季節が次に移り変わろうとしているのを機に、彼らはフランスを発ち、イタリアへと入った。
「直るまでは、これで我慢しろ」
歴史の都、ローマ。とある下町の靴屋に二人の姿はあった。ボンベロは、どうだ、とばかりに彼女の足元で靴紐を締め上げている。
というのも、ローマに着いた途端、ジュリアのブーツが悲鳴を上げたのだ。もとより何年も履いてきたものである。いくらメンテナンスを繰り返し行ってきたとはいえ、年季が入っているばかりか、この旅の緩やかながらも長い道のりが応えたのだろう。ブーツは耐えきれず、靴のつま先部分に大きな傷が入ってしまった。
すぐさま街の靴屋に寄った二人だったが、早急に直せるはずもなく。ジュリアが修理店の主人に話をつけている間、ボンベロは近くの路面店で新たな靴を見繕った。それが、今、ジュリアが足を通しているブーツだ。重厚感のあるデザインだが、慎ましやかなワークブーツでありつつ、女性としての華奢なラインを失っていない。
「ありがとう。久々に違う靴を履いたわ」
満足げなボンベロとはうらはらに、ジュリアは長年自分の足に身につけてきた感覚との違いからか、何度か違和感を踏み均すようにぱたぱたと足を上げている。心なしか、足元に向けられた顔がぎこちない。
「で、店主はなんだって」
それを長い前髪の下で眺めて、ボンベロは立ち上がる。そのままジャケットの内ポケットに手を忍ばせて、シガレットケースを取り出した。
「特殊な素材を使っているから、一週間はかかるそうよ」
「よかったな、そんなもんでできて」
「そうね。ここが靴の都ってことに救われたわ」
ジュリアも肩をすくめて立ち上がる。
工房の奥へと姿を消した店主に向けて、アリヴェデールチ、と挨拶を飛ばして、二人は店を出た。
しばらく街中を歩いた。すべての道はローマに通ず、とはよく言ったもので、市内に散らばる歴史的建造物はさることながら、目に映るすべてがまるで人類にとっての遺産そのものであるかのように、美しく、かつ荘厳に、かつて世界の中心とも言われたローマ帝国の歴史を見る者に語りかけている。
表通りはさすが世界有数の観光都市とばかりに、どこもかしこも賑やかだ。それから逃れるように裏通りに入ると、市民の穏やかな生活が垣間見えた。青い空に煉瓦や石造りの建物がとてもよく映える。独特の色彩の中、向こうにはバチカンの象徴であるシスティナ礼拝堂のドーム部分が覗いている。まさしく絵画の中の世界に足を踏み込んだ心地だ。
現実と幻の狭間を歩くような不思議な空気感に包まれて、二人はしばらくなにもしゃべらなかった。ボンベロは煙をくゆらせて、迷いもなく石畳を踏みしめる。そのあとを、ジュリアはどこか遠くに視線を遣りながら着いてきていた。
やがて市街地を抜け、彼らは川べりにやってきた。まったりとした西日が、石造りの壁や地面を金色に染め上げている。観光地から少し離れた橋の上まで辿り着くと、ボンベロは欄干に体を預けて靴でトン、トン、と石造りの橋桁を踏み鳴らすジュリアの横で、本日何本目かの葉巻に火をつけた。
川のせせらぎの合間、ゴーン、ゴーン、と教会の鐘の音が聞こえてくる。風がそよぎ、ジュリアのサックスブルーのワンピースがひらひらと揺れ、やわくウェーブを描いた髪が攫われる。洋梨のコンポート色に染まった辺りには、それらがひどくマッチしており、ボンベロはすべてを胸の内に閉じ込めたい衝動に駆られた。
だが、そんな行動に出るはずもなく。彼女が今、なにに思考を囚われているか、それを知るボンベロは口元に添えた指を静かに打った。
「……あいつは、ズルい男だ」
