それからまた彼らはローマを発ち、列車にて次の土地へと移った。基本、内陸部での移動は格安のピックアップトラックを手に入れて、どちらかの運転で高速を駆け抜けるのだが、ちょうどよく車が手に入らず、長時間電車に揺られることになった。
辿り着いたのは、イタリア北部の街、ヴェローナ。かの有名なシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」の舞台となった地である。当初の予定ではイタリアを抜ける予定だったのだが、列車の都合により、この愛の都とも呼ばれる街で降りることになった。ヨーロッパ諸国では列車旅にそういったトラブルがつきもの。隣国へと渡る途中、優雅な途中下車だ。
さほど大きくはないオープンキッチン。すぐそばに取りつけられた窓の向こうには、高台にアパートメントがあるとあってか美しいヴェローナ市街が広がっている。
ジュリアの希望もあって、久々にキッチンつきの部屋を借りることになった。平和の象徴のような窓辺のキッチンに立ちながら、彼女に背を向けてボンベロは包丁を握る。
「……そんなに見るな」
が、じわり背中に感じる熱に、彼はやれやれと声を上げた。
「ボンは背中に目でもついているの?」
「突き刺さってるんだよ、お前の視線が」
低く唸るも、背中から飛んでくる声は、
「久々に見るから、いいなって思って」
と、悪気なしといったところだ。どうせ、にこにこと笑っているのだろう。はあ、とため息をついて料理を続ける。とはいえ、彼自身も、久々にこうしてキッチンに立つのは心地がいいものだった。
数カ月ぶりに包丁を握る。わざわざきちんとした金物屋に買いに出たとあって、それは手に吸いつくようにしっかり馴染んでいた。野菜を切るたびに、思わずその切れ具合に唇を釣り上げたくなるほど。包丁以外にも、最小限のフライパン、鍋、ターナーなどの調理器具を揃えた。もちろん、移動の多い旅だ。以前用意していたように調味料を片っ端から揃えることは叶わなかったが、それだけあれば、それなりに満足のいく料理を作ることはできる。小さな城の復活だ。
ボンベロは手を動かしながら、耳を撫でる均一な音、油を敷いて肉を落としたときの感触、それらひとつひとつに神経を研ぎ澄ましては、すべてに思わず喜びの唸りを上げたくなっていた。いつものごとく、決してそれを口に出しはしないが。
慣れた手つきで料理を続ける。相変わらず背中に視線を受けていたが、かえって、ちょうどいい緊張感だった。
「なに作ってくれるの?」
朗らかな声がまたしても飛んでくる。
「それはできてからの楽しみだな」
コンロからくるりと体を反転させると、ダイニングテーブルに両ひじをついてこちらを見ているジュリアと目が合った。長い睫毛がゆるりと鳥の羽ばたきのように揺れて、瑞々しい瞳が細められる。アンティーク調のアパートメントの内装に、彼女の姿はとてもよく似合っていた。
「やっぱりいいわね」
ジュリアが振り向いたボンベロの姿を見て、ふふっと笑みをこぼして言った。
「なにがだ」
「キッチンに立つボンベロ。なんだか、楽しそう」
「五月蝿いやつらがいない分、集中できるからな」
腰に巻いた白いサロンでボンベロは手を拭う。無駄のない動きではあるが、その顔は微かに表情が崩れ、満更でもないようだった。
次は、肉が焼けるまでにソースの準備だ。ボンベロは頭の中で料理の手立てをさらりと復唱すると、ジュリアの前に置かれたフルーツバスケットから、ラズベリーを片手いっぱいにすくった。
「いただき」と、ジュリアがその中からひとつ摘まんで口の中に放り込む。
「お前なあ……わざわざここから取る必要ないだろ」
「ボンが手にすると、なんでも美味しそうに見えちゃうのよね」
呆れるボンベロをよそに、ふふっとまたしてもあどけない笑みを向けてくる。その顔を突きつけられると、ボンベロもなにも言えなくなってしまうのだった。
うれしそうにテーブルの下で足を放り出してゆらりゆらりと揺らしているジュリアに、ったく、などとぼやくも、ボンベロは空いている手でもう一粒ラズベリーを摘まんで、彼女の唇につきつけた。
「もう少し待っていられるか」
「仰せのままに、私の王様」
情感溢れる嫋やかな笑みを口元に浮かべ、彼女は、ぱくり、彼のラズベリーに食いついた。
ジュリアが真っ赤な果実を味わっていると、ちょうど肉の香ばしい香りが立ってきた。
「いいにおい、今日はステーキかしら」
ジュリアは大きく息を吸い込んで、心地好さそうに目を閉じる。ボンベロは言い当てられて、口元を愉しげに歪めるも、ただそれを和やかに見守りながら、指先についた赤い蜜を舐めとった。
愛しいひとの穏やかな鼻歌を聴きながら、つけ合わせの人参のグラッセやマッシュポテトを仕上げていく。
