ヴェローナでの滞在は思いのほか長くなった。観光客も現地人も含め日本人が多いとあってか、飲食店を営む日本人の情報がたびたび耳に入ったのだ。とはいえ、どれも彼らの求めていたものではなく、二の足を踏むばかりの結果となったのだが。
じきに嫌気が差してきそうなところを救ったのは、イタリアの古き良き味を守る郷土料理や、色とりどりの建築物と自然の織りなす美しい景色だった。見渡す限りの天からの贈り物を受け取りながら、彼らはのびのびとヴェローナを満喫した。
ヴェローナ有数の観光地、ジュリエットの家。そこに、ボンベロの姿はあった。むろん、かの有名な戯曲の舞台となった地である。もとより話の中に出てくるジュリエットという女性が存在していたわけではないので、そのモデルとなった女性が住んでいた屋敷、となるのだが。
満員電車並みの混雑にうんざりし、邸宅の外で葉巻を吸っていたボンベロは、よくもまあここまでただの家を熱心に見るもんだ、と中庭へと続く門を眺めた。それを潜り抜ける人の列は、まだまだ途切れることはない。ロミオとジュリエットの信奉者はもちろん、言い伝えられてきたジンクス目当てに立ち寄る者も多いのだろう。
紫煙を青空に向けてくゆらせる。その顔は相変わらず澄ました様子だが、穏やかなヴェローナの街には似つかわしくない喧騒に、一刻も早くここを立ち去りたい色をその瞳に載せていた。
彼一人であったのなら、早々にこの場をあとにしていただろう。まず、この場に足を踏み込むことすらなかったはずだ。だが、ジュリアの頼みとあっては仕方がなかった。
カナコに関する情報の真意を確かめたあと、彼女がどうしても行ってみたい、と小さくぼやいたのだ。苦い顔をすると思っていたのだろう、一人で寄ってくる、と言っていたのだが、ボンベロはすかさず、「着いていく」と告げていた。
準備が整い次第、数日中にヴェローナの街を発つ予定だったということもあり、たまには呑気に観光をしてみるのも悪くないと考えたのだ。それが、ジュリアの小さな望みであるのなら、なおさら叶えないわけにもいくまい。そもそも、先日の件があったばかりだ、彼女をイタリアの街中を一人で歩かせるほうが、観光地という敬遠したい場所に出向くことよりも許せなかった。
結局、人の多さにげんなりしたボンベロが、中に足を踏み入れることはなかったのだが。
「ボン、お待たせ」
新たにシガレットケースに手を伸ばそうとしたところで、人混みの中からジュリアの姿が現れた。彼女もかつての仕事柄か、あまり人混みは得意ではないと言っていたものだが、人の間をすり抜けながら満足そうに微笑む姿は、これまで塗り潰された彼女の元の人生を、少し垣間見せてくれるかのようだった。
「行くぞ。息が詰まる」
「そうね、さすがに疲れたわ」
胸元に差し込んでいた手を抜き去り、肩をすくめたジュリアの手をそっと取る。この人口密度の高さだ。はぐれないようにしっかりと指を絡ませて、石畳を進んでいく。空からは目映いほどの光が注いでいた。
しばらく、街の中を歩いた。美しい川沿いや、目にやさしい色合いの家々の合間を、ジュリエットの家の話をするジュリアに適度に相づちを打ちながら、ボンベロは進んでいく。もちろん、行き先は決まっていない。すっかりこの旅に慣れたのか、足取りに迷いはなく、ゆっくり、それでいて軽やかだった。
だが、中心部から、アパートメントに背を向けて十分ほど歩いた旧市街で、ジュリアが唐突に足を止めた。
「どうかしたか」
川沿いと違って、往来には人通りが増えている。ボンベロは彼女が人にぶつからないように、サッと回り込むように近付いた。
どこかを見つめている。ボンベロがじいっと瞳を覗き込むと、彼女はハッと意識を取り戻した。