川を眺めているジュリアの横顔をちらりと一瞥して、ボンベロは紫煙を吐き出す。
「珍しいわね、ボンがそんなこと言うなんて」
あいつ――名前を出さずとも、ジュリアにも伝わったらしい。ゆったりと流れる川面から視線を外し、ジュリアはくるりと体を反転させ、石造りの欄干に身を預けた。
「勝手に独りで逝っちまいやがって」
「ふふ、手を掛けたのは私だけどね」
風に舞った髪の毛を耳に掛け直す彼女の顔は、隙のない鋭さを孕み、エヴァの片鱗を薄っすらと見せている。
ボンベロは唇に葉巻を挟みながら、余計なことを口にした自分にほぞを噛んだ。すかさず、「お前を逝かせなかったのは俺だがな」と苛立ちを隠さずに言い添えると、ジュリアは、そうね、と肩をすくめた。
「まだ、奴のことが好きか」
長く葉巻を吸って、苦味を存分に味わったあと、ボンベロは指先にとって下ろす。
イタリアもフランスも、からりとした空気が人々を包んでいる。いつまでも暮れない空が、かえって、侘しさに似た心の疼きを彼らの中にひとすじ垂らしていく。滴った途端、瞬く間に広がって、陽気な街の雰囲気とはうらはらにボンベロとジュリアは、二人、世界の片隅に取り残されたようだった。
「……忘れられるわけがないでしょ」
視線を落としたジュリアは、自分の足元をじっと眺めている。真新しい、純黒の靴。ボンベロの履いているそれにも、とてもよく似ていた。
「忘れちまえば楽になる」
ボンベロは、平然とした声で言った。ジュリアはなにも言い返さなかった。じっと視線を自分の足尖に落としたまま、綺麗な唇を噛みしめている。
ボンベロは葉巻をジャケットから取り出した灰皿に押し潰すと、彼女の腕を掴み、胸の中へと閉じ込めた。
「ボン、ここ、外よ」
彼女はみじろぎをする。だが、彼の力には敵わない。
「忘れるな」
ボンベロは言った。
さっきと言っていることが真逆だ。心の中で自嘲しながら、抱きしめる力を強める。腕の中で、胸を押し返そうと強張ったジュリアの体が大人しくなった。
「そんなに簡単に忘れられるもんでもない、そんなことわかっている。そこまで俺も馬鹿じゃない」
「ボン……?」
ふわり、彼女の甘い香りに酔いしれる。抱き寄せた体は、少し健康的にはなったが、それでも小さいことには変わりがない。
腕の中から見上げてくる瞳が揺らいでいる。今にも大雨が降りだしそうだ。
「本当に、ズルイ男だ、あいつは」
彼女の心に居座ったままの男の影を脳裏に浮かべて、ボンベロは苦々しい吐息を吐き出す。彼はずっと見てきたのだ。彼女があの世界で、見つけた光に手を伸ばそうと懸命に、懸命にすべてに立ち向かおうとしてきたことを。そして、そんな彼女を愛するがために、突き放してきた男の姿を。
「死んだ奴には敵わん。永遠に美化され続けるからな」
「ボンベロ……」
死は永遠だ。彼女の彼への想いは、きっと朽ちることはない。むしろ、彼女の中で、スキンという光はどんどん増幅し続けるだろう。人は、手に入らないからこそ焦がれ、縋り、その想いを美しく保ち続ける。
「忘れなくていい」
ボンベロは彼女を抱きしめたまま、左手をそっと彼女の頭蓋に添えた。
「いいの?」
「ああ、構わん。忘れてやるな」
せめてもの意地だ。くだらない、男の見栄ともいう。
「ごめん……。ボン、ごめんね」
「まったくだ」
外は、からりと晴れているのに、どこかで雨の音がする。ぽつり、ぽつりと辺りを打ち鳴らして、やがて、絶え間なく降り注ぎ、地面を色濃く染めていく。
かつて、一人の女が自分の前に現れたときのことを思い出す。すべてを黒く塗りつぶされた女の瞳が揺らぎ、大粒のしずくがその瞳から零れた瞬間を。
