《すみません、急ぎの仕事が入りました》
無情にもデートのキャンセルを告げた携帯は、わたしの反応を待たずに真っ暗に消えていった。かれこれ、四年は使っている携帯だ。省エネのために画面ロックの時間を三十秒に設定していたから、返信をする前に消えてしまった。三十秒などそんなもの。ちょっと考えごとをしている間にふっと過ぎてしまう。
料理をしているときなんかは画面にレシピを映してしかし目を離すうちにロックがかかるから、「あぁ、また消えちゃった」とそのたびに小指でロックを解除したり、ときにはロック時間を延ばしたり、地味に短くて厄介だなぁと思うこともあった。
しかし、きっかり三十秒、そんなカップラーメンすら作れない瞬きの時間で、このときだけはわたしの思考をシャットダウンすることに成功してしまった。
「わかった、がんばってね」そんな簡単な返信もできずに、指先を浮かせながら恋人である七海建人からのメールをただ眺めて、思考に重たい帳が下りた。
付き合って、四年。彼が証券会社に勤めているときからの関係だった。出会いは至って普通に会社の同期だったから。はじめは可となく不可となくの同僚として関わり、次第に一緒にいるのが苦でなくなり、感情の掃き溜めのような毎日から逃れるためにお酒の勢いを借りて体を重ねた。
そのとき付き合うつもりなんてたぶん互いになかったけれど、それが二回、三回、と増えて、「自分の行動に責任は持つ」という彼の笑えるまでの誠実な態度に手を繋いで関係を築いていくことにした。
あれから四年。彼もわたしも転職を決めて、今はちがう世界に生きている。わたしは証券会社のOLから、英会話教室の事務に。彼は学生時代の先輩のツテを辿って、日本全国を飛び回る仕事に。どんなことをしているかは、正直に言うとわからず、ただ証券マン時代と張り合うかそれ以上に忙しい職業だった。
一度出かけたら二、三日連絡が返ってこないこともあるし、《今日、そちらへ伺ってもいいですか》と突如連絡があったと思いきや、腕を包帯で吊るして玄関の前に立っていたこともあった。
どうやら危険な仕事をしているらしいというのは考えなくてもわかることで、しかし、彼はなにをしているか決して口を割ろうとしなかった。
「いつか話せるときがきたら話します」というのが彼の口ぐせで、わたしも馬鹿正直に「そのときがきたら話してね」などと来るかもわからない“いつか”を待っている。
やましいことがあって隠しているのではない、と、わかっているから平気なのだろう。仕事ではなく女の子と会っているだとか、実は家庭を持っているだとか、そんなのではなく、ただ本当に話せることじゃないのだ。そう思って、いくら傷痕を増やして玄関口に現れようと、わたしは「おつかれさま」と笑って迎え入れた。
彼は誠実なひとだ。優しいひとだとも思う。他人の心を無下にしないひと。だから、職場から電話がかかってきて「仕事が入りました」とこの家から出て行っても、「ごめんなさい、また埋め合わせをします」と楽しみにしていたデートがなくなっても、わたしたちの間にはきちんと愛があって、互いの信頼の上にこの関係は成り立っているのだと思っていた。
しかし、携帯の画面が真っ暗になったまま、しばらくして顔を上げたとき、ああこれはおそらく、いわゆる倦怠期なのだ、と気がついたのだった。
テーブルの上に並んだ少し豪華なディナーは、とっくの疾うに冷めていた。
「名字さん、今日このあとの予定は」
ひとりの夜を過ごして、いつもどおりわたしは教室に出勤した。勤め先の英会話教室は一般的な会社とちがって朝が遅い。昼間の授業は十二時半開始だから、早番のときは遅くとも十時についていればいいし、遅番のときは午後二時。ラッシュ時の電車に乗らなくていいのはとても快適だった。
そんな職場についてのんびりと一日の準備をしていると、日本人講師の先生がやってきた。彼は戸川淳。弱冠三十歳ながら本校きってのカリスマ講師で、どちらかというと厳格で神経質だと恐れられるものの、その英語力と教える力は確かなものだと生徒から人気の一人だった。
「戸川先生。本日の予定ですね」
ややウェーブのかかった黒髪とすっきりした切れ長の瞳を見上げて、そそくさと一日の授業予定を確認する。
「まずは十二時半よりBコースのグループレッスンですね。生徒はいつもの三人に加え、振替の山田さん。午後一時半からは社会人向けのプライベートレッスンが……」
「そうじゃなくて」
いつもの威厳ある低音がわたしを遮る。おもむろに顔を上げると、彼は感情を削いだ黒い瞳でわたしを見つめていた。
「そうじゃなくて?」
「うん。そうじゃなくて、名字さんの予定」
「ああ、わたしなら、本日は六時までで……」
「そのあと」
黙り込んで、一度落とした視線を再び上げる。紺色のチェックのベストを着こなした彼は筋張った指先で軽くうなじを掻いて、小さく肩をすくめた。
「空いてたら、飯でもどうかなと思って」
いつもは無表情の、淡白でなにを考えているかわからない彼のあどけない仕草だった。不意をつかれたわたしは口を半開きにして見つめている。
空いてたら、飯? 戸川先生と?
