※中盤より先、モブに襲われる描写、残酷表現があります。苦手な方はお気をつけください。
「あなたは……」
「こちらでなにやら諍いが起きてると聞いてやってきました」
真選組です、と胸元から手帳を取り出して見せたのは、山崎さんだった。きりりとした上がり眉にそれとは対照的なタレ目、穏やかそうな面持ちで人だかりから姿を表すと、天人とわたしの前に立ちはだかる。
銃口を向けられた時とは違うどよめきが起こり、真選組の名を聞いて、関わるとロクな事がないだとか口々に言いながら、野次馬はちらほらと去って行く。
「もう、大丈夫だから」
小さく、山崎さんが口にする。
その大きな後ろ姿に、ようやく呼吸ができるようだった。目の奥がジンと熱くなって、たまらずわたしは大きく息を吐き出し、どこか全身の力が抜けていくような感覚をおぼえながら震える男の子を抱きしめる。
「チッ、真選組か。行くぞ」
天人もさすがに警察が来たとあっては騒ぎを大きくするつもりはないのか、拳銃を胸元にしまい仲間に顎先で合図をして、その場を後にする。
完全に姿が見えなくなるまで、わたしは自分の体をぎゅう、と抱えこむようにして、男の子を腕の中に閉じ込めていた。
「街中であんなもの出されたら、堪ったもんじゃないですよね」
男の子を母親の元へ無事帰したあと、山崎さんは呆れたようにもうんざりしたようにも見える苦笑いを浮かべて言った。
わたしは慌てて重たい目をぎゅっと瞑って、ありがとうございました、と深々頭を下げる。
「山崎さんがいらしてなかったら、どうなっていたか」
本当ですよ、と山崎さんは息をついた。
「人だかりを見てみたら、まさか拳銃を向けられているのが東雲さんだったなんて、心臓が止まるかと思いました」
「すみません、驚かせて」
「もう金輪際あんな無茶な真似は止してくださいよ」
垂れた目元の優しさとはうらはらに、子どもを嗜めるように語気を強められてはかなわない。しゅん、と肩を落とすと、山崎さんはつり上げていた眉をさげた。
自分でも、どうかしていたと思う。
飛び出すまでは良かった、だが、そのあと、わたしは天人に向かって挑発するような台詞を吐き捨てたのだ。そうしようと思っていたわけではなかったのに、それでも、間違いなく、あれは「故意」だった。
「わたし、自分でもよくわからなかったんです」
山崎さんが神妙な顔をした。
「それはどういう……?」
下唇を小さく噛んで唇を舐める。
「あの時、急に喉の奥が熱くなったんです。そのあと苛々が爆発したみたいに、なにも考えられなくなって……気が付いたら、あんなことに」
銃口を向けられた瞬間、わたしはなにを思った? 安全装置が外れる音を聞いて、わたしはなにを考えた?
――力があればこんな奴、
(殺してやるのに)
そう、思わなかっただろうか。
「自分が、自分ではなくなったみたいでした」
山崎さんの眼差しを真っ直ぐ見ることはできず、視線を地面に落とす。
傾いた陽が大きな影を作り始めていた。滔々と、色濃い影だった。
人間の行動は、意識的なものと無意識的なものに大まかにわかれると言う。
あの瞬間、わたしは、どうだったのだろう。
「気がついたら」、前に飛び出して相手を挑発したり、強く噛み付くように反論したり、あるいは睨みつけたり。
それは、本当に無意識だったのだろうか。
腹の底が疼き、なにかが蠢く感覚。喉元が焼けそうに熱く、目の奥がジンジンして、頭が割れそうになる感覚――「気が付いたら」、わたしは、殺したくなるほどの憎悪を抱いていた。
そう、あれは紛うことない、強い嫌悪と憎しみだった。
こんなこと、真選組の彼に話したら、変に思われて怪しまれてしまうだろうか。そんなことを考えて、指先を揉む。
「東雲さんは、今、先ほどの自分を振り返って、どう思われますか」
だが、揶揄することも訝ることもせずに、静かに山崎さんは言った。
すぐには答えられず、何度か睫毛を揺らしたあと、わたしは半開きの口から静かに吐息を漏らした。
ほんのりと金色に染まり始めた地面には、まっすぐ、まっすぐに影が伸びている。
「あんなこと、前まではなかったんです」
今までは、そんなことなかった。自分が自分でなくなってしまったような、それほどまでの強い衝動に駆られることなんて。