ひどく、綺麗だと思った。気がつけば目が離せなかった。静かに降りだした雨が、一気にその勢いを増して彼女に打ちつける。だが、それでも、彼女はマドレーヌを食べるのをやめなかった。どろどろの顔で、嗚咽をこらえながら、おいしい、おいしい、と自分の作った料理を口に運んだ。
そのときから、ずっと――俺の中に彼女はいた。なにがあろうとも、彼女がどこを見ていようとも。
「まあいい。その分、俺がお前を愛すさ」
これが、惚れた弱みというやつだろう。ボンベロは、するりと手のひらを滑らせて、彼女の頬を包み込んだ。食いしばり、色を失った唇が震えている。それをほぐすように、親指をそこに這わせる。
「お前は、ただ、受け止めてくれればいい。あいつを思い出して心に穴が空いたとしても、俺がいくらでも埋めてやる」
「でも」
彼の唇が、そうっと彼女の唇に触れた。離れては、微かに角度を変えて、すかさず彼女の唇を包んで。ちゅ、と啄むと、次に、彼女の目の上に唇を落とした。
「もういい加減、お前を愛させてくれてもいいだろ」
ボンベロはキスの雨を降らせていく。
ジュリアの心に降る雨の音をかき消すように、絶えず激しく、そして、やさしく――。
*
あれから悪夢を見ない理由を、私は知っている。一人では大きすぎるベッドが、夜中になると少しだけ狭くなって、迫りくる闇に凍えてしまいそうな体を逞しい腕が包み込んでくれる。彼が抱きしめてくれる間は、不思議と眠りにつくことができた。ぐっすりと、まるで夢など一度も見たこともないっていうくらいに。
朝になれば、その温もりは消えていて、眠りから覚めた私に男は、「遅い」と窓際で煙草をふかすのだ。低く唸るような声。けれど、透き通っていて、そうっと心を撫でてくれる。ずっとずっと、そうだった。
「飲め」
むせ返るほどのお酒の匂いに、頭がくらくらする。彼の唇を伝って注がれるそれは、喉を潤し、そして、きつく灼きつけていく。ごくりと飲み込むも、飲みきれなかったお酒が唇の端から垂れてしまう。と、
「ちゃんと飲めないのか」
彼は親指でそれをすくい、私の唇にあてがった。ぼうっとする意識の中、私はその親指を必死で舐める。彼の指は太くて、きついアルコールの味のはずなのに、どこか甘い。飴玉を与えられた子どもみたく、夢中でしゃぶりつく。はしたないと頭の隅で考えるも、不思議ともっと味わいたくなってしまっていた。
「ジュリア」
真っ黒な瞳が私を貫いた。途端に胸の奥が軋んで、じわじわと瞳から私を包み込む彼の温もりになにかが込み上げてくる。溢れる唾液とともにそれを飲み込みたいのに、彼の指が口の中にあって、うまくそうすることができない。
「ボン、わたし」
「なんだ」
彼の指を咥えたまま、私は見上げる。
「あなたのそばにいていいの」
向けられる感情の大きさに、放たれる熱の激しさに、気がつかないほど私は純粋ではない。
ボンベロは微かに睫毛を揺らすと、指を抜き去った。口の中が唐突に寂しさを覚えて、唇をむっと噛みしめる。噛むな、とボンベロの濡れた親指が唇をなぞった。
「俺じゃ、不満か?」
「ちがうわ、だって」
ボンベロの言葉を否定しようとかぶりを振る。
こんなにも無償の愛を貰えるほど、きれいな女じゃない。今だって心のどこかで、ほかの男を想い続けている。そんなどうしようもない女なのだ。きっと誰かを不幸にする(殺す)ことしかできない。今までもそうだったように。
だが、なにひとつ言葉にできなかった。彼の瞳から逃れ、ただ呼吸を繰り返す。すると、大きな手のひらが頬を撫でた。
