その日、ボンベロとジュリアは別々に行動していた。ボンベロは食材調達、ジュリアは日本人の女が飯屋をやっていないか、という情報収集。美しい街並みのヴェローナ市街は、戯曲の舞台になったということもあってか、昼ごろには観光客で溢れていた。
すべての用事を済ませたボンベロは、アパートメントに荷を置くと再び街へと下った。さまざまな言語が飛び交う中を、長年培った身のこなしですばやく抜けていく。人混みを嫌う彼のこと、その顔は極力感情を浮かび上がらせまいと引きしめられているが、形のいい眉が微かに歪められていた。
賑わう通りを抜け、待ち合わせとしていたカフェに向かうと、ボンベロは眼光を鋭くした。
視線の先には、テラス席に座る恋人と、現地人と思われる若者の姿が。なにが起こっているのかは一目瞭然だった。この日に限って、露出の多いワンピースからはその質感を感じてみたくなるような白い肌が覗き、照りつける太陽に惜しげもなく晒されている。暑いからと結い上げた髪が、うなじやデコルテに舞う様は、男を煽るにはうってつけだろう。
ただならぬ事情のある彼らのこと、待ち合わせ場所は可能な限り観光地を避けたいと中心部の広場からは離れた場所を選んだつもりが、かえってそれが仇となったようだ。くそ、一人にしなきゃよかった。ボンベロは盛大に舌打ちをすると、強く地面を蹴った。
「待たせたな」
いつになくとろけるような甘く低い声を出して、テーブルの上から彼女の頬に、それから唇に、触れるだけのキスを落とした。
「先に食事を頼んでいてもいいと言っただろう」
「あ、うん……ボンを待っていたの」
突然現れた恋人の行動に呆然とする彼女を、情感をたっぷりと孕んだ瞳で撫でる。間の抜けた顔が無垢に親鳥を見上げる雛のようにも見えて、なんとも愛らしい。だが、腹の中に渦を巻いたどす黒い靄は今にも暴れ出そうとしていた。
ボンベロは熱っぽいまなざしとはうらはらに珍しく唇のほとりにやさしい微笑みを載せたかと思うと、彼女の前の席には着かず、横で立ち尽くしている男に向き直った。
「俺の女に、なにか用か」
スッと間合いを詰め、男の耳元で囁く。先ほどとは打ってかわって地を這うようなその声は、凡庸な人間にとっては脅威である。加えて胃にズッシリとのしかかる威圧感。身の危険を感じ取ったのだろう、男は小さく舌打ちをすると、尻尾を巻くように足早にその場を後にした。
ボンベロは呆気ない勝利にあぐらをかくこともなく、毅然とした態度でウェイターを呼び寄せた。注文をとろうとにこやかに飛んできた彼にユーロ紙幣をいくらか握らせると、ジュリアの手を取ってカフェを出た。テーブルには、汗をかいた飲みかけのレモネードが煌々とした光を受けていた。
「あまり、脅かしちゃだめよ」
腕を引かれながら、ジュリアが呆れたように言ってくる。相手の様子からボンベロがなにをしたかは想像がついたようだ。
「脅かしてない。ただ、なにをしているか訊いただけだ」
「彼の顔、半分泣きそうだったわ」
「勝手に泣かしときゃいい」
後ろで、はあ、と息を漏らすのが聞こえた。
中心部である市街地を離れ路地に入ると、周囲の音がだんだんと小さくなっていった。二人の足音が石畳に響いてくる。黄色い壁や赤い壁の真上には、のどかにも青々とした空が広がっていた。
人影が完全になくなったところで、ボンベロはジュリアを建物の壁に押しつけた。
「ちょっと、どうしたの、ボン」
「誰かさんがあまりに無防備でな。腹の虫がちっともおさまらない」
彼女の顔の横に手を突き立てて、逃げられないようにする。熱く滾る炎を隠さずに見下ろすと、彼女はたじろいだ。
「まっ」
「待たない」
ボンベロは噛みつくように唇を奪った。あっという間に口づけは深まっていく。互いに舌を絡ませ、角度を変えて余すところなく味わい尽くす。静かな世界に響くのは、荒い吐息と、なまめかしい水音のみ。それがまた、ボンベロの興奮を高めていった。
