものだ。
「うちを求めるひとが増えれば、この街もうるおうし。キバナくんには本当に感謝だよ」
まったく、そのとおりだ。寂れたスパイクタウンに活気があふれるのを想像して、あたたかな気持ちで携帯を置く。
「また、来てくれるといいですね」
さすがに、こんな状態ではおちおち食事もしていられないだろうが。
「誘ってみたら」
ひとりでに、ふふ、と頬をほころばせると、ブギウギでも歌う調子で体と顔を揺らしながら店長は言った。
「私が、ですか?」
「そうそう」
午後のスープを仕込む手を止めることなく、彼はうなずく。
「む、むりですむりですむりです!」
まるで弾けたポップコーンの勢いで否定する私に、店長はあいかわらずリズムに乗りながら目をすがめた。
「そんなこと言って、なんだかんだうまくいっているんでしょ? ポケスタ、チェックしているくらいだし」
「えっ、なんでそれを」
くい、とあごが示した先を追いかける。
「こ、これは、なんでもありません!」
慌てて隠したが、もはやあとの祭りである。煌々と瞬く画面には、はっきりとキバナさんの自撮り写真が映し出されていた。
キバナさんのSNSをフォローし始めたのはつい最近だ。そうとはいえ、店長の言うようにうまくいっているかというとまた別の話である。あくまで数万人のうちのひとりであり、一方的にナックルシティのジムリーダーの生活をのぞいているだけであって、つながっているわけではない。しかも、フォローしているアカウントには個人を特定する情報は一切載っていない。きっと、キバナさんはこちらに気がついていないはずだ。
なんだかストーカーのようで良心が痛みはするが、フォローしました! と報告するのもおかしいだろう。それに、見ているんだと思われるのも少々いやかなり恥ずかしい。
とにかく、私から気軽に声をかけるなど無理だ。贅沢なことに、ポケスタグラムを通すことなく、ときおりヌメラの近況を教えてくれることがあったとしても。
「お礼、なに作ろう」
バイトが終わり、ネオンが消え始めた街をひとり歩く。
先日、同行してもらったきのみ採取のお礼がまだ済んでいなかった。前回のように、きのみ入りのスコーンやレシピ帳から引っぱり出した焼き菓子を繕ってしまえば悩まずに済むのだが、なんとなく、それでは満足できずに今日に至っている。
キバナさんにはハードルを上げられているうえ、ポケモンたちだって似たようなものばかりでは飽きてしまう。それに、頑張っているヌメラの背中を押すようなものを作りたい、そんなことを考えていた。
クッキーのようで、クッキーではないお菓子。じゃあ、ソフトクッキーで、というわけにもいかず、頭をひねる毎日である。
どうしようかなあ。ぶつぶつつぶやきながら、スパイクタウンのはずれにある自宅までのんびり歩みを進めていく。このとき、またしても私はひとつのことに集中して、周りがよく見えていなかった。
角を曲がろうとして、突如、前方から衝撃を受けた。
「あっ、ごめんなさ……」
ふらつきながらとっさに謝る私の手を、暗がりから白い腕が伸びてきて掴んだ。
「どこ見て歩いてやがるんです」
にょき、と現れた華奢な手、それからこの声。ハッとして顔を上げる。
きっちりと整った髪に、宵闇に浮かぶ翡翠色の瞳。しかし眼窩はくっきり落ち窪み、長いまつ毛が気だるく揺れている。
スパイクタウンのジムリーダー、ネズさんの姿があった。
「大丈夫ですか」
しばし呆けていた私だったが、彼が腕を離し、声をかけてきた拍子に意識を取り戻す。
「ネズさん。ありがとうございます」
安堵から微笑むと、ネズさんは物憂い瞳のままわずかに口もとを歪めた。
「こんな時間に女ひとりでうろつくとは、襲われても知らねえですよ」
「今さっき、仕事が終わったばかりで。それより、ぶつかってごめんなさい」
ネズさんは大丈夫でしたか? 訊ねる私に、彼はまぶたを閉じてうなずく。
白い肌に映えるパープルのアイシャドウはまたとなく憂鬱な印象だが、いつ見ても形容しがたい色気があった。
しかたないんで送ってやります、というネズさんの言葉に甘えて、ネオンがパチパチと不規則に点滅を繰り返す通りを私たちはゆっくり歩いていく。
「最近、ずいぶんと賑わっているようですね」
