Between the Line 03

「見ましたよぉ、セーンパイ!」
 教室に着くやいなや、むふふと好奇心を隠さずににやけ顔を向けてきたのは依田ちゃんだ。
「なにが」
「もう、しらばっくれないでくださいよぉ、と・が・わ・せ・ん・せ・い!」
 受付の裏で勤怠カードを切り名札をかけるわたしの隣にそそくさとやってきて、そっと耳打ちをしてくる。ハッとふり向くと、彼女はまたもや得意げに頬を上げていいおもちゃを見つけた子どもさながらにまとわりついてきた。
「もう、こっちが恥ずかしくなるくらい、いい走りっぷりでしたね」
「そんなにがっつり走ってた?」
「そこじゃなくて、ドラマみたいだったっていうんですよ!」
 震える指先をどうにかこらえて、今日の予定を確認する。
「あの堅物厳格講師が、受付のスタッフのためにわざわざ国道を横切り、反対側のコンビニで先輩お気に入りの飲み物を買ってくるなんて」
「地獄耳ならぬ地獄目でも持ってるの?」
「たまたま、カウンセリングルームの用意していたら先輩と先生の姿が目に入ったんですぅ」
 生徒との面談などを行うその部屋は玉川通り沿いに面していた。はあ、と息をつくと、彼女はこそこそとまたもや耳もとで囁いてくる。
「先輩、目、赤いですよ」
 泣きました? 思わず、手が止まる。
 おそるおそる彼女の顔を見上げると、彼女はさきほどまでの揶揄する顔ではなく困った子どもを見つけた母のような顔をしていた。

 なにも彼に問題はなかった。二人ともいい大人だから、ただ優先すべきことがあるというだけで、記念日のデートがなかったことになるなど大した問題じゃなかった。

 彼の性格を考えればきっと不承不承のことで、故意に予定を流したわけでもなく、本当に避けがたい仕事が入ってしまったのだ。現に、彼は新たに約束をとりつけようとしてくれたし、連絡が取れなかったのもあの電話の様子を聞けばひたすら忙しかったからにちがいない。わかっていた。仕方のないことだって、理解していた。でも、冷めていく料理がわたしたちの関係を表しているみたいで、遣る瀬がなくなってしまったのだ。

 付き合って四年。年月だけは増えていくくせに、距離はいっこうに縮まらない。むしろ、はるか遠く離れてしまった。前は互いに背負いあえるものを手にしていたけれど、今はそれもない。彼がもとよりわたしに話せないことがあるのは勘づいていた。
 目の前にいるようでまったく遠くの世界にいるような目をするから、ときどき怖くなった。目の前にいる七海くんが実はまやかしで、気がついたらスッと消えてしまう、そんなふうに不安にもなった。それでも彼はその不安を汲みとって穏やかな愛で包んでくれたし、会社を辞めるとき、てっきり切れると思っていた関係を持続させてくれた。
「離すべきかと思いました。しかし、離したくないと思ってしまいました」
 隈のできた顔で、しかし憂いのとれた瞳でまなざす彼をわたしは喜んで受け容れた。
 覚悟をしてきたはずなのだ。彼によりかからずに自立して生きると。彼がなにひとつ気負うことなく帰ってこれる場所になろうと。そのためなら、どんな苦渋も飲み干そうと。

「七海くんは、できるひとだから」
 震える指先を丸めてペットボトルのふたをあけると、わたしはジャスミンミルクティーを飲んだ。とろりとした甘みのあとに、華やかなジャスミンの香りが広がる。妙に胸がそわそわした。
「できる男なのはわかりましたけどぉ。記念日デートまでほっぽり出します? ていうか、先輩彼氏さんのこと名字で呼んでるんですか?」
「え? うん、そうだけど」
「はぁ」
 あからさまに大きなため息をついた依田ちゃんに、わたしはむっと頬を固くする。
「仕方ないじゃない、そっちのほうがしっくりくるんだから」
「結婚しても名字で呼び合ってそうですよね、先輩たち。でも名前を呼ばないカップルって別れやすいらしいですよ」
 ちゃんとアメリカの研究で論証されてるんですから。きれいに整えられた爪をいじりながら彼女は言う。
「恋人から自分の名前を呼んでもらえるって、うれしくないですか?」
「そりゃあ、まあそうだけど。でも向こうも名字だし」
 同期だったころの名残だ。なかなか呼びなおすタイミングを見つけられず、ずるずると親しみのある呼び方を続けてしまっている。だめだこりゃ、依田ちゃんは両手を軽くあげて目を回す。
「それで、お仕事はなにをしていらっしゃるんです?」
「うーん、それが、わからないんだよねぇ」
 と言って、明日の役員来訪のために空き教室の片付けをし始めたわたしに、ついに依田ちゃんはダンッ、とわたしのすぐ横の壁に手をついた。
「先輩、そんな男やめて、戸川先生にしましょう。目の前にいい物件があるのに、みすみす逃すとかありえません!」
 隣の教室でレッスンをしていたスティーブンが、「 もしかして修羅場ってやつ? This is “shuraba”, right?」と呑気に顔を出してきた。

《土曜、仕事が終わったら連絡してください》
 そんなメールを眺めて、この前のように返事をする前に画面が消えていく。
 土曜はシフトを代われないからと伝えても、七海くんは諦めてくれないようだった。どうしても埋め合わせがしたい、と思ってくれているのだろう。実に七海くんらしい。それはうれしいけれど、正直、しっかり休んでほしい気持ちのほうが優っていた。
 こんなときにでも、そんな健気な女になってしまうのは、彼のストイックなまでの働き方を見ていたからか。半ば亡霊のようにひたすら仕事に打ち込んで、途中わたしの腕の中で眠りながらも、がむしゃらに自分という物質を消費している、そんな姿を見ていれば、ほんの少しの休みがあれば休息にあててほしいのが本音だった。
 それに、今会ってしまうと、すべてが壊れてしまいそうで恐ろしかったのだ。

 返信を考える前に、携帯を置いてミルクティーを飲む。早番だった依田ちゃんは珍しく三十分の残業を終えて、さきほど教室をあとにしたばかりだった。
 夜の時間帯は昼とちがって同時にいくつかレッスンが行われているため、あちこちの教室から声が洩れだして不可思議なシンフォニーを奏でている。スティーブンは強弱のはっきりしたリズムでジュニアクラスの歌をうたい、学生メインのグループレッスンの教室からはイギリス人講師自慢のBBCアナウンサーばりの流暢な発音が響いている。社会人クラスからは戸川先生の淡々とした、しかし重みのある声が。
「戸川先生は、先輩を幸せにしたがってるんですよ」
 依田ちゃんの言葉を思い返す。たかがミルクティー一本、されどミルクティー一本。惚れた女に少しでも笑っていてほしい。そんな、親切心を卓越した、男の純真な愛情だと彼女は言った。
 ミルクティーは甘い。とろとろと傷んだ喉をやさしく包み込んで、豊かな華薫りを届けてくれる。なんだか、エレガントな気持ちになれるからそれが好きだった。初めは好奇心で飲み始めたものだったけれど、いつしか、コンビニに寄ったら自然とこれに手を伸ばすようになっていた。
 七海くんは、わたしがこれを好きなことを知らない。わたしだって、彼がカスクートではなく、今なにを好んで食べているか、もはや考えがつかない。
《今日、戸川先生にご飯に誘われたら、ゼッタイに行くこと!》
 依田ちゃんからメールが届いた。かれこれ四年、苦楽をともに過ごしてきた携帯は、まだ宵も始まったばかりだというのにバッテリーが真っ赤に染まっていた。