「も……こし、ぬけちゃう」
「そんなに、よかったか」
唇が離れ、浅い呼吸を繰り返しながら胸元に縋るジュリアに、ボンベロはニヒルな笑みを浮かべる。ジュリアはキッと彼を睨んだ。
「満足しましたか、ボンベロさん」
とはいえ、その瞳はほのかに湿り気を帯びていて、まったくもって威嚇にならない。
「いや、まだだ」
まだ? 唇を尖らせるジュリアの耳元で、ああ、と囁く。耳たぶを軽く食(は)むと、彼女の体がぴくりと跳ねた。
「勝手に嫉妬して、勝手に怒って、男って本当……」
「それは、悪かった」
そう、自分は嫉妬したのだ。彼女の魅力に易々と近づいた男に対して、あれ以上彼女のそばにいようものなら、その場で殺してやろうかと思うほどに。そして、沸き上がった熱はすぐに治らず、彼女に向けて放ってしまった。なんとも情けない話だ。
「丁寧に断ってているところだったのよ」
「ナンパ男相手に真面目な対応をする馬鹿がどこにいる。つけ上がるだけだ」
「でも、なにかあったら嫌じゃない」
「なにかあることなんて、ない。お前の男が、どういう奴か忘れたのか」
いくら経っても、熱は治らない。それどころか、燃え盛る炎に風を送ったように、その勢いはどんどん強まるばかり。
「そんなこと……」
その言葉は最後まで紡がれることはなかった。ボンベロはジュリアの耳の裏をねっとりと舐めると、誘われるがまま、首すじに熱い舌を這わせた。
「っ……もう、ボン、ここじゃ、や……」
「いや? あいにく、体は正直だ」
彼女の吐息が熱を帯び、潤んでいく。口では抵抗しつつ、満更でもなさそうな彼女の反応に、ボンベロはじっとりと鎖骨を舐め上げた。
「こんな格好するから、男に絡まれるんだ」
「暑いんだもの、好きな格好くらいさせてくれたっていいじゃない」
「なら、少しは自覚してくれ。お前は目を引く」
汗ばんだ肌はほのかに塩っぱい。だがそれも、今の彼にはこの上ないスパイスになるばかり。ソルティ・バニラのジェラートでも食べたみたいだ。もっと味わってみたくなって堪らずその肌を食むと、ジュリアが甘い悲鳴を上げた。
「悪くないな、その声」
「……ちゃんと、言ってよ」
「なにを」
「ボンベロの、思ってること、全部」
そしたら全部、受け止めるから。息を上がらせながら、紡がれた言葉に、ボンベロの中でなにかがぷつん、と切れる音がした。
「……本当に、お前は」
大きく息を吸い込んで、彼女の肩に顔を埋める。額に煉瓦造りの壁が当たって、ひんやりと冷たい。なんとか、彼女をめちゃくちゃにする前に、踏みとどまることができた。いや、わからない。ほんのひと振りでもまたスパイスが効いてしまえば、溜め込んだ熱は一気に弾け飛んでしまうだろう。
「ねえ、ボン」
甘い声が耳を撫でる。
「ちょっと待て」
ほら、このように。今にも彼女を喰らい尽くしてしまいたくて、堪らなくなる。
このまま奈落まで堕ちていこうか。彼女となら、なにも怖くない。どこまでも、どこまでも、彼女とともに。
「きれいだ」
やがて、小さく紡いだ言葉に、ジュリアの体が敏感に反応した。
「その髪も、その目元も、頬も、唇も、全部食ってしまいたいほど」
「褒めてる?」
「ああ」
くす、と笑われて、ボンベロは居た堪れなくなり、ジュリアの肩をやさしく噛んだ。
「そのワンピースも、よく似合う」
「噛みながら、しゃべんないで」
「言えっていったのは、お前だろ」
惜しげもなく露わになった肌に、じんわりと汗が滲んで煌めく様だとか、熟れた果実のように上気した頬や、潤んだ唇、瑞々しい瞳。それから、胸を満たす甘美な香り。
彼女を織りなすすべてが、俺の心をくすぐってやまない。
「すべて、俺のものにしたいんだ」