「ごめん、なんでもない」
そうか、とボンベロは小さく返して、彼女の手をぎゅっと握り直した。
「あ、ねえ。菊千代の苺がそろそろなくなるところだったわよね、買いに行きましょ」
仕切り直しとばかりにジュリアはにっこり笑う。
「ああ、好きに出歩けない上、好物が切れたんじゃ、さすがのあいつも正気を失いかねないからな」
普通のブルドッグとは少々見た目が異なる菊千代のことだ、昼間は専ら彼らの部屋で留守番役なのである。その褒美として、苺を与えてやるのが日課だ。
ボンベロは相棒の喜ぶ様を思い浮かべつつも、彼女のその作った笑みに、一抹の翳りを抱いていた。
それは、時を待たず、はっきりと形になった。
「ジュリア?」
菊千代への土産を買ったところで、再びジュリアが足を止めた。
行きとは違い、ジュリアが、「早く帰りましょ」とボンベロの手を引こうとしていたのだが、往来をじっと見つめたきり、彼女は動かなくなってしまった。ボンベロの声かけにも反応しない。
「ジュリア、やっぱりお前……」
彼は彼女の肩を掴もうとする。
「スキンがいたの」
彼の言葉をジュリアは遮った。瞳は揺れ、唇が震えている。
まさか、ボンベロは彼女の視線の先を追った。人々が行き交っている。誰一人見覚えのある顔はいない。
「ジュリア、気のせいだ」
「でもっ、この目ではっきり見たわ!」
死んだ奴が、化けて出たとでもいうのだろうか、あるいは……長い前髪の下で眉をひそめ、小刻みに震える彼女の体を自分に向けようとする。
「ジュリア、俺の目を見ろ」
「スキン! 待って!」
が、彼女はボンベロの手を振り払って走りだそうとした。彼女の手にしていた苺が地面に散らばる。往来を行き交う影がぼやけ、黒い背中が向こうにちらついた。咄嗟に、ボンベロはふり払われた手を伸ばした。
「ジュリア!」
細い腕を掴む。周囲の視線など厭わず、ボンベロが大きな声で彼女を呼ぶと、ジュリアがまたしてもハッとふり返った。
「ジュリア、見間違いだ」
彼女の瞳は先ほどよりも大きく揺れている。顔は血の気が引いて真っ青だ。
「あいつがここにいるわけない」
彼女が見たものが、なんなのか。現実か、幻想か、それとも、願望か。確かめることもなく、彼は彼女の目をじっと射抜いて、ゆっくりと言い聞かせた。
ゆるり、ゆるり、黒曜石が揺れる。
呼吸が短く繰り返される。
「……ボン」
おもむろに睫毛を震わしたあと、彼女は戻ってきた。
「ごめんなさい」
眉をハの字にする彼女に、ボンベロはなにも言わなかった。ただ、声を潤ませた女の手をそうっと離すと、なにごともなかったかのように落ちた苺の籠を拾い上げた。ジュリアも、転がった苺をひとつ、ふたつと指先で摘まみ、籠へ戻す。
「せっかく買ったのに」
「なんとかなる」
「菊千代に怒られちゃう」
明るく装ってはいるが、翳った瞳にボンベロが気づかぬはずがない。
拾った苺へと丁寧に息を吹きかけるジュリアに、彼はひとりでに奥歯を食いしばり、瞼を下ろす。どくどく、自らの鼓動の音に支配され、腹の中で、なにかが渦巻きずっしりと重量を増していく。全身に勢いよく血液が滾り、指先に痺れが走る。
ボンベロは常の仕草で、スッと胸元に手を忍ばせた。
「今夜、ここを出るぞ」
気がつくと、ボンベロは葉巻に火をつけながら言っていた。こっくり、ジュリアは頷いた。
その夜、ボンベロの言葉どおり、必要な荷物だけを纏めて、彼らはその日の最終列車に飛び乗った。
ほとんど人は乗っていなかった。ガタンゴトン、列車は揺れ、明かりの消えたコンパートメントは静けさに包まれる。暗がりに互いの姿を認めることはできるものの、よほど近づかないとその瞳の色を感じ取ることはできない。硬い背凭れに身を預け、しっとりと紺色に染まった世界を眺める横顔は、月明かりに照らされて薄っすらと青白い。ボンベロは腕を組み、さらりと落とした前髪の合間からじっと見つめていた。