断るかどうか答えあぐねていると、そこへオーストラリア人講師のスティーブンがやって来て、陽気な波に二人とも呑み込まれてしまった。
「おつかれさまでした」
遅番の子にあとを任せて、わたしは渋谷の街に繰り出す。といっても、センター街だとかハチ公だとか猥雑としたいわゆるザ・渋谷の界隈ではないため、夜七時前だというのに、驚くほど静かだった。近くには首都高が走っており、その向こうには高級ホテルが空に突き刺さっている。迷いなく空を切るエンジン音が響いていた。
国道246沿いを渋谷の南口へ向けて下っていく。
「名字さん」
声がしてふり返った。
「戸川先生」
「よかった、間に合った」
普段の泰然とした佇まいからは想像のつかないような軽やかな足どりで斜面を下りてくる。目の前にやってきて、彼はやわらかな髪を揺らしてわずかに頬を上げてまなじりを細めた。
「駅まで送る」
「送るって、ほんの五分もかからないですけど」
「そうだけど、ごめん、おれがそうしたいんだよ」
はあ、と小首をかしげるわたしに、戸川先生はまた小さく肩をすくめる。
「やっぱ、今のなし。飯、食いいこ」
ごはんの誘いにしてはやけに真面目くさった顔で、表情はほとんど変わらない。厳格で、神経質そうで、まず第一印象は冷淡に見えると言われる彼だが、どちらかというとマイペースで英語教育以外にはもっぱら執着のないつかみどころのない人間だった。
「戸川先生からお誘いなんて、めずらしいですね」
「そう?」
「ええ、渋谷校のハロウィーンパーティーなんかでも、いっつもむっつりした顔でカクテルを飲んでいらっしゃるじゃないですか」
くすりと笑いながら言うと、どこか居心地が悪そうに彼は頭を掻いた。
「まあ、大人数は苦手だから」
「グループレッスンはお上手なのに?」
「それとこれとはわけがちがうよ」
むむっと眉根を寄せて唇を引き結んだ彼に、思いがけず頬が緩くなる。
「いいですよ、行きましょう。この間スティーブンが話していたやきとり屋なんてどうです」
かばんを背負いなおしながら言うと、戸川先生は途端ぱあっと顔を明るくし「いいね」と素晴らしい発音で答えた。
恋人がいるのに男性と二人でご飯に行くなど、本当ならば世間的にはよくないのかもしれない。実際、わたしもそう思っていた。いくらまじめだと言われても、七海くんと付き合ってからは学生時代の男友達ですら二人きりになる場面を積極的に作らないようにしていたほどで、頑なに、気の置けない仲だとしても隙を与えるようなことはしなかった。それは、七海くんへの一種の操立てであった。一度許してしまったら、何度も甘えてしまいたくなる。人間なんてそういうものだ。ましてや、七海くんとの始まりがそういった男女の友情から不意に発展した結果だから、「仲がいいから大丈夫」が通用しないことは、よくわかっていた。
だから、戸川先生の誘いに答えたとき、わたしはすでに自分の中の箍をひとつ外して、自ら罪を犯しにいったのだとはっきりと自覚していた。
「名字さんは、なんで事務なの」
お酒に弱いのか、戸川先生は隣で巻き毛を目もとに落としながら軽く頭をふるわせている。唐突な質問にレモンサワーに口をつけながら隣を向くと、戸川先生は白い頬をやや染めて唇をちょんと引いた。
「なんで、ですか」
「うん、だって英語、できるでしょ」
彼の言うとおり、証券会社で営業をやっていたくらいだから、多少なりとも英語はできる。かといって、語学を生業にしている人間のいう「できる」に相応しているかはわからないが。「少しですけどね」グラスを傾ける。目の前では渋谷には似つかわしい古き良き居酒屋の店主が華麗な手さばきで串をひっくり返していた。
「けっこうきれいな発音してるのに」
「カリスマ講師から褒めてもらえるとは、光栄ですね」
「まじめな話、講師だってなれるんじゃない」
まさか、そんな話になるなんて、本当にこのひとはつかめない男だ。カウンターに腕組みをして座り、もくもくと上がる白煙を見つめている。目は相変わらず切れ長なのにどこか眠たげで、しかしその横顔はどこか楽しげ。今にも鼻歌を歌いだしそうに軽く首を揺らし、「なぜに対する答えが一辺倒だ。相手を説得したいならもっと策を尽くせ」と社会人クラスで言い放つ姿とは別人のようだった。
「資格だって持ってないのに、講師なんてむりですよ」
「おれだって、留学帰りでIELTSがちょっとよかったくらいだよ」
「またまた、海外の大学院を出ておきながら」
ちょうどそこで、「やきとり盛り合わせね」と前からお皿が現れて、戸川先生が手を伸ばした。
「すきなの食べていいよ」
どこか蕩けたまなざしを向けられながら、わたしは厚意に甘えてカシラを一本とった。
いまいち食事の本意が掴み切れぬまま時間は過ぎて、その日はお開きになった。とはいえ、本格的なお店で正真正銘のやきとりを食べるのはいい気晴らしになった。最初はなにを話したらいいのか、億劫だったものの、お酒とおいしいご飯の力を借りて気がつけば仕事以外の共通の話題を見つけ出すことに成功していた。
「またね」改札まで送ってくれた戸川先生の姿を思い出しながら、電車に揺られて帰路に就く。体は、やきとり屋のあの濃厚な煙をまとったまま。ほかの乗客からすればいい迷惑だったかもしれない。ただ、けむに巻かれて憂鬱な気持ちをほんの一瞬忘れることができた気がした。
帰り道、七海くんからメールは来ていなかった。
