Between the Line 02

「ええ、先輩。戸川先生とごはん行ったんですかぁ」
 翌日、事務仲間である依田よだちゃんと早番が重なって、わたしは軽い気持ちで昨夜のことを打ち明けた。
「うん。スティーブンが言ってたやきとり屋。おいしかったから今度行こうよ」
「もちろんいいですけど。じゃなくて、うらやましいですぅ!」
 パソコンに向かって今日の新規体験レッスン予約を確認していたわたしは顔を上げる。
「うらやましい?」
「そうですよ、戸川先生かっこいいじゃないですか」
「まあ、そうだね」
 依田ちゃんはいわゆる今どきのOLといった感じで、栗色の巻き髪をハーフアップにまとめたいかにもフェミニンな装いの可愛らしい子だ。歳はわたしよりも四つ下の二十二歳。絶賛彼氏募集中、らしい。彼女ならいくらでも恋人ができそうだとわたしは常々思うのだが、「先輩、この歳になって妥協は命とりですよ」と玄人のまなざしで語ってくれた。
「しかも、渋谷校の高嶺の花! 俗世に頓着しない感じが一部からは人気なんですよ」
「男の人にも高嶺の花って使ったっけ」
「わっかりませーん。でも、とにかく戸川先生とディナーなんて先輩も隅に置けないんだから」
 教材の整理をしながら、依田ちゃんはにまにまと端正なお顔を崩してこちらをうかがってくる。
「ディナーって言っても、やきとり屋だよ。色気なんてこれっぽっちもない、呑兵衛のサラリーマンみたいなチョイス」
「どうせ、先輩が切り出したんでしょう? そういうとこ行くの、実は好きなの知ってるんだから」
 ばれた? べっと舌を出すと、彼女はやれやれと肩をすくめた。
「でも、先輩、彼氏いませんでしたっけ」
 淡々と作業を進めながら会話は続く。講師たちはギリギリに来るひとも多いので、渋谷校にはまだ事務二人だけだった。化粧室のOLみたいな会話をかわしながら仕事をするのももはやお手のもの。
 証券会社時代とちがって、一分一秒が行く末を左右する世界ではないから気が楽だった。
「ん、いるよ」
 答えながら体験レッスン生の事前アンケートをプリントアウトする。担当講師が来たら渡すためだった。
「いいんですかぁ? そんなことして」
 言葉的には咎めているふうに聞こえるかもしれない。しかし、実際の声色は妬みや嫉み、あるいは非難を込めたものではなく、どちらかというと揶揄に近かった。
「ただ同僚とごはんに行っただけだよ。やましいことなんて、これっぽっちもありません」
「先輩にはないかもしれないですけど、相手はわかりませんよぉ?」
 日本語で記入された事前アンケートに、外国人講師向けの簡単な文言を英語で添えていたわたしは手を止める。
「戸川先生が? まさか」
 きょとんと依田ちゃんを見たが、すぐに胡乱な顔つきに変えてボールペンを握りなおした。
「ただ、帰る時間が同じになったから誘ってくれただけ」
「はぁ、これだから彼氏持ちは」
「なに」
「いいえー?」彼女はツーンと唇を突き出して鼻歌を歌い始める。「こーいしちゃったんだ、たぶん、気づいてなーいでしょー」
「その歌、やめて」
 彼女はにやりといたずらな笑みを向けてきた。
「でも本当、気を付けたほうがいいですよ。先輩、彼氏さんともう四年とかでしょう? 恋も愛も消え失せて、情で互いを縛り合う一番やばい時期じゃないですか。安定期なんてまやかしですからね。妊婦ですら安定期にも気は抜けないってことくらい知ってますから。デートを仕事でほっぽり出されても信頼の証拠だなんだって思ってたら、実際には都合のいい女に成り下がってました、なんて。痛い目見るのは先輩ですよ」
 恋愛の玄人はどうしてこんなにも的確に言い当ててくるのか。まったく、可愛い顔をしてちっとも侮れない後輩であった。