首もとのアクセサリーをいじりながらネズさんが言った。他愛もない言葉なのに、彼が口にするとなんだか歌みたいな響きがある。そうなんです、私は声を弾ませた。
「ありがたいことに、ナックルシティのジムリーダーの方が来てくださって」
「なるほど、どうりで。こんなに人が出入りするのは、おれも久しぶりに見ました」
そう口にするネズさんの顔は、どこかやさしげだ。
スパイクタウンに暮らして数年。ともすれば、いくらジムチャレンジに明るくなくとも、自分の住む街のジムリーダーくらいは私も知っている。彼がバイト先の常連であれば、なおさらだ。寂びれつつある故郷を案ずる心よきジムリーダー、それがネズさんである。
そうですね、と彼の横顔に私もまなじりを緩める。
「しかし、奴が来るとはめずらしいこともあるもんですね。近く槍でも降りますか」
なかなかの言われようだ。「私がお招きしたんです」苦笑しながら告げると、さきほどまで緩んでいたネズさんの顔がかすかに歪んだ。
「なぜ」
「ワイルドエリアでいろいろとあって、そのお礼に、です」
「ワイルドエリア、ですか」
いよいよネズさんは眉をひそめる。まあちょっと、と言葉を濁すが、ネズさんは淡々とした口調で続けた。
「キテルグマにでも襲われましたか」
ご名答である。ぎくり肩を揺らすと、彼はため息とともに目を回した。
「もしかして、ネズさんって、エスパーなんです?」
「おれはあくタイプです」
おどける私に、ネズさんはいつもの澄まし顔で言った。
「まあ、今回ばかりは彼に感謝することにしましょう」
なにはともあれ、ふたり並んで、薄明かりのアーケードを歩いていく。ゆらりゆらり気だるく髪を遊ばせながら言う口ぶりは丁寧なようですげないが、離れすぎず、近すぎず、隣で歩調を合わせてくれている彼に、そうですね、と、つい私は頬を緩める。
「このまま、この街のよさを感じてくれるひとが増えていくといいですね」
ネズさんの見透かすような瞳が不意にこちらを向いた。すう、とエメラルドが細まり、長いまつ毛が揺れる。
「ネズさん?」
小首をかしげる私に、彼はフイと天を仰いだ。
「星が、きれいでいやがりますね」
星? 気になって、私も真上を見上げる。
「ほんとうだ。今日は空が澄んでいるから、いつもよりたくさん見えますね」
アーケードの切れ間、大小さまざまな宝石が数多くちりばめられていた。
これはテレビで知ったことだが、近々流星群がくるようだ。
店は連日その話題でもちきりだった。常連客はもちろん、初めて見る制服姿の女の子たちも携帯を見ながらきゃっきゃとその神秘的な現象について語っては、「一緒に見に行ってくれる彼氏がいたらいいのに」などとため息をもらしている。思わず頬が緩んだが、まったくそのとおりだと内心大きくうなずいてしまったことは言うまでもない。ちなみに店長は、スパイクタウンの仲間たちとワイルドエリアへ行き、キャンプをしながら鑑賞するのだとはりきっていた。
私はというと、シュートシティやエンジンシティに友人がいなくもないが、わざわざ呼び出して星を見るのも気が引ける。「流星群、見に行こうよ」など、なかなか難易度の高い誘い文句だ。ふと、くしゃっと細められる碧いタレ目が思い浮かぶが、慌ててその影を追い出す。
しかし、年に一度あるかないかのロマンティックなイベントを、みすみす逃すのはなんだかもったいない気がするのも確かである。ベランダから見ようかなあ、と、店長がルンルンとカレー鍋を火にかける横で、グラスを磨きながらそっとつぶやく日が続いた。
「流れ星といえば、お願いだよねえ」
そして、そんなある日の昼下がり、ふわふわとワタシラガのような声が横から飛んできた。いわずもがな、店長だ。スキンヘッドに眼鏡という見た目とはうらはらに、彼は意外にメルヘンでロマンティックなことで定評があった。
「そうですね。流れ星が消えるまえに三回願いを唱えられたら叶う、でしたっけ」
ワイングラスと手を布で繋ぎながら、余計な力を掛けずに撫でるようにグラスを磨いていく。ここで働き始めて、最初に彼に教えてもらったやり方だ。
「そうそう。子どものころ必死でやったなあ。窓に張りついたりなんかしてさ」
店長の頬は緩みっぱなしだ。