列車が終点に辿り着き、新たな街に降りたときには、空が淡いすみれ色に染まっていた。夜明け前、しん、とした空気が辺りを包み込んでいる。不穏さにも似たその静けさは、駅から離れていくたび色濃くなっていった。しばらく二人はなにもしゃべらなかった。
新たな街は、その不穏さが形になったかのような街だった。昼間だというのにどこか鬱蒼とした空気が街中に漂っており、そこらに野良犬が歩き回り、浮浪者が道の端に座り込んでいる。一本道を迷い込めば、妙な連中の溜まり場、あるいは、おおっぴらには扱えないような闇取引が行われているようだった。
数日過ごす分の食材の買い出しに街を出たはいいが、隣を歩く彼女のことが気にかかり、ボンベロは足を止めた。
「ジュリア」
名前を呼んでも、返事がない。
「ジュリア」
「あ、ボン。なに?」
二度目でやっと気がついた。
「なに、じゃないだろ。ぼーっとするなら、先に帰っていろ。俺は食材を手に入れたらすぐ戻る」
幸い、ここから宿へは数百メートルと離れていない。少々路地を入ってはいくが、なんとか彼女も帰ることはできるだろう。このまま往来で変な目をつけられるくらいなら、ホテルで留守役を頼むべきだ。
「……ごめん」
しゅん、と体を縮こめたジュリアに、ボンベロは小さく息を吐く。
「気にするな。旨い飯を作ってやる。静かに待っていろ」
それに、おそらく、少し独りにしたほうがよさそうだ。ボンベロはそう思い彼女の背をそっと撫でた。
だが、宿泊先に戻り、ボンベロはその判断を悔やむこととなった。
小一時間ほどして宿に着くと、菊千代が、ガウッ、ガウッと吠えるのがすぐさま耳に入った。
「なにがあった」
慌てて部屋に入り込む。そこには、ぼうと亡者のように立ち尽くすジュリアの姿があった。菊千代が彼女に向かって激しく吠えている。その足元には、割れたガラスが散らばっていた。
「菊千代、吠えるんじゃない。ジュリアは大丈夫だ」
酒でも飲もうとしたのか。部屋はむせ返るほどの強いアルコールの匂いに包まれ、呼吸をするだけでくらりとする。
ボンベロは食材の入った紙袋をダイニングテーブルに置き、ジュリアの足元に散らばった瓶の破片を片付けようと歩み寄る。そこで、彼は異変に気がついた。
「……ジュリア?」
先ほどから、彼女がなにひとつ反応しないのだ。菊千代のうるさい声にも、すごい形相で戻ってきたボンベロにも、いつもなら、「なによ」と眉をひそめるだろうに、声ひとつ漏らさない。彼は恐る恐る、彼女の顔を覗き込んだ。
「っ……お前、なにをした!」
彼女の瞳は、とろん、と朧げで、どこを見ているかわからなかった。白目は血走り、頬は不自然に赤いというのに、唇は青褪めている。様子がおかしい。まるで、変な薬でもやったかのような――肩を掴み、強く揺する。ゆっくり、彼女の瞳が男を映した。
「……すきん?」
ぐっと、奥歯を食いしばる。
ボンベロはなにも答えず、彼女の腕を引いて寝室へと連れて行った。
薄暗く、埃っぽい寝室には、ダブルと言うには小さすぎるベッドがひとつ。
ボンベロは容赦なくジュリアをそこへ押し倒すと、その体をまさぐった。掠れた吐息が血の気のない唇から漏れるたび、ボンベロは舌打ちをした。彼女は今、なにをその瞳に映しているのだろう、そんなことを考えるだけで、反吐が出る。
「なぜ、こんなものを」
ジュリアのポケットからは、透明な液体の入った小瓶が出てきた。ボンベロは先ほど、街中で耳にした噂を反芻させた。