「言っておくが、お前に拒否権はない」
「なに、それ」
「俺がお前をそばに置きたい、それだけだ。スキンのことなんざ、俺は知らん」
そう言う彼の瞳は、ひどくやさしかった。
――エヴァ、食ってから行け
――ああ、殺してやる。俺が、お前を
――そのうるさい目も、その服の色も、お前にちっとも似合っちゃいない
――俺が、先に彼女を殺します
――俺は、お前のそばにいる
彼の低く、粒の揃った声がぐるぐると頭の中で渦を巻く。
「どうして、どうして……」
彼はずっと、そういう男だった。どうしようもない奴だと背を向けるふりをして、私を見てくれていた。足元の覚束ない私を支え、ずっと、ずっと帰る場所を作っていてくれた。なのに、それを知りながら――胸が張り裂けそう。彼のまなざしが、私の心をじりじりと灼きつける。私は、私は……。
「ジュリア」
彼の唇が、私の唇を捕らえた。狂いかけた呼吸を奪い、まるで果実に齧りつくように私を食む。何度も角度を変えて、厚く長い舌がねっとりと口内をなぞる。電気が背すじを駆け巡るようなその快感に体を震わせれば、じゅっときつく舌を吸われた。すべて食べ尽くされてしまう、そう思った。
息を吸うのが精一杯で、必死に彼の胸元を掴む。だが、それすらも結局は絡め取られてしまう。
ふかふかのベッドが互いの重さに軋む。押しつけられた体、捕らわれた腕、さらには脚の間に彼の膝が突き立てられる。押し寄せる快感に、身をよじることもままならない。
「俺は、お前を手放す気はさらさらないぞ」
ほんの一瞬、唇が離れたのもつかの間。私を見下ろす黒い瞳の奥に、熱く滾る炎がちらつく。その激しさにひゅ、と息を飲んだ瞬間、再び、彼が私の唇を奪った。
噛みつくように何度も何度も離れては繋がって、強引に口の中を犯される。
繊細に頬や体を撫でるくせに、ボンベロの口づけはまるで何日も食事を摂っていなかったライオンのようにとても激しい。抱いている恐怖や憂いまでも食べてしまうくらいに。それでいて、すごく心地がいいのだ。
私の思考をすべて塗り潰していく。いつのまにかおかしくなって、彼の齎してくれる快感しか考えられなくなっていた。
「ボン……もっと」
私は懇願する。
「もっと、して……」
死んでしまいそうになるくらい、激しいキスを。
「本当に、お前は……」
ボンベロは苦々しく息を漏らすと、私の頬を捕らえた。心の奥を見透かすような黒い瞳が唇に向けられる。じゅっと、体の奥が溶けだして、いますぐに彼が欲しくなる。
――ばかね、私
鼻先が掠め、こそばゆさに体がぴくん、と敏感に反応してしまう。はやく、と視線で急かすと、彼はふっと唇を歪めた。
「どうしてほしいんだ。言ってみろ」
「……いじわる」
「はやくしろ。俺だって、我慢ならん」
垂れた漆黒の髪が揺れる。弾んだ吐息はひどく色っぽい。男なのにとても煽情的で、体の疼きが強くなる。もうどうにもこらえきれそうになくて、脚で彼の腰をなぞった。
「ボンベロが、欲しいの」
いますぐに。
あなたの熱で、体で、私をめちゃくちゃにしてほしい。
「っ……」
一瞬、彼は苦々しい顔をしたが、すぐさま唇のほとりに笑みを浮かべた。
「ああ、くれてやる」
低い声が耳を撫でた。思わず潤んだ吐息を漏らせば、彼は私に跨り、あの熱の滾る瞳を細めて、着ていたシャツのボタンを外した。ぱさり、音がして、彼の体が月明かりに露わになった。
「すごい」
厚く逞しいボンベロの体に、息を飲む。
「すべて、お前のものだ」
うっとりと思考をとろけさせる私に、彼は笑みを深める。