窓から差し込む光がいっそう強くなり、キッチンを金色に染め上げていた。まだまだ日は沈まない。太陽の光を浴びながらキッチンに立つ日がくるとは。蒸かし上げたじゃがいもを潰し、そこへクリームを手際よく混ぜ込みながらボンベロは感慨に浸る。
何重にも固く閉ざされた扉の向こうで、彼は何年も何年も、特殊な人間たちに料理を作ってきた。極彩色豊かな城を作り上げたのは彼の好みでもあったが、今、自分を、自分たちを包み込んでいるこの狭いキッチンも、そう悪くはないものだった。
ときおりふり返り、彼女の姿を確かめる。きらりきらりと光を纏った姿は、さながら、ミュシャの描くサラ・ベルナールのようだった。やさしくも儚く、その神秘的なまなざしの下に、激しい熱情を隠している。
朝一番の澄み切った太陽の煌めきを浴びたら、どれだけ美しいことだろうか。長い髪の下から、今この瞬間を逃しはしまいと眺め、ボンベロは人知れず〝いつか〟に思いを馳せた。
じゅう、じゅう、とフライパンから聞こえてくる音が粒ぞろいになってきた。低温でじっくり焼き目をつけている肉の横には、手のひらほどのソースパンが火にかけられている。あとは熟れたラズベリーを入れるだけ。
ボンベロはふっと目を細めて、こちらを見ているジュリアに微かな笑みを残すと、ラズベリーを手にしてソースパンへと落とし入れた。
ぐつぐつ、焦がさぬように煮こみ、仕上げに白ワインを振り入れて火から下ろす。
「あぁ、いい匂い」
スプーンで何度かすくい落とし冷ましていると、彼女が匂いにつられてボンベロのもとにやってきた。
「じっと待っていられないのか」
呆れてみせるも、だって待ちきれないんだもの、と子どものように無垢な笑みを返される。そんな様子じゃ怒る気にもなれない。どこまでも彼女に甘いボンベロだった。
ぽってりととろみづいたソースに、ガラス玉のようなツヤが出てきたところで、ボンベロは指先にとった。
「味、見てみろ」
ラズベリー・レッドのソースをルージュに見立てて彼女の唇に塗りつける。
熟した果実の深い色合いは、彼女の白磁の肌によく映える。
「いい色だ」
ぷるんと潤んだ紅い唇が、芳しいほどの色香を放っている。その実が落ちる前に摘んでしまわねば――じっと見つめながら、ボンベロは口内で舌を転がした。
「ん、甘くて美味しい」
自らの唇を舐め、ジュリアは目を閉じてソースを味わっている。そうか、呟く間にも、彼の気を知ってか知らでか、彼女の唇が静かに語りかけてくる。
早く、食べて――と。
ボンベロは花の蜜に吸い寄せられる蜜鳥のように、彼女の唇を食んだ。
「ちょっと」離れた唇から、掠れ声が漏れる。
伏せた瞳で彼女の顔を見つめながら、薄く染まった頬を指先でなぞる。
「うまそうな唇をしているのが悪い」
「つけたのは、ボンでしょ」
「そうだったな」ふっと不敵に笑みを浮かべ、再び、唇に吸いついた。
ちゅう、と啄ばみ、舌でいやらしく舐めとっては、また啄んで。離れてはくっつき、やわく唇を包み込む。鳥の戯れに似たキスを繰り返し、塗られた手製のルージュを余すことなくボンベロは味わう。
甘い。なんて甘美な風味なのだろう。このままでは舌が溶けてしまう。えもいえぬ味わいを抱きながら、薄く開いた唇から彼女へと入り込む。と、彼女も舌を絡ませてきた。細胞ひとつひとつが花開くように弾け、悦びが全身を駆け巡る。いつまでも繋がっていたい、どこまでも味わってみたい、そして、彼女の思考をすべて溶かし食べ尽くしてしまいたい、気がつけば、そんなふしだらな思いで頭が満たされていた。
本当に、どこまでも狂わせてくれる。ボンベロは頬を緩ませると、彼女の髪に指を通し、逃げないよう頭を捕らえた。猛然と唇に噛みつく様は、まるで思考までもを喰らう百獣の王。互いの吐息がさらに荒くなり、口づけの激しさが増していく。
ぴくり、ぴくり、わななく彼女の体。やわく、震える肩を掴むと、ボンベロはそうっとその手を下ろしていく。
「ボン、これ以上は……」
そう言うジュリアの頬はぽってりと赤らみ、爪先立ちの足は微かに震えている。
「こんなので、感じてるのか」
「だって、ボンのキス、はげしいんだもの」
「嫌いか?」
「嫌いじゃ、ないけど」
ボンベロは腰に巻いていた白いサロンを脱ぎ去り、すばやくコンロの火を消すと、ジュリアの肩と膝の裏に手を添えて軽々と彼女を抱き上げた。
「まっ、ボンベロ!」
「待つわけないだろ」
「でも、せっかくの料理が!」
「心配するな、なんとかする」
腕の中で暴れる彼女にキスを落とし、ふっと微笑む。と、ついに最後の砦が崩れたのか、彼女も陶酔した瞳で見上げてきた。
まったりと西日を溜め込んだキッチンから、逃避行を始める二人。
カウチで寝ていた菊千代は、その騒ぎに一度は顔を上げたものの、主人たちの様子を悟ったのか、我関せずといった様子で再び肘掛に顎を預けたのだった。