「お母さんにもう寝なさいなんて言われながら、それでもねばってねばって空を見上げるんですよね」
私も続ける。いつ、だれが言い始めたのかもわからないが、流れ星に願いを込めるのは、どの年代でも共通のおまじないらしい。一度も成功した試しはないが、それでも幼いころ懸命に流れ星を探したのを覚えている。
「なつかしいなあ」よき思い出に店長の頭もゆらゆらとリズムを刻み始めている。
「成功したことあります?」
訊ねると店長は力なくかぶりを振った。
「残念ながら、僕はないよ。でも、息子が成功したな」
「息子さんが?」
「そうそう。十歳くらいのころだったかな。流星群の日に、おれはコメディアンになる! ってひたすら唱えてたんだよ」
下手な鉄砲数打ちゃ当たる戦法だ、と店長は笑う。その発想からみるに、どうやら息子さんには笑いの才能が備わっていたのだろう。つられて私も、いいですね、と肩を揺らした。
「でも、星が流れるうちに願いごとをするなんて、だれが考えたんでしょうね」
磨き終えたグラスを照明にかざして、入念にチェックしながらつぶやく。店長はカレー鍋から離れて、肉の下準備に入ったようだった。
「そうだねえ」と相づちを打つ店長の手には大きな肉の塊が抱えられている。今日はいつもより赤身の多い肉だ。ともすれば、ソースはこってり系だろうか。考えながら、次のグラスを手に取る。
「諸説あるけど、もともと流れ星を神さまのいる世界からこぼれた光だと信じてやまない民族がいた、って話だったかなあ」
なるほど、そう言われると想いを託してみたくなる気持ちはわかる。お願いをするというより、祈るという表現のほうが近いのかもしれない。
「すてきですね」と、慣れた手つきで二本目のグラスを磨いていく。
「ね。でも、人間は傲慢かつ自分勝手だからさ、結局なんでもすがりたくなる生き物なんだよ、きっと」
急に話が大きくなって苦笑する。
「たしかに、四つ葉のクローバーとかカジッチュを片思いの相手に渡す、とか。そういうジンクスたくさんありますもんね」
「そうそう、ある国ではお菓子に願いを込めたりするし」
お菓子? 手を止めた私に、店長は眼鏡の奥でまなじりにしわを刻んだ。
「そう。なんでも、幸福をよぶといわれるお菓子があるらしくてね」
幸福をよぶ、お菓子――記憶への道が開かれる。
「それって、もしかして小さな村の修道女たちが願いを込めて作った、ってやつですか」
「よく知ってるね」
やっぱり。真っ暗な視界でおぼろな光が見えた気がした。
「昔、母がそんな絵本を読んでくれたことがあって」
「そういえば、僕も息子に読んでやったなぁ」
どんな話だったか、詳しくは覚えていない。だが、とある異国の修道女たちの話だった。その絵本のなかに、幸せを運ぶ魔法のお菓子が出てきて、確か、ほろほろと崩れやすいお菓子だっただろうか。口の中で崩れるまえに、そのお菓子の名前を三回唱えると願いが叶う――そうか!
「店長! ありがとうございます!」
こうしちゃいられない。おざなりになっていたグラス磨きを、キュキュキュッとすさまじいスピードで終えていく。
「……どういたしまして?」
突如、働き者のドッコラーのごとくやる気をみなぎらせた私に、きょとん、と目を丸くする店長であった。
閃きは流星のごとく瞬く間に駆け抜ける。
その日のバイト終わり、私はホワイトヒルとナックルシティのあいだにある実家へと帰り、一冊の本を探した。数十分の格闘の末、それは私の部屋のクローゼットから発見された。やさしいタッチで描かれた異国の話。食べたこともないお菓子が載っていたからか、幼いころ、母に何度も読んでくれとすがったのを覚えている。
本を開くと、ちょうど修道女たちが苦難に見舞われる街の人々のために、手のひらより小さなお菓子を窯で焼いている絵が載っていた。口の中に入れるとほろりと崩れる、クッキーのような焼き菓子。そう、クッキー。
「レシピは……」
残念ながら、絵本には詳しい作り方は載っていない。だが、一度だけこれを食べたことがある。ということは――本を閉じて、私は母の部屋へ向かった。
母の机の本棚から、背表紙の黒いノートを一冊取り出す。表紙は薄汚れ、紙も心なしか黄ばんでいる。私の秘密のノートよりも年季の入った、母のレシピ帳だ。
「あった」