しっとりと汗ばんだ肌が、その陰影を色濃く映している。なんて、きれいなんだろう。まるでひとつの彫刻みたい。コックコートの下にこんなものを隠していたなんて。いつまでも、眺めていられそう。
そうっと指を這わせると、彼の体はぴくりと跳ね、濡れた唇から荒々しい吐息が漏れた。思わず、足の先まで痺れてしまいそうだった。
「ボン」
「なんだ」
「私……」
この胸に溢れる気持ちはなんなのだろう。泣きだしたくなるほどの、この熱い熱は。
――ああ、そうか。
「あなたを、愛したい」
この人を悲しませたくない。この人を幸せにしたい。この人とともに、楽園を目指したい。言葉にするとなんとも稚拙に聞こえる。けれど、そういうことだったんだ。
「好きにさせてやる」
震える声で告げた私に、ボンベロは不敵な笑みを浮かべた。それがどうしようもなく喉の奥をくすぐって、私はごくりと喉を鳴らす。
胸元に触れた手をボンベロが掴んだ。大きくて、少しだけザラついた手のひら。じっくり焦らすように、私の手を下ろしていく。下へ、下へ。けれど、それに反比例するように熱が増し、もう独りじゃどうしようもできないくらい、強烈な疼きに襲われる。
ボンベロは私の手をベルトに掛けると、自分の手を添えたままバックルを外させた。
「俺は、お前のものだ」
繰り返した言葉はまるで麻薬だ。むせ返る熱に、色香に、頭がくらくらする。彼の手が重なったまま、私は引き締まった腰をなぞった。
「ボンに、そんなこと言わせるなんて」
「責任は重たいぞ」
「たいへんだわ」
くつりと喉を鳴らすボンベロを見上げたまま、スラックスのホックを外し、下腹部を撫でる。彼はさらに吐息を荒くした。そんな仕草でさえあでやかで、このまま永遠に彼のこと以外なにも考えられなくなってしまいたいと思ってしまう。すべて、すべて、私から奪い去って、二人でこの甘美な夜に溺れてしまえ、と。
「もっと、もっと、もっと……あいしてくれる?」
せり上がった筋肉を、尖った腰骨を、なぞりながら懇願する。
「言われなくても。死んでも愛し続けてやる」
迷いもない彼の声に、私は彼の顔を引き寄せてキスをした。
本当は、怖いくせに。彼を殺してしまうんじゃないかって。彼に、なにも返してあげられないんじゃないかって。それなのに、いやな女。
けれど、もうきっと離れることはできないのだ。
彼の温もりが、愛が、私の心を溶かしてしまったから。
*
「傷が残ったな」
ボンベロは、月明かりに浮かんだ彼女の白い肌を撫でた。
胸骨を十センチほど下った右のわき腹に、二センチほどの凹凸ができている。なめらかな女の肌には不釣り合いな傷。あの日に負った銃創だ。
「くすぐったい」
彼女が身をよじらせる。ボンベロはそんな仕草に目をそっと細めるも、彼女の腹部に添えた手を止めることはない。肘枕をして彼女を間近で眺めながら、空いた手のひらは彼女の肌の上を滑る。ゆっくりと円を描くように傷痕をなぞり、それから上下左右にやさしく指を這わせていた。
「あと五センチでも左にずれていたら、惨い死に方をしただろうな」
奇跡的に、銃弾が臓器を傷つけていなかったのが九死に一生を得た結果となった。もしも銃弾が胃を突き破っていたとすれば、そこから体内に胃酸が漏れだし、激痛に襲われながら、じわりじわりと死んでいったことだろう。
思わず想像してしまったのか、ジュリアは身震いをして、「やめてよ」と彼の手の甲を軽く叩いた。
「ほかには?」
睦み合ったあとの、闇夜に溶けこむような気怠さを感じながら、ボンベロは彼女の傷痕をなぞり続ける。
「ほか?」
「腹以外、傷はあるか」
彼女は、うぅん、と小さく唸った。