 その日の終わりに七海くんから電話があった。
「一昨日は本当にすみませんでした」
 証券マン時代から変わらぬ慇懃な声に、どこかホッとする気持ちだった。
「いいよ、仕事だもん。それよりおつかれさま」
 わたしは冷めた布団に潜りこみながら、携帯を反対の耳に当ててもぞもぞと猫のように丸くなる。
「今は、家?」
「いえ、まだ職場です」
「そっか、七海くんはいつでもどこでも引っ張りだこで大変だねえ」
 そんなときにわたしといったら、脳裡に戸川先生の熱のこもったまなざしを思い出し、ふっと息を吐きだす。目の奥がツンとした。
「それより、一昨日の埋め合わせをしたいのですが」
 電話口の向こうで、七海さん、と彼を呼ぶ声がする。「すみません」わたしに断りを入れて、彼はなにやら指示を飛ばした。
「渋谷……側の……ええ……有名ホテル……ええ……ジャズ……ですね……」
空白がわたしを襲う。
「お待たせしました。名字さんは次の土曜、休みですか」
 淡々と告げる声色はなんだか海に包まれているような心地だ。穏やかな波がやってきて、からだを包む。
 七海くんは、やさしいのだ。どこまでも他人想いで、律儀で、なにかとずっと闘っている。
「いいよ、無理しないで。疲れてるんだから、少しは休みなよ」
 あれ、わたしなんで泣いてるんだろう。

 あの日は付き合って四年目の記念日だった。
 彼が真面目なまでの「責任とる」発言をして、わたしを笑わせた日でもある。おかしくておかしくて、でもうれしくて、目尻に涙を浮かばせるわたしを彼は少し不服そうにむっと唇を引き結んで見つめていた。「いいよ、責任とって」と言うと、わずかに表情を緩めて「大切にします」と弱冠二十二歳の男の子が一生を添い遂げるような確りとした音色でわたしを抱きしめたのだ。

 本当は、女の子に興味なんかなくて、付き合うなんてそんな魂を消費するようなことは遠ざける人間なんじゃないかと思っていた。だから、関係のはじまるきっかけになった最初の日、体育会系出身の上司に飲まされて酔った彼を介抱したとき、「すみませんがもう少しだけ肩を貸してもらえますか」と彼の重みを預けられたことには驚いた。
 よき仕事仲間として、よきライバルとしてわたしたちは存在していたはずなのに、そのとき急に彼の領域に踏み込んだ気がしたのだ。がっしりとした甲冑姿で威風堂々と佇んでいるふりをして、実際は手を伸ばしたら簡単に翻り皺の寄るリネンのシャツを身につけているような、そんな男の子だった。

 唐突に愛おしくなって、もっと知りたくなって、このひとをここで生かしてあげようと思った。

「うわ、ひどい顔」
 翌日、玉川通りを職場へ向けて歩いていると、前方からそんな声が落ちてきた。顔を上げると、戸川先生がめずらしくジャケットを羽織って坂から降りてくるところだった。
「今からお昼ですか?」
「うん。飛び込みでプライベートの体験レッスン入ったからさ」
 少しだけあごをあげて、頬をゆるめる姿は英会話講師というよりかは、今どきの俳優みたいだろうか。普段くすりとも笑わずに、サラリーマン相手に英語の指導をしている彼がほとほとうそみたいだった。おつかれさまです、頭を下げると、彼は、うん、と唇を引いてやや笑う。
「名字さんは二時からか。最後まで?」
「はい。明日本社からお偉いさんが来るみたいなので、終わったあとも教室の片付けと整理整頓で残業確定です」
 肩をすくめておどけてみせると、戸川先生はうわぁと顔をしかめる。意外と表情が変わるひとだ。
「それより、まだ平気?」
 スラックスのポケットに手を突っ込んで、戸川先生は言う。
「はい、二時までに行けばいいので」
 小首をかしげながら答えると、戸川先生は「んじゃ待ってて」とすぐそばの横断歩道を渡っていった。向かいのコンビニに入ったかと思えば、ものの二、三分もせずに戻ってくる。走る姿を見るのは二回目か、まだまだ新鮮だった。
「これ」
 少し長めのウェーブヘアを揺らして、戸川先生は横断歩道を渡ってこっちへ帰ってくると、その手に握っていたジャスミンミルクティーを差し出してくれた。
「これ……」
「よく飲んでたよね、これ」
 淡々と眠たげにまつ毛を揺らしながら、わたしを見下ろす。長く筋張った指先には、いつもの見慣れたラベルのペットボトルが握られていた。フタの部分だけ掴んで、ほい、と唇を薄くしながらやさしく押しつけてくる。
「あの、いいんですか」
「うん。君の。それ飲んで、ちょっとは元気出して」
 相変わらず表情はさほど変わらなかったが、そのやさしさはおどろくほどに伝わってきた。