ぺら、ぺら、とめくった先に、「幸福をよぶポルボロン」の文字を見つける。なんだか、魔法がかけられたみたいにそれらは金色に輝き、くっきりと浮かんで見えた。
こうして、試作づくりの日々が始まった。
材料は、小麦粉や粉糖、アーモンドプードル、それからシナモンなどのスパイス。その大部分がクッキーと似通っているが、ポルボロンはラードを使用する。そして、最大の特徴であるその口どけだが、材料を混ぜ合わせるまえに「小麦粉をよく炒る」ことが肝心だ。そうして、ほろほろとした独特の食感を生み出す。熱を通すことでグルテンの形成を抑制し、生地の結びつきに変化をもたらすのである。
とにかく、まずはレシピどおりで作ってみることにした。
小麦粉を炒って、アーモンドプードルやほかの材料と混ぜ合わせて形成し、オーブンへ。次は、ラードをバターに変えて。そのままでもじゅうぶんおいしいが、ポケモンたちにあげることを考慮した結果だ。スコーンで食べ慣れたバターのほうが食いつきやすいだろうと考えたのだ。変更したぶんもちろん食感が変わってしまうので、粉類を調整しなければならない。さらにはシナモンではなく、フライゴンたちの好みに合わせて、乾燥きのみを粉末にして入れる。それから……。
お菓子づくりに夢中になっていて、このころにはすっかり私の頭から流星群のことなど抜け落ちていた。
「――できた!」
ポルボロンづくりに勤しんで、数日。ついに、納得のいくものが完成した。
オーブンから取り出した天板のまま、粉糖を上からふるい、粗熱をとったポルボロンを口に含む。
「これは……」
瞬く間に口の中で香り豊かな味わいがほどけた。まさに、幸福の味。そのあまりの食感の美しさに、我ながらよくやったと自画自賛せずにはいられない。さらにもうひとつ、と思わず手が伸びそうになったが、どうにか引っ込めた。
「あとは袋に詰めて、と」
これで、明日にでもナックルシティへ届けに行ける。そのまえに、完成した焼き菓子を記念に携帯でパシャリ。もはや習慣だ。ポケスタグラムにアップしようと、画面をスワイプする。だが、突如ホーム画面がある人物の写真に変わり、私は飛び上がった。
「き、キバナさん?」
そう、まさにこのポルボロンを届けようとした人物からの着信だった。明日伺う旨を伝えようと思ってはいたが、まさかこのタイミングで電話がかかってくるとは。
そんな偶然あるのかと不思議に思うも、当然、無視するわけにはいかず。携帯を落としそうになりながら慌てて電話に出る。
「もしもし」
おずおずと耳に当てた端末から、明るい声が飛んでくる。
「お、出た出た」
その粒の揃ったなんとも言えない音色に、心臓は思いがけないダメージを受けた。
どうしよう、キバナさんだ。キバナさんの声だ。
「急に悪いな。今、大丈夫か」
そんな私の心情を知らず、キバナさんは矢継ぎ早に続ける。
「大丈夫ですけど、あの、どうしたんですか」
「ん、ちょっと用があってな。今、どこにいる?」
なんでそんなことを? 思わず疑問に思うが、「実家です」とおずおず告げる。
「実家?」驚く声が上がった。
「はい、ホワイトヒル駅とナックルシティのあいだにあるんですけど」
私は携帯を持ち替え、利き手で前髪を撫でつけながら、田舎に建つ生家でお菓子づくりに勤しんでいたことを話す。
「今から、そっち行く」キバナさんは言った。
「えっ、今から?」
突然のことで動揺せずにはいられない。時計を見やると、時刻は日が暮れ始めたばかりの午後七時だった。子どもではあるまいし、まだまだ寝るには早い。朝から製菓作業に夢中だったので、これほど時間が過ぎていたのには気がつかなかったが、子どもではあるまいし、まだまだ寝るには早い。
「ダメか」
耳もとで低い声が響き、反射的に強く額を押さえる。
「ダメじゃ、ないですけど……」
でも、なぜだろう。こんなこと初めてだ。そもそも電話をすることだって今まで一度もなかったというのに。なにが起きているのか、心臓がやけにうるさくてたまらない。
「流星群」キバナさんは言った。
「すっげえ、イイとこで見せてやろうと思って」
すっかり、忘れていた。今日がその星降る夜だということを。今ごろ店長はワイルドエリアで仲間たちとワイワイカレー鍋を囲んでいるころだろうか。あ、だとか、う、だとか言葉にならない声を上げる私に、キバナさんは電話口の向こうで笑う。