今、巷じゃ変なクスリが流行っているらしいぞ。一見、ただの水のようだが、ひとたび舐めれば、ハイになる。舐める程度なら、気を紛らわすのにうってつけ。ごくりと喉に通したら――。
薬品と麻薬が混ざった非合法の液体だ。鎮静作用とともに、強い幻覚症状を引き起こす。一度に多量に摂取すれば、錯乱状態になり、そして――噂は最後まで語られることはなかったが、想像はつく。意識は徐々に蝕まれ、呼吸は弱まり、最悪、待ち受けるのは死だろう。
「教えろ。どこでこれを手に入れた」
なぜ、こんなものが……ボンベロは小瓶をぐっと握りしめ、ジュリアをシーツに強く押しつけたまま見下ろした。
「ろじに……おばあさ、が……なにも、かも、わすれられ……って、いうから」
色を失い、白くなりつつある唇から、悲痛な声が紡がれる。
女は、強い。だが、強すぎるあまり、ひとたびヒビが入れば脆く崩れてしまうことがある。そう、彼女のように。
苦虫を噛み潰すと、ボンベロはその小瓶を壁に叩きつけた。ぱりん、小さく音を立てて、呆気なく砕け散った。
「二度と、こんな真似をするな」
ジュリアを見下ろす瞳は、怒りで真っ赤に染まっている。腹の中で獣が目を覚まし、今にもなにかを喰らいたそうに騒ぎだす。彼女を押さえつける腕には、くっきりと血管が浮かび上がっていた。
「ボンベロ……」
焦点の合わない瞳で、ジュリアは懸命にこちらを見返していた。自分の名を紡いだことに心のどこかで安堵しつつ、ボンベロはぎりりと歯を食いしばった。
「わたしを、ころして」
「ああ、殺してやる」
すぐそばに置いてあったマッカランを煽り飲むと、ボンベロは彼女の首に手を沿わせた。喉が灼けて熱い。思考がぐにゃりと歪む。酒のせいか、それとも、全身に渦巻くどす黒い感情のせいか。
首に巻きつけた手に、力を込める。白い肌に、爪が食い込む。どくり、どくり、脈動が伝わる。爪を立てたまま、ボンベロは唇をぐっと噛みしめた。
――私も、あいしてるわ
薄っすらと差し込んだ光の中、彼女が静かに口づけを落とす光景が、脳裏に掠める。
「ジュリア、お前を殺すのは俺だ」
なおも首に手を掛けながら、彼は彼女を見下ろしている。悲痛な表情を、その端正な顔に色濃く浮かべて。
――ころして
彼女の真っ青な唇が再びそうかたどった。声はない、ただ、苦しげな呼吸が漏れた。
「くそッ」
どうして。どうして、彼女がこんな目に遭わなければならないのだろう。ただのそこらへんにいる女だったはずなのに、なぜ無垢に人を愛し、愛されることすら十分にできない身になってしまったのだろう。
向けられた瞳が、夜明け前の朧げな黒目が、ボンベロには、〝たすけて〟と言っているように見えてならなかった。
ひと思いに、この息の根を止めてしまえたら――だが、ボンベロの腕は力を失った。
「ジュリア」
震える指先で、赤く痕のついた首をなぞる。ゆっくりと首すじを這い上がると、彼は彼女の目をまっすぐに、まっすぐすぎるほどに見つめて言った。
「お前を殺していいのは、俺だけだ」
――殺してなんてやるものか。
あの世で彼女がこの手からすり抜けていくというのなら、俺は、俺は……。
そして、そのまま顎先を掴むと、ジュリアの濡れた唇に噛みついた。
翌朝、ジュリアはボンベロよりも先に起きていた。
「……いつの間に」
「あら、起きた?」
窓際でレースカーテンの隙間から、外を眺めていたジュリアがふり返った。
夜明けからだいぶ時間が経っているだろう、すっかり部屋は明るくなっている。殺し屋という特殊な仕事をしていたせいで、いつもならばそんなに深い睡眠に就くことはないのだが、煽り飲んだ酒が予想以上に効いてしまったのかもしれない。
重たい体を起こすと、彼女が夜着のガウンを抱き込みながらこちらまでやってきた。