まるで、別人みたいだった。
精神分析学者のフロイトによると、いくら理性的な人であっても、気持ちとは裏腹な言動をとることがあるという。また、それら不可解な行動は無意識な感情や欲求によって齎されるものである、とも言われている。
人は、認めたくない感情や欲求を無意識下に抑え込む。そしてその感情や欲求が、なにかをきっかけに意識の世界に浮かび上がり、咄嗟の行動を起こす。火山の噴火のような感情の爆発であったり、はたまた、夢遊病者の彷徨いであったり。
じゃあ、これは、ほんとうわたしの感情なのだろうか。
わたし自身の、憎悪なのか。
「怖いです」
気がつけば体の前で手を組み、震える指先をぎゅう、と握っていた。
「すごく、怖い」
自分が、喰い潰されるんじゃないか。裡なる魔物が身を乗っとるのではないか。
俯いたまま、地面を見つめていた。
「なら、大丈夫ですよ」
「――え?」
落ちてきたのは、あっけらかんとした声だった。
変わらず明るく優しい物言いで、泰然とした川の流れのような。
思わず顔を上げると、笑いも、呆れも、怒りもせず、柔らかい面持ちでわたしを見ていた。
「東雲さんが、自分を怖いと思うなら、ね。もし怖くなったら、そん時は俺にまた話してくれればいいです。そしたらきっと、上手くその自分と付き合っていけるはずですよ」
ほんとうに、大丈夫?
話したら、この魔物と付き合えるの?
言葉をうまく飲み込めず、微かに眉を寄せて瞬きを繰り返していると、山崎さんの手が頭に伸びてきた。
「そんな怖い顔しないでくださいよ、ね?」
ぽんぽん、小さい子どもにするのと同じように二回、優しく撫でられる。
温かな感触に、さらに目をきょとんとさせると、山崎さんは慌ててその手を引っ込めた。
「あっ、失礼しました! つい、撫でたくなって」
「わたし、そんなに子どもっぽいですか……」
「いや、全然そんなことはないんですけど、なんていうか、大丈夫だよって撫でられると安心しません? だから……って、俺、なに言ってるんですかね」
ほんのりと頬を染めながらハハハと頭を掻く山崎さん。
大江戸デパートで話した時のように、少しだけあどけない少年みたいな表情。わたしは思わず、ふふ、と笑ってしまった。
「おかしな山崎さん」
「おかしなって、笑わないでくださいよ」
ぽりぽり、次に彼は頬を掻く。
「でも、お陰でちょっと安心しました」
「それなら、よかった」
「ごめんなさい、変な話を聞かせてしまって。山崎さんだと、つい話しすぎてしまうみたいで」
「エッ! マジか……いやあ、そんなの嬉しい限りですよ。俺でよければ、本当いくらでも聞きますんで、地味ですけど」
確かに地味だと頷くと赤い頬で彼はマジか……と複雑そうに項垂れたが、わたしはかえってその方が安心していた。真選組の人だというのに、するりと溶け込んでいくような、そんな感じが、不思議と落ち着くのだ。
「山崎さん、お仕事中に引き止めてすみませんでした」
隊服姿の山崎さんを視界に入れて、彼が職務中だったことを思い出す。
忙しいだろうに、これ以上時間をとっては失礼だ。にっこりと笑みを浮かべて、彼を見上げると、どこか心配そうな顔で、気にしないでくれと返される。
「パトカーで万事屋まで送っていきましょうか」
「大丈夫ですよ、お仕事に戻らないと山崎さんが叱られちゃいますから」
「女神……女神がいる……」
「は?」
「アッイヤ、なんでもないです! じゃあ、本当お気をつけて!」
そうして、別れを告げた。
少し、外の空気を吸っていたいような気がした。
だが、すぐにわたしはその自分の判断を後悔することとなった。
すっかり辺りは日が暮れていた。
茜空はいつのまにか、静かに紫立ち、濃い紺色を纏っている。
「……まただ」
その空の悠久さとはうらはらに、妙な汗が背筋に流れた。
感じ取ったのはかすかな気配と視線。恐る恐る振り返るが、そこにあるのは宵に活気付いた花街の風景。
気のせい、ではない。だれかに着けられている。山崎さんと別れてから、しばらくして、ずっとだ。
往来では、人々がそれぞれの夜に向けて歩みを進めている。ゆっくりと辺りを見渡すも、それは変わらない。だが、妙な気配は消えることはなかった。