この肌も、汗も、唇も、視線も、匂いも。ひとつ残さず愛するように唇を落とすと、彼女は、はぁ、と湿った吐息を漏らした。
「とっくのとうに、ボンのものよ」
「ここも?」
壁に突きつけていた手を、彼女の心臓にあてる。とくり、とくり、鼓動が伝わってくる。
「……そうよ、ボンベロ」
その手に重ねられた彼女の手は、とても温かい。
「誰にも、渡すつもりはないぞ」
うん、彼女は掠れ声で答える。
「誰にも、渡さないで」
「誰の視界にも入れたくないと言ったら?」
「お望みとあらば」
微笑む彼女は、あでやかでどこまでも美しい。本当に誰の目にも映したくない。綺麗に飾った扉の向こうに閉じ込めて、この身が朽ちるまで腕に彼女を抱きしめていたい。
「好きだ、あいしてる」
わたしも、と彼女の唇から零れた吐息を、逃さぬようにすかさず奪う。
もう何度こうしたかもわからないのに、初めて彼女に口づけたときのように、淡く切なく心臓を攫っていく。触れ合った唇が、指先が、体が、熱くてどうにかなってしまいそうだ。細胞ひとつひとつに、彼女が溶け込んでいく。
今度は、花に降りた朝露を掬うように、ゆっくりとやさしく唇を包み込む。離れては触れて、震える肩を、背中を、腰を手のひらでなぞっては、柔らかな花びらを啄んでいく。そうして、何度も、何度も、蜜鳥は戯れた。
ボンベロの手が彼女の太ももを撫でたところで、その手の甲をジュリアが抓った。
「ここまで」
「……覚えておけよ」
ボンベロは唸りながら、濡れた彼女の唇を親指で拭う。火照った体、じわっと赤が溶けだした頬、そして、ほのかに潤んだ瞳、なんと煽情的なことだろう。正直、このまま彼女を歩かせるのは気が引けたが、もとを辿れば自分のせいだ。口にしたところで、また彼女にぶつくさ言われるに違いない。
ボンベロは羽織っていたシャツのボタンを外すと、ふわり風を纏って袖を抜いた。
「着ていろ」
「ボン、でも」
彼女の胸元に放る。
「お前を誰かに見せるよりかはマシだ」
鍛え上げた上半身が惜しげもなく露わになる。照りつける日射しがジリジリと肌を焼くが、同時に、乾いた空気が体を撫でた。涼しげな顔に似合わず、汗が滲んでいたところだ。かえってちょうどいいだろう。
体を離して、気怠げに首を二、三度捻ると、ジュリアが自分のシャツをぎゅう、と抱きしめ、そこへ顔をうずめているのが目に映った。
「……やめろ」
「だって、ボンベロの匂いがする」
「それ以上やられると、こっちだって限界だ」
いちいち心臓を掴まれて、体中の血液が滾(たぎ)るこっちの身にもなってくれ。ボンベロはたちまち視線を逸らして、乱れた髪を結い直す。唇に紐を咥えて、慣れた手つきで髪を纏め上げる。ほう、となにやら潤んだ息が溢れるのが聞こえたが、ボンベロは自らに鞭を打って、きっちりと紐を結んだ。
「着たか」
視線を戻すと、ジュリアは彼のシャツを羽織っていた。サイズが大きいのだろう、彼女の腰までをすっぽり覆っている。長い袖がうまいこと指先を隠していて、庇護欲をそそられる。
「暑い」
が、当の本人は、せっかく開放的だったというのに、じっとりと熱の篭る格好に不満げだ。
「袖を捲れ」
「そうね、そうする」
「それか、肩に掛けていろ。だが……」
ボンベロはジュリアを足先から頭のてっぺんまで舐めるように見つめると、長い髪の下ですっと目を細めた。
「どうかした?」
小首を傾げるジュリアをよそに、彼はまたしても彼女を壁へと追いやる。片手を煉瓦に突いて、たわわな胸元を隠している自分のシャツを捲ると、あろうことか、そこへ顔をうずめた。
「これでいい」
鎖骨のあたりに咲いた赤い華に、ボンベロは唇に弧を描く。
「……全然、よくない」
慌てて首元を押さえるジュリアのムッと尖った唇を、目の前の男が性懲りもなく再び奪ったことは言うまでもない。