「ま、そういうわけで、一時間後に迎えにいくから準備しとけよ」
「えっ、ちょっと!」
制止も虚しく、プー、プー、と乾いた電子音が聞こえてくる。
「……まずい。まずいことになったぞ」
うわああ、と口に手を当てる私の顔は、赤いのか青いのか、さっぱりわからなかったことだろう。なにはともあれ、キバナさんと星を見ることになってしまった。
きっかり一時間後、キバナさんはメールで伝えた住所までやってきた。そのあいだに粉だらけの顔や体をシャワーで洗い流し、顔を作ったり髪をブローしたり、さらにはお菓子のラッピングまで怒涛の勢いで済ませた私は、きっと本日ガラル一の俊敏さを誇っていたことだろう。
空飛ぶタクシーとキバナさんのフライゴンを乗り継ぎ、たどり着いたのはワイルドエリアだ。ハシノマ原っぱを越えた遙か先、エンジンシティにほど近い、キバ湖に浮かぶ小島だった。
「すごい……」
満天の星とは、まさにこのこと。真上に拡がる広大な星の海に、胸をときめかせながらつぶやく。キバナさんは得意げに、「だろ」と八重歯をのぞかせた。
「しかも、私たちのほかにだれもいないんですね」
街灯もない、とっぷりと紺色に染まった大地には、キバナさんと私だけ。なんだか夜空をふたり占めしているみたいだ。
キバナさんは頭の後ろで手を組み、ああ、と答える。
「生息しているポケモンが強いから、あまり人が立ち入らないんだよ」
え? 悠長に辺りを見渡している場合ではないかもしれない。ギイイとロボットのような音が聞こえてきそうな調子で、キバナさんを見上げる。
「オレさまがついてんだ、大丈夫に決まってるだろ」
「……ですよねぇ」
流星群のピークまでにはまだ時間があるということで、先日のようにテントを立てつつ、夜空の下で待つことにした。
「寒いか」
指先をすり合わせていると、キバナさんは私を見た。
「そうですね、ちょっと風が冷たいです」
「昼間はだいぶあたたかかったのに、ここんとこ寒暖差が激しいよな」
もう一枚羽織ってくればよかったかな。そう思うも、余裕がなかったのだから仕方ない。それに、我慢できないほどではないからなんとかなるだろう。
ほんとうですよね、と冷たくなった指先を握りしめていると、キバナさんが自分のパーカーを脱ぎ始めた。
「キバナさん?」
あっという間に、襟のついた品のいいユニフォームが露わになる。紺色に橙のラインの入ったそれは、キバナさんの端正な顔立ちにぴったりだ。さらには、だぼっとしたパーカーで隠れていた厚い胸板からも目が離せない。じゃ、なくて。
「ないよりマシだろ」
まさか、パーカーを差し出されるとは。
「いや、でも、その、キバナさんが風邪をひいちゃいます」
戸惑いを隠せない私とはうらはらに、キバナさんは、ほら、と上着をこちらへ突き出してくる。これはもしや、着ろってことで間違いないのだろうか。しかし、着たらファンに石を投げつけられる覚悟をしなくてはならない。わかった瞬間にあらゆるところが炎上し、ガラル永久追放になる可能性もなきにしもあらず、だ。
だが、そんなことなど知るかとばかりに、キバナさんは差し出した手を決して引っ込めることはない。それどころか、隙をついて私の頭にかぶせてきた。
「オレさまをだれだと思ってんだ。キバナさまはそんなにヤワな鍛え方してねえよ」
彼は得意げに口角を上げる。そこまでされては受け取るほかなくなってしまった。
おずおずと袖を通す。オーバーサイズともあって、指先まですっぽり隠れた。
「あったかいです」
ひたすら大きい。だが、すぐにそれもそうかと納得する。だって、キバナさんですらあれほどゆるく着ているのだ。それに、パーカーにはキバナさんのぬくもりが残っていた。それから……。
「そりゃよかった」
にまっと笑ったのち、キャンプ用チェアに座ったまま、キバナさんは瞑想するように指先を合わせる。その横で、内緒で袖口にそっと鼻を寄せた。
キバナさんの香りがする。柔軟剤か、それとも香水か。とにかく、目を瞑ってぎゅっと自分の体を抱きしめたくなるようないい匂い。なんだか私、変態みたい。そう思うも、顔に集まる熱と、速くなる鼓動を抑えるすべは持ちあわせていなかった。