肌を撫でるような、寒気というか、悪寒というか。ゾゾ、と首すじを撫でられる感覚。昼間エリザベスから《後ろに気をつけて》と言われたのを思い出し、わたしはごくりと唾を飲み込む。
どうしよう……。途端にひとりで立っていることが恐ろしくなってきた。耳の横の毛をかけ直しながら、懸命にわたしは耳元を押さえた。
――こんなことになるなら、山崎さんに送って貰えばよかった。そんなことを思うが、あとの祭りだ。
はやく、帰りたい。でも、今、このまま万事屋に帰っても、結局一人だ。そこまで付いてこられたら……。そこまで考えて、わたしはひとりでに頷いた。
あまり、この時間の花街に紛れたくはなかったのだが――意を決してくるりと踵を返すと、わたしはネオンの街並みに集まる人混みに入っていった。
人を掻き分けて、掻き分けて、暫くして、わたしは一本の小道へ曲がる。建物と建物の間の、人が一人二人並んで通れるくらいの路地だ。普段ならば、絶対に入らないような場所。
小走りで人の合間を縫ってここまで辿り着いたからか、息が上がっている。でも、あまり大きく音は立てられない。喧騒を遠くに聞きながら、肩で呼吸を繰り返した。それすらも整えようと、家屋の壁に寄り掛かりぎゅう、と着物の衿を掴む。
「――すみません、見失いました……えっ……杉が?」
向こうの方でこそこそと声が聞こえて、握る力を強めると、息を潜めながらその場をやり過ごす。
「今の声……?」
――まさか……まさかね。
一つの足音が静かに遠ざかっていくのを待ちながら、わたしは下唇を上唇で覆った。
「……行った、?」
それから程なくして足音が聞こえなくなると、わたしは大きく息を吐き出して、ゆるゆると肩の力を抜いた。だが、嫌な鼓動の速まりは治らなかった。
一本大きな道筋を逸れると、かぶき町とあっても辺りは暗い。もちろん文明の栄えた二〇〇〇年代の日本と違って街灯もなく、仄かな月明かりが空から注いでいるだけ。不気味なほどに静かだった。
――はやく、帰ろう。
小さな声で吐息をこぼす。
万事屋のみんなはもう家に着いているだろうか。とにかく安心できる場所に行きたい。彼らの顔を見て、くだらない話をして、この嫌な恐怖心を拭ってしまいたい。定春のもふもふとした体に飛び込みたい。
そんな気持ちで胸の内がいっぱいになる。
こびりついた恐怖を振り払うように首を振って、その場を後にしようと踵を返す。
「オイオイ、こんなところに女が一人、どうしたのかなぁ、お姉ちゃん?」
だが、暗がりの奥から見知らぬ男が現れた。目の前に立ちはだかる、大きな肉体。思いがけず、肩を強張らせ後退するが、下卑た笑みを浮かべながら、男はじりじりと近寄ってくる。
だらしなくはだけさせた着流しに、腰には刀を携えている。廃刀令の下ったこのご時世に、帯刀しているなんて。普通じゃない、瞬時に頭が警鐘を鳴らす。
逃げないと――直感が、全身に命令を出す。
目を合わせてはならない。そう思い大きく後退し、反対側へ駆け出そうとするが、またひとつ砂利を踏みしめる音が近付いてきてしまった。
「こりゃぁ、上玉だな」
のっそり、そちらからも二人目の男が寄ってくる。あっという間に挟まれてしまい、袋小路の鼠だ。
厭らしい笑みと舌舐めずりをする男たち。その姿に、途端に身体が震え、凍て付いたようにその場から動けなくなる。
桂さんにも、エリーにも、あれだけ気をつけろと言われたのに。まさかたて続けにこんなことになるなんて。
「もう、逃げられないぜ」
「っ、さわらないで!」
腕を掴まれそうになって振り払うが、かえって両腕を掴まれて身動きが取れなくなってしまった。
どん、と肩を押され尻餅をつく。そしてそのまま、頬骨を強く殴られ後ろへ倒された。勢いよく地面へ頭がぶつかり、ぐわんと目の前が歪む。
――痛い。そんなことを思う間に、男は覆い被さってきた。好きにはさせないと体全身で抵抗するが、腕を押さえつけられ、そのまま馬乗りになられてしまう。それでも、と脚をバタつかせるが、もう一人の男に掴まれてしまった。
着物の衿に手をかけられ、襦袢ごと強引にガッと広げられる。
――やめ……っ!