「ボンベロ」
「珍しいな、お前が早くに起きているなんて」
続く言葉はなかった。彼女はくすりと笑って、ただ肩をすくめた。
目は開いているというのに、どうにも思考がぼやけてかなわない。つい癖でベッドサイドの葉巻に手を伸ばそうとすると、その手をジュリアの手が止めた。
「体に悪いわ」
まだどこか青白さを残したような白磁の肌が、射し込んだ朝陽に輝く。
「いまさらだな」
「だからって、朝からはだめ」
彼女がこんなことを言うなんて、珍しい。いつも他人の行動や生き方に対して一線を引いていたような女が、まるで母親のように諭してくるのだ。やさしく髪を撫でられて、ボンベロは渋々腕を引っ込める。
慈しみをもって細められた瞳は、昨晩とは違い、たしかに光が宿っていた。
「ありがとう、ボンベロ」
ベッドに腰掛けた彼女に、スプリングが静かに軋んだ。
なにがだ、素っ気なく返せば、彼女は髪を撫でる手を頬へと下ろしてきた。
「ずっと、ずっと、私のそばにいてくれて」
するり、頬を撫でられる。
「なんだ、突然。明日は槍でも降るのか」
言うと、彼女は、ひどい、とくしゃり目元にしわを刻んだ。
「ボンには、ずっと、助けられてばかり。今も、昔も」
懐かしみをもって言う彼女に、彼は黒い瞳にほのかな呆れを載せた。
「そうだな。本当に、出会ったころから、お前は世話が焼ける」
「そうね、壊れた振り子だものね」
頬に触れた手のひらのやわらかさに、ボンベロはそっと目を閉じた。気難しい猫が、主人にだけときおり見せる、擦り寄るような仕草だったかもしれない。温もりが伝播する。しっとりとも、さっぱりともつかぬこの朝の空気にちょうどいい。
ぼんやりとしていた思考が少しずつ晴れていって、ボンベロはその手に自分の手を重ねながら、しまいこんでいた記憶を辿った。
「最初は、面倒な奴が連れてこられたとしか思わなかった。こんな脆い女を組織に置いて大丈夫なのかと、正直案じていた」
数年前のあの日、今は亡きデルモニコに連れられてダイナーの扉をくぐった一人の女のことを、よく覚えている。
覚束ない足取りで、細いヒールを鳴らすのがやけに耳障りだった。気の強い目元を演出しているが、彼女の少しあどけない顔には不釣り合いで、深いグリーンのワンピースはひどく野暮ったく見えた。
どうせ、すぐ死ぬだろう。むしろ、なにか厄介ごとを運んでくる前に、その身を死神に差し出したほうがいいのではないか、そんなふうに思ったのだ。
「だが、気がつけば、目が離せなかった。おいしい、おいしいと子どもみたくマドレーヌを頬張るお前が、俺の中のなにかを奪ったんだ」
涙で濡れた頬にマドレーヌを詰め込んで、そんなに焦ったところで誰も取りやしないのに、嗚咽を漏らしながら懸命に食べる姿が、脳裏に浮かぶ。
その瞬間から、すべては始まっていた。いつのまにか、自分の作る料理で、真っ黒に塗りつぶされた彼女の人生を少しでもいいから照らしてやろう、そう心のどこかで思うようになっていた。
「まあ、どこかの誰かさんは、そんなことお構いなしだったがな」
じっとこちらを見つめている瞳に、意地悪く鼻で笑ってみせると、形のいい眉がハの字に垂れた。
「ボンのほうが、先に出会っていたのにね」
「いいや、スキンのほうが先だ」
遠い昔、ある男と交わしたやりとりを思い返して言うと、彼女の手が頬から滑り落ちた。
「そんな……」
「覚えていないのか。真夜中の×××で、傷だらけの男がいただろう」
「……ごめんなさい、はっきりとは」
シーツの上で、小さな手が握りしめられる。かぶりを振るジュリアの頭に、今度はボンベロが手を伸ばした。
「お前のかつて愛した男は、組織に潜り込んだ警察だった」