「肩と、太もも、かしら。ボンベロは?」
手の甲に添えられていた手のひらが、ゆっくりと腕を上がってきた。
「さあな。お前と違ってそう簡単にヘマはしない。いちいち確認したこともないな」
多少の揶揄を込めて言うと、彼女は、ふうん、と腑に落ちない様子だった。
「肩、と、腰のふたつは確認したけれど」
温かな指先が肩をなぞる。触れるか触れないかの、繊細ななぞり方に、ボンベロは思いがけず潤んだ吐息を吐き出した。
「よく見つけたな」
「ボンの肌は白くてなめらかで、とてもきれいだから。傷が目立つのよ」
「女みたいに言うのはやめろ」
「あら、髪だって、女の子みたいにさらさらよ?」
先ほどの仕返しだろうか、首すじを上がっていった指先が彼の黒髪をすくい上げる。くるくる、彼女が手持ち無沙汰のときによくやるように指先に絡めて、それからすっと指を抜く。はらりとボンベロの頬に落ちた髪を、彼女はやさしく払い、そして、また撫でた。
「褒めているのか貶しているのかわからんな」
言いつつも、その手の心地好さに頭を委ねる。
「そう? 私は好きよ、ボンの髪。それからこの肌も、傷痕も、ぜんぶ」
ふふっと花が綻んで、ボンベロは、「本当にお前は……」と口の中で言葉を噛み殺し、彼女の唇を塞いだ。
二人分の重みを受けて、ベッドがやさしく軋む。シーツに埋もれた足が絡み合い、じっとりと熱を帯びていく。
ボンベロは彼女の傷痕をひとつずつなぞった。腹、肩、それから、太もも。チョコレートを指先につけて、高級な皿の上に薔薇の絵を描くように。
ぴくり、ぴくりと彼女の体がわなないて、足をもぞつかせる。それを見るのがボンベロは好きだった。
「食べたら、さぞ甘いんだろうな」
唇が離れて、互いの吐息を味わいながら、つう、と肌をなぞってボンベロは言う。
「もう、食べたくせに」
「さっきと今じゃ、きっと別物だろうな。俺が味にうるさいのは知っているだろう」
熱を孕んだ彼女の肌は、まさに熟れた果実だ。ほのかに桃色に染まり、瑞々しく光を放っているにちがいない。その馨しさに、ボンベロはごくりと喉を鳴らす。唇を首すじに落とし、肩の銃創をなぞって、ゆっくりと下りていく。
甘い。甘すぎるくらいだ。
「食べものに喩えないでよ」
「悪かった」
そう言いつつも、彼女を味わうのをやめられない。舌を這わせ、肌を味わうたびに体中が熱を帯びる。その意識の飛ぶような甘さが、喉の渇きをこれ以上にないほど助長する。不敵に浮かべた笑みが、どんどん色濃くなっていくのがわかる。
ゆっくりと腹部まで辿っていくと、ん……と彼女の唇からあでやかな悲鳴が漏れた。ふっと息を吐く。ボンベロは少しだけ盛り上がった銃創を舌で舐めた。飴玉を転がすように、慎重に。アイスキャンディを舐めるように、大胆に。ジュリアは身をよじらせた。
「ボン……」
彼の頭をジュリアが掴む。やめて、という合図か、それとも。
彼はちゅう、とその傷を吸うと、唇を這わせたまま囁いた。
「お前が、生きていてよかった」
とくり、彼女の体が跳ねた。頭を掴んでいた手が緩み、やさしい母のように彼の髪を撫ぜた。
ジュリアはなにも言わなかった。だが、彼女の微かに震えた呼吸から、その指先から、きっと長い睫毛をほのかに湿らせているのだろう、そう考えた。ボンベロも、それきりなにも口にしなかった。
唇は彼女の体を滑り下りていく。絶え間なくキスの雨を降らせながら、彼の唇の感触を彼女の体に植えつけるように。
心底、彼女が愛しかった。かつてないほど。そして、これからもその想いは膨らみ続けていくのだろう。ボンベロは傷痕に唇を寄せて、そう思った。