声が、上手く出ない。叫べば、だれか助けてくれるかもしれないのに――!
そう思う間に男の手が着物の合わせにするりと入り込んできた。そして、躊躇いもなく、胸の膨らみに触れる。乱雑に揉みしだかれ、男は首元にねっとりと舌を這わせていく。
なんで。
どうしてわたしが。
胃の中の物を全部吐き出したくて堪らない。首もとを蛞蝓が這っているみたいで、汚くて、気持ち悪い。
――やめて。
やめてやめてやめてやめてやめて――!
だが、そんな心の叫びとはうらはらに、唇からこぼれるのは震える吐息だ。噛み締めたそこから、血の味がする。
あっという間に鎖骨の下あたりにまで蛞蝓が降りてきて、チクリと痛みが走った。
「ひっ……」
「そんなにいいのかよ? とんだ淫乱女だな。あの虎どもに売るにゃ本当勿体無ェ」
「なに、俺たちで楽しんでから、渡しゃいいさ」
虎――あの天人は、虎だったのか。昼間の、あの天人が、この男たちを?
風が吹くたび、蛞蝓の通ったあとがひやりと冷えた。男たちの熱っぽい獣のような息遣いを浴びながら、ぼんやり空を見上げてひたすら耐える。こんな時にも、星が綺麗だった。
暫く男たちに体を弄られ続け、もはやどこが痛いのかもどこから血が出ているのかもわからないほど、全身が麻痺していた。抵抗する力はほとんどなかった。
「急に大人しくなったじゃねぇか」
「やっぱり女はそうでないとなァ」
「どいつもこいつも結局は快楽には抗えねェってこった。近頃は廓遊びもしてなかったからな、こんな女抱けて、最高だぜ」
「お前ばっかり狡いぜ、俺にも分け前くれや」
足を押さえつけていたもう一人の男が、これみよがしに自分の着流しの前合わせを開けて脚を曝け出す。
――まさか。
そして、わたしの着物を剥ぐようにしてはだけさせ、膝をぐっと掴むと、無理矢理開かせた。
「っ! やっ、いやっ……!」
――もう、駄目だ。
これから行われることを感じとった瞬間、涙が溢れてきた。つう、と眦からあふれ、それはこめかみを伝っていく。
泣くな。こんな時に、泣いたら負けだ。
でも、止まってはくれない。
痛い、苦しい、気持ち悪い。
――このまま犯されて天人のところへ行くくらいなら。
いっそのこと、殺してほしい。
目蓋を下ろし、唇を噛み締めた――その時。
「ぐぁッ」
「なんだおま、アアア゛ア゛ッ」
風を切る音と、呻き、そして、鈍い音。
――ピシャッ。頬になにかがかかり、胸元にぐったりと重いものがのしかかってきた。
四肢を押さえつけていた力が消え、恐る恐る目を開ける。
笠を被り、派手な着流しに身を包んだ男がすぐそばに立っていた。
「この季節はどこもかしこも甘ったりィ匂いで敵わねぇな。胸糞悪い奴らがうじゃうじゃ沸いて出てきやがる」
深い深い胡弓のような音色。鉄と土の匂いに混じってどこか異国の香りがする。
男から視線を離せずに、ただ、荒い呼吸を繰り返す。そのうちに鉄の錆びたような匂いに肺が満ちて、喉の奥からなにかが迫り上げてきた。
男が手にしているのは、刀。――そうだ、刀だ。月白色に瞬く、鋭い刃。素早くそれを振い、彼は鞘に納める。
「あな、は……」
掠れ声が喉に絡み、上手くしゃべることができない。
男は黒い水溜りを躊躇なく渡ってくる。重々しい音を立て、なにかを蹴飛ばしながら、目の前までやってくる。
いやだ。いやだいやだいやだ。
「い、ひゃ……やっ」
呼吸が、乱れる。目の奥が、千切れそう。