そんな私を、彼が見ていたとはつゆ知らず。
「本当、星がすごいですね」
見上げた紺色の空には、星の運河が見えた。きらり煌めいては、視線を目映い河の流れに奪われていく。どこまでも果てしなく続き、遙かなる旅路に漕ぎ出るような、そんな心地にさせてくれる。電気が四六時中灯っている街頭では、なかなか見られない光景だった。
その下で、ボールから出してもらったポケモンたちがのびのびと羽を伸ばしている。なんとも静謐で美しいひとときだ。
「きっと、キバナさんに声をかけていただかなかったら、流星群なんてすっかり忘れて、今ごろ眠りについているところでした」
空を仰ぎながら言う。キバナさんも背凭れにとっぷりと身を預けたまま、「そんなことだろうと思った」とあごを上に向けた。
「オレさまも、今日くらいは家でゆっくりしようと思ったんだけどな」
「忙しいから、休めるときに休まないといけませんしね」
「そ。だが……」
そこで言葉が止まって、私は思わずキバナさんに視線を落とした。碧い瞳とかち合って、思わず心臓が跳ねる。だが、それとはうらはらに、美しい虹彩には少しばかりバツが悪そうな色が浮かぶ。彼はすぐに目を逸らした。
「……いや、なんでもない。まあ、もったいないと思ったんだ。体力も有り余っているし、せっかくならキャンプしながら見るかってなって、それならフライゴンたちが会いたがっているから、おまえも誘うことにしようって」
キバナさんの言葉にフライゴンが寄ってくる。なにか言いたげな顔をしていたが、なんだよ、と主人にわしゃわしゃ撫でられると、ぴゅうっと私のもとへ逃げてきた。
「会いたがってくれてたの? うれしいな」
それがなんとも可愛くて、フライゴンの首すじを撫でる。ほんわか、湯たんぽのようにあたたかい。キバナさんは気にくわないのか、オマエの主人はこっちだ、とじっとりした視線を送っていた。だが、もちろんフライゴンは動じない。とうとうキバナさんが折れて、やれやれため息をつく始末だ。その一連の流れがおもしろく、ついくすりと笑ってしまうと、彼は肩をすくめて降参の構えを示した。
「ま、なにはともあれ、気に入ったのならよかった」
肘掛けに頬杖をついて、長い脚を組みながら私と自分の相棒を見守っている。
ふりゃあ、と甘い鳴き声が耳に触れて、ああもう、どうしてそんなにかわいいのかしら、と私はワンパチのごとくフライゴンを撫でまわす。
「ほんとう、誘ってくださってありがとうございます」
最初は正直、どうなることかと思っていたが、今となってはそんな不安がうそみたいだった。だれかの心の中に、たとえ、それがポケモンであっても、一瞬でも生きることができたのなら、それほど嬉しいことはない。それに私も……。
自然に頬が上がり、少しだけ気恥ずかしくなってくしゃっと目を細める。キバナさんはなぜか、「ああ、くそっ」と苦しげにつぶやき、手を額に当てて目を隠してしまった。
「キバナさん?」
名前を呼ぶが、彼は目もとを覆ったまま反対の手のひらをひらりと見せてくる。
「いや、悪い。気にしないでくれ」
へんな人。と、首をかしげていると、今度はフライゴンがうなじのあたりにすり寄ってきた。
「わ、どうしたの?」
くうん、とさびしげに聞こえる音色で喉を鳴らしている。大きな瞳を見つめると、星を映したそれはいつもよりきらきら輝いていた。
「その甘え方、さては食べものをねだっているな」
復活したキバナさんが言う。
「そっか。お菓子持ってるの、バレちゃったか」
さすが手作りお菓子に目がないフライゴンだ。待っててね、と言ってテントへと紙袋を取りにいく。その途中、ヌメラが足もとを歩いていたが、あいかわらずのスピードで逃げられてしまった。
「先日のお礼に、今日実家にこもって作っていたんです」
「と、いうことは、できたてってわけか」
「そうですね。あつあつではないですけど」
両手で紙袋を差し出すと、キバナさんは、「さんきゅ」と八重歯をのぞかせて受け取ってくれた。紙袋を膝に載せて、口の部分に指を引っ掛け、中をのぞき込む。おお、とひと言。それから、迷わず箱を取り出した。
「今回はですね……」
思わず、その仕草に胸を膨らませながら中身を説明しようとする。だが、キバナさんの手が伸びてきた。