「そんなの……知らなかった」
「だろうな。組織の中でも知る人ぞ知る話だ。それで、ちょうど、マテバからの命によってその探りを入れているときに、スキンはわけあって負傷した。そこにお前は手を差し伸べたんだ」
「だから、スキンは、私を……」
やわらかな髪に指を通しながら、ボンベロは頷く。
裏切り者に関わった人間は、始末されるか、なにも知らないまま生かされるか、そのどちらかだ。決して組織に属することはない。そう、そのはずだった。したがって、ジュリアがコフィによって組織に迎え入れられたのは、当時では驚くべきことだった。組織の掟として、あくまで一般人を不必要に巻き込まないことが鉄則だったのに――。
男に探りを入れていたスキンは、当然、ジュリアにもその目を向けていた。裏切り者の周囲に存在する人物として、始末するかどうかを判断すべく、ジュリアのことを嗅ぎまわっていたのだ。
「あいつは、お前があの男を始末させられたとき、いや、その前からお前をどこかへ逃がすつもりだった」
ボンベロは男の少し苛立った言葉を微かに思い出す。どうして一般人を巻き込んだんだ、なぜ彼女が――スキンは、手を差し伸べてくれた女のことを愛してしまった一方で、なんとかして救い出したかったのだ。いくら愛を向けられても突き放し、太陽のもとへと導こうとした。
「だが、靴なんかを贈っておきながら、奴もツメが甘い。お前はそんなので言うことを聞くたまじゃなかった」
泣きだしそうにも見える彼女の目元を、ボンベロはそうっと撫でた。
「奴もだいぶ渋ったみたいだが、最後の最後で、お前に屈したようだな」
殺し屋は自分の死期をなんとなしに感じとるものだ。スキンは死を悟り、ほぼ無意識にジュリアの名を呼んだ。そして、彼女に隠し続けてきた気持ちを告げた。
彼との記憶を辿っているのだろう、ジュリアは唇をぎゅっと噛みしめた。
――なにもかも、わすれられるって、いうから
虚ろな声が蘇る。
「忘れてやるな」
手のひらで頬を包み、頑なに閉ざされた唇を親指でなぞる。これを口にするのは、二度目になる。今は、亡き男の友としてであり、そして、彼女を想う男としての言葉だった。
「でも、ボンは……」
「言っただろう。俺は、いくらでもお前を愛すと。お前がスキンを愛していたとしても、あいつがお前を愛していたとしても、それは、もう過去だ」
かつて、スキンの彼女への想いと、彼女のスキンへの〝望み〟を知るボンベロは、そのどちらも汲み取った。だが、本来ならばもっと違う結末もあったのだろう。ほかの可能性を知りながら、彼は、それを実現させようとはしなかった。否、できなかったのだ。
彼女が自分の頭に拳銃を突きつけた瞬間、その手を掴んでいた。彼女を失いたくなかった。
そして、今も。いくら、彼女の中にほかの男がいようとも、たとえ、本当はすべてを奪ってしまいたいと願っていたとしても。
彼女を失うくらいなら、俺は――。
「お前が、幸せになれれば、それでいい。幸せにしてやる。恐れるものなんて、お前をおびやかすものなんて、俺がすべて取り除いてやる」
つまらん男の見栄だ。いつかある女に言った台詞が脳裏に掠める。
そうだ、見栄だ。出会ったときから、彼女が一人の男を愛するようになっても、彼女をずっと見つめてきた男の、どうしようもない見栄だ。
「ボン、あいしてる」
ゆるゆると揺れていた彼女の瞳から、とうとうしずくが零れ落ちた。頬を伝い、朝の光を集めるそれは、まるで宝石のようだった。
「ああ。俺も、愛してる」
彼女を失うくらいなら――いつか、時が痛みや苦しみを和らげるまで。いつか、この愛が彼女を解放するまで、この見栄を張り続けよう。
たっぷりとした陽射しの中で、そっと唇が繋がった。