「安心しな、取って食いやしねぇさ」
だが、深い音色が揺蕩う。そのうちにわたしの胸元にのしかかるものを男は乱雑に脚で退けた。
べちゃ――嫌な音とともに地面に落ちる。おもむろに目を動かすと、飛び込んできたのは人間の体だった。黒い水溜りに、上体を切り離されたそれが、転がっている。
まさか。まさかまさかまさか。麻痺した頭を微かに動かして辺りを見回す。そして、わたしは息を飲んだ。
「ぁ、あ……」
息絶える、男の姿。先程までわたしを蹂躙していた、二人の男だ。見るも無惨な姿で、地に果てていた。
首と胴体は離れ、闇色に染まった血が海を作る。もはやただの肉塊と化していた。少し前まで息をしていた人間だとは思えないほど、惨い。
――なにが、起きたの?
わたしは、血溜まりに横たわっていた。体が重くて、起き上がれない。淡い色合いだったはずの着物も、今はもうその殆どが烈しい色へと変わってしまっているに違いない。
一体、なにが、なぜ、この人たちは――?
わたしも、殺される――?
張り詰めた空気に、身動きも取れない。ただ、呼吸を繰り返し、膜が張り、ぼやける視界で男を見上げている。
だが、男は近寄ってくると、わたしの腕を引っ張って上体を起こさせた。
「ありがとう、ござ、ます」
なにがなんだかわからなかった。だが、咄嗟に家屋の壁を背凭れに体を預けさせ、微かに残った力で、自分の胸元を隠すように体を抱いた。暗闇に浮かぶ光景から目を離そうと思うのに、まぶたの裏にくっきりと張り付いて剥がれない。いつのまにか全身が震え出していた。
それから、このにおい。
噎せ返る程の死臭に、たまらず嘔吐いていると、男は、くつくつと喉を鳴らして、手を伸ばしてきた。
そうして、わたしの輪郭をすう、と撫でて……。
「やっと見つけたぜ」
――どういうこと?
「まさかな、あの優男のもとにいたとはな」
優男――そう呼ばれるひとを、わたしは一人しか知らない。
「あのひとを……知って……?」
さァな、と尚も男はくっと笑う。
「いい牙持ってんじゃねぇか。とんだ誤算だったぜ」
誤算、そう言いながら、男の顔は愉しげに口許をつり上げていた。
息が詰まりそうだというのに、心臓がとくりと動きだす。血液が身体中に滾り、鼓動が早まっていく。なにが起きているのかわからない。頭がガンガンする、視界が霞んで、意識が朦朧としている。
「あな、は……?」
声を振り絞る。
三度笠の下、仄かな月光に照らされ、男の顔が露わになった。透き通るような肌に、黒曜色の髪、そして鋭く瞬く隻眼。
――血の匂いがする! こっちだ!
その時、近くで声が響いた。ザザザッと地面を踏みしめる音が迫ってきていた。
なにごとか、考える前に目の前の男はチッと舌打ちをすると、往来の方へと鷹揚に一瞥を投げかける。
「また面倒な奴らが来やがったか」
それから、彼の瞳がわたしを射貫く。
「近いうちにまた、そのツラ拝みにくるぜ」
笠を目深く被り直し、音もなく闇に消えた――。
わたしに、会いに……?
意識の波が遠のいていく。ぼうっ、と沈みゆく意識の中で、わたしは消えた残像をずっと眺めていた。
先程までの苦痛や恐怖を体に残したまま、ゆらりゆらり、揺らいでいく。
わたし、どうなるんだろう。
深い深い水の底に沈んでいくように、じわりと感覚が閉ざされていくのを感じながら、暗闇に包まれ、そして――そこで途絶える。
「――ッオイ! ……しろ! …………イッ」