「楽しみ、半減しちまうだろ」
唇にあたたかな熱が触れる。キバナさんの人差し指だ。
ふっと笑う顔は、正直、今まで見たどの男の人よりも格好いい。おそらく、私はとてつもなく情けない顔をしていただろう。思わずこぼれた吐息は熱を帯び、胸がどうしようもなくちくちくする。垂れた碧い瞳が、長いまつ毛が、つやめいた肌が、こぼれた星の煌めきを集め、私を離してくれない。男の人にこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、とても、きれいだった。
こくり、うなずいた私に、やっとのことキバナさんは指を離した。
「さて、なにが入ってんだろうな」
声を弾ませるキバナさんの隣で、なんとかして呼吸を整える。熱のこもった頬を手のひらで何度かこする。
「開けていいか」
「はい、どうぞ」
平然を装ってはにかみ笑いを向けると、彼は満足げに唇をつり上げた。
彼の逞しい腕の中にある正方形の箱。キバナさんの洋服のように、深みのある紺色をしているそれは、この日のためにキルクスまで買いに行った代物だった。
丁寧に結ばれた銀色のリボン。長い指先がそれをほどいていく。ひどく慎重な手つきなのに、どこか軽やかなそれは、まるでクリスマスを待ちわびていた子どもさながら。
たらりと銀の流線が逞しい太ももに垂れ、キバナさんは箱を開けた。
「……星?」
碧い宝石の中で、ゆるりと光が揺れる。
「はい、星です」
箱の中には、雪化粧を纏った小さな星がこれでもかと詰められていた。
バターで作った星型のポルボロン。流れ星をイメージしたそれは、ほろりと崩れてしまうため、実は型抜きに苦労した。とはいえ、そんなことを知らないキバナさんは、きょとんと目を丸くしている。それもそうかもしれない。今回は、どちらかというと見た目が地味だ。
「クッキー、か」
「クッキーのようで、そうではないお菓子です」
呆然としたままの横顔に指先が震える。何度も試行錯誤して作ったのは確かだが、やはり緊張せずにはいられなかった。お菓子を口に含むまでのこの瞬間は、短いようでとてつもなく長い。そして、世界で一番好きで、世界で一番苦手な瞬間でもあった。
彼の横で同じくのぞき込んでいたフライゴンが、早くしろとばかりにくうんと喉を鳴らす。それを受けて、キバナさんは時を取り戻し、くしゃりとまなじりを緩めた。
「うまそうだ。なあ、フライゴン」
こくこく、美しい竜がうなずく。隣には、微笑むキバナさん。そのふたりに、全身に広がっていたこわばりがあたたかくほどけた。ただ、心臓はゆるやかに強い鼓動を刻んだままだ。
「幸運をよぶお菓子なんです。口の中で溶けだすまえに、このお菓子の名前を三回唱えられると、願いごとが叶うんですって」
「へえ、なんともご利益のある」
「キバナさんは、そういったジンクスとかあまり興味ないかも、とは思ったんですけど」
流れ星をただ眺めているよりも、星を掴みにいくほうがキバナさんには似合っている。そして似合うのみならず、彼は実際にそうする人だろう。
でも、と私は続けた。
「ヌメラのがんばる姿だとか、ポケモンたちを厳しくもやさしい目で見るキバナさんのことを見ていたら、どうしてもこれを渡したくて」
前へ前へと進もうとする彼らのために、少しでも力になりたかった。力になれるほど、すごい人間でもないとはわかっている。だが、それでも。
震えの止まった指先を眺める。連日の作業で手先は荒れ、熟しきったりんごのようにただれて赤くなっていた。お世辞にもきれいではない見た目に、恥ずかしくなってそっと指先を握る。
「あっ、ちゃんと今回も栄養満点ですからね!」
思いがけず湿っぽくなってしまった空気に、慌てて笑みを繕う。私を見つめていた碧い瞳は、とてもやさしかった。ふりゃふりゃあ、とフライゴンが鳴くばかりか、遊んでいたジュラルドンたちがポルボロンに気がついて、わらわらと集まってくる。
落ちつけ、すぐにやるから、と宥めてから、キバナさんは白化粧をほどこした星々へおもむろに手を伸ばした。そして、ひと粒、ぱくり。
「うっ」
「う……?」
固唾をのむ。
「うっま……」
なんだこれ、とこぼれる声は掠れていた。薄い唇は半開きになり、長いまつ毛が何度も何度も揺れ、アオガラスが羽ばたいているみたいに時を刻んでいる。これが本当に最強と謳われるジムリーダーなのかと疑りたくなるような、まさに無防備な姿だった。私は笑みをもらさずにはいられなかった。
「本当ですか」
「マジ。なんだよ、一瞬で溶けてなくなっちまった」
「その食感がこのお菓子の大事なポイントなんです。でも、おまじないをしているひまなんて、ないかもしれないですね」
まだ放心状態が解けないようで、見かねたフライゴンが主人に、早くくれ、とせがむ。もちろん、サダイジャやギガイアス、ジュラルドン、それからヌメラもだ。
キバナさんは、わかった、と呆れ気味に口にすると、再び星へ手を伸ばした。
「おいおい、待てよ、そんなにがっつくなって」
手作りお菓子ホリックなドラゴンタイプの口にひとつ、それからほかのポケモンたちの口にもふたつ、みっつ、と放り込んでいく。
だが、ヌメラだけはちがった。
「ほら」壊さぬよう繊細に星を掴みながら、キバナさんはそれを私に差し出してくる。
でも、とじっと彼の指先を見つめ、唇を、はむ、と隠す私の手にキバナさんはポルボロンをそっと握らせた。
「はやくしないと、手ごと食われるからな」
「私だと、怖がっちゃいませんか」
「なんとかなるだろ」
どうだろう。ごくりつばを飲み下して、主人の足もとでぬめぬめとスローステップを続けるヌメラに視線を合わせた。緊張するが、キバナさんからもらった星を手のひらに載せて、「ヌメラ」とその名を呼ぶ。
「おいで、あなたを傷つけたりしないよ」
黒々とした瞳が私を見ている。そこには、はっきりと怯えや警戒の色を載せており、お菓子が気になるが二の足を踏んでいるような様子だった。
思わず、そんな愛らしさに眉が垂れてしまう。だいじょうぶ、もう一度小さく囁いて、私は微笑んだ。
「これ、あなたのために作ったの。よかったら、食べて」
言葉がわかったのか、ヌメラがそっと近寄ってきた。思わず、「あっ」とキバナさんの顔を見上げて歓喜の声を上げそうになるが、集中しろ、と彼は手をシッシッと払ってくる。そのおかげで、なんとか堪えることができた。
ヌメェ、と小さく鳴いて、その臆病なポケモンは私の指先を嗅ぐ。そうして、なにもしてこないことを確認すると、ヌメラは手のひらの星を食べた。
「食べた……」
「よかったな」
「どうしよう、うれしい」
もぐもぐ、まあるいほっぺが小刻みに揺れている。うわぁと感嘆の声をもらすと、キバナさんはふっと薄く唇を引いた。
「ヌメラ、あなたは強くなれるよ。だいじょうぶ」
本当はフライゴンのように撫でくり回してギュッと胸に閉じ込めたかったが、まだ今はおあずけだ。そんなことをしたら、きっと金輪際近寄ってくれなくなってしまう。
「ナイスファイト、だな。よかったなぁ、ヌメラ。オマエ、うれしそうじゃねぇか」
食べ終わったヌメラは、キバナさんの声にヌメェッとジャンプしたあと、もっとよこせとばかりに私の手のひらをまさぐってくる。
「ちょ、ちょっとヌメラさん、くすぐったい。わかった、もう一個あげるから!」
ヌメヌメェッ、ひときわ元気な声が夜空に響く。キバナさんとふたりして、目を見合わせて笑った。もっとも、キバナさんは、「まったくオマエってやつは……」と呆れ気味だったが。
ヌメラにおかわりをあげたあと、私もひとつ、小さな星を舌の上へ載せる。
ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン。三回、心の中でささやく。お菓子が崩れたか、それとも唱え終わるのが早かったか、それはわからない。
脳裡に浮かんだ、勇ましいあの子の背中と彼のやさしいまなざし。叶えてくれなどと贅沢は言わないから、どうか、彼らの頑張りが実るよう祈らせてほしい。
「で、この菓子の名前は?」
ポケモンたちに囲まれたキバナさんが、ひとつ星を指先に摘まんで、空高く掲げる。
「そうですね」
冷たい風が吹く。だが、ちっとも寒くない。
ポルボロンを一生懸命食べるヌメラをひと撫でして、顔を上げる。私たちを見守っていたのだろうキバナさんと目が合い、私は頬にあたたかな気持ちを浮かべた。
「ヌメラのねがいぼし、っていうのはどうでしょう」
紺色の夜空に、いつのまにか星が降りだしていた